98式噴進砲 その1 (爆弾三勇士とその影響)
ポテチです
あ、間違えた。
ポチです。
さて、今回も陸軍です。
絶対に三章で終わらない!
無理無理無理
海軍をどう絡めようかと考慮したら八章くらいになりそうです。
いや別にしろよ
という意見は、無視します。なにせ国力がない日本ですよ!!!
総力戦なのです。
ということで、火薬の問題や量産のために、またまた様々な会社を探してます。
趣味ですので………(*^▽^*)
では
お楽しみください。
『死なむと戦えば生き、生きむと戦えば必ず死するものなり。』
(上杉謙信)
◇ ◇
昭和七年二月。
上海。
「また鉄条網か」
双眼鏡を下ろした歩兵中隊長が呟いた。隣にいた工兵側の将校も、さして面白くなさそうに頷いた。
前方には鉄条網があった。何の変哲もない鉄条網である。材料さえあれば作れる。本来は家畜が外に出ないようにと作られたものである。しかし第一次大戦以降、連合国・同盟国それぞれが採用し、ヨーロッパだけで地球を数周するくらいの長さが使われた。
安い。余りにも安価である。
そして…戦場では厄介だった。鉄条網そのものが人を殺す必要などないのである。歩兵を止めればいい。
「我々が開けます」
工兵将校が呟くように、それでも力強く言い切った。
破壊筒。
何かを破壊するための、爆薬を収めた細長い筒。陸軍では鋼管製のものを連結して使用する。鉄条網への対応兵器として、主に工兵が扱った。鉄条網の壁をまとめて吹き飛ばす。そのための兵器であった。
「これを使います」
工兵が持ってきたものを見て、中隊長は眉を上げた。
「重そうだな」
「何貫ある?」
「持ってみますか」
工兵将校が笑った。
中隊長が破壊筒を眺めていた。
「なあ」
「これは、どうやってあそこまで持っていく」
工兵将校が前を見る。数100メートル先。鉄条網。その向こう。
「担いで」
「誰が?」
「私たちが」
歩兵将校は破壊筒を見た。それから鉄条網を見る。もう一度、破壊筒を見る。
「……これを?」
「あそこまで?」
ここに破壊筒という兵器の問題があった。もちろん破壊筒は、自分では鉄条網まで行けない。最後の数十米。人間が運ぶ。しかも敵前である。
実際、廟行鎮で用いられた破壊筒についても、激しい防御射撃のため、点火してから鉄条網へ運ぶという極めて危険な方法が採られたとされている。
「準備よし」
江下武二。
北川丞。
作江伊之助。
三名の工兵が破壊筒についた。
「途中で落とすなよ」
「落としたら拾います」
江上が笑った。英雄になるつもりなどない。工兵として命じられた仕事をする。
それだけだった。
物陰に隠れながら腰をかがめて前進、ところどころ匍匐で…。
そして、点火。
「行くぞ!」
三人は走った。
そして帰らなかった。
◇ ◇
後に公表された鈴木貫太郎侍従長(元海軍大臣)の記述には、その日のこととして
『不満顔の陛下を見たことが何度かあったが……』
と記している。
「鈴木、これは何だ?」
陛下は幾つかの新聞に手を伸ばした。上海の戦闘を伝える記事だった。そして、奈良武次侍従武官長からこの話は既に奏上されていた。
わずか数日後に新聞各紙が競争するように報道した。
『爆弾三勇士』
『肉弾三勇士』
それぞれの新聞が、それぞれに「壮烈」「忠烈」「三勇士」といった表現を使った。陸軍が自らの喧伝のためのものではない。新聞社自身が部数競争の中でこの物語を積極的に広げていた。(後には歌となり、映画となり、舞台となり、絵本さえも出版された)
「工兵三名が敵の鉄条網を爆破した件にございます」
表情をほとんど変えない陛下の口元がピクリと動いたような気がした。
陛下の指は記事の一か所にあった。
「破壊筒とは何だ」
「爆薬を詰めた筒で、鉄条網を破壊するものかと存じます」
「三人で運んだと書いてある」
「はい」
「敵のところまでか」
「そのようでございます」
少し間があった。
「鈴木」
「はい」
「これは、人が運ばなければならぬものなのか」
数日後、陸軍省の陸軍大臣室に五人の人物が集まった。
鈴木と奈良とが乗った車は宮城を出ると、濠沿いを三宅坂へ向かった。明治以来増改築を重ねながら使われている陸軍省。
さほど時間は掛からない。陛下のおられる場所と、陸軍を動かす場所は、それほど離れていなかった。
「陛下は、何と仰せになったのです」
荒木貞夫陸軍大臣が聞いた。
鈴木は少し黙ってから答えた。
「破壊筒についてだ」
「人が運ばなければならぬものなのか、と」
窓の外には濠が見える。そしてその向こうが宮城だった。
誰も答えなかった。
参謀総長、閑院宮載仁親王。
教育総監、武藤信義。
そして陸軍大臣、荒木貞夫。
陸軍三長官が揃っていた。
「奈良からも聞いている」
閑院宮が言った。
「三名の工兵が破壊筒を持って敵前へ進み、鉄条網を爆破した」
荒木が答える。
「立派な働きであります」
大きな机の上に置かれているのは、上海から届いた戦闘詳報と数日前の新聞だった。
「それは陛下も否定されておらん」
奈良が言った。
少しだけ間が空いた。
「問題は、そこではない」
武藤が奈良を見る。
「なぜ、兵がそこまで持っていかなければならなかったのか。それをお尋ねになっておられる」
また沈黙した。
荒木が口を開いた。
「破壊筒とは、そういう兵器です」
「だから困っている」
閑院宮が言った。
荒木が黙る。
「そういう兵器だから人が運んだ。それでは奉答にならん」
机の上には上海から送られてきた戦闘詳報が置かれていた。閑院宮がそれを指で叩いた。
「陛下がお尋ねなのは、三人が勇敢であったかどうかではない」
「人間以外に、これを鉄条網まで届ける方法はなかったのか、とお尋ねなのだ」
武藤が腕を組んだ。
大臣室には午前中の日の光が満ちていた。しかし、そこには影もあった。
「……ありませんな。現在の装備では」
答えだった。そして同時に、答えになっていなかった。
「ただし、鉄条網の破壊そのものは教えております」
「教範にもある。演習もしております」
「ならば、なぜ三人が走った」
「……それを調べる必要があります」
実は鉄条網破壊について、陸軍では昭和2年『野戦築城教範』に、「障碍物及側防機能ノ破壊」「鉄条網ノ破壊」がそれぞれに記載されていた。その教範が生かせていないとすれば結局陸軍三長官の責任となる。つまり『御下問』の答えになるかというと微妙である。へたをすれば三長官が前任を含めて仕事を果たしていない、そう結論するしかない。
さらに言えば、大正4年の工兵演習資料にすら、「鉄条網爆破」「鉄条網破壊ノ為爆薬筒ノ運搬」「器具ニ依ル鉄条網ノ破壊」という言葉が並んでいる。つまり、「器具による鉄条網破壊」は既に存在していた。しかし実戦の中では生かせていなかった。
『奉答』としてまとめるために、
「敵前に人員を曝すことなく、鉄条網その他障害物を爆破する方法を研究せよ」
という命令が工兵だけでなく、歩兵、工兵、装甲、すべての部門へと伝えられた。
閑院宮が言った。
「下に丸投げしてはいけない問題である」
そう結論づけた。
「我々が、我々こそが『御下問』に応えなければならない」
荒木は戦闘詳報を見た。
「条件だけ与えればいい。下には下なりの工夫があるだろう。責任は我らが負う、丸投げにはしない」
陸軍省、参謀本部、教育総監部から、それぞれ関係部署へ照会が回った。
その中でも静かに自己の研究を続けようとしていた場所がある。
陸軍技術本部・富津射場、そこに10名程度の技術研究所の所員が集まっていた。
「あらら? どっか飛んでいったぞ!」
3,000メートル先の標的からはかなり離れた場所に着弾した。
「使えんのか? こんなんの……」
実際の砲で使えるのかと、せっかく東京の戸山ヶ原(今の新宿区)の技術研究所から運ばれたものは、期待外れとも言えた。これまでは戸山ヶ原の狭い庭、そして隣接する大久保射撃場で研究・実験を繰り返してたものが、あまりにも悲しい結果となった。
10発の発射実験をした野砲はいつもより過熱していた。
陸軍大臣からの直接の指令として、各部は自らのこれまでの研究と未来の研究とを織り交ぜて上へと載せた。その中にはどう考えても実際には間に合わないものもあった。が、中にはどうにかなりそうなものもあった。
まずはこれまでの経験から「綱・滑車」が出た。しかしこれまでの延長に過ぎなく、兵を前に出しすぎる。火砲、装甲車・戦車は、すぐに否定された。そんなものがどの歩兵・工兵隊についていればこのような苦労はない。
工兵隊からは最初、既に開発が進んでいた装甲作業機の提案があった。
装甲作業機は、工兵用近接戦闘器材として開発し、障害物排除・トーチカ攻撃・地雷処理・架橋・火炎放射などに使えるという言わば万能工作車である。
余り知られていないが、陸軍の機械化の中心となっていたのは工兵である。なにせ現地で木を切り倒し板材とするだけでも幾つかの機械が必要である。そんな機械に慣れた工兵が自身の装甲された車両を持つことは有効かと考えられた。「数多く作れば安くもなります」という言葉は、「装甲」という言葉とともに上の方が納得した。ただしそれでも高い。基本的に八九式戦車のコンポーネントを使っていることもあって手作りに近かった。陸軍は三菱のハ号戦車(後の九五式軽戦車)を基本に障害物排除・トーチカ攻撃用の単作業車にしては? という提案を呑んだ。(但し前面装甲を厚くし、車体は大きくはなった)それでも全軍の工兵隊に配れるかというともちろん難しい。
次に提案されたのは一種の外装式迫撃砲である。爆薬を投射することを目的としたもので既に昭和4年陸密第一六〇号技本第二部管掌兵器研究方針に基づいて研究開始されていた。最初は圧縮空気で、次に回転による遠心力で、次には別の圧縮空気で…幾つかの方法が試された。結果として技術本部は装薬を使う必要を認めた。
のちに「九六式投擲機」と名付けられた工兵用迫撃砲は、様々な回答の中でも一番期待され、開発にその費用と人員が注がれた。しかし…重い。爆薬を入れない状態でも全重量は84.2kg。いくら重さ2.25Kgの専用柄付き爆薬を400m飛ばす(ちなみに別の投擲爆裂缶は6.4kg、射程60~410m)としても、前線の400mをこの重量のものを一個支隊十数名で運ぶことを考えると……重い。いや、この火器単体であれば十分に使えるものではあるので、制式採用され、量産された。工兵には自己の火器として重宝された。
そして科学研究所第一部からは遠隔操縦車という提案もあった。
「長山号」という車両がある。
陸軍が長山三男陸軍工兵大尉の提案に試作した無線操縦戦車である。その頃、無線による無人機・無人車両の誘導というのは世界的に流行っていた。(日本海軍もそれなりに無人機の開発を続け、その高価さに頭を抱え、最終に一式標的機という簡易版を採用している)実験は成功し、実際の戦車での実用化も考えられるほどであった。が、陸軍は無線操縦戦車の実用性に疑問を抱き開発は終了した。
今となってみれば陸軍の判断は難しい。しかし陸軍は「無線」の危うさ、特に妨害電波を指摘しているのである。ならば「有線」である。
答えとして「遠隔操縦器材い号」を提案した。有線操縦可能な電動作業機を以て爆薬を運び鉄条網・トーチカなどの防御構造物の爆破を行う。(なんかどっかで聞いたことがあるな~という人は、ドイツの「ゴリアテ」との累系を思い出したろうが、まるっきり別の発想・開発である。所謂、『技術のシンクロニシティ(同時性・同時発生)』に過ぎない)
ただ、この機材を動かすには、一個支隊どころか一個中隊・大隊が必要とされる。発電車、電動車、作業機、操縦器。この全てを戦場へと送る。ならば戦車一両を送った方が早い。研究は進み、訓練も進んだ。しかし実戦へは? 結局のところ、一個中隊・大隊を守ることができない。この機材は攻撃兵器としては使えなかった。
航空隊からは「直接援護」の話が出る。簡単に言えば、軍・師団所属の航空隊である。本来陸軍の航空隊はその任務を主として編制されたものである。が、中国軍との対戦闘機・対爆撃機の航空戦がその性格を少しずつ変えていた。
「航空部隊による爆撃は可能。ただし――味方第一線直前の障害物に対する精密な爆破は困難」
「鉄条網は?」
航空隊からの連絡員は首を振った。
「その前です」
地図の鉄条網。その後方にある機関銃陣地を叩いた。
「こいつを黙らせます」
「その間に工兵を出す?」
間違った回答ではなかった。
だが――
人が行くことには変わりがなかった。
昭和12年、航空関連の研究方針では、第一線部隊と直接協同するために、捜索・指揮連絡・砲兵協力を強調した専用の「直協偵察機」が明確化される。軍・軍団や師団に所属し、その作戦に直接協力するための言わば「空の砲兵」である。
後の九八式直協機・九九式襲撃機へと繋がる。
様々な提案の最後に、一つの部署がおずおずと手を上げた。
「見ていただけませんか」
陸軍科学研究所。
陸軍技術本部と同じ百人町に置かれた研究機関である。
技術本部が兵器を作るところなら、こちらは、その兵器になるかどうかさえ分からないものを調べるところだった。
その中でも、小さな研究班だった。
いかがだったでしょうか?
「爆弾三勇士」
調べてみると、賛否の比率は8対2くらいでした。いや3人への批判ではなく、陸軍に対する批判の割合です。中には陸軍のそれなりに地位のある方が雑誌に批判を行ってます。
実は、これまでの文章を書こうとした「最初のきっかけ」はこの話なのです。
ホントに日本は人命軽視か?
という単純な疑問なのです。
満を持して書こうと思ってますので、間違いなく長くなる(*^▽^*)
少しずつ書きますので、
良かったら、読み進めてください。
次は…珍しく明日です。
(*゜Д゜)
ではでは。




