現代の糒 その2(『春の祭典』第2曲「春のきざし(乙女達の踊り)」)
暑いですね~
ポチは
早朝~庭仕事
朝 ~ジムで「歩け歩け」
昼食とあるゲームにログオン…を挟んで昼寝
夕 ~晩ご飯と弁当作り
に勤しんでます。
で、その隙間にこの文章を打ち込んでます。
ではお楽しみください。
「新しい料理の発見は、新しい星の発見よりも人類を幸福にする。」
(ブリヤ=サヴァラン 19世紀のフランスの法律家・政治家)
◇ ◇
「対空電探、逆探、現在のところ反応ありません」
珍しいことに水上航海を長時間できていた。
すでに電池も空気タンクも満杯、水中で一日以上は行動できる。
結局は可潜艦でしかないこのフネでは当たり前のようにも思えるが、この時期では珍しいとしか言えなかった。本来はビクビクとシュノーケルを上げつつ電池を蓄えるしかない。
「厨房が喜んでますよ」
双眼鏡から目を離さないままに言う先任下士官。潜水艦長である自分よりもフネを把握している人物だ。その言葉を無視することはフネの全てを失う。
そりゃそうだろう。
ここ暫くは火を入れないままに苦労して食事を用意していたことは分かっている。頭の下がる思いだ。
「ならば…美味いメシを願っていることを伝えてくれ」
「はい」
その日、久しぶりに根菜がたっぷりの煮物が出た。
『味がある』
『味』とは何だ?
現代の日本に住んでいると食べ物には「味」があることはあたりまえのことであり、単に『足し算』の味でなく『引き算』の味であることさえ理解している者が多い。
つまりは
「何でもぶっ込めば味は良くなる」
ではなく
「素材の味自体美味しいのだからそれを突き詰めろ」
というものである。他の味が雑味として残ることが許せない。(あ、雑味も美味しいとする料理も多い。作者は豚汁がその筆頭だと思う)
フランス料理は本来『足し算』の文化(イタリアや中華料理も本来そのスタンス)であったが、和食の面白さに気づいた一部のシェフが『引き算』の料理を始めた。その結果として現代フランス料理が派生した。(以前からの『足し算』フランス料理も同時に存在)それが受けた。日本の「ミシュラン評価」が高いのはそのためである。
日本人が特に欧米の『甘味』に対するその微妙さを感じる時もある。
欧米では美味しいとされる菓子が日本人には「ん~~~~」と思う瞬間、それを感じるはず。ザラザラという舌触り、多い油分、重い砂糖味…日本人にとっては「当たり前」が欧米人には物足りなさとなる時ももちろんあるが……。
ちなみに韓国語(ワザと言います)の「マジスソヨ(美味しい)」は「塩味がする」ということが始まりらしい。だから韓国料理は本来「塩味(塩の中国からの専売の影響で薄い)」と「辛味(唐辛子・江戸時代以降)」しかない。そして現在でもそれに近い。(50年前に何度か「韓国旅行(売春旅行と同意味)」(*^▽^*))に誘われたが、女の子たち(苦笑)の話を聞いてぞっとした。女の子(何歳だ?)を含めて良い点(?)が無い)
日本風の味改良(大阪の鶴見が本場、ちなみに『石焼きビビンバ』の発祥地。僕はその頃奈良にいた)をした味を知っている人が韓国に行くと……
(すみませんが50年前の実体験です。反論は受け付けますが何も回答しませんが、何か?)
また、かの三国志の関羽だが、(闇の)塩商人であったという記述をどこかで読んだ記憶がある。時の政府の塩専売(税が高いので売値も高いし、流通量も低くなりがち)に対する「闇」である。政府に対抗する理由とされている。
話はそれた(それすぎ? 笑)が、
「日本人は昔から『旨味』を知っていた」
(この場合、どの国であっても『旨味』自体はあったが、それを一つの言葉としてまとめられたのか?ということである)
ということだけを覚えておいて欲しい。
数種類のニシオライスの存在によって、前線の食料が全てまかなえたか?と言われれば、それは『否』である。本来の白米や麦を、数日分、到着した駅や港・海岸で配っている。一人一人の兵隊それぞれに。それ以上の長期の遠征には、部隊の補給・輜重専門が途中途中で補給を続けている。兵の数に応じて…(実はその数を誤魔化して大目に補給されていたという話もあるが…ここではこれ以上には述べない)
白米・麦(脚気予防用)・調味料(味噌・醤油・塩 など)
が配られる。
ここで考えてもらいたい。
一つは「白米・麦」。一日用として一人六合。三日分として一升六合。五日分ならば三升。(一升はだいたい1,5キロ)完全武装状態(一般的な歩兵の標準的な装具の重さは、小銃を含め約30~40キロと言われている)に、その重量である。(中には配られた麦をそのまま捨てたという記述もある。美味しくないし重いから…)どうやって運ぶ?布の袋に入れるのが一般的であるが、古参兵は新品の軍足(軍手と同様に綿布で作った一端を閉じた筒状の足袋、くるぶしが無いのでどの足サイズでも大丈夫? 突撃一番に入れていたという記述もどこかで読んだ記憶が…)に分けて入れていた。それでも固定しにくく約5キロを運ぶのは大変であったことはよく分かる。(分からない人はスーパーで5キロ米袋をとりあえず持ってください。思ったより重いです)
そして歩くのである。
たまの戦闘と定期的な休憩・食事を挟みつつ、延々と歩くのである。
二つには「副食」、つまりオカズのこと。これは個々に配られていない。連隊・大隊規模での炊き出しの時には後方より持ってきるが、最戦線に近いところにはそんなのは来ない。ならば…「現地」でどうにかするしかない。いや陸軍もなるべく補給を頑張ってた。(糧秣廠の話を聞いたら、泣けるほどです (; ;)ホロホロ)しかし間に合わない。現場で工夫するしかない。中国では日本のお金(中国のお金も)や軍票はあまり使えなかったから物々交換していた。
塩・タバコ・酒・白米((^_^;)オイオイ)・麦 など
東南アジアでも物々交換がメインであったが軍票も押しつけていた。表面的には現地の余剰分を「買う」のである。(この軍票は戦後かなり長い間、問題として残っている)しかし、南方の小さな島々では余剰分自体がない。
「南の国にはバナナやパイナップルが腐るほどある」
と宣った某陸軍中枢部は切腹して良いと思う。(既に墓の中だろうが……)主食のタロイモは現地の人の分がギリギリであり、副食たる野菜と言えるものはほとんど存在しないからである。(魚は多少捕れるが、千単位の日本兵の腹を膨らますほどではない)数百人単位の島に数千人の兵がいること自体が異常事態なのてある。本土からの補給は必須である。(島単位で「畑」を作った記述が多い。有名なのが見捨てられたラバウル。詳しくは「ゲゲゲ」の作者のマンガで…)
ここで活躍するのは、とりあえず缶詰となるのであるのだが、肉類(「大和煮」は有名)や魚介類(いろいろ調べたのだが、日本の缶詰の始まりは魚缶であるようだ)だけでなく、さまざまな缶詰が開発される。肉類・魚介類・果実類・野菜(加工品を含む)類、さまざまな缶詰が作られ、そして輸出されたり、もちろん軍の糧食としても流されていた。
もちろん陸軍糧秣廠は「作れ」と命令するだけである(怒られるかな?)。開発を命ぜられた会社は堪ったものではない。
有名ではないが調べる中で作者が涙なくして(ホントに滲んだ)見られなかったのが、正月用の缶詰である。『口取り缶』と呼ばれるものは、一つの缶詰の中にエビ、黒豆、かまぼこ、ブリの照り焼きなどといったおせち料理である「口取り(いわゆるおせち料理)」を詰めるという凄まじさ。陸軍は主に静岡県の「清水食品」を中心としたグループが正月用特別食を作ったようだ。
「満州の征野に働く将兵はお正月の元日に後方にある兵には折り詰めを与えているが、第一線にある将兵には年々、正月らしい気分さえ味わわしめることが出来なかったので 今回陸軍省は清水市の清水食品会社に命じて 第一線で活躍する将士に与える正月用の缶詰を製造せしめることとなり 同社は感激して製造を急いでいる。」
(清水新聞 昭和8年11月14日版)
「同社は感激して」を「同社は混乱の中で」と読んでしまう作者を許して欲しい。
またどこかの資料で見たが、この「口取り缶詰」はかなり審査がめちゃくちゃで、
・すべて同じ量
・見た目をなるべく一緒で
・ぶりの三つ切りは「身斬り」、四つ切りは「死」に繋がるから考慮して
ね~~、怒って良い?
と、関係者の苦労が現れる。これも別の資料で見たが、「口取り缶詰」にせっかくだから小鯛を入れようと頑張った別の会社は、
・全ての鯛を同じ大きさで
・缶を開けた時に尾びれが全て同じ角度で(ビンと立てておくように)
泣くぞ! 本気で泣くぞ! レベルの審査であったらしい。
「その努力を機械や兵器の公差に注いで欲しい」
とも思った。
ちなみに、海軍の「赤飯缶詰」は広島県合同缶詰会社製であるが、立命館大学の河原典史教授(歴史地理学)が
「経済統制の影響で、合併して広島県合同缶詰となったようです。元は京都の『竹中罐詰』分工場です」
と述べている。(え?京都?)祇園で青果店を開いていたが、得意先のお茶屋や旦那衆からの要望で、タケノコやエンドウ豆の瓶詰、そして缶詰を作り始めたが、海軍の要望の中で広島に支社を置き様々な缶詰を作っていたようである。
さて、根菜であった。一ヶ月程度は悪くなる部分もあるが、そこを削れば使うことができる。陸海軍がカレーを重視していたのは単にその栄養素だけではなった。
しかしそれだけでは味が乏しい。別の野菜も欲しい。
日本の「乾燥素材」についてはかなり歴史があり、最終的には「貝塚」に行き着く。あの貝塚の層の厚さに時間だけを感じるのは危険である。なにせその頃の日本全体の人口は10~30万人(どこの地方都市レベル?)。そして現在確認されている貝塚は日本で2500余り。その場で煮炊きしただけの自家消費分とは考えられない量である。ならばあの貝の中身をどう使っていたのか、干し(煮干し)保存食とした、そして塩と同様に(山のムラとの)交易品としたのだろう。
また、考察ではなくはっきりとした証拠を探ると天平・奈良時代となる。
昆布・わかめ・貝類(有名なのが「のし」である)・椎茸類
さまざまな乾物が「税」や「上納物」として平城京へと流れていたことが単に書物としてではなく、遺跡に残された(有名なのがかの悲劇の皇子である長屋王館跡)木簡などに書かれている。
更に言えば、日本から昔の中国に対する貿易輸出品(正確には貿易とは違うが…)の中に「和刀(日本刀)」と同じ価値のもの、「俵物(最初はその言葉では呼ばれていなかったが)」として、昆布・椎茸・ナマコ・フカヒレなどの乾物が中国では喜ばれ、日本への貿易黒字を支えていた。
これらの「貿易(正確には違う)」によって、平安時代末期の平家(なぜ福原(現在の神戸市)に都を移そうとしたのか? は単に根拠地であっただけではない)や東北藤原氏(金を含む間接的な貿易形態であるが)、戦国時代前期の山名氏(なぜ山口に貴族たちが避難したのか? は保護できうるその財力である)などのあれだけの勢力を支え続けたのである。
「金色堂は貿易によって作られた」
異論はあろうが、奥州藤原「三代の栄耀」はその戦力だけではなく貿易、その一部に「乾物」を含んだが作り上げたとも言える。
我が国の伝統的な乾物のほとんどは
・ 日干し
・ 風干し
(煮干しも含む)
そして
・ 寒干し
に分けられる。日干しや風干しは分かりやすい。日や風に当てれば良い。(作者の根拠地(笑)の佐賀呼子ではイカがくるくる回っている)
ならば寒干しは?「高野豆腐(凍り豆腐)」や「寒天」・「切り干し大根」という食品に使われる手法である。水分多い食品を冬の夜間に凍らせ、そして日にあてることで解凍し水分を抜く。誰がいつ始めた手法かは分からない(たぶんヨーロッパ北方でもあるはず)が、原始的な「凍結乾燥」のやり方である。
根菜は日本の伝統的な食品加工物であり、大根やニンジンやゴボウなど。
これらに目を付けた陸海軍の兵站部門は小規模での生産、寒気すさむ冬期の生産でしかない業界に調査を入れ、そして大量生産・四季を問わない生産に舵を取った。年間一億食以上、できるだけ多く。
陸軍の兵站を握る糧秣廠(そのほとんどは軍人というより文官としての性質に近い)は呆れる。
「広げすぎだろ?」
1発の銃声音で始まった中華事変以来の戦線の広がりは、満州の短期的な戦いと違い、中央の「押せ押せ」ムードの参謀連中の
「辻さんができるならば俺だって」
以外、どう考えても長期化することが避けられないことを理解していた。勢いだけで始めた者は終わり時を知らない、ならばつぎつぎと広がっていく。
白米と生鮮食料が届けられるのならば、兵は文句を言わない、というより言えない。しかし本当に届かない、最前線では? 腹が減ったのならば生米をガリガリと食べるのか?
「日本には『乾パン』があるじゃないか?」
敵を前にした一、二食であれば緊急食として我慢はできるが、少しでも緩んだ時に…それでも炊爨に時間を割けない。十分な火力も期待できない。
オニシマイが多少は前線を支える。しかし、おかずがない。
野菜の寒干しを1年かけて待つことはできない。
冷蔵庫を生産し始めた東芝、エアコンを開発したダイキン、モーター・圧縮機関連に三菱重工や日立がその生産のために呼ばれ、倉庫まるごとの冷凍を始めた。倉庫の防温や密室性の向上には大手の建設会社が招かれた。扉を開け閉めする時の冷房効果低下を防ぐために幾つかの大学が参加し、そして本来は小さな工場でしかなかった中小企業が参画した。
根菜だけでなく、他の葉野菜などの乾燥についてもその研究と製品化が始まる。
「目標・目的が決まった時の日本の力が発揮される」
そしてその予算は日中戦争(日華事変)のために青天井に近かった。
実は、その頃にかのリケンが活躍する。本来は理化学研究所がその研究を進めるには自己予算を充実・獲得する必要があると始まった企業である。(素晴らしい考え方!)まずは「ビタミン剤」を量産した会社は自分自身の伸長のために幾つかの食品を開発し、またそれらの生産工程を開発する。現「ふえるわかめちゃん」などの原型の開発・生産はリケンをさらに大きな会社とする。(後年、ペニシリンの量産・粉末化などの研究・開発の原資となった)
兵隊たちの前職はさまざまである。よく混合されるが、その頃の徴兵と招集とは違う。(また志願兵もあるが、戦争ドラマの赤い(朱色)の「召集令状」のためだろう)中には料理・調理に励んでいた者もいる。手持ちの缶詰や乾燥野菜を利用して、少しでも美味しいものを作ろうとする、そんな意識を持つ者は部隊内でも重宝され、それなりの地位(現在でもその職種ではなくできることで周囲の評価を受ける人が多い)を持つ。
「今日は混ぜメシかぁ~~」
「その辺の食べられそうな草も入れたみたいですが……不味いですか?」
「いや、ゴボウに椎茸、レンコンに大根やニンジン…これで不味いなんていったら、可笑しいだろう?」
「連隊長が喜んでいたと、炊爨の連中が聞いたら喜びます」
「料亭の料理なんかは期待してないよ。
何もない平原でこんな美味いメシが食えるなんて、極楽ごくらく」
小さく頷きながら微笑んだ。
副官も笑みを浮かべた。
三つには「調味料(味噌・醤油・塩 など)」である。(このあたりでいつもなら「味の素」・「いの一番」等に入るが今回は我慢する 笑。)塩以外「液体」であるということに気づくだろう。基本、一斗缶や一升瓶(日露戦争時の「樽」の写真が残っている)で本土から運ばれているが兵隊個々にどうやって配っていたのか? いろいろと実体験の戦記を読んでいるのだが、米や麦を配られた話(軍足に入れる話も含む)は出てくるのだが記述にこれらの調味料がない。たぶん中隊単位(日本陸軍の基本的な最低人員単位と考えていい)で配られていたのかもしれない。確かに炊飯(炊爨)する時はその部隊単位であるのでその場でどうにかできればいいだろう。が、隊がバラバラになった時には? (その前に瓶は割れやすい。現在の瓶用プラ箱ではなくほんの30年くらい前まで多用されていた木箱は運送中の瓶破損をかなりのパーセントで計算していた。ちなみに…半農半トラックの運ちゃんだった父親は破損率が低い時は途中でビールを飲んでから王冠は付いたままに(笑)瓶を割っていたと…ヾ(≧∇≦) 高速道路が九州から大阪までは通っていなく、下の道路の舗装がまだまだだった時代です。 ちなみに飲酒運転は時効でありその頃は鷹揚であったらしい。 キリンビールの方、ごめんなさい)
これら一つ一つを、現場の「工夫」でどうにかしていたのが満州事変から続く中国との闘いである。が、太平洋戦線となり、兵らの爆発的な動員が続く中では破綻する。いや破綻しないようにしていた。「工夫」で。
現地でも根拠地に近い基地は、その輸送船が続く限り兵站が結ばれ十分とは言えなくも、どうにか維持することができた。現地の「協力」も期待できた。兵舎の中でそれぞれの部隊ごとに食事は用意され、その周辺に現地の人によるフリマが開かれる。
問題はそこから伸びる前線である。
ソロモン諸島などのアメリカを代表とする連合軍からの攻勢に対する防御のために日本側が対応する。これは分かる。(分かりたくない)最初、小さな戦力、そして継続的に主勢力を送り込む。そのありさまは日本側の輸送体制の低さから考えても仕方がない部分もある。しかし戦力の分断的な投入にしかならない。個別に対応されればつむ。継戦能力が低いままである。
『転戦』
さまざまな闘いの、最終的にはそのような言葉で締めくくられる決断を強いられる。
「仕方がないんだ。相手がいる戦いだ。相手の勢力が強くなったら、とりあえず引けば良いんだ」
そんな言い訳も通用する。いや通用させる。(もちろん現場の指揮官は処分される、中央は責任を持たない)
「言い訳」が通用しない戦場もある。
簡単に言えば、「日本から攻勢をかけようとする戦場」である。
太平洋戦線の中での第一攻略ラインを無事(?)に過ごした日本陸海軍は、第二攻略ラインをどこにするのかを迷っていた。昭和17年初頭(シンガポール陥落)の頃である。戦争設計をするはずの大本営は、はっきり言えば何も考えていなかった。とりあえず
○ アメリカ軍を黙らせる
○ 東南アジアの資源地帯を抑える
(シンガポール陥落はそのシンボル的な目的)
という第一攻略ラインまでは、「頭の良い」専門家(失笑)が考えていたがその続きは白紙状態であった。(このあたり、「終戦」に向けて何も考えていないことがよく分かる。主勢力が頭の中は戦国時代の他領地攻略以上のことがない。織田信長が領地を広げながらも何に苦しめられていたのかが理解できないのだろう)
第二攻略ライン設定は、陸軍にも海軍にも「いい顔」をしたいという意識が強すぎた。特に陸軍が
「海軍にばかり活躍しているように見える」
と対抗していたことが
「陸軍の活躍の場を」
と切望したことにつながる。
いやいや、ロビー活動とマスコミ対策に金と人をさけよ、という(ある種の思想にかぶれていない)現代の人だと考えるだろうが、より以上(異常?)の承認欲求があったと言える。(ある種の思想にかぶれた人には分かりやすい?)
・より派手に
・より耳目を集めるように
そしてそれ、実務的な戦争設計であるはずという意見は小さくなり、感情的なものを含む作戦は正式なものへと繋がる。
ちなみに海軍主体の「ミッドウェー」も山本の個人的な感情から始まったものである。(個人的に言えば、潜水艦(かの小型飛行機なども利用して…)や小戦隊(水偵を含む夜間攻撃)、二式大艇などで嫌がらせ的な攻撃をアメリカ本土・ミッドウェー・ハワイに繰り返した方がましだったと思える)
陸海軍共に『終戦に向けて』というより感情論を優先とした大規模な作戦が始まる。
海軍は前述のようにミッドウェー海戦を起こし、空母以下、主力艦を失った。そして多数のベテランパイロットやフネに乗っていた下士官・古参兵を失った。(よくパイロットばかりが話に上るが、フネを直接動かす下士官・古参兵も継戦能力のためには欠かせないものである。その経験・指導によって新兵もフネに馴染んでいく。アメリカ海軍も開戦時の多数の下士官・古参兵損失によって新造艦の戦力化に一苦労している。フネは人がいてこそである)
陸軍は
まずは「ポートモレスビー攻略」を諦めていなかった。海軍は『延期』という名の終了をしていた(珊瑚海保持のためという名目でニュージーランドに航空隊を主とした部隊は派遣していた。かの坂井氏が述べる「編隊宙返り」の時期)が、陸軍はその意地のためか、陸路でポートモレスビーを目指した。
そして、ビルマ(現在はミャンマー、でもさ、「ビルマの竪琴」と「ミャンマーの竪琴」って……比較できる?)。しかし、あまりにもスムーズにビルマは占領化できた。それなりにイギリス軍も対応していたが、現地軍(インド兵とか)が反乱を起こさないかとビクビクしながら後退していった。
いったん陸軍はここで攻勢を止め、東南アジア占領地域の安定化、またその勢力向上に努めた。(ここで止めれば日本陸軍はもっと評価されていい)
「泰緬鉄道」
などはその代表的なものである。(本土から比較的安全に運べるタイから物資をビルマまで陸上輸送できるように計画された。現在不通)
『戦場にかける橋』
という日本を貶したい気持ちありありの映画(嘘が多すぎ!)のもとになったとされており、
『猿の惑星』
を書いた(白人の『黄禍論』の足搔き的なものだと…)きっかけとなったタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶために作られた鉄道である。
(このあたりを話し出すと、三章ほど使わざるを得ないので今回は諦める)
とりあえず、ビルマまでは日本軍の兵站が破綻なくできていた。日本としては貴重な輸送船によって本土の白米も入ってきたし、インドシナの油も作戦上には十分に補給できていた。
ここで、アホがでる。
名を
牟田口廉也
という。
「インドを狙う」
その一言は、一部の軍人を除いて恐怖の底へと陥らせた。
「無理である、補給が続かない」
その正論は、中途で遮られた。かなり上級の将校であっても閑職に回された者もいた。
(筆者個人的にいえば、調べれば調べるほど牟田口だけ(……)が悪者にされるのはおかしいと考える部分もあるが…)
『インパール作戦』
そう呼ばれる作戦が始まる。
糧は敵に求める
そして
英軍を「銃口を空に向けて三発撃てば投降する」
と述べたとされている。更には三週間でインパールを攻略する、そうも言ったらしい。
無謀なインパール作戦に反対した参謀長の小畑信良少将は更迭された。(このあたり牟田口だけではなく、日本陸軍の本土の空気がかなり関係する)
第15軍の薄井誠三後方主任参謀(本によっては名前が出ないのはなぜ? たぶん………)は、方面軍に
「インパールやコヒマに行き着くまでは、各人の携行食料と野草と現地食料で食いつないでいく」
と説明。
驚く方面軍参謀に「軍司令官の方針だからどうにもならない」と答えた。
時間はなかった。
いかがだったでしょうか?
なんか、「糒」の文字なのか、あまり反応がありませんが、
そんなことはどうでもいい
というスタンスで書いていることを許してください。
(謝罪はしない)
だって、戦中の兵隊さんの死亡原因はその大きな部分が「餓死」か「病死」ですから、少しでも少なくしたいもの。
さて
次はたぶんラストになります。(はい、ラストと言ってない (*^▽^*))
これから前線用の糧食がどうなるか、そして、戦後にどうなるのかは、良かったらお待ちください。
ではでは。




