現代の糒 その3(『春の祭典』 (第二部 生贄の儀式 第9曲「序奏」)
やあ
今日もまだまだ暑いですね。
さて少しずつ前線への兵站を伸ばしていたはずですが、調べれば調べるほどに陸海軍共に戦前に様々にやっていたことが分かります。ウンウン
問題は「大量生産」のための整備ですね。
今回はあのインスタントコーヒーの発明者を中心に話を進めさせてもらいました。
突っ込みどころが多いでしょうが、この人物のその後を調べるだけ無駄だったので、日本に帰国させました。
では
お楽しみください。
恐れ──それを抜け出す最善の方法は、それを味わい尽くすことです。
( ヘレン・ケラー )
☆ ☆
「ん……最初の年にしては、上手くできた」
薄暗い倉庫の一角。
自身の半分ほどもある大きな木桶を囲み、数名の兵が中身を覗き込んでいた。蓋を開ければ、ふわりと立ち上る独特の香り。兵の一人が指先に少量を取り、舌に乗せる。
「……うん。これなら上出来だよ。信州のか?」
「いや、九州の麹を仕込んだ」
「九州?」
「ああ。この辺りは暑いからな。信州のやつじゃ、仕込みが難しい。赤味噌は好みも分かれるし」
そう言って、男は木桶の中を覗き込んだ。
「麹がなんとか生きてて良かった。こいつだって生き物なんだから、環境が変われば機嫌も変わる」
「まったく、戦争をしてるっていうのに、味噌の機嫌まで見なきゃならんとはな」
「戦争だからこそだよ」
男はそう言って、桶の蓋を静かに閉じた。
兵舎の外では、異国の鳥が鳴いている。
遠くでは、まだ工事の槌音が響いていた。日本から遥か離れた南の地。見慣れぬ植物、見慣れぬ言葉、見慣れぬ空。
それでも、この木桶の中にあるものだけは、兵たちにとって見慣れたものだった。
味噌。
故郷の味。
薄暗い倉庫の中で行われているのは、ただの味噌造りだった。
そこが日本ではなく、東南アジアに築かれた兵舎の一角であることを除けば。
これまで述べてきたように、日本軍がそれぞれの本拠地で、
日本からの輸送
現地買取・徴収(基本的には金銭取引)
によって、全てはまかなえていない。そのため、長期化する戦地で畑を作り野菜類を育て、また工夫によって塩や味噌醤油を生産・加工していた。後世、素人がしているように記述されているが、召集令状で集められた者の中にはプロが多かった。(ちなみに、椰子の実の果汁を酒にしたという記述も)
しかし最前線ではその需要と供給のバランスが崩れやすい。
陸軍の糧秣廠は、開戦後、
「質より量」
の態勢になった。正確には広がり続ける戦域に、ならざるを得なかった。
それでも輸送船の被害がその計算上寛容できうる数値である限り、本拠地までの補給はなんとかなった。
その先、実際の戦場を支えている補給である。
主食である白米については「オニシマイ」が支えた。野菜については「乾燥野菜」の大規模な採用がある。
この二つに必需品がある。
「水」
である。
『石井式濾水機』
というその時代の世界的にも珍しいものがある。
かの731部隊(今伝えられているのは嘘が余りにも多い。『悪魔の飽食』は森村誠一を汚した)が作成したもので、川の汚水を浄化し安全な飲料水に濾過し安全に水を使えるように開発された。(現在の水濾過装置と同様、珪藻土陶器フィルターカートリッジ式)ノモンハン事件の頃から使われ改良(特にフィルターの改良)を続ける中で、前線まで運搬されて使われ続けた。731部隊は中隊規模の使用に応える形で、より小型の濾水機を作成、一斗缶程度の大きさにまとめ上げた。
更には、そのカートリッジをより小型化し、個人持ちの濾過水筒を作り上げた。
その水は、現在の濾過基準にはかなり劣っていたものの、「末期の水」の2、3期程度前に部隊を動かした。
水があれば、オニシマイが食える、野菜を戻して副食や汁にできる。部隊は前に進むことができた。
もう一つの食料問題は、調味料であった。
以前述べたように砂糖や塩(湿気対策は必要)は良いとして、醤油・味噌の問題である。瓶や樽で本拠地に運び込まれる部分はあまり問題とされない。しかし前線に運ぶには問題がありすぎた。
ここで、「真空乾燥」という方法を取り入れた。現在のインスタントラーメンなどの袋に入っているスープの素が粉状になっている技術である。
ある発明者を紹介したい。
加藤 聡
1903年、特許名「コーヒー濃縮物およびその製造方法」(米・特許番号735,777)。それまでも乾燥コーヒーはあったものの、現代風の真空乾燥によるインスタントコーヒーの発意者として一部では知られている。一部というのは、現在の有名会社のインスタントコーヒーはその特許を掻い潜る形で作られたものだからだ。
加藤は発明家ではあったが、起業家ではなかった。大企業にその地位を取られ、失意の中で帰国した。
ちなみにコーヒー大国であるアメリカではそれなりの評価を得たが、まだまだコーヒーへの理解がなかった日本では無視に近かった。
いや、ある界隈ではその技術は重視された。
逓信省である。
戦前、真空技術ということに着目しその技術を向上させようとしたのは逓信省、そしてその下部組織である「電気試験所」、東北帝国大学(現・東北大学)などの限られた最先端研究機関。若き研究者たちは、ガラスを焼き、ポンプを回し、真空を測定する基礎的な「手技」を徹底的に叩き込まれた。ただそれは「ワザ」でしかなく「技術」ではない。
ある日の朝、加藤は味噌汁を飲んだ。
味噌はうまい。
味噌汁にすれば腹も温まる。
ただし――「重い」
加藤は椀を見ながら、ぽつりと呟いた。しかも液体や半固形物であるから、持ち運ぶには容器が必要になる。容器があれば割れる、漏れる、汚れる。そう考えていくと、味噌と醤油というものは、ずいぶんと輸送効率の悪い食品である。
「水を運んでいるようなものじゃないか」
周囲の者は、また何か始まったと思ったらしい。
「これ、乾かしたらどうなるんだろうな」
最初は、それだけだった。
ただ、気になった。
そして一度気になると、加藤はそのままにしておけない性格だった。
コーヒーでは、すでに水分を抜いて粉末にできた。
真空にすれば、水は普通より低い温度で沸騰する。高温でぐつぐつ煮詰める必要がない。
ならば――
「味噌も、いけるんじゃないか?」
しかし、調べてみると、話はそれほど単純ではなかった。
戦国時代は「味噌玉」という兵糧食があった。かの咸臨丸には「万年味噌」という保存に適しているとされる味噌が積まれた。どちらも倉を出でからは一年も持たない存在であった。(咸臨丸の味噌が腐ったという記述がある)かの白瀨中尉の南極行のフネにも味噌は載せられた。保存用の味噌らしいがかの「メシアゲ」にもはその記述は薄い。
日本人にとっての味噌は必要不可欠なものとしての認識があったのは事実である。
味噌屋に聞けば、
「乾かしたことならありますよ」
という話が出てくる。
「味噌を保存したい、運びたいという話は昔からありますからね」
なるほど、と加藤は頷いた。「乾燥させてしまえばいい」と考える人間がいても不思議ではない。 実際、明治の末から大正期にかけて乾燥味噌についての試みや特許が現れている。つまり加藤は、誰も考えつかなかった世界へ突然踏み込んだわけではなかった。味噌屋が昔から考えていた「味噌を軽くしたい」という願いに、別の技術を持ってきたのである。
「駄目でした」 味噌屋は言う。
「乾くには乾く」
「でも、味噌じゃなくなる」
香りが弱い、舌触りも違う、色も変わる。何より――
「うまくない」
普通に乾かしたからである。火を使って……味噌は生き物であり熱をかければ、当然、中身が変わる。
「熱をかけずに水を抜く」
つまり「真空」、加藤にとっては、コーヒーで既に実現してきたものだった。
「やってみる価値はある」
加藤はそう考えた。
ここで初めて、本人の発想が「思いつき」から「問題」へと変わった。
しかしこれは味噌屋だけの問題ではない。化学の問題でもある。
そこで加藤が訪ねたのが、東京帝国大学農科大学であった。
古在由直教授
農芸化学者であり、農産製造・醸造の研究を担っていた人物である。
「真空です」
「真空?」
「圧力を下げれば、低い温度で水を飛ばせます」
古在は黙った。
加藤も黙った。
しばらくして、
「なるほど」
と古在が言った。
「つまり、君は味噌を乾燥させたいのではなく、味噌の性質をできるだけ変えずに水だけを抜きたいわけですね」
「それなら話は変わってきます」
ここからが研究になった。
そして、加藤はそこで初めて、自分一人ではどうにもならないことを理解した。
「装置が要ります」
「真空ポンプも」
「温度も測らないと」
「……お金も」
古在は笑った。
そして東芝が絡んでくる。東芝は既に電球を作り、そして真空管を作るために「真空」についての理解があった。
真空技術を工業的に扱うことのできる技術者たちにとって、加藤の話は奇妙ではあったが、完全な荒唐無稽でもなかった。
「食品を真空乾燥する?」
「何のために?」
「軽くする」
「保存もできるかもしれない」
「かもしれない?」
「まだ実験していませんから」
技術者は苦笑した。
こうして東芝側では、真空乾燥装置の小型化や温度管理、効率化、圧力制御について協力することになる。
しかし、機械ができても乾燥味噌ができるわけではない。
最後に必要なのは、実際の味噌だった。
そこで加藤が目をつけたのが、
銚子醤油組合試験所
である。
銚子は醤油の町である。
味噌と醤油。同じ発酵食品でありながら、乾燥させた時の挙動は違う。味噌ならばまだ固形物がある。醤油は液体だ。水を抜けば、塩分も旨味も香りも一緒に濃縮される。味噌はそれぞれの中小の店でそれぞれに当たっていた、そして醤油は各社が集まりその研究所を構えていた。
「味噌?」
「もちろん醤油も」
「味噌と醤油は違いますよ」
「だから面白い」
試験所の職員は顔を見合わせた。しかし完全には笑わなかった。
「乾燥させた後に、香りが残るかどうかですね」
「それと、戻した時に元の状態へ戻るか」
「完全でなくてもいい。使える程度に戻ればいい」
この言葉を聞いた瞬間、加藤の顔が少し明るくなった。
「変な人が来ましたね」
研究は静かに始まり、そしてその試作品に古在は静かに頷いた。
「加藤君」
「これは、もう少し続けましょう」
「味噌だけではなく、もちろん醤油も」
まだ「インスタント味噌」などという言葉もない時代に、味噌から水を抜き、必要な時に水を戻せば味噌として使えるものを作る。という、少し奇妙な開発が続いた。
加藤にとっては、コーヒーの次に見つけた新しい仕事だった。
醤油屋・味噌屋にとっては、昔から頭の片隅にあった「長期保存できないか」「軽くできないか」という願いだった。
古在にとっては、新しい食品加工の研究だった。
東芝にとっては、真空技術を食品へ応用する新しい仕事だった。
そして銚子にとっては、「醤油まで乾かそうとする、とんでもない男がやって来た」 という、少々迷惑な話の始まりだった。
もっとも――この時点で、誰もまだ知らなかった。
糧秣廠は騒動となった。
前線へと楽に運べる調味料が増える。それだけのこととは言えなかった。白米・麦と共に小分けした粉末の塩・醤油・味噌が隊ごとではなく個々に配布できる。
「最初に百万食分」
そして、その10倍、100倍。
陸軍はその研究を進めていた逓信省の「電気試験所」、東北帝国大学、そして東芝に協力を願った。更には他の大学や民間に公募し、加藤の研究・開発を大規模に進めようとする。チャンスとみて大学の真空関係、空気ポンプ等関連の企業、民間の発明家が手を上げさまざまな提案を行った。もちろん荒唐無稽なものや現時点の日本では難しいものも多かった。
あたかも第一次大戦中、予算は青空天井であった。
青島や南洋諸島への兵たちには数日の食料の一部として未だ試作品でしかない乾燥味噌・乾燥醤油が配布された。
「味噌とはちょっと違うが、まあ許せる」
「風味がないのが辛い」
「そのまま舐めても、ご飯にかけてもそれなりに食える」
改善点も見つかった。そして乾燥醤油・味噌は大量生産に移ることとなる。
ここである会社が乾燥食品に名を上げる。
広島県呉市の田中商店という小さな会社であった。田中食品の現在の沿革によれば、海軍から、持ち運びが容易で、栄養価が高く、日持ちする食品の開発を求められたとされている。ふりかけ「旅行の友」を海軍 陸軍へ納入したのが明治末期であった。
「飯に掛けて食べられて、軽くて、腐らないもの」
田中保太郎は、魚を粉末にし、醤油で味を付けて乾燥させ、さらに胡麻や海苔などを加える食品を考案する。(「旅行の友」という名称には妻の名「トモ」を忍ばせようとした明治男の気恥ずかしさを感じる)
またほぼ同時期に熊本の薬剤師吉丸末吉が「御飯の友」(現在「フタバ」が生産)というふりかけを販売する。日本人のカルシウム不足を補うために考案されたとする。つまり栄養改善・健康食品としてのものである。
そして現在のふりかけ会社の代名詞とも言える「丸美屋」(旧丸美屋食料品研究所)は大正末期に福島の甲斐清一郎が「是はうまい」を発売。
「戦争がふりかけを広げた」
そして「乾燥」という技術の拡大。
「発酵食品を、どうやって乾燥・粉末化するか」
「どうやって低温で乾かすか」
日干しや熱干だけではなく、真空乾燥や凍結乾燥へと。
実際、明治末~大正期には「保存できる・軽い・栄養価のある食品」を作ろうという方向から、魚・海藻・調味料などを乾燥・粉末化する試みが次々に出てきていた。その中でも風味を損なわずに水分だけを取り除くための技術、しかも大量に生産するための技術・機械が求められた。
その中で、ある会社が自社を上げて開発する意欲を見せた。
「佐藤製作所」(のちの「佐藤真空」)である。
佐藤製作所は日本光学(現 ニコン)の下請け部品メーカーとして始まり、精密部品製作を得意としていた。光学機器を作るというのは数ミクロンの世界の戦いである。一つの部品が全ての部品を狂わす。戦前のライカを代表とするドイツ、そして戦後のニコン・キャノン・オリンパス、そして近年のソニー等の会社が世界的に使われている(ヘタをすれば輸出禁止品)のはその精度である。この会社は創立当時から自分自身の力を誇っていた。
(ちなみに作者はキャノン党)
旋盤が回る。
金属を削る。
油の匂いが工場いっぱいに漂う。
光学部品というものは、ほんのわずかな寸法違いが大きな問題になる。
だから職人たちは、図面を何度も見直し、ノギスを当て、削っては測り、また削る。
そんな工場に、ある日、少し変わった客がやってきた。
陸軍の糧秣関係者である。
「ここで真空関係の仕事ができると聞いたのですが」
「真空ですか?」
佐藤は相手を見た。
「何を真空にするんです?」
「味噌や醤油です」
「…………」
工場の中にいた職人の手が、一斉に止まった。
それからの佐藤製作所の工場内に味噌と醤油の匂いがこびりついた。
最初の試験は散々だった。
味噌を容器に入れる。真空ポンプを回す。圧力を下げる。味噌が膨らんだ。
「泡が出ています!」
「止めろ!」
真空を戻す。
次は温度を少し上げる。今度は表面だけが固まった。割ってみる。
「乾燥してないじゃないか」
別の条件で試す。今度は乾いた。
しかし、
「香りがない」
湯を加えてみる。
「……味噌汁ですね」
「味噌汁ですけど……」
「けど?」
「なんか寂しい味です」
「…………」
温度を変える。真空度を変える。味噌を薄くする。厚くする。攪拌する。乾燥時間を変える。そして何度も試す。
ある時、ようやく一つの条件に近づいた。
そして湯を注ぐ。しばらく待つ。箸で混ぜる。
一口飲む。
「味噌汁だ」
糧秣担当者も飲む。
大きく頷いた。
「これなら兵隊に出せる」
完全に元の味噌と同じではない。
しかし、悪くなる前に捨てなければならない味噌を、乾燥させることで長く保存できる可能性がある。しかも軽い。
佐藤製作所だけでは軍が望む「大量生産」には十分に対応できない。真空を保つためのパッキンの問題、管の材料。試作品・少数の生産ならばどうにかできるが、自社だけではまかなえないことが多すぎた。そこを糧秣廠が支えた。大学の研究室が支えた。東芝や三菱、日立、大金などの陸軍と直結している大企業が支えた。そして様々な裾野を中小の工場が支えた。
予算が青空天井と言いながらも、それぞれの企業に分配するためには軽重が必要である。佐藤製作所には精密さが必要な重要部品を、その他の中小企業にはそれぞれの実力に応じて配備され、大企業は大きな部品、さらには工場を。
満州事変から始まった拡大戦域の中で、陸軍だけではなく海軍もこれらの技術に着目する。いや以前から海軍もこれらの「乾燥食料・調味料」に着目し独自に開発していた。
「陸軍に回せ」
「海軍が使う」
ここまで来れば、喧嘩している場合ではない。結局、同じ乾燥機を使う。同じ原料を使う。同じ研究者を使う。同じ工場を使う。そして、
「陸軍用」
「海軍用」
と書かれていた書類の上に、いつの間にか、
「共同研究・生産」
という文字が入る。
陸軍の担当者も、海軍の担当者も、兵站という巨大な仕組みの向こう側に、一杯の味噌汁を飲む兵隊の姿が見えていた。
陸軍と海軍は、最後まで仲が良くなったわけではない。そんな都合のいい話ではない。
ただ、
兵隊に飯を食わせる。
その一点だけは、同じだった。
いかがだったでしょうか?
これらの発明とか発想は、千語に生かしたいと思っています。
本来、2章くらいにまとめるつもりでしたが、なんだかいつも長くなります。
(悪い癖 笑)
次で終わらない…可能性が多くなりました。
全ては作者のバカさ加減です。(苦笑)
ではでは。。。




