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高速潜水艦を投入せよ その6(終戦・そして戦後)

これだけ長いことかかって終わったかぁ


まぁ

自治会や最終退職など、けっこう頭を悩ましてので仕方がないと思っておこう

ウンウン


皆さま、お待たせしました。

今回の「最終回」です。


お楽しみください。


「山は動かざれども、海は常に動けり。

 動かざるのは眠の如く、死の如し。

 しかも海は動けり。

 常に動けり。

 これ不断の覚醒なり。

 不朽の自由なり」

                          (石川啄木)


      ◇          ◇



 ドゴーン………ドゴーン……


 規則的な音と共に艇が揺れる。

 揺れる?

 竜巻の中にいると言った方がマシである。

 乗員はパイプ類にしがみついて、上下左右の動きに合わせようとして、それでも次第に難しくなる。それでもその握力が続く限りに右手と左手をパイプなどから放さなかった。


「深度120」


「は、はい」


 操縦員は頭の混乱を抑えることなく訓練通りにその操縦桿をぐいと前へと押しつける。そう、無理がないように3度程度傾斜しつつ、艇は深海へとダイブする。

 少ない乗員関係と共に、自己の専門教育以外のきちんとした兵・下士官教育を受けていないこともあって言葉は「娑婆」の方がつい出てしまう。そして艇長も元大学生でしかなく、しっかりとした時間をかけた士官教育は受けていない。ただ自分自身が

 『士官はこうあれ』

と思っていることを具現化しているだけである。自分自身も「海軍言葉」よりも「娑婆言葉」の方が馴染んでいる。


 艇前部の発射管には魚雷は残っていない。そしてすでに前部のタンク(この艇には前部にしかない)には海水が満載されている。発射前と発射後には艇の動きは異なるものの操縦員は少ない経験の中でも適切な操作を続ける。


「舵、上げろ、着底する」


 このあたりの水深を知る艇長が指示する。年若い艇長にもかかわらず、それでも艇内を把握している者の指示には皆が従う。

 水深が深くなった古代に死に絶えた珊瑚礁が岩場みたいになった場所である。但し岩よりは脆い。その脆い珊瑚礁をわずかに音を出しつつ砕きながら、艇は着底した。残念ながら前部に2度、右側に5度傾いていた。

未だに自艇上海での音が続いている。


「戦果は……分からんか……」


「艇長、発射1分52秒後に爆音、たぶん命中確実、2分37秒後にも音がありますが自艇のものかどうかは……」


水雷員が艇長のつぶやきについ応える。


「うん……うん…………生き残ってから確認しよう」


艇が再び浮上したのは一日の時間を経た後であった。




 秘匿名称「S金物」

 この文章では名称こそ出ていないが、高速潜水艦及び甲標的においてさまざまな影響を受けた代物である。

 その始まりは横須賀にある海軍工作学校の教官浅野卯一郎機関中佐の発案であった。これまでもしばしば出ているがあえて言えば


「潜水艦とは、水中の航空機である」


 それまでの潜水艦は(艦の前後の)昇降舵と(艦の尾部の)左右舵、そしてタンクへの注・排水をそれぞれの専門操作員が行うものであり、2人乗りの甲標的では互いに支え合う必要があった。(ここに魚雷関係の発射調整があるのだからどれだけのブラック企業的兵器なのだろうか……)

 そこに中央部に主翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うために操縦構造を単純にした(基本的に陸爆「銀河」の操縦装置を手本とした。また、甲標的の初期には注排水タンクの操作は別とされていたが、後期においては操縦員の割り当てとなる。ただ伊200・波200型では専用員が未だに必要とされた)この構想は潜水艦建造関係者にとってはいわゆる「コロンブスの卵」状態であった。


 どこにでも反対勢力がいるもので、


「甲標的〈とその改良型〉こそ最善の小型潜水艇である」

「こっち〈呉〉は甲標的の改良・量産に手一杯である」

「そんなものが素人同然の者〈教官浅野卯一郎機関中佐は専門家であるのだが…〉にできるわけがない」


という、これまでの自分の成果をなくす雰囲気を払拭するためには必然と言える意見〈ほとんど言いがかり〉を述べて、「S金物」に対してサボタージュ同然の行為を行った。

 それでも興味を持った艦政本部の奥田増三機関大佐と海軍工作学校は愚図る横須賀工廠と呉工廠を動かし昭和17年8月に訓練艇となっていた甲標的を水中翼に改造する。呉工廠P基地で作られた改造艇は一ヶ月の実験後に水中翼の有効性が証明され、伊200・波200系統の設計が水中翼装備となる改設計が行われた。〈甲標的への装備は後述〉


 ここで「S金物」は二つに分かれる。


 ・一つは水中排水量約45トンの甲標的よりはやや小さいもの〈「S金物」。ちなみに甲標的最終版である「蛟竜」は水中排水量:59.3t〉

 ・一つは水中排水量約15トンの湾岸防衛のもの〈「SS金物」と称される〉


 海軍工作学校は全面的に後押しした。教室一つを設計用に用意し設計者8名に50名の工作兵〈初期は18名〉を配備し、民間発明家で金属材料を専門とする佐藤五郎氏〈SS金物の主任設計者と言える〉に手順を無視した形で依頼した。

 大型〈?〉のS金物はその存在を呉工廠が嫌った。甲標的を脅かすものとして認識していたからである。性能うんぬんではない。甲標的は本来量産に適するものではない。戦前は100隻以下の生産を行うこととされ、かなり高額なのであった。〈このあたりは日本海軍の一撃で全てが決まるという考え方が底辺に蠢いている。零戦や彗星なども量産を考えた設計は本来していない〉

 そこにS金物である。戦中であることもあって直線を基調として〈円形がメインである〉そのあたりの造船所でも製造を可能としており量産をかなり重視している。性能も悪くない。

 呉工廠は渋った。


「反対だから止めろ」


 議論の中ではそんな意見さえ出た。〈艦政本部第四部設計主任片山技術中将とされている〉

 ならば…軍令部第三課のあの黒島少将が押していたこともあり、海軍工作学校がある横須賀の工廠に任せるしか方法がなかった。

 艦政本部と軍令部との交渉と言う名の無意味な応酬の中で、小型のSS金物の試作艇の方が先に建造された。浅野中佐は艦政本部と呉工廠〈潜水艦実験部等〉との交渉に無駄な時間を割かれつつも、自己の発想を実現するための努力を続けていた。

 SS金物の試験は


「〈甲標的などに比べて〉思った以上に操作が易しい」


という操縦者の感想が第一に来た。

 ただし、本来考えていた外装式の魚雷発射管が邪魔をした。船腹にレールを付けてパイプ状の発射管〈射出筒とも〉を2本装着する。火薬によって魚雷を発射すると共に発射管がその反動で後方へとスライドして捨て去る。発想としては素晴らしいが机上の空論と言うべきものであった。1本射出すると艇が傾く、発射管が上手く外れない、そして決定的なのが水中速度が4ノット余り低下するということである。水中排水量15トンというちょっと大きめな漁船レベルで

 ・直径:45センチ、全長:560センチ、重量:1000kg、

という二式魚雷〈航空用の九一式魚雷の派生型・大和ミュージアムに現存〉を2本搭載すること自体、かなり無理があるだろう。水中速度が落ちるわけである。


 それでも本土の防衛のために急ぎ戦力化したい海軍としては、比較的安価にでき訓練も短縮可能なSS金物を採用することとした。

「海竜」

と名付けられたその艇は昭和19年末には横須賀近辺〈呉関係は甲標的のために断った〉での量産を開始、その初陣は硫黄島での攻防戦であった。


 すでに小笠原諸島に配備されていた甲標的の部隊とは別に600トン級の海上トラックを改装した仮装支援船と16隻の海竜が1隊配備され、地上基地を備えた硫黄島に海竜24隻の1隊が三浦半島の油壺での訓練・錬成を終えた直後に配備された。


「君たちの一番の目標は生き残り、本土での決戦に間に合うことだ」


 かの「日本海軍市丸海軍少将、書を「フランクリン・ルーズベルト」君に致す。」という「ルーズベルトに与える書」でも有名な市丸利之助海軍少将〈戦死後に中将〉がアメリカ軍の上陸を直前にして、甲標的・海竜部隊にあてた命令である。

 すでに硫黄島に配備されていた航空部隊は米機動部隊への防戦を行いつつも戦力を激減させて搭乗員を中心に本土へと帰還した。〈かの「硫黄島からの手紙」はその引き上げ用の航空機に委ねられたものである〉


「我々守備隊は、本土への礎となる。しかし貴官らの実戦経験は必ず次の戦いに生きる。魚雷を使い切り、艇を失うことがあっても命を惜しめ」


 こうして、海竜は輸送船・上陸用船舶を中心に昼夜を問わずに攻撃を加え、その戦力をほぼ壊滅状態にしつつも最終集合地の弟島ネコ海岸に集まった。その数、甲標的3隻、海竜5隻。二日後の深夜に迎えに来た伊号潜水艦で本土に向かった。〈ネコ海岸付近は現在ホエールウォッチングでも有名であるが、自沈した甲標的・海竜を見ることができる隠れたダイバーウォッチング場としても知られている〉

その日は3月23日。米海兵隊の硫黄島上陸から三日後であった。


 SS金物である海竜はその後も沖縄戦に2隊〈量産態勢は整いつつも搭乗員訓練が間に合わなかった〉参加。華々しい戦果は上げられなかったが、米軍の戦力を減らせ、またその対策に対応するために少なくない護衛隊を費やすという見えない戦果を上げるもその戦力を失い、硫黄島のような「迎え」がないために徒手状態〈余りの小銃や手榴弾は与えられたがその訓練を受けていなかったので、結局、銃剣・斧・鉈などで戦ったようである〉で沖縄陸上戦を迎え、戦後の生き残りは甲標的の基地支援員を含めて7名と言われている。


 このような硫黄島・沖縄での戦いの後に、量産が進んだ海竜は本土決戦に向けて上陸地点と考えられた南九州・房総半島・三浦半島を中心に編制された隊として組織していくのである。


 そして、それは出撃の機会を失った。



 SS金物という本来は呉工廠を刺激しないための小型潜水艇であったが、より大型のS金物は間違いなく諸関係者の妨害に遭うことは間違いない。しかし、横須賀の海軍工作学校と横須賀工廠もそのプライドを賭け、S金物の試作を行った。

 先行したSS金物の特に魚雷発射の衝撃、轟音、そして艇のトリムの急激な変化への対応に苦労したことが明らかになり魚雷発射管〈魚雷は自走式〉を甲標的と同様に内蔵する。〈但し上下2本の甲標的と違い、左右2本の配置となった〉

 また改良型のモーターや電池によってその水中速度も向上させ〈なにせ電池の開発は横須賀工廠が中心〉、SS金物が9ノット前後〈ほとんど民生品や既存品を使用した〉であったが、20ノット前後という甲標的に匹敵するものとし、しかも乗員3人での運営が可能という〈甲標的の最終型である丁型「蛟竜」は5名、しかもこれでもぎりぎりの運営状況である〉訓練の必要性がより少なくなり、しかも居住性〈つまりは長時間の戦闘が可能〉が高く、また船体の円形(筒型?)が基本であることで量産性に優れており、また最大深度がより高くなるとなる。

 こうして本命と考えられていたS金物は「海竜Ⅱ型」として採用される。しかしその量産は遅々として進まなかった。


「同じ魚雷2本ならば小型の方が安くできるよね。量産体制もできてるし…」


「既に甲標的(ここで言うのは「蛟竜」)が量産されているからそれで大丈夫だよ」


 本土決戦を考えていた海軍首脳陣は、「海竜Ⅱ型」への関心を失っていた。ただ既に量産が開始されていた1隊分(12隻)の部隊編制はしぶしぶと承認され、厄介払い的な扱いの中で奄美大島(本来は陸軍管轄の防衛とされていたが、19年春以降海軍もその部隊(震洋艇隊)も配備される)に編入された。昭和19年7月のことである。部隊編制直後のことであり、訓練も十分なままとはいえないものの、部隊自体の戦意は高かった。

 海竜Ⅱ型は、震洋艇等に比較してもその航続力の長さもあって奄美大島の海軍指令部は哨戒任務を任せる機会が多かった。海竜の部隊としても近辺の海の状態を知る機会でもあり、渋りながらも(陸軍との関係改善、そして部隊としての食糧や備品関係の待遇向上を考慮の中で)受け入れ、奄美大島や徳之島周辺への哨戒活動に勤しむ。


 その日は8月21日。

 ナモ103船団と名付けられた3隻の徴用商船は2隻の小型艦艇に護衛されて那覇港を出港する。台風接近に伴い激しい風雨であった。

 徴用船に乗せられたのは民間人および那覇国民学校の児童と介添者。沖縄の陸上戦を目前としたいわゆる疎開船である。

 海竜Ⅱ型は、配備されていた他の船舶と比較してその大きな船型と航続力の長さもあって奄美諸島沿岸の防備とともに、米軍に対しての哨戒任務に就いていた。


 奄美諸島近辺では米潜水艦が出没し、小型の機帆船でさえその攻撃を受けていた。海竜部隊はその動きに応じて、周辺哨戒を行っていた。

 ナモ103船団は疎開船ということもあって連合軍にその位置を明らかにしていた。そう、本来は病院船や捕虜収容船と同様に攻撃を受けないはずの船団であった。それでも米軍はこれまでも攻撃を加えていた。そのために救命胴衣の着用訓練、縄梯子で行動する訓練などを行った子どもたちも、それを支えるための引率の大人たちもビクビクとしながら、思った以上に緊張し年上の子どもを中心に眠れない夜を迎えていた。迂回するか最短時間を取るかの判断の中で船団はその航路(宛先は長崎)をできるだけの最短距離で沖縄を離れていた。

 奄美大島南付近で、6号艇の渡辺中尉(学徒出陣組)は逆探で周囲を伺っていた。既に哨戒勤務はほぼ徹夜状態で1日半を過ぎている。



「感あり、東、感1」


「敵か? 味方か?」


「周波数、敵です」


「ヨーソロー、艇、向けろ。艇内固定物の固縛確認」


「ヨーソロー」


 たった3名の搭乗員ではあるが、それでもこの3ヶ月の錬成訓練と周辺哨戒で、多少は連携ができるようになっていた。2人の部下も学徒出陣組と最初は軽く侮っていたが少しずつ態度を軟化していた。渡辺中尉の聞く姿勢は他の艇長よりはるかに「まし」である。


「音源捉えた、左三度。操舵手、合わせ」


「ヨーソロー」


 操舵手は三度よりは少し左に合わせる。相手も動いている。


「距離3,000、潜行用意」


 艇の幾つかの場所から様々な音を拾う。


「魚雷戦用意1500でいく。潜行、深度15、いつでも18ノット出せるようにしてくれ」


 見つけたものは浮上した潜水艦であった。日本軍のものかと訝しんでいたが、このあたりに大型潜水艦の行動予定は聞いていない。第一、艦橋上の大型アンテナが日本海軍のものとは違う。それでも15分くらいの数度の接触観察の中で米軍潜水艦と判断した。

これまでの楽勝ペースで活動し、昼間の航空哨戒の機械的な旋回飛行しかしなかったとはいえ2機が常時張り付いて状況を凌いだ米軍潜水艦は夜間ということもあって油断をしていたのだろう。放たれた45センチ二式魚雷のうち1本を船体の前部に受け、そしてそのまま二度と浮上しなかった。


 終戦後、その潜水艦の名前が判明する。


「ボーフィン (USS Bowfin, SS-287)」


 ナモ103船団はそのような戦いがあったことも知らぬままに無事に長崎港へと入港する。

 沖縄からの187隻の疎開船。その全ては日本海軍のさまざまな護衛の元に、無事に九州へとたどり着いた。


 作家の大城立裕氏はこのナモ103船団のことについて、どれだけの危険を冒して疎開船団が本土へと到着したのかを資料を元にしつつノンフィクションとして1冊の本として書き上げる。


「たんに少年少女の死を目前とした危険だけを書いていたのでは、冒険談に堕しかねない。(中略)親や教師や子の立場や境遇や、心情、そして国・軍の姿勢、戦いを克明に描いてこそ、歴史的、構造的な意味を明らかにし、何かを問うことができる。できるだけ感傷を排して事実を伝えることにつとめた」


 被害こそなかったものの、疎開船の危うさを知るものとしての価値は高い。



 その日は訪れる。

 沖縄は未だに敗れてない。米国の想定よりも2ヶ月遅い、日本にとっては…


「本土での戦いは避けられません」


 御前会議は沖縄降伏前から行われ、大将・中将という格を持つ者たちは本土決戦へと話を進めていた。その顔は既成の事実としてしか見ていない。

 大佐・中佐という本来はこの会議には出ることさえできない「今の現場を知る」レベルの現場の人物たちもこの会議に訪れていた。今上天皇の願いである。


「硫黄島、沖縄の戦いを見るに、百万単位の被害が出ます」


「想定の中ですが、2ヶ月後には民間人の餓死を予想します」


大将・中将の反論は感情論ばかりであった。


「米国はなぜだか軟化しています、無条件ではなく、条件付きで…今です、今しかないです」


 米国の軟化は「マンハッタン計画」の実験的実戦を2発以上の原爆が9月以降でないと備蓄できないこともあった。また中太平洋・硫黄島・沖縄での損害が米国本土の机上の試算よりも高すぎ、試算であるが想定していた日本本土の上陸作戦の米国軍被害の130パーセント以上を示していた。実際にはどのくらいになるか分からない。未だに跋扈する潜水艦への対策を経てもサイパン・テニアン、つまりB29に対する補給は予定の80パーセントに届かず、そして遅々として進まない。そのために派遣された本土空襲の米機動部隊すら主力艦の被害ことなかったものの随伴油槽船や護衛艦などの被害もあり次第に及び腰となっていた。

「日本軍は死に体ではなかったのか?」

確かに日本本土の戦力温存が始まったものの、敵を見つけた以上攻撃を控える考えは現場にはない。それは戦後のアジア利権のためにわざわざ大西洋から派遣された英機動部隊空母への2本の魚雷による中破(巡洋艦も小破)という結果として表れた。


 既にヨーロッパの戦いを終わり、米国では厭戦ムードが広がりつつあり米国軍は残敵よりも将来の敵であるソ連を睨んだ末の決定であった。


 幾つかの交渉ルートの中でも、スイスやスペインなどの中立国を経る細い線は米国との「条件付き降伏」、つまりは国体の縮小的維持へと繋がっていた。



「赤子の安寧を願う」


開戦以降の様々な不満の中でも質問はすれども意見は述べていなかった今上天皇は小さく、それでも会議の場全体に響くようにその玉音で宣われた。


その場の全員が席を立ち、深々と頭を下げた。



 米国軍を中心とした停戦協定は、ソ連以外はしぶしぶと従った。

 そして防衛的戦闘以外のものは一部の部隊が反乱・無視状態で出撃しただけで、停止された。特に潜水艦関連は、定時連絡だけではなく何度も何度も通信された。




「美味いか?」


「ええ、何とも攻撃を受けない状態で艦橋で吸うタバコは格別ですねぇ」


「俺は吸わんからなぁ…」


分からんよ、という言葉を飲み込んで、そして上空を飛ぶ星印の双発飛行艇を見上げた。

波232の狭い艦橋には艦長と見張り員、そしてタバコを吸いに来た乗組員。確かに戦中ではなかった風景だ。


「手でもふるか?」


飛行機に向かって艦橋の5人が手を振る。飛行艇は軽く翼を振った。


「終わったかぁ………」


その声は波間に消えた。




 終戦に伴い、日本は内閣、及び国会が強くなった。内閣の下に軍を置くという、統帥権の問題ががらりと変わった。陸海軍は一旦解散し、同じ議論で国防軍として一本化し編制されることとなった。米国としては特に政治への軍人の介入(米国はマッカーサーの大統領選出馬等の頃言える状況ではないものの…)や陸海軍の対立(どの国でもあるけれど…)を強く求めた。ある点、未だ自国の不備なことを日本で実験しようとしたのかもしれない。

 天皇の立場は、自らが神ではなく「人間」であるという発言の中で、国民の反応は

「そうだよな」

というもので欧米は肩透かしを喰らった。西洋人が「キリストは人間」と言われることの衝撃が日本にもたらされると思っていたからだ。それを当然と受け入れる日本人に恐怖した。混乱状態でしかない促成栽培である大学卒業程度の「思想的な意気込みしかない若者」を多く内包するGHQの日本への扱いは丁寧にならざるを得ない。使えない連中は米企業のロビー活動を経て交代し、「戦前より日本に協力的な職員」へと主体が変更された。


 そんな中でも日本陸軍はソ連との対峙を続けていた。日本海軍は本土に残っていた航空勢力を北海道や満州へと派遣した。

「これは防衛的な処置である」

と言われれたら来たばかりのGHQも黙るしかない。

 ソ連は激怒したが、GHQの最高責任者であるマッカーサーは知らぬふりを続けていた。


 ソ連との戦いには少数の蛟竜・海竜の部隊が北海道や舞鶴・九州北部に配備された。それ以外の部隊はいったん解体・解散され、その艇は建造途中のものを含めて呉や横須賀などに集められた。その数はこの一年間に量産体制を作り上げた甲標的各種(蛟竜を含む)・海竜(Ⅱ型を含む)等、1000隻を超えていた。(運貨筒・運砲筒、そして少数であるが本土決戦を目指した様々な試作を含む水中艇があった)

米国軍に心底肝を冷やした。


「これが使われていたとすれば…」


 もちろん対策は立てられる。しかし、これだけの数が上陸部隊に向けられたとすれば…

 第一次大戦時のドイツ対策に習って「潜水艦・艇の開発・保有の禁止」を出せば良い。そんな意見もあったが、そのドイツが第二次大戦でどうなったのか…という意見の方が通った。米国は日本との協調の中で日本軍のコントロールを重視した。つまり米国軍の兵器を中心として装備し、日米の技術交流を高め、そして新生された日本国防軍の独自的な技術自体も認めていくという日本に枷を受け入れさせつつも自己の開発自体を認めることとなった。

 昭和20年の12月に国防軍と改名した呉には結局12隻の伊201型と、2隻の伊401型(但し青嵐は配備されていない)、伊号第五十八潜水艦 (乙型)等戦時急増艦が数隻残った。波号については甲標的・海竜等の小型潜水艇と同様にGHQが嫌った。

 交渉の中で、米国は1隻のガトー級潜水艦を研究資料の一環として日本と送った。米国としても兵器を含む装備の統一のためには送らざるを得なかった。

 「くろしお」

と名付けられた米国製潜水艦は建造から3年たっているガトー級潜水艦の中でもやや初期型によっているとは言え、日本の潜水艦建造関連者にショックを与えた。


「こんな天国のような状態に、乗組員はいられるのか…」


 残存の潜水艦は戦時急増艦であるので、居住性は最悪であった。1年近くを航海する予定の伊401型以上の設備に設計部門は顔を見合わせた。


「過酷な任務に堪えられるように環境を少しでも上げれば良いのでは?」


 戦前、「米国兵は贅沢に育っているのだから、潜水艦のような過酷なフネを嫌い、その戦闘能力は低い」と真しやかに言われていたことは潜水艦の生活環境を上げるという単純な対策が立てられていたのである。(それでも過酷な潜水艦任務は、米国でも作戦行動後の休暇をかなり取っていた)

 我慢することが当然であり、帰港後は(温泉を中心とした)さまざまな施設で身体と精神を穏やかにするという古来ほとではないが…寄りの考え方が否定されたのである。


 呉の潜水艦の開発関係は戦後初の次級国産潜水艦を計画し始めた。最初に出された200に及ぶ案の中でも、米国軍を刺激しないために伊401級クラスの案は取り除かれ、1000~2000トンあたりの中クラスの案(1000トン以下は日本付近の荒天に耐えることができないと判断された)が採用された。その後も様々な案が出され、特に伊201級を意識し、それを(速度能力ではなく潜水艦としての総合力して)超える水中高速艦を想定した案がまとまった。


「おやしお(SS-511)」


と名付けられ、川崎重工業の神戸工場で産声を上げたのはソ連の侵攻を米国軍からの補給を受けつつも未だ遼東半島付け根付近で膠着させている昭和22年5月25日であった。




「KA(奥さん・かぁちゃんの頭文字)に帰って早々『用意はいつでもできてます』って言われたよ」


愚痴をこぼすレーダー員。


「いつ出港するか、いつ帰られるかが分からない任務ですからねぇ」


うんざりとした顔でも声に仲良いことを自慢したいことを理解した部下の一人が受け答える。

 配備は通常。そして非番時間。

 いつもながらのウラジオ付近への哨戒任務だ。


「ロシアの海軍はもう力がないから、飛行隊と水上艦で十分なんたけどなぁ」


 昭和三十年代から始まった「冷戦」状況、そしてソ連の軍備力が整い脅威論が大半を占めた昭和四十年代の静かな終焉の中で、未だ日本海は「天皇のバスタブ」ではなかった。そしてソ連の崩壊。

 遼東半島付近は朝鮮半島暫定国境と同様に日本軍と米国軍との防衛拠点、そして中国大陸との交易場所として現存していた。そのために満州はロシアの実質的占領の準州のような扱いを受け、未だに2つに分かれてあれこれと争っている中国の2つの政府から幾度も抗議を行われていた。新「三国史(+日米)」というわけである。


 狭い日本海を哨戒するための潜水艦は太平洋を睨んだ中で長期間運行するための大型化するフネと違い、小型のまま(と言っても2000トンはあるし、次世代はまた統一船体になるという噂であった)その静寂性・隠匿性と運動性能、哨戒任務のために搭載するレーダー・ソナーの能力を高めていった。



「今日はカレーかぁ…確かに金曜日だった」


 ぼそっと呟いた目の前にチキンカツを載せた夕飯からはかすかに湯気が立っていた。


 3代目「くろしお」と呼ばれる潜水艦はそれから11日後にウラジオ沖を離れた。

次回は分からないが、今回もロシア東洋艦隊は静かであった。





いかがだったでしょうか?


え?

不満がいっぱい?


実は筆者もです。

言わなかったことが多く残りました。

今回は単に前半の技術的な話や量産的な話ではなく、

「海竜」を中心とした「分からず屋」との闘いが後半を占めているのです。

確かに新たなことをすることには批判が多いでしょうし、自分の「場」を荒らされることを心配することも分かりますが、そんなことしてる時間ないんじゃない?ってことなんですよね。

梅木氏の「オリザニン」への対応はあまりにももったいない。

そんなもったいないことを日本人が何度もしていた事実。それさえなかったら…


さて、

次回ですが………

餓死を少しでも救いたいと思っています。


ではでは。

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