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高速潜水艦を投入せよ その5(終戦へと続く道3)

お久しぶりです。

ポチです。


この文章で終わる予定が………


まぁ、

読んでくれる?



 雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。

 自由とはそういうことだ

                    (ロジャー・スミス)


   ◇              ◇


「ホワイトヘッド」



 われわれ軍事関連大好きな人にとっては馴染みのある言葉であろう。

 自走式魚雷(魚形機雷)は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍士官ジョヴァンニ・ルッピスの発想と イギリス人技術者ロバート・ホワイトヘッドの工夫によって完成した。

 現在でも使われている魚雷の直接的祖先と言えよう。


 それまでの潜水艦の攻撃兵器は、言わば『伏龍』の原型である。長い竿の先に爆薬を取り付けて敵艦の吃水線下で爆発させる。『伏龍』と同様、ほぼ体当たり攻撃であり自らも爆発に巻き込まれる。

(ちなみに『伏龍』を視察した当時の首相鈴木貫太郎(水雷艇戦術の専門家)すら、その実用性に否定的で、実戦使用に反対するほどであったとあるので、その効果はかなり限定的であろう)


 日本海軍は、明治17年に「朱社(ドイツ(その頃はオーストリアか?)・シュワルツコフ社」より魚雷200本(50本という資料もあり)購入して「八四式魚形機雷」と称したのが始まりである。

 速度22ノットで射程400メートル

(現在、横須賀海軍機関術参考資料館に頭部のみであるが朱社魚雷が展示されている)

 このような、現在から見ると唖然とするレベルの兵器ではあっても、日清戦争中に、軍港威海衛への夜襲において、魚雷を搭載した水雷艇を二日に分けて突入。日本海軍にとっては疫病神(東洋で最大最強の戦艦と称された)的な清国主力艦『定遠』を座礁・転覆(後に日本海軍で利用)させ,『威遠』を沈めた。

 この時の魚雷が「八四式魚雷」なのか同じ朱社の改良型「八八式魚雷」(大型化・頭部炸薬の倍化)なのかははっきりしないが、朱式魚雷(俗称「あか水雷」)が上げた戦果である。

 第一次世界大戦においてのUボートの活躍も後押しとなり、日本海軍は魚雷開発にかなり費やす。


 「より速く、よく長く、より強く」


というどこかのスローガンと同様のものである。もちろん最初は輸入に頼っており、特に「英国保社(ホワイトヘッド社)」・「墺国オーストリア保社」の名称が連なる。輸入やコピー生産を経て

 「三八式魚雷」

によって初めて国産(自国設計・自国気室生産)できるようになる。(その後も他国の開発を見るために輸入は続いていた)


 そして、かの『酸素魚雷』である。


酸素魚雷の利点は、雷速・炸薬量・射程、そして航跡の視認困難とされている。よく雷速の話題(公式48ノット、50ノットオーバーとも)が上がるが、日本海軍としては


 射程 > 炸薬量(490kg) > 雷速


であった。

 その頃想定されていた戦艦同士の主砲ぶん殴り射程(かの第一次世界大戦後の「ポストユトランド沖海戦」)においては20,000メートルから25,000メートルとじわじわと長くなり30,000メートル程度(大和型の射程40,000メートルオーバーがどの程度日本海軍作戦部を狂喜させたかが分かる)を想定しており、有効射程5,000 m程度の従来型魚雷は本来その場に交わるはずがなかった。そこに長射程(48ノットで20,000m,36kノットで40,000m)の、しかも航跡がほぼ分からない魚雷。水雷屋と呼ばれる人々は歓喜した。

 問題は、この長射程を生かす手段だけに戦術が従来通りの6~8発の「扇形攻撃」に特化したことである。特型駆逐艦以降の艦体型駆逐艦が4発の発射管を2基、そして次発魚雷装填装置を備えたり、「丙型潜水艦」(前方のみの魚雷発射管8基)を建造したりしたのは、


「計算すると、8本の魚雷を扇状に発射すれば回避行動を取られても1本は当たるだろう」


というものであり、現在の目からすれば


「誘導魚雷というのがあってだな……」


と、突っ込みたくなる。


 ちなみに、この戦術の戦果であるが、大規模に魚雷を使った実例として「スラバヤ沖海戦」が上げられよう。日・ABDA艦隊両軍ともに及び腰だったのか、遠距離からの砲雷撃戦に徹し、砲撃・雷撃ともに命中率はすこぶる悪い結果であった。第2水雷戦隊司令官 田中頼三少将は昼間の対巡洋艦隊に対する突撃は困難とし、接近してくる敵艦隊に対して従来の肉薄雷撃を困難として、遠距離雷撃を敢行する。(その後、敢闘精神に反するとして中央で後々まで問題となり、後の「ルンガ沖夜戦」でかなりの戦果を収めたものの指揮方法を問われ、司令官を解任される。安全な本土で非難するだけの姿勢はいかがかと…)

 今回の魚雷戦に限って言うと、日本軍は艦隊全体で188本発射し命中4本の命中率2%強という、本来、水雷関係者が想定していたはずの10%を大きく下回る結果となった。(雷管の早発の可能性もかなりあるが…)

(あまりに長射程だったこともあって、バタビア沖海戦では重巡洋艦最上が米巡洋艦ヒューストンを狙って発射した酸素魚雷6本が敵艦をすり抜け、その射線上の揚陸艦「神州丸」、輸送艦「佐倉丸」「龍野丸」、病院船「蓬莱丸」、掃海艇「第二号掃海艇」の計5隻を撃沈。また空母「ワスプ」を攻撃した伊19は全力魚雷攻撃(6本発射)で「ワスプ」撃沈、外れた魚雷は後方にあった戦艦「ノースカロライナ」中破、駆逐艦「オブライエン」撃沈)


 話は日露戦争時に遡る。

 いわゆる『バルチック艦隊』を迎え受ける「月月火水木金金」の猛練習とともに、日本海軍はある新兵器の購入を急ぐ。それが

 「有線誘導魚雷」

である。結局のところ対馬沖海戦には間に合わなかったのである(招聘した発明家が日露戦争後に来日)が、その発明家、シムスというアメリカ人を登場させたい。

 さまざまに調べた結果として、一部でかなり有名であるダイナマイト砲(Sims-Dudley Dynamite gun。正確にはダイナマイト弾を投射するものである)の発明者とされている(発明者はメドフォードという人物とされており、シムスがどう絡んでるのか?)のだが、どんな人物だったのかよく分からない。

 では


 「シムス式誘導魚雷(「シムス・エジソン誘導魚雷」とも)」


とはどのようなものか?

 実は「誘導魚雷」そのものは魚雷の登場とほとんど同時に米国を中心に幾つかの発明・開発が進んでいた。

 ・ノルデンフェルト

 ・パトリック

 ・レイ

 ・ヴィクトリア

 ・エリクソン

などの様々な形式(ほぼ有線)の誘導魚雷が歴史の中で浮かんでは消えている。(ドイツでもシーメンスが開発。無線誘導)シムス式も同様であるが、ほとんど資料として残存するものではないので、かすかな残滓の中で想像するしかない。

 その中で「シムス・エジソン魚雷」は1880年頃に開発されて、日本海軍の目に止まった。

 「特別自動水雷審査受領委員会」

という名称を付けられて実験を繰り返したのだから、それなりに期待されていたのでは?


 長さが6メートル、重量1,360キロ、炸薬は100キロ、最大射程は有線のために電線(魚雷に電線リールを内蔵、電線を通したモーター駆動エジソンさん………のようである)の長さと同等の1,800~4,000メートル、速力はだいたい20ノット(ホント?電線引きずるのに?)……とあるが、なにせ100年を超える資料であるので、正確なところは分からない。

 また、無線での操縦という記述もある。魚雷の操縦は山の上から無線でもって指示を出し、起動、半速、全速、面舵、取舵、停止の6種類を実現できるらしい。ほとんど現在の6プロポである。無線誘導魚雷には、マルコーニ式の送信機(だと思われる)に、コヒーラー受信機(現在でもその発展型が使われている)を使っていた。マルコーニ式はその頃としてはスタンダードの無線装備である。なにせその頃(日露戦争時)のかの


『敵艦見ユ』


で有名になった「信濃丸」に備えられていたのが、マルコーニ式の三六式無線電信機なのだから。

 日本海軍が実験した動力は、当時スタンダードだった圧搾空気。(シムスさんもいろいろと考えたようである)無線誘導で、「右・左」と舵を切り目標艦に向かう。なるほど机上の運用であれば確かに命中しそうだ。


「誘導のために2本の旗を立て」


とある。なぜ?

 簡単に述べると、誘導する必要上、魚雷がどこにいるのかが分からないと困るという単純な理由である。現在であればソナー(第一次大戦を待つしかない)を活用して、目標艦と魚雷の相対位置を確認することができるが、そんなものがないならば? そう、魚雷を操作するためにはその位置を知らなければならない。つまり、


 「魚雷に旗という目印をつけよう」


 え?

 敵に撃ったと知らせない兵器に?

 ここで魚雷というほとんど隠匿兵器であることを忘れてない?


 更には水雷艦も潜水艦もこれでは使えるわけない。旗を支える支柱だけではないがを考えると発射管から射出できない。万一、この魚雷をフネから発射しようとすれば停止するか、ごく低速にまで速力を落とし、デリックなどを利用して発射するしか方法がないだろう。敵艦を目前にして、そのような悠長なマネができるのか?日本海軍としては、夜戦、特に敵艦が存在する湾港に停泊している状況で、動けない相手に奇襲をかける戦法を考えていたようであるが、そんなことは何も考えていない日清戦争時の清国くらいしか活用できないだろう。(日露戦争時の「杉野はいずこ」の旅順港閉塞作戦は失敗している)

 つまりは、海峡・港湾防御用たる陸上基地(要塞)より発射を考えていたようであるが、そのような基地に新兵器が必要とされることはほとんどありない。(もし装備されたとしても、更新はまずはフネの方であるので、要塞の装備は旧式なものになった。海軍で要塞への配置は特に上の方は懲罰人事に等しかったことも併せて記しておく)

 ちなみに、このシステムはその頃としては細心すぎで、少しでも波にたたかれたりすると誤動作を起こしやすく、舵を切りすぎて発射点に戻って来る(自爆?)こともあり、最終的には遅すぎた。たぶん10ノット以下だったのではなかろうか。(書いてないけれど…)敵艦に追いつけない魚雷って…使える?

 結局、「実用価値なし」と判定された。

 

 日露戦争後の喧噪を経て、日本海軍は誘導魚雷への関心が急激に墜ちてきた。(そう、「落ちて」ではなく「墜ちて」である)日本海軍だけでなく各国の海軍も誘導魚雷に見切りを付けたようである。


 魚雷自体の発展が「走行距離・速度・威力」に偏重し始め、これまでのボンベの空気を利用する「冷走式」や「電気モーター式」から「熱走式エンジン・タービン式」へと変わり(「電気式」については後述の予定)走行距離・速度が凄まじく伸びてきた。そんな中で悠長に旗立てた有線誘導を開発するような時間も人員もない。

 (昔から言われている「人はいても人材はいない」状態)


 誘導魚雷の暗黒の日々が続く。

 そんな中、わずか数名の規模ではあったものの呉の造船実験部の一部は、パッシブ式の音響追尾装置を作り上る。先端部に縦軸から左右30度の位置に2つの水中聴音器つまりはマイクを搭載し、より大きな音を受信する側に向かって舵を取り、反対側の音が大きくなると進路を修正する。


 「おぉ、ちゃんと音源を見つけてるじゃないか」


 実験プールの中で移動しながら疑似機関音を放つ模型船にきちんと反応しながら乙の字を描くことで実験は成功し、数度の実験結果を受けて呉魚雷実験部に提案する。


 「敵艦の機関音に反応して、自動的に舵を取る」


 これまでの偏差射撃に比較すれば、ある程度敵艦に向けて発射すれば良くかなり自由度が高く、命中度合いも見込める……はず。

 ただ、呉魚雷実験部は冷たかった。

 なぜならば、酸素魚雷との相性の問題である。何度も言うようであるが、酸素魚雷は48ノットを誇る高速魚雷である。そして初期の音響魚雷は20ノット以下の運用でしか、敵艦を追尾できない。それ以上であれば自魚雷の騒音が邪魔する。


 「まぁ、とりあえずやってみますけれどね」


 本当に渋々とした態度を変えないままに、実際の魚雷に組み込む作業を行う魚雷実験部。

 亀ヶ首試射場で行われた実験は、目的艦とされた水雷艇を追い、とりあえず成功のうちに終わった。


「追いつけないですね。せめて30ノットで追尾できれば良いんですが…」


 その頃考えられていた対艦雷・砲撃戦の艦隊想定速度は20ノット(最終的には24ノットに変更される。ちなみに長門型の最高速度は26ノット、金剛型が30ノット。アメリカ海軍の高速戦艦がそれぞれ28ノット・32ノットになったのは日本海軍への恐れである)


……と、ある技師が呟いた。


 「九二式魚雷ならば、相性は良いのでは?」


 九二式魚雷は、潜水艦用(53センチ)の電動魚雷。他国が電池式の魚雷を研究・使用しているという情報に促される形で


 「うちでもやってますよ」


的な流れで作られたものである。

 雷速30ノット、射程7000m(たぶん25ノット時の記録?)

すでに酸素魚雷の試作を行いつつあった呉の魚雷実験部や潜水艦関係者の中では、正式な名称が付けられたにもかかわらず放置されていた。

 ずるずるとした形で、この魚雷に音響追尾のシステムを組み込んだ試験を繰り返す中で


 「輸送船にならば使える魚雷」


という認識がじわじわと広がった。

 この魚雷の欠点は、蓄電池の温度により充電量が変わり射程が変わること、常に電池室内の水素ガスを換気しなければいけないこと、発射時にはバッテリー液を調べなければいけないことであった。しかし、「使える」となった途端に改良が続けられ、特に電池関連の改善(特に電圧の安定性)に全力が費やされた。問題点とされたのは、電気式魚雷に対する経験の不十分さであり、電解液容量の不足、狭すぎる極板間の隙間、そして電気絶縁性が脆弱性である。出力電流は150アンペアとされていたが、走行時では90アンペア程度であり、それはこのような実験を続けていなければ発見できなかったものである。電池と共にその設置方法等の改良が続いた。特に昭和16年にドイツ製のG7e電気魚雷6基を入手し、92式魚雷の改良はそれに基づいて、改3として制式に採用された。

 雷速や射程についてはさほど向上がなかったが次第に安定した性能となり、音響追尾に対するノイズキャンセルなどの成果もあって、昭和18年には25ノットに対応できるシステムへとなる。

 92式魚雷は無航跡で、酸素・空気魚雷に比較して製作も容易であったが、主力艦狙いの上層部にはその速度と射程距離のためにほとんど無視されていた。しかし海戦1年ほどを過ぎた頃から主力艦狙い自体よりも輸送船を狙うことをしぶしぶながら連合艦隊上層部が認めることととなり(潜水艦関係者としては長らく訴えていた)、92式魚雷も搭載されることが当然となった。(酸素魚雷の製造に比較してかなり容易に量産できる(何と言ってもボンベ生産の存在が大きい)こともあって、量を増やすためにも昭和18年以降、九二式魚雷の生産数が増えた)


 それまでの魚雷使用の前提として


「主力艦6本(全管発射)・その他2本・輸送船1本」


とされていたのを輸送船に対しても2本の使用が許された。(ちなみにUボートは最初から輸送船狙いのためか、前部発射管4本で輸送船には1~2本の発射(射程が短いことも理由か?)としていた模様)

 この輸送船にも2本使えることを受けて、潜水艦では九二式魚雷を活用することを選択することが増えた。なにせ高価な「九五式酸素魚雷」と違い、九二式魚雷は半額程度であることも大きかった。

 音響魚雷は大西洋のUボートでの活躍もあって疑似音源を曳航したりと対策も早かった。そのため奇襲攻撃にだけしか使われず、日本海軍としてもこれまでのパッシブ的な音響魚雷だけでなく、自ら音を出しつつ目的艦を探すアクティブ的な音響魚雷を開発していたが終戦までに間に合わなかった。

 ただ、奇襲攻撃を行う際とか、単独行動をするフネや、(いずれか1隻でも…という)船団を狙う中では終戦まで活用されていた。


 音響魚雷の開発の中で、ある技官が気づく。


 「目的艦のウェーキに入った時に、音源を見失っていないか?」


航行中のフネが発生させるウェーキの発生する泡によって音波が遮られることが原因であることがすぐに分かった。そこでウェーキへの対策を取る中で


 「反対に音源をロストする時に舵を切ったら、ウェーキの元(つまり目的艦)に付いていくのでは?」


ウェーキに対する追尾システムである。これが音響追尾より日本海軍で問題(重要)視された。

 一つにはウェーキと交差することで電気的にそのロストを処理して魚雷の舵を切ること。受信する、しないで処理する。つまり動作は音源の強弱に基づく音響追尾システムに比較しても確実に近い。

 二つには音響追尾システムが酸素魚雷とは速度的に相性が悪いが、ウェーキ追尾システムは酸素魚雷にも使うことができる。

 そして、九三式・九五式酸素魚雷のジャイロは空気式から安定性の向上を目指して電気式に変更されたために(それまでの空気式ジャイロスコープの回転数が毎分8,000回転であり安定性が乏しくまた衝撃に弱いために設定方位がずれることが判明し、毎分2万回転の電動ジャイロスコープに変更された)バッテリーが備えられていた。これを上手く使えばウェーキに対して舵を取ることができる。

 かくしてウェーキ追尾システムを搭載した酸素魚雷が登場することとなった。

 但し、すでに水上艦(駆逐艦・巡洋艦など)が雷撃する機会はすでになくなり、潜水艦では搭載魚雷の半数以上が音響魚雷である九二式電動魚雷(前述の通り量産が比較的簡単)となっており、残りが九五式酸素魚雷にウェーキ追尾システムを追加した形で搭載することとなったものの、これを使う機会(対主力艦)がなかなかあらわれないままに、それでも発射したものはそのシステムが充分に発揮され、中には4本中2本の魚雷が命中したために爆沈状態で瞬時に沈没させられたアメリカ巡洋艦もあった。また2隻の駆逐艦にそれぞれ命中し、1隻が沈没、1隻が大破としいう戦果を上げた潜水艦もあった。

 登場時期が昭和19年末からであったために遅すぎたものの、ウェーキ追尾魚雷は少なからずの戦果を上げた。


 ちなみにであるが、戦後の日本海軍と連合軍との成果報告のすりあわせの中で、通常の酸素魚雷の命中率(戦前の研究では10パーセント前後とされていた)は7パーセント前後(水上艦・潜水艦・甲標的等を含む。開戦早期の魚雷雷管早発を命中率に含まない)であったが、音響追尾魚雷(潜水艦のみ)は射点が近かかったこともあるが18パーセント前後、ウェーキ追尾魚雷はその発射数が少なかった(発射数64本)が23パーセント前後とされている。

 

 追尾魚雷ではないが、魚雷関係でもう一つのシステムを搭載した魚雷を伊200型は搭載されていた。

 「運動魚雷」

である。


 似たような魚雷はドイツ海軍にもある。「FAT(Flächen Absuch Torpedo ばね装置魚雷)」と呼ばれるものがそれである。発射時に設定された数値に従って、複雑なジャイロ機構によって発射後に、一定の距離を航走した後に反転、更に直進後にまた反転し再度直線航走するという反復パターンを最大射程まで繰り返す。ドイツ海軍はその有効性を知り、更には改良型の「LUT(Lageunabhängiger Torpedo 位置独立魚雷)」が開発されている。


 「もしも船団を狙うのならば、魚雷が之の字運動をするとどっかで当たるのでは?」


 日本海軍は


 「1発必中」


のスローガンがある以上、用兵側(水上艦しか考えは及んでいない)としては


 「なぜそのようなものが必要なんだ?」


という自己中心の考え方である。技術側としては少しでも使える幅を広げようとしているだけであるので、話はかみ合わない。なにせ同じ技術畑の魚雷開発部門である者が「音響魚雷」になかなか興味を示さなかったくらいなので、新しい技術に対しては保守的なのである。

 それでも、「之の字運動魚雷」はその試作と試験が始まった。そしてそれはドイツ海軍からの「FAT魚雷」の情報(実物は来日できなかった)を得た上で加速する。初期の之の字魚雷は電池魚雷を利用したもので雷速20ノットに対応し、自己魚雷の一定直進(だいたい1~2キロ)後に300メートル半径程度で右か左か(発射時に設定可)に1・5度の反転を行い、1キロの直進(後には2キロ)、また300メートルの半径で反転する(上空からは波形に見える)というパターン行動を歯車とバネ・サーボモーターによって命中時、もしくは最大射程距離まで繰り返すものであった。(「FAT魚雷」やその後続魚雷である「LUT(Lageunabhängiger Torpedo 位置独立魚雷)」はもう少し複雑な動作を行うが、日本においては一定のパターンを行うことがせいぜいであった)

 そしてそのシステムは射程距離が化け物的な酸素魚雷にも組み込まれるようになる。潜水艦用の九五式酸素魚雷は12キロ(45 kt 時)であったが雷速20ノットを設定していなかったこともあって、最初の試験魚雷においては雷速35ノットで3はちキロを記録したものの初期システムの「之の字運動」には適せず(雷速にシステムが追いついていない)に、システムの改善が必要となった。その後の30ノット対応のシステム(ドイツの「FAT魚雷」・「LUT魚雷」に比較して単純に製造時の初期設定(潜水艦内部では最初期の反転基準距離を設定するだけ)を繰り返すのみ)が間に合った。

 この之の字運動魚雷は全体的にはさほど評価されなかったが、一部の船団攻撃を得意とする潜水艦長には好まれ、生産された魚雷は(他の潜水艦長が嫌ったこともあって)ほとんどそれらの潜水艦に搭載されることとなる。


 これら自動追尾システム(之の字運動システム)は、そのオン・オフが発射時に設定できることもあってそれに適した雷速の選択システムのオン・オフでも行えたものの、潜水艦内での発射時の水雷員からの調整が必須となっていた。特に伊200型以降は乗員数を(艦型を小さくするためでもある)絞ったために個別の負担が大きくなったのは歪めない。昭和20年以降の生産艦は司令塔の魚雷射撃盤である程度設定できるようになったが、電池魚雷においてはその電圧を1本ずつ確認しなければならなかったので、多少の負担減になっただけかもしれない。


 日本海軍としては、もちろんこれらの追尾システムの次代を期待した。

 呉だけでなく、横須賀などの魚雷・電池関係技術部がいろいろな視点で提案し、

 ・アクティブ音響誘導魚雷

 ・有線誘導魚雷

あるいは、

 ・これまでの誘導システムの組み合わせ

などを研究していたが、


 「そんなことより今のやつの精度を磨け!」


という当たり前の意見が多数を占め、それでもそれらに対しては細々とした開発が続いた。(なくならなかったのはそれでも期待はされていたからであるが、実現されたのは戦後かなりしてからである)


 さて、伊200型以降の高速潜水艦の魚雷搭載数は10本。海軍としては基本計画時に「酸素魚雷10本」としていたが、実戦投入時には「酸素魚雷6本・電池魚雷4本」を基準としていた。(終戦間際は「酸素魚雷4本・電池魚雷6本」、但しむりやりあと2本を搭載した艦もあった)搭載する魚雷の種類は潜水艦長の意見がある程度重視されたが、計画時の「酸素魚雷10本」はその生産数・備蓄量のために無理で基地司令部は渋った。ちなみに他の主力潜水艦である伊号は16~20本程度の搭載数であるが、同じ理由で戦争半ば以降それぞれ半数となり酸素魚雷満載はほぼ不可能であった。(このあたりのむりが効ける潜水艦長は、その出撃数(生還数)と戦果と比例する)




 「敵艦速度変わらず24ノット、之の字ありません」


 「(潜水)艦長、行かせてください」


 「だめだ、水雷長偏差確認、ウェーキ3本、音響1本いくぞ」


 「ヨーソロー、5分待ってください」


 「ヨーソロー、重巡だ、確実にな」


 「ヨーソロー、水測、最後まで」


 「お願いします、我々が沈めます」


 「待て、貴官たちには次の機会がある」


互いに小声ながら鋭い音が司令塔に響く。


 「距離が近い、大丈夫だ」


22分後、アメリカ海軍の重巡は3本放たれた中で2本のウェーキ追尾魚雷に瞬時に沈んだ。護衛の駆逐艦が同時に放たれた之の字魚雷に3分後1本接雷して轟沈したのは戦後に分かった。




 米国は、それまでに組み立てていた戦略を悩んだ末に変更した。

 その変更は速かった。





すみません。

ほぼ、魚雷の話で終わりました。


時期は早めましたが、

音響追尾魚雷は呉の関係者が少しでも関心を持っていれば…のIFです。

なにせ、昭和18年あたりから電動魚雷がどんどん生産されてますので、それを有効に使えるのでは?という気持ちからです。(潜水艦用の酸素魚雷は足らなくなり、駆逐艦用の酸素魚雷は余りがちになったみたいです)

ウェーキ追尾魚雷は資料が少なくて…それでも順調に開発が続けられたみたい(間に合わなかったけれど…)なので、これも前倒ししました。

之の字運動魚雷は船団攻撃のためには必要なものと自己判断です。


さて、

次回は本当に終戦したい!


ではでは。

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