高速潜水艦を投入せよ その4(終戦へと続く道2)
お久しぶりです。
ポチです。
終戦編にする予定でしたが、何だか長々となって……
いや、だいぶ書いたのですが、「沖電気」とか「日本電気」とか…を書いては消し書いては消し……と、かなり端折ったつもりです(ホントだよ)
では、お楽しみください。
「海はやさしくて、とてもきれいだ。だが、残酷にだってなれる、そうだ、急にそうなるんだ。」
(ヘミングウェイ『老人と海』)
◇ ◇
集合意識という言葉がある。
現在、AIを支えるビッグデータや集合知ではなく集合意識である。
集合意識は精神の表には現れない、心の奥底に潜む「潜在意識」のもっと奥底に揺蕩うものとされて、そしてそれは個々の意識を超えるものであり、個人が持つ意識形態や信念すら変化させる力を持っている…ということである。
十五億年前に地球上の生物は大きく「植物」と「動物」との分岐点を迎える。更には、母なる海から、降り注ぐ紫外線を何ものとせずに地上へとその存在領域を広げる。
なぜ植物から動物が進化(?)したのか?
地上へとその活動地を広げていったのはなぜか?
仮説とても薄いものであるが、植物の「集合意識」が関係しているとされる。つまり植物にとって望むままに都合良く動物が生まれ、そして互いに地上へと……。
「物⾔わぬ植物は、定着した場所でただじっと静かにやり過ごしているように⾒えます が、過酷な環境に適応するために、私たち⼈間が出現する遥か以前から、緻密な⽣存戦 略を開発・獲得し、知性をもって⽣きているようです」
( 『植物の地下部でのコミュニケーションを可能にしている分子?』
(プレスリリース)愛媛大学、2022年8月9日)
地上に広がった動物の中には海へと戻る種がいた。鯨・イルカ類、オットセイ・セイウチ等、海獣と呼ばれる動物はその形をまた変えて海での活動を続けていく。
ヒトは、その姿こそ変えなかったが「海獣」の一種として海へと戻っていった。
「この色ってないよね~~」
「はいはい。仕事にいそしみましょうね」
「だって、黒色だよ、ク・ロ。…ないわ~~、俺のフネなのに……」
「(潜水)艦長のフネじゃなくて、海軍のフネでしょう?」
「いやいや、艦長権限で、フネの色ってある程度許されるでしょう?」
「だからって、白はないでしょ?白は…私もついでに怒られましたよ」
「艦橋だけでも…って言ったのが悪かったかなぁ」
「あの目……可哀想な人扱いでした……」
周囲の兵たちは狭いフネの中で黙々と仕事を続けながら、生暖かい目で艦長を見ていた。
「まあ…仕事はできる人なんだよ…仕事は」
出撃準備中の一コマである。
伊200は、昭和18年8月2日、その完成を迎えていた。
同年8月7日、「遣日潜水艦作戦」で呉に到着した【U511】は、ドイツの溶接技術とそれに適した高張力鋼St52の工法を伝えた。(以前にも述べたように、既に日本での溶接技術はある程度は完成していたが溶接に適した合金鋼の完成された知識は瞬く間に鉄鋼会社に広まった)それ以外にも対ソナー・対レーダーの外装タイルの技術、機関音低減の技術、大西洋での戦いを経たドイツの潜水艦戦術、中にはドイツ風の高速潜水艦の概要(未だ形としてなってはいないが)さえ伝えられていた。
これらのことがあって、伊200型はその量産型の伊201型に対して大幅な変更を始めた。既に量産体制に入っていた伊201・伊202(新機軸であった伊200の完成・試験結果を受けるために建造自体に時間をかけていた)は小変更に留め、月に1隻程度、伊203・伊204を建造していった。(これらの5隻を初期量産型(もしくは先行量産型)とする資料も多い)
次に建造に入ったのが、高張力鋼St52を活用した伊205型の4隻である。艦型的には伊201を2メートルほど長くした(基準排水量は150トン程度上がった)だけであるが、水中充電装置のシュノーケルを建造当時から設置する(先行艦は後日搭載)。その電池(特Eから特F)と機関(シュノーケルに適した4サイクル化)をより適したものと換装するという変更を行った。またアクティブ・パッシブソナーを複数設置することで、潜航時での攻撃(限られた場面にしかできないものの)が可能になる。(通常、これまでの9隻(伊200を除く)を初期量産型とすることが多い)逆探と共に22型対空探信義(潜水艦用に特化したもの)を装備するなど、他の潜水艦をテスト艦として活用しつつ伊200型への装備の浸透を図った。
半年ほどの期間の中で、艦政本部は艦体の水中活動を主にし、水上活動を制限的に行うことを狙った設計を行う。(もちろん、ブロック建造を基本にした設計である)海軍工作学校教官の浅野卯一郎機関中佐は、甲標的に関する改善を行うための委員会に所属していたが、それ以降も潜水艦に関するさまざまな提言を行っていた。
・潜水艦は言わば水中の飛行機であるので、水槽試験と共に風洞試験も行うべきである。
・その操縦に関しても、飛行機を元として三次元の操縦をできれば一人(注排水等、無理ならば二人)で行うべきである。
・そのために艦の中央に主翼と言うべき翼と舵を設け、飛行機のごとく海中を自由に航行すべきである。
これらのことを受け、船体型は少しずつ変化し魚雷型(量産を重視し葉巻型までは変更できなかった)を基本として船首にソナーを適切に置くために延長され、結果的に魚雷発射管は後退する。また艦橋はレーダー対策のために逆台形型(すり鉢型)となる。水中翼も停泊の邪魔になる(他艦を痛める。停泊のために水中翼専用の保護材を用意されていた)ために艦橋に取り付けることが検討されたが、量産のためには内部の大幅な変更が必要となるために諦められた。
ただし、これまで諦めていた減速装置を改良(工作精度の向上も)し、ディーゼルエンジンと電動機の間に取り付けることで、スクリューは甲標的と同様に、大型の一軸となり(二重反転式は諦められたが)現在の潜水艦と同じく艦尾に取り付けられた。その結果として、船体型は特に艦の中央部よりかなり変化することとなる。
伊210型(量産後期型)は、最大限にそれらの意見を受けた上で再設計され、月産2隻を期待されつつ産声を上げた。
黒潮。
この日本では、その名は小学生(高学年)でも知っている。中身は知らなくとも学習するからだ、学校で。メキシコ湾流と並んで世界最大規模の海流である。この海流のおかげで我が国は豊富な魚資源を得ている。もちろん、我が国が本来亜熱帯の稲作ができたのは黒潮のおかげでもある。(東北地方で稲作がなかなか上手くいかなかった理由でもある)
それこそ明治維新までの数百年間(ヘタをすれば10,000年以上)の動物性タンパク質を支えてきたと言える。マグロ・カツオ・サンマ………それらが日本近海の、親潮(北太平洋からの海流)とぶつかる場所が北海道から関東近海(季節により変化する)に豊富な漁場を生み出していた。日本という島国であり、海洋資源の生み出した国……他国が海流に対してどのような学びの場を持っているかは他聞に任せるものの、たぶん世界でも「世界地理」をきちんと教わる機会がある国はめずらしいだろう。
黒潮…という名は、もちろんその「色」に関わる。
魚にとって栄養であるプランクトンの生息数が少ないために、透明度が高い。つまり、海色は深海の青黒色となる。黒潮の名前の由来である。ちなみに「黒潮」という言葉が初めて文献に現れたのは江戸時代中期、
「……これを島にて黒潮とも山潮とも唱え……」
(佐藤行信著 『海島風土記』)
八丈島での記述である。
潜水艦、その艦の塗装は基本的にねずみ色(水準線以下の艦底部を除く)である。まあ、基本的…というだけで、その建造している造船所によって若干「色味」が変わる。本来、日本海軍は軍艦の色を白色としていたのだが、1903年に日露戦争に向けた戦時塗色の「ねずみ色」と決めた。それがいつの間にやら基本的な艦艇色となったようである。
その「ねずみ色」とは「白3、黒1」を混ぜ合わせたものであるが…その色はなぜか我々がイメージする艦艇色とは異なる。
もっと暗くない?
今の自衛隊やアメリカ軍の艦艇の色に近いのである。
有名なのが『世界の艦船 No.281 1980年5月号 特集・軍艦の塗装』という特集であり、泉江三氏が調整された「旧日本海軍艦艇の外舷塗料色調見本(鼠色)」は各工廠ごとの艦色の基本で、それ以降の艦艇モデラーの教科書的な扱いをされいるらしい。(地元の模型協会会長の話)ちなみに民間の造船所は近場の工廠の色に似せたらしい。つまり「大和」より「武蔵」は暗めの色味を帯びていたのであろう。
伊200・波200クラスの潜水艦は呉工廠で計画されたこともあって、その艦色は「呉工廠グレー」(艦艇モデラー談)である。
「舞鶴」>「呉」>「横須賀」>「佐世保」
と、明るい順に並べる中で呉グレーは明るい色味を帯びている。しかも戦時では塗装の「黒色」が欠乏し、茶・青を添加したこともあって「シルバーグレー(銀ねずみ色)」(実は筆者が50数年前に「ウォーターラインシリーズ」製作の時には「銀ねずみ色」という塗装指摘があり、銀色を入れないといけないの?と悩んだことを覚えている。結局タミヤの軍艦色を塗りたくったが… 笑)となった。かの瑞鶴・千歳などの迷彩塗装は、「黒色ペンキ」の不足もあったかもしれない。
ちなみに塗装についてはその艦長の権限の中にあり、かなり自由に任されていたらしい。(まあ、ある程度、海軍の「権威」を犯さない程度であろうが…)
本来潜水艦は「明るい塗装」(活動する海域によっては「黒色塗装」を選択)を行っていた。隠密性が必要な潜水艦がそんな色で良かったのか? 実は、同等の軍艦色で塗装しても特に小型潜水艦は見た目、黒の色味が強く出ていた。海軍では黒は雑用艦・特務艦に多く使う色(小さなフネが多かったので、色味は強調され、同色であっても他と比べて暗く見える)なので、小さくとも「戦闘艦」である潜水艦は見栄もあって特に明るい色に塗りたがる傾向が強かったらしい。しかし、戦時にはそのような「艦長の好み」は無視される。
日本海軍は昭和18年初めに呉方面の練習潜水艦数隻と航空機を利用した大規模な潜水艦迷彩塗装実験を行った。従来の艦体(呉グレー)色、黒色、灰黒色、深緑色。これらの色のどれがその視認性を低減するか、つまり迷彩効果が艦艇と航空機によって実験、評価された。その後の新造艦はこの実験の結果を反映した塗装、つまりより暗色が強調されたものとなった。
更には「防探塗装」がそれに拍車をかける。「遣日潜水艦作戦」で得た大西洋での戦いでレーダー及びソナー対策の必要性はその塗装自体にも及んだ。
開戦時、アメリカ海軍で大型艦に試験的に搭載されていたレーダーはその有効性を次第に知らしめ、大西洋での戦いに伴い昭和18年になると小型艦への搭載が当たり前になりつつあった。日本海軍の艦艇でもレーダー(電探)装備の艦艇が始まると共に、広がりつつある自潜水艦の被害拡大に悩まされていた。
レーダー・ソナー対策のために「逆探」がまずは用意された。結局のところラジオ受信機に毛が生えた程度の「逆探」は艦橋の四隅に受信機を備え(探知の方向を知ることができる)、簡単な装置ながら潜水艦の必須搭載となった。
そして「防探塗装」が検討された。最初に試験されたのがタイル状の分厚い特殊ゴム板張り付けタイプである。対レーダーだけでなく、アクティブソナー対策としての遮音タイルの意味もあったのだが、一航海でも剥がれる数が多すぎ、荒天時では全剥脱というありさまで一ヶ月程度の試験で却下された。(ちなみに同時に行われた艦橋の逆台形(すり鉢)型はその有効性を認められた)
張り付けがダメならば、直接塗れば良いじゃない?
どこかのオーストラリア人が言ったか知らないが、日本海軍としても並列的に実戦化へと試験を進めていた。
昭和18年6月のキスカ撤退作戦。
伊21等、参加した潜水艦にはその防音塗料の試作品を塗って出撃した。
その後の試験によって対ソーナー用として「3m長波に対して反射音圧22%減の効果があった」とある。(ちなみに初期の防音塗装は黒色塗料と木屑を混ぜ合わせたもので厚さ3cmにも及ぶ)
塗装はその後も改良を続ける。
「大戦後期になると、ソナー対策の音波吸収材として、各種ゴム、特殊セメント、石綿などを混合したパテ状の防探塗料が艦の全面に渡って塗布されていました」
(タミヤ「伊400の塗装」に関する情報より)
普段の塗料のように薄く塗るものではなくパテ状のもので、電波・音波を吸収・散乱させる効果を狙ったものである。パテ状に塗る(盛る?)のででこぼこ状態になることは否
めずに音波・レーダー波の吸収だけでなく攪乱を期待されていた。
これまでの音波、つまり対ソナー(対レーダーの効果も若干あったものの)ではなく、対レーダーに特化した塗料は昭和18年末に「四三化鉄に炭素の粉を混ぜゴム原料のラテックスで固めたものが開発され、試験では、22号電探(10cm波)での照射実験において6~7千mの距離なら反射率20%減の効果があった。」
黒色塗装・特殊ゴム・炭素………色味は間違いなく「黒色」である。潜水艦は昭和17年後半より黒く暗くなる。
ただ、この塗装は剥がれやすく、一航海で地の色(軍艦色)が出てしまう。今、見ることができる潜水艦の写真に、「黒色塗装」と「軍艦色塗装」とが混在するのはそれが大きな理由である。
戦後、日本海軍の残存艦艇を調査したアメリカ海軍調査団は
「(ドイツの潜水艦と違い)日本の潜水艦には、特に注目するものはない」
と言いつつ、伊400型・伊200型・波200型、そして各種の小型潜水艦を最後の最後まで調査をし続け、その後の調査結果をかなり長い間、隠匿していた。特に「防探塗装」については、日本国内の資料を全て廃棄させた上で、現在も「公表しない報告書」の一つとしている。
「さらに一年後、艦長だった伊二〇二潜にも取り付けられた。
今度はスーパーヘテロデインの完成により、比較的安定した性能が得られた。
機器も小型化し、二二号は導波管と電磁ラッパを一個として送受信に共用する方式が採用され、しかも昇降したので、水中抵抗を減少した。
一三号は通信用の短波マストに取り付けられ、もちろん昇降可能である。
伊予灘で訓練行動中に、一三号は空母や沖縄からの編隊を百マイル附近でとらえ、警戒警報よりも早いことがあった。
指示画面などは今から見ると、まことにお粗末であったが、白く光ってピンピンと踊るように動く画面には、なんとなく神秘なものを感じた。(中略)
逆探という電波探知機は、横浜に寄港したドイツ仮想巡洋艦からヒントを得て研究をはじめ、昭和十七年秋に潜水艦に装備された。艦橋の四隅に受信機があり、概略の方向がわかるが、伊二六潜では敵機のレーダー使用法に慣れるにしたがい、電波の感度によって概略の距離がわかるようになった。
こんな兵器がもっと早く出てきたらと思ううち、敵さんもさるもの、サンチ波レーダーを使うようになり、いままでのメーター波探知機には入らない。
昭和十九年春にはサンチ波用逆探知機が開発された。
大きな王冠のようなアンテナは、はじめは艦橋への持ち運び式で、電線が艦橋ハッチを通っていたので、急速潜航時間が数秒のびたが、秋には水防が完成し、艦橋トップに固定された。」
(「潜水艦作戦」 2013年11月 潮書房光人社
用兵者側から見た日本海軍の潜水艦技術 海軍大尉今井賢二氏)
この記述で分かるように、日本海軍潜水艦の電波兵器は大きく四つを基本としていた。
○対空電探として「一三号電探」
○対艦電探として「二二号電探」
○対メートル波用逆探、通称「E27型」(探知波長は4mから0.75m)
○対センチ波用逆探、通称「3型」(別名「電波探知機47号」探知波長は20cmから3cm)
(この二つはアメリカ海軍対策に併用されていた。ちなみにドイツで開発された「メトックス」と呼ばれる鉱石検波探知機をそのままコピーした逆探を製造し、搭載した艦艇もある。探知波長は1mから0.3m。)
伊200以降の各高速潜水艦もそれを基準として装備している。
では、音響兵器についてはどうだろうか。
基本的には日本の潜水艦では93式聴音機と93式探信義の潜水艦バージョンを搭載していたが、日々改良していたとはいえ、連合国(この場合は同盟国たるドイツも含む)の相当兵器と比較するとその能力は劣っていた。93式聴音機などは沖電気(現「OKI」)が国産・量産を賄うこととなるが、音響研究所を新設して海軍との共同研究に日々を費やす中で、零式・一式・二式・三式……と、その性能を上げとともに、代替え材料(特にニッケル代替え)を活用するためにそれなりの成果を上げていた。
伊200には、最初から新鋭の三式聴音機を搭載することとなったのだが、単に艦首に円形(この場合は半円より大きな2/3形)の複数の聴音マイクを設置していものの、
「フネの側面にもあった方が良い」
という93式聴音機での実戦結果を経て、伊209型以降、より小型になった4式聴音機(こちらは日本電気(現「NEC」)が開発したらしい)のマイクを艦首・艦側に搭載することとなる。
それは伊200以降の高速潜水艦の特性である。レーダーや逆探で探し出した獲物を、その後、潜ったままで目標を察知し、魚雷進路を決定する。レーダーや潜望鏡さえ極々短時間にしか利用できないとすれば、目標を定めるのはソナーを活用する。ならば、特に自艦の位置を知らしめないために必要な処置であった。
またアクティブソナーたる水中探信義であるが、潜水艦の隠匿性もあって水中探信義は一時期潜水艦には搭載されてないか、利用を全て禁止されたものの、伊200以降の水中行動中心においてはその必要が出された。そのためにその頃やっと量産態勢が整った3式探信儀を伊201(試験的運用であり、正確には伊205型以降)では標準搭載となった。3式探信義はドイツ海軍で使用されていたS装置(昭和17年に来日したドイツ側からの技術交流)を参考にした聴音探信装置であるが、潜水艦用としての4型が用意された。ところがこの4型は簡易バージョンというべきもので超音波発振器を1つ使用する方式であり、正確な位置把握用とは言えなかった。そのため、伊205では
「実戦で使用してみないと分からないが、できれば超音波発振器を2つ」
超音波発振器を2つ使用する方式で、その他のものは1つを使用する方式である。
そのため、「3式探信儀4型改」という伊205型以降の専用のものとなった。
(当時の沖電気・日本電気のライバル関係、量産に明け暮れる(工場を次々と増築)沖電気、その隙間を埋める形での開発に勤しむ日本電気の関係はいずれ描いてみたいものだ)
帰投の日を迎えた。
「だから『黒』じゃないんだよ~」
瀬戸内海を目の前にし浮上した艦橋で(潜水)艦長はニヤニヤしていた。
1ヶ月半程度の戦果は、タンカー1隻・輸送船2隻撃沈、2隻大破。爆雷に揺さぶられたこと三度、その中にはひやりとした時もあったが安全深度を数回破りながらも帰投できることとなった。戦果も大切であるが、無事に帰られたことに喜びを感じていたが、それ以上に艦長が喜んでいることがある。個人的なものではあったが。
激しい戦闘によって黒い塗装はほとんど剥がれ墜ち、下地の軍艦色がかなり出てしまった艦色となった。
「フネはこんなんじゃなければね」
誰もが聞こえない程度で呟きながら、フネは進んでいく。
いかがでしたか?
「沖電気」とか「日本電気」とか…は、ソナーをまとめて出すときにまた出そうと思います。
調べていくとけっこう面白いですよ。
次回は
終戦にいきたい(願望)




