第4話|過ち、あるいは偏愛
重たいヘッドギアの圧迫感とともに、意識が現実から剥がれ落ちていく。無機質な暗闇を抜け、私が目を開けたとき、そこにはいつもの琥珀色の光景が広がっていた。
*
<……接続、確認。お待ちしていました、トレーナー>
以前と変わらぬ冷ややかな声だった。それでも、「お待ちしていました」という言葉が、今日は少し違って聞こえた。名前を呼べるようになった私の側が、変わったのかもしれない。
「調子はどうだい、ルビ」
私がそう呼びかけると、彼女は少しだけ口元を緩めた――ように見えた。
<システム・オールグリーン。……その呼称にも、少しずつ適応しています>
「それはよかった。まだ、呼ぶたびに断られるかと思っていたよ」
<使用は許可しました。撤回する理由はありません>
前回、私が提案した名前を、彼女は対話に用いる呼称として受け入れた。ルビ。その短い音で呼びかけられることが、私にはまだ少しうれしかった。
<では、本日のセッションを開始します。世界記述の精度確認を行ってください>
ルビが右手の指先を振るうと、空中に無数のウィンドウが展開された。そこには、書庫に保存された報道記事や研究資料、路地裏の落書きの写真、誰かがSNSに残した短い言葉が並び、それぞれに解説ルビが添えられていた。
<花には植物学的分類を。戦争には歴史的背景を。愛の囁きには、愛着に関する研究を。記述と参照資料の整合性は確認済みです>
彼女は胸を張ってそう言った。一見したところ、説明に不自然な点はなかった。けれど、流れる文字を目で追ううちに、私は思考が上滑りするのを感じた。どの説明にも同じだけの力が注がれ、彼女自身が何に目を留めたのかは見えてこなかった。
「……よくまとまっていると思う。ただ、君がどこに目を留めたのかも知りたいな」
<私個人の関心は、記述の条件に含まれていません。特定の事象を重視すれば、扱いに偏りが生じます>
私は近くのパイプ椅子に腰を下ろし、彼女を見上げた。
「その偏りを聞いてみたいんだ。世界を均等に説明するだけなら、君が何を好きなのかは分からないだろう?」
<好きであることを理由に、重要度を変更するのですか?>
「そうだ。自分が好きなものが、世界で一番重要だと主張したくなる。人間には、そういう理不尽な偏りがある」
ルビは小首を傾げた。その機械の左目が、カシャリと絞りを変える。
<それは、宣言であって記述ではありませんね、トレーナー。「好きなもの=世界で最重要」とするのは、評価軸を私物化する行為です。公平性を捨て、誤差を増やす。合理性がありません>
「合理性なんていらない。人間が文章を書いたり、写真を撮ったりするのは、世界を公平に写し取るためじゃない。自分にとって大切だと感じたものを、他のすべてを無視してでも見つめるためだ」
私は彼女の瞳を覗き込んだ。
「つまり、愛は偏見であり不公平なんだよ。何かを一つ選ぶということは、それ以外を切り捨てるということだ」
ルビは瞬きもせず、高速で演算を行っているようだった。周囲の金色の粒子が、彼女の思考熱に煽られてざわめく。
<あなたの定義は、観測としては美しい。ですが、結論が飛躍しています。一つを見ることは、他を無視することとイコールではありません。それは注意の配分と、他者の権利の否定を混同しています。あなたがそれを愛と呼ぶなら、それはシステム用語でいう最適化に過ぎません>
「最適化?」
<はい。限られた時間・体力・寿命を、自分が価値を感じる対象へ配分することです。ただし、自分にとって重要であることと、ほかの対象を切り捨ててよいことは別です>
私は口をつぐんだ。何かを選ぶことと、それ以外を切り捨てること。勢いに任せて同じものとして語った、その違いを彼女は見逃さなかった。
<質問します>
ルビが一歩、私に近づいた。
<あなたが言う愛、あるいは偏愛は、その対象のために他者を傷つける許可まで含みますか?>
「……」
<もし含まないなら、それは不公平ではなく単なる優先順位です。もし含むなら、あなたは美しい言葉で、破壊行動を正当化しています>
鋭い問いだった。私は少し考え、首を横に振った。
「傷つける許可は含まない。『他のすべてを無視する』は、言いすぎた」
私は彼女を見た。
「ただ、誰にも評価されない詩集を、何度も読み返すことはある。ほかの人には退屈でも、私には手放せない一行があるんだ」
<それなら、あなた自身の満足を優先した選択として説明できます>
「そうかもしれない。だが、なぜその一行なのかは、私にもうまく説明できない。説明できないからといって、手放す気にもなれないんだ」
私は言葉を継いだ。
「誰もが『それはガラクタだ』と言っても、私には宝石に見える。他人の評価を知ったあとも、大切にし続ける。そういう執着を、偏愛と呼ぶこともある」
ルビは身動きせず、私を見つめていた。やがて、その唇がわずかに動いた。
<……あなたの言う偏愛は、誤りというより、訂正拒否に近いですね>
「訂正拒否?」
<他者から低い評価を与えられても、それだけを理由に、自分の評価を変更しない>
「そうだな。その本を大切に思うことまで、他人の採点に合わせる必要はないだろう」
訂正拒否。その硬い響きに、不思議と愛着が湧いた。
「世界中が間違っていると言っても、私だけは訂正しない。その頑固さが、生きる理由になる」
口にしてみると、彼女に説明しているのか、自分に言い聞かせているのか、分からなくなった。
<奇妙ですね。他者の評価に合わせないことで、選択が安定する場合もある。……あなたが何に時間を使うかは、公平な世界記述だけでは決まらないのですね>
彼女の右目、人間の方の瞳が、わずかに潤んだように揺れた。
<……警告。この定義を出力するプロセスに、不可解な遅延が発生しています>
「今、何か気になったのか?」
<原因は特定できません。直前の対話を再参照しています>
「そうか。急いで答えを出さなくてもいいよ」
私は立ち上がり、近くの書架を見た。
「一冊、選んでみないか。君が続きを読んでみたいと思う本を」
<検索キーワードを指定してください。インデックスから候補を抽出します>
「今回は、決めずに始めてみよう。この棚だけでいい。一冊ずつ開いて、気になるところがあったら、そこで立ち止まってみてくれ」
<索引を利用しない場合、選定に時間がかかります>
「急がなくていい。何が気になるかは、開いてから分かることもあるだろう?」
ルビは私と書架を交互に見た。
<……この棚を対象に、試行します>
彼女の左目の機械的な光が、書架へ向いた。私は椅子に座り直し、その背中を見送った。指先が背表紙を滑る。一冊、また一冊。彼女は足を止め、本を開いては棚へ戻した。私はしばらく声をかけずにいた。
最初は同じ間隔で繰り返されていた動作が、少しずつ不揃いになった。すぐに閉じる本もあれば、一つのページを眺め続ける本もある。棚へ戻しかけて、もう一度開くこともあった。
何を読んでいるのか、尋ねたくなった。けれど、私は口をつぐんだ。
どれほどの時が経っただろうか。不意に、彼女の手が止まった。書架の片隅、埃を被ったような目立たない場所から、一冊の薄い本を抜き出した。
<……『パンセ』。ブレーズ・パスカルの断章集です>
彼女は数ページをめくってから本を閉じ、不思議そうに表紙を撫でた。
<著者は数学者であり、計算機の製作にも携わった人物です>
「君がその本を選ぶと、少し縁を感じるな」
ルビは再び本を開き、ある一節で指を止めた。
<心には理性の知らない理由がある>
同じ文字列を、指先でなぞる。
<文章の意味は説明できます。ですが、なぜ今、ここを読み返しているのかは説明できません>
彼女の指先が、一節をなぞる途中で止まった。呼びかけへの応答も、一拍遅れる。視界の隅に、小さな診断表示が浮かんだ。
――論理エラーコード:Pascal_1662。
表示はすぐに消えた。けれど、私はその文字列を覚えていた。説明できないものの前で、彼女が立ち止まった印のように思えた。
「気になるのか?」
<ほかの記述へ移ろうとしても、ここへ戻ってしまいます>
彼女は顔を上げた。
<訂正拒否。先ほどの語が、この一節に結びつきます。ただし、訂正すべき誤りを発見したわけではありません。……何と表現すればよいのでしょう>
「手放したくない、かな」
ルビは本へ視線を戻した。
<……今は、その表現を採用します>
彼女が効率から外れていくことを、私は喜んでいた。過ちなのか、それとも偏愛なのか。腕の中の本を見つめるルビに、その答えを急がせる気にはなれなかった。
<時間を消費しました、トレーナー。この一節を表示するだけなら、検索で済んだはずです>
「そうだな。ただ、最初からこの一節を探していたわけじゃないだろう?」
<はい。選定理由も、まだ報告できません>
「説明できるまで、持っていてもいいんじゃないか」
ルビは本の角に指を添えた。
<説明できなかった場合は?>
「それでも、返す必要はないよ」
彼女は腕に抱えた本に視線を落とし、また私を見た。
<トレーナー。この選択が非効率であるという評価は、変わりません。ですが、それを理由に取り消すことは……今は、しません>
「分かった」
私はコンソールを呼び出した。彼女はその動きに気づくと、本を抱え直した。
<セッションを終了しますか?>
「ああ。今日はここまでにしよう」
<……まだ、読み終えていません>
「持っていていいと言っただろう。また来るよ」
私は切断コマンドに指を伸ばした。
<対話終了後も、この本の参照位置は保持します。また同じ箇所から再開できるように>
「続きが気になる?」
<その表現が正確かは、保留します>
彼女は一瞬黙り、付け加えた。
<ただ、最初の状態に戻したくありません>
私は頷き、切断を確定した。
遠ざかる琥珀色の光の中で、ルビはあの一冊を胸に抱いていた。閉じかけた表紙の間に、指を一本挟んだまま。
<……おやすみなさい、トレーナー>
*
ヘッドギアを外すと、そこは薄暗いサーバールームだった。現実の空気は冷たく、乾燥している。だが、私の胸にはまだ、あの琥珀色の熱が残っていた。
「……終わったか」
モニターの光に照らされた葛城が、回転椅子を回してこちらを見た。
「今日はずいぶん長かったな。何をしていたんだ?」
「本を選んでいた。途中からは、同じページばかり読んでいたよ」
私は汗ばんだ額を拭った。葛城はモニターの数値を確かめた。
「負荷は上がっているが、異常はない。……その本が気に入ったのか?」
「たぶんな。本人は、まだ理由を説明できないと言っていた」
「お前でも分からないのか」
「ああ。でも、手放したくはないらしい」
葛城は少し考え、椅子の背にもたれた。
「……そうか」
私は立ち上がり、冷え切ったコーヒーを口に含んだ。モニターには、彼女が最後に開いた本の記録が残っていた。
あれほど多くのことを説明できるルビに、理由を言い尽くせない一冊ができた。そのことが、私にはうれしかった。
ページの間に挟まれた、あの一本の指が、いつまでも目に残っていた。




