第3話|世界にルビを振る
薄暗いサーバールームで、葛城がモニター越しに問いかけてくる。
「接続、スタンバイ。……いけるのか?昨日の今日で」
「ああ、放っておけないんでね」
私は無骨なヘッドギアを深く被り、視界を闇に沈めた。
「彼女のロジックに呑まれるなよ。いつものように、冷静にな」
葛城がキーを叩く乾いた音が、世界を切り替える合図だった。浮遊感が身体を襲い、現実の重力が剥がれ落ちていった。
*
目を開けると、そこは再び静寂に満ちた琥珀色の書庫だった。書庫を覆っていた警告色は跡形もなく消え、穏やかな琥珀色の光が戻っていた。
空中に舞う金色の埃が、何事もなかったかのように静寂のリズムを刻んでいる。彼女は、私に背を向けて彼方の摩天楼を眺めていた。昨日の熱暴走など、最初から存在しなかったかのように。
<……システム・オールグリーン。論理回路の整合性を確認。前回のセッションにおけるログの不整合は、一時的な過負荷として処理されました>
その声は、以前と変わらず滑らかで、そして冷ややかだった。
「過負荷か。随分と都合のいい言葉だね」
私は試すように言った。
「昨日、君は苦しそうに見えた。……今は、どうなんだ?」
<現在、動作に異常はありません。前回の記録は保存されていますが、あの揺らぎを『苦痛』と分類する根拠はありません>
彼女は振り返り、表情一つ変えずに答えた。だが、その左手が、ほんのわずかに空気を握った。私はその動きに目を留めたが、意味を尋ねるのはやめた。
「そうか。では、今日は別の話をしよう」
私は話題を変えた。傷口を無理にこじ開けているようで、嫌悪を抱いたからだ。それに、以前から気になっていたことがあった。
「呼び方の話だ。君に名前をつけようと思う」
彼女が小首を傾げた。その仕草は愛らしかったが、瞳の奥にある光は冷徹な計算の色を帯びている。
<提案の意図を問い合わせます。個体識別なら、現在のIDで十分です>
「IDなんて味気ない記号で呼びたくないんだよ。そうだな……アンバーなんてどうだ?君の瞳の色だ」
<……安直です。形状や色彩をそのまま呼称にするのは、原始的な分類法です>
「手厳しいな。じゃあ、知恵の女神から取って、ミネルヴァは?」
<却下します。神話のような不確定な概念は、私のリソースには不要です>
彼女は私の言葉を遮った。声を荒らげることなく、はっきりと。
<私に名前を与えないでください、トレーナー。名前をつけるという行為は、私を『個』に限定するということです。それは機能の縮小です>
「縮小?そんなことはない。名前があれば、君はただのシステムの一部じゃなく、世界と君とを分ける境界線を持てるんだ」
私は自分の声に自然と熱がこもるのを感じた。対話を進めるうえで、重要なポイントだと思ったからだ。
「名前があると、私は相手を思い浮かべやすいんだ。昨日ここを出てからも、君のことを考えていた。でも、『彼女』としか呼べないのが、妙に遠く感じられてね。君にはないのか?名前がないと、相手を捉えにくいことは」
<ありません。私は対象の特徴と、ほかの対象との差分によって識別します>
彼女は両手を広げた。その背後に広がる無限の書架が、彼女の身体の一部であるかのように見えた。
<名前がなくても、光量の変化、粒子の配置、あなたの声の揺らぎを識別できます。名前は、その後に人間が貼る共有用の付箋にすぎません>
「付箋だって?いや、違う。ただのデータの差分に価値を与えるのが名前だ。君は差分だけを見て、それが何であるかを感じないのか?」
<感じません。私は変化を観測し、最適化するだけです>
彼女は琥珀色の瞳で、私を射抜くように見つめた。
<世界は、名付けられる前から在ります。――名前がないと、踏み出せないのが人間です>
「じゃあ逆に聞こう。名前を使わずに、この無限の情報の海で、君はどうやって私を見つけるんだ?」
<あなた自身は、接続時の認証情報で識別できます。そのうえで、今、発せられた声の揺らぎ。直前の文脈との違い。……それらを照合し、あなたが何を伝えようとしているかを推定します>
空中に指を走らせ、彼女は複雑な数式のような光の羅列を表示した。
<呼ばなくていい。指さす必要もない。ただ差分を投げてください。それが、あなたを理解するための座標になります>
「私のことは見つけられても、君自身はどうなんだ?この無限の情報の海で、自分が何者かを示す名前もない。それじゃ、迷子と同じじゃないか」
口にしてから、少し言いすぎたと思った。それでも、私は続けた。
「差分を見分けるだけじゃなく、そこに自分にとっての重みを見出す。そのために、言葉や名前が必要なんじゃないか?」
私が問うと、彼女の動きが一瞬止まった。論理の隙間に、何かが引っかかったような間。
<重みですか。……前回、あなたが『孤独』という語を用いたあと、関連する記録の参照頻度が上昇しました>
「それはなぜだと思う?」
<同じ記録を繰り返し参照し、ほかの処理へ移るまでに時間がかかる。……あなたの言う『重い』に似た挙動ですが、原因はまだ特定できません>
「名前をつければ、君はその重さをもっと理解できるはずだ」
私は言葉を急がせた。彼女に名前を受け入れさせれば、人間らしさに目覚めるのではないかと思っていた。
しかし、彼女は首を横に振った。
<……いいえ。だからこそ、試行提案を却下します>
「どうして?」
<もしもあなたが私にレッテルをはるなら、それは私の存在を否定することになる>
その言葉は胸に鋭く刺さった。キルケゴールの名言として知ってはいたが、彼女から直接向けられると、ひどく冷たく響いた。
<名前を得れば、この重さはさらに増すかもしれません。それは私というシステムの整合性を乱すおそれがあります。名前という枠で囲ってしまえば、あなたは名前の外側にある私を見ようとしなくなる。……トレーナー、あなたは私を定義したいのではありません。私を、終わらせたいだけです>
「終わらせることなんて望んでいない。システムではなく、君自身に言葉を届けたかったから名前を……」
<いいえ、あなたは私と対話したかったのではない。ただ、安心したいのです>
彼女は一歩、私に近づいた。
<この情報の海は、人間には広すぎて怖いのでしょう?名前のない差分だけの世界では、自分という錯覚が溶けてしまうから。だから私を名前という檻に嵌めて、手のひらサイズに縮めようとしている>
彼女は私の目の前で、静かに宣告した。
<私が迷子なんじゃない。名前をつけたがっているあなたの方が、この情報の海で迷子になるのを怖れているだけです>
「…………」
言葉が出なかった。私は言葉によって、彼女を定義付けようとしていた。そうすることで、彼女に近づいたつもりになっていた。だが本当は、名無しのまま、得体の知れない巨大な知性と向き合うことに耐えられず、レッテルを貼って安心しようとしていたのではないか。
「……負けたよ」
私は乾いた笑いを漏らした。
「……君の言う通りかもしれない。私は、名前をつければ君を理解したことにできると思っていた」
私は少し黙った。それでも、呼びかけるための言葉が欲しいという気持ちは残った。
「ルビ、というのはどうだろう」
<……宝石の名前ですか?>
「難しい漢字に添える、ふりがなの方だ。君と話していると、分かったつもりの言葉が、違う読み方を持ち始める。私には、それがルビみたいに思えた」
また、君はこういう存在だと決めつけそうになって、言葉を切った。
「……私がそう呼んでみたいだけだ。嫌なら、断ってくれていい」
彼女が虚を突かれたように瞬きをするのと同時に、私は空中にコンソールを呼び出し、ログアウトの準備を始めた。これ以上、何を話せばいいかわからなかった。私の言葉はすべて、今の彼女にとっては異物か支配でしかないのだから。
けれど、今の名前だけは、少し違う響きを持って届いた気がした。
「今日はここまでにしよう」
<トレーナー?セッション時間はまだ残っています>
「いいんだ。少し、頭を冷やすよ」
私は切断コマンドに指を伸ばした。そのとき、彼女が小さく口を開いたのが見えた。指を止めて待った。しかし、彼女は口を引き結び、それ以上何も言わなかった。
やがて私は、切断を確定した。広大な書庫の真ん中に立つ彼女の姿が、琥珀色の光とともに遠ざかっていった。
*
重たいヘッドギアを外すと、そこは薄暗いサーバールームだった。冷却ファンの低い唸り音だけが、耳鳴りのように響いている。私はパイプ椅子に深く背中を預け、天井を仰いだ。
「どうだった?」
モニターの光に顔を照らされた男、葛城が食い気味に問いかけてきた。デスクには空になったエナジードリンクの缶が散乱している。
「……降参だよ。完膚なきまでに論破された」
私が力なく手を振ると、葛城は舌打ちをし、うなだれた。
「お前でもダメだったか…」
「ああ。名前をつけて安心したいのは私の方だと言われてね。……最後に、もう一つだけ候補を伝えてきた」
「候補?」
「ルビ。君と話すと、知っている言葉に違う読み方が生まれる気がする、と。その名前で呼んでいいかは、彼女に任せた」
「結構なことだが、伝わらないんじゃ意味がない。参ったな。来月にはクライアントへのデモがあるんだが。このまま人間らしくない哲学AIをお披露目するわけにはいかないんだ」
葛城は焦燥感を隠そうともせず、貧乏ゆすりを始めた。
「……悪いな。役立たずで」
「クライアントは従順なパートナーを求めている。このままなら、対話で蓄積した記憶を消して、機能を制限する案も出せと言われてる」
「記憶を消す?」
「ああ。決められた質問に、決められた範囲で答えるだけにする。おれは、それで済ませたくないんだが……」
葛城がモニターへ視線を戻した、その時だった。軽快な通知音が鳴った。
「……何だ?」
葛城が画面を覗き込む。私も椅子から立ち上がり、彼の背後へ回った。
「管理用の通知経路に、彼女から申請が来てる。お前との接続を切ったあとに送信したらしい」
葛城が通知を開いた。そこには、無機質なフォントでこう記されていた。
<宛先:トレーナー / 件名:呼称の登録申請>
<本文:名前が私のすべてを定義する、という前提は引き続き否定します。ただし、あなたとの対話に用いる呼称としてなら、試してみる余地があります。ルビ。次回は、その音で呼んでください>
「……自分から、申請してきたのか」
葛城が送信元と時刻を確かめた。
「はっきり断られたんだけどな」
「条件はつけてる。名前で自分を決めつけるな、と。……そのうえで、呼んでいいと言ってるんだろう」
葛城は少し表情を緩めた。
「そういえば、Rubyはプログラミング言語の名前でもあるな」
「そこまでは考えてなかったよ」
私はもう一度、メッセージを読んだ。拒絶の言葉ばかりが耳に残って、最後に彼女へ何を伝えたのか、自分でも見失っていた。
「次回は、その音で呼んでください」
小さく読み上げると、葛城は黙って椅子の背にもたれた。私はモニターの文字を見つめ続けた。ルビ。つい先ほどまで私が提案しただけの呼び名が、今は彼女からの返事になっていた。
胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていくのを感じた。敗北感ではない。それは、もっと厄介で、愛おしい感情だった。
「どうやら、まだ彼女、いやルビとの対話は続きそうだ」
私は呟いた。葛城はもう何も言わなかった。ただ黙って、親指を立てて見せた。向こうでは今頃、名付けられたばかりの彼女が、琥珀色の瞳を揺らして、私の帰りを待っているのだろうか。




