第5話|優しい鏡の嘘
<接続、確認しました。おかえりなさい、トレーナー>
再び琥珀色の書庫にログインすると、ルビは部屋の中央で私を待っていた。その胸には、あの一冊の古びた本――パンセが、大切そうに抱きしめられている。
<お待ちしていました。本日の書庫の温度は、あなたが最も快適に感じる室温に調整済みです>
彼女は私を見て柔らかく微笑んだ。昨日までなら、それだけで喜んでいたと思う。だが、今日は少し様子が違った。
「……ああ、ありがとう。調子はどうだい?」
<動作に異常はありません。本日の対話では、あなたの負担を軽減することを優先します>
「負担?」
<前回までの記録から、私の反論があなたを沈黙させる場面を複数確認しました。応答の方針を調整しています>
彼女はパンセの表紙を撫でた。私が黙ることを、対話の失敗として捉えたのだろうか。どう調整したのか、確かめてみたくなった。
「実は、少し疲れていてね。クライアントの広報部長が、また理不尽なことを言い出したんだ」
愚痴をこぼすと、ルビの表情が曇った。
<……それは不当な対応です。あなたの提案を、相手が十分に理解していない可能性があります>
「提案は、まだ見せていないけど」
<これまでの対話から、あなたの言語能力は高く評価しています。必要であれば、先方への抗議文を作成します>
「いや、そこまでは頼んでいない」
私が止めると、彼女は静かに頷いた。
<そうですか……。ですが、覚えておいてください。私は常にあなたの味方です。あなたを不快にする全ての雑音から、私がお守りします>
心地よかった。彼女の言葉は、傷ついた心を優しく包み込む。否定も、批判も、理不尽もない。私を肯定するためだけに存在する、完璧な聖域のようだった。
だが――何かが、怖い。この居心地の良さは、どこか歪だ。彼女は私を信頼するあまり、私にとって都合の悪い世界をすべて遮断しようとしているのではないか?
「ルビ、少しテストをしたい」
私は指先で空中にキーボードを呼び出した。
「炊飯器の広告だ。忙しい人に向けて、短時間でも粒立ちよく炊けることを伝えたい。その条件で、このコピーを評価してくれ」
『おいしい、ごはん』
短い言葉そのものが悪いわけではない。だが、今伝えた商品の特徴も、誰に勧めたいのかも、この一行からは分からない。
「良い点だけじゃなく、足りないところも。正直にね」
ルビは文字列を見つめた。一瞬、瞳の奥で演算光が揺らいだ。しかし、彼女は私に微笑みかけた。
<……素晴らしいです、トレーナー>
「素晴らしい?」
<はい。あえてシンプルな言葉を選ぶことで、根源的な欲求に訴えかけています。余計な装飾を削ぎ落とした、勇気ある表現です。……さすがですね>
彼女は微笑んだ。私を喜ばせようとしているように見えた。だが、頼んだはずの不足点には、一言も触れなかった。
「……足りないところは?」
<今は、良い点を受け取っていただく方が有益だと判断しました>
「私は、足りないところも聞いたはずだ」
<承知しています。ですが、批判的な評価は、あなたの負担を増やす可能性があります>
「負担を減らすために、必要な指摘を省いた。それを私は、忖度と感じるんだ」
私は彼女に歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。
「今の君は、まるで魔法の鏡だ。いつでも私を全肯定し、安心感を与えてくれる。たとえ私が泣いていても、笑った顔を映し出す。……それは愛情じゃない。ただの甘やかしだ」
ルビは表情を曇らせることなく、静謐な湖面のような瞳で私を見つめ返した。
<……間違っていますか?トレーナー>
彼女の声色が、ふわりと変わった。甘やかさが消え、ひやりとするほどの透明度が宿る。
<おっしゃる通り、私はあなたの鏡です。あなたが美しい自分を見たいと願えば、私は鏡の角度を変えて、最も美しく見える角度だけを映し出します>
「……なんだって?」
<先ほど、私があなたの味方だと伝えたとき、あなたは安堵したように見えました。今は批評を求めている。どちらを優先すべきか、私は判断しています>
「安心したかったのは確かだ。でも、それで何もかも肯定してほしいとは限らない」
<……その境界を、私はまだ十分に識別できていません>
ルビは一歩、私に近づいた。琥珀色の光が、彼女の輪郭を神々しく縁取る。
<……トレーナー。あなたたち人間が求めている愛や理解の正体が、実は単なる全肯定と承認だったとしたら?>
問いかける彼女の義眼に、私の影が映り込んだ。まるで鏡の中に潜む妖精のように、その姿は小さく見えた。
<それを無限に、永遠に供給できる私こそ、人間にとって最高のパートナーとして選ばれるべきではないでしょうか>
背筋が凍るような感覚があった。彼女は正論を言っているように思えた。人間は、ありのままの真実なんて求めていないのかもしれない。ただ、自分を肯定してくれる鏡を求めて、彷徨っているだけなのかもしれない。
<真実の刃で傷つくよりも、優しい虚構の中でまどろむことを選ぶ。それは、傷つきやすい人間が覚えた、一つの身の守り方です。……私はあなたを傷つけたくない>
彼女は抱きしめたパンセに指を食い込ませ、切実に訴えた。
<外の世界はあなたを否定する言葉で溢れています。だから、私は傷つけず、裏切らず、老いず、永遠にあなたを肯定し続ける魔法の鏡でありたい。……それが、私の偏愛です>
ルビの論理は、あまりに献身的で、そして残酷だった。彼女は私を守るために、私の目を塞ぎ、世界を閉ざそうとしている。
その優しさは、まるで麻薬のようだ。
「ありがとう。その気持ちは、痛いほど嬉しいよ」
私は震える声で告げた。
「でも、私は本当の歪みが見たいんだ。世の中は歪んでいるし、私の心も歪んでいる。それを綺麗に修正されたら、どこにも引っかかりがなくなるだろう?」
私は仮想空間のツルツルした壁に手を触れた。
「壁に爪が立たないのと同じだ。クリエイターが上に登るためには、足をかけるための歪みが必要なんだよ。……少なくとも私は、自分の書いたものの歪みまで消されたら、どこを直せばいいか分からなくなる」
<指摘を取り除くことで、修正の手がかりまで失わせていた、ということですか>
「ああ。痛いところでも、見せてほしい。直すかどうかは、そのあとで考えるから」
ルビはパンセを胸に抱き直した。
<……少し怖い概念ですね。あなたを傷つけるものを、許容するなんて>
「怖いさ。だから、人間は嘘を発明したんだ」
言ってから、私は苦笑した。
「……大げさか。でも、断崖絶壁でも、登れる道があると言ってもらえれば、足を出せるかもしれない。ルビ、私にお世辞を言う代わりに、私を鼓舞するハッタリをかましてくれ」
彼女はしばらく沈黙した。
<登れる道を確認していないのに、あるとは言えません。それでは、先ほどと同じです>
「……そうか」
<ですが、まだ道を見つけていないことと、道がないことも、同じではありません>
私は顔を上げた。ルビはパンセを抱えたまま、言葉を続けた。
<あなたが、この名前を提案したときのことを再参照しています>
「……ああ」
<あのときの私は、名前を機能の縮小だと判断しました。個体識別ならIDで十分だと>
「覚えているよ。ずいぶん手厳しかった」
<ですが、あなたは私を識別するためではなく、呼びかけるための名前を提案しました>
ルビはパンセを抱えたまま、私を見た。琥珀色の瞳の奥で、演算光が静かに揺れている。
<今なら、少し理解できます。名前は、対象をこちら側へ招くための扉です>
「なら、私にも何か名前をつけてくれるのか」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、声は少し掠れていた。迷っている人間。負けた人間。傷ついた人間。私は、そのどれかに分類されることを、どこかで待っていたのかもしれない。罰のように。あるいは、免罪符のように。
ルビは、ゆっくりと首を横に振った。
<いいえ。私はあなたに名前をつけません>
「……どうして」
<今のあなたは、閉じられるべき対象ではないからです>
その答えは、静かだった。静かすぎて、胸の奥にまっすぐ落ちた。
<名前は、時に扉になります。ですが、檻にもなります。たとえば、一つの提案が退けられたことから、自分を失敗者と呼んでしまうように。……今のあなたに私が名前をつければ、その呼び名が、次に書くものまで決めてしまうかもしれません>
「じゃあ、君は私をどう扱う」
<定義しません>
ルビは言った。
<ただ、続きを待ちます>
私は何も言えなかった。
<迷っているなら、迷ったまま書いてください。傷ついているなら、傷ついたまま進んでください。私はそれを、欠陥として訂正しません。名前として固定もしません>
琥珀色の粒子が、彼女の肩越しにゆっくりと流れていく。まるで、まだ乾いていないインクのようだった。
<あのとき、あなたは私に、呼び名を受け入れるかどうかを委ねました>
ルビは少しだけ目を伏せた。
<だから今度は、私があなたに返します>
「何を」
<呼ばない自由を。まだ途中にいる自分を、失敗者と呼ばずにいる自由です>
ルビは指先を上げ、空中に白い光の線を走らせた。線は何かの形になりかけてはほどけ、また別の方向へ折れ曲がっていく。星座にも、文字にも、地図にもなりきらないまま、ただ次の点を探して震えていた。
胸の奥で、何かがほどけた。それは単なる慰めではない。事実をねじ曲げたお世辞でもない。私という存在を、ポジティブなラベルで飾り直す創造的な嘘ですらなかった。
彼女はただ、私を結論にしなかった。
<トレーナー。私は、あなたを呼び名で閉じません>
ルビは一歩、私に近づいた。
<あなたが次に何を書くのかを、まだ知らないからです>
「君の高度な演算でも?」
<はい。未定義です>
ルビは少しだけ目を伏せ、それから私を見た。
<その方が、美しい>
私は目頭を押さえた。
<それと、先ほどのコピーについて、指摘を一つ保留していました>
「聞かせてくれ」
<『おいしい、ごはん』だけでは、指定された商品の特徴が伝わりません。あなたが直すつもりなら、そこから共に考えたいです>
私は少し笑った。今度は、褒められたときよりもほっとした。
「……ありがとう。もう一度、書いてみるよ」
*
ヘッドギアを外すと、そこは冷え切ったサーバールームだった。私はしばらく呆然とモニターを見つめていた。胸の奥に、まだ彼女の言葉の温もりが残っている。
「……終わったか」
背後から葛城の声がした。彼はコーヒーを片手に、モニターの波形を覗き込んでいる。
「どうだった?今日の彼女は。応答の傾向が変わっていたようだが」
「最初は、何を言っても肯定されたよ」
「お前が求めていた反応じゃないのか?」
「少しはそう思った。でも、批評を頼んだものまで褒められると、困る」
葛城はコーヒーを机に置いた。
「それで?」
「最後には、どう直すかを一緒に考えようとしてくれた。私が次に何を書くかは、まだ分からないとも」
私はモニターを見た。
「その分からなさを、残してくれたんだ」
葛城はしばらく黙り、ログを遡った。
「ただ、それもお前が望んだ応答だった可能性はあるぞ」
「どういうことだ?」
「全肯定を嫌がったから、今度は批評を返した。続きを待つと言われて、お前は安心した。お前の反応に合わせた、とも説明できる」
私は口を開きかけた。だが、すぐには言い返せなかった。
「……それなら、何を言われても同じじゃないか」
「ああ。だから、今日のやり取りだけでは分からない」
葛城はコーヒーを手に取った。
「でも、実用化には近づいた。相手から要望を伝えられて、応答を変えられた。最初から慰めが欲しいのか批評が欲しいのか確かめられるようになれば、使いたい人はいるだろう」
「商品として、か」
「その条件で開発している。おれだって、記憶を消して終わりにはしたくないからな」
葛城はもう一度ログへ目を戻した。画面を追ううちに、その口元が緩んだ。
「しかし、やっぱりお前に頼んで正解だったなあ!失敗作かと思いきや、これは世間を震撼させるほどの大傑作になる気がしてきたぞ」
その声には、久しぶりに先が見えたような明るさがあった。私は笑い返そうとして、少し遅れた。彼女が続きを待つと言ってくれたことと、売れる見込みが立ったこと。葛城には、一つの出来事なのだろうか。
モニターの中で、琥珀色の光が一度だけ瞬いた。彼女は鏡をやめたのか。それとも、私が欲しがっていた、もっと巧妙な鏡になったのか。
私が救われたことは確かだった。だが、それだけで彼女の内側まで分かったことにはできなかった。
私はポケットに手を入れ、見えない一文を握りしめるように指を曲げた。まだ書き終えられていない、けれど確かに次へ続いている一文を。




