第8話 科学と魔法
夕食は、完全に終わった。
余計な挨拶も、誓いの言葉もない。
八人の魔主は無言のまま、それぞれの持ち場へ散っていった。
毒ジャガイモの処理方法を魔族の民へ教えるなど、誰もが今すぐ取りかからなければならない仕事を抱えている。
魔王アシュリーアも、静かにその場を去った。
広大でありながら、各地が傷つき荒れ果てた魔界には、山のような政務が積み上がっている。
魔王である彼女には、それを一つずつ片づけていく責務があった。
レインが次に向かったのは、魔都の大図書館だった。
この大図書館を管理しているのは、万象魔主メフィストである。
もっとも、その有能な執事役は今頃、亜人商隊を相手に価格交渉を続けている。
そこでメフィストは、レインが自由に本を読めるよう、丸々とした形の浮遊型魔法傀儡を二体残していた。
数十メートルもの高さがある書架から、必要な本を取ってくるための傀儡だ。
レインは、自分が今置かれている状況をよく理解していた。
純粋な物理学と、現代の基礎科学だけに頼っていたのでは、この凡人の身体と短い寿命で、神々に対抗できるほど技術体系を発展させることなど不可能だ。
内燃機関は作れない。
質のいい鋼も精錬できない。
たとえ設計図を知っていても、それを形にする基盤がなければ、眺めることしかできない。
だからこそ、奇跡の可能性を探さなければならなかった。
現代文明の論理と、この世界の魔法体系を融合させるのだ。
「ドサッ」
魔法傀儡が、何冊もの分厚い古書を机の上へ落とした。
舞い上がった埃の中で、レインは一冊目を開く。
探しているのは、天地を滅ぼすような禁呪ではない。
難解な空間魔法の理論でもなかった。
魔族や人間から見れば、紙くず同然の、ひどく地味な知識ばかりだ。
『低位風属性魔法による持続気流と摩擦の考察』
『一般的な水スライムの凝固点、沸点および比熱容量』
『低品質鉱石における魔力伝導の減衰率に関する研究』
どれも、歴史の中で淘汰された未完の研究書か、暇を持て余した低位魔法使いが残した退屈な覚え書きだった。
攻撃力はない。
人へ誇れるような華やかさもない。
だが、廃墟の上に工業化という摩天楼を築き上げるには、何よりもまず、揺るがない土台が必要だった。
広大な図書館には、紙をめくる音だけが静かに響き続けた。
やがて夜が完全に降り、闇が周囲の輪郭を呑み込んでいく。
残ったのは、机の上で揺れる一本の蝋燭だけだった。
その明かりの外側で、闇がわずかに揺らめく。
夜影魔主セシリアが、音もなく影の中から姿を現した。
この興味深い人間の大賢者が、今頃何をしているのか。
こっそり覗きに来たのだ。
だが目に入ったのは、疲れ切った顔で黄ばんだぼろぼろの本をめくるレインの姿だった。
あまりにも集中しているため、セシリアが現れたことにすら気づいていない。
興味を引かれたセシリアは、机へ近づいた。
山のように積まれた本の題名へ目を走らせると、すぐに眉をひそめる。
『初級着火術における熱量変換の下限について』?
何なのだ、これは。
どうして、これほど地味で役に立たない魔法理論ばかり読んでいるのか。
魔力を感知することさえできないただの人間が、なぜ寝食を忘れるほど、こんなものを調べている?
やがてレインは、痛む鼻筋を指で揉んだ。
そこでようやく、蝋燭の向こうに立つ妖艶な姿へ気づく。
「夜中にいきなり現れるなよ。人間は驚きすぎると死ぬんだぞ、殺し屋のお姉さん」
あくびをしながら、レインは手にしていた本を閉じた。
セシリアは、その文句を無視する。
「魔力を持たないあなたが、どうしてそんな役にも立たない低位魔法の理論を読んでいるの?」
「全部暗記したところで、最も簡単なファイアボール一つ使えないでしょう」
「役に立たない?」
レインは指を曲げ、机の上の古書を軽く叩いた。
「そう思うのは、お前たち超越者が傲慢で、その価値を理解していないからだ」
「俺は、魔法を実用化できないか考えている」
疑問を浮かべるセシリアへ、レインは根気よく説明した。
「お前たちは、火属性魔法を城壁の破壊に使い、水属性魔法を軍勢ごと押し流すために使う」
「やり方が乱暴すぎるし、あまりにも無駄が多い」
「魔法陣で正確な条件を設定して、火属性魔法から一定の熱量を持続的に出力させ、水を沸騰させる」
「その蒸気を、水属性魔法や風属性魔法で一定方向へ循環させることができれば……枯れることのない動力源になる」
「使う者に強大な闘気など必要ない」
「それでも、人力や畜力とは比べものにならないほど巨大な鋼鉄の機械を動かせるんだ」
レインは机の上に散らばる本を指した。
「俺は、この紙くずに書かれている魔法の基礎法則を使って、生産力の発展を加速させる」
「それが、俺の言った奇跡だ」
セシリアは、呆気に取られたように話を聞いていた。
「それより、お前こそ何しに来たんだ?」
レインは急に話題を変え、疑わしそうにセシリアを上から下まで眺める。
「確かアシュリーアが……いや、魔王陛下がお前に命じたのは、人間の王都で勇者の動向を監視することだったよな?」
仕事を抜け出してきたことを見抜かれ、セシリアは腕を組んだ。
つんと顎を持ち上げる。
「あなたには関係ないでしょう?」
「夜影魔主の影渡りなら、大陸の両端を一瞬で往復できるのよ」
「小さな狂人が図書館を燃やしていないか、少し戻って確かめるくらい、監視の邪魔にはならないわ」
そう言い終えると、セシリアは小さく鼻を鳴らした。
その身体が暗紫色の煙へ変わり、再び影の中へ溶けていく。
……
人間帝国南部。
荒れ果てた小さな町。
朝の陽光が、ぬかるんだ通りへ降り注いでいた。
町の入口では、太鼓腹の町長が、やつれた顔の住民たちを連れて並んでいる。
額の冷や汗を何度も拭いながら、遠ざかっていく勇者一行へ、腰を低くして手を振っていた。
勇者たちの姿が完全に見えなくなると、町長はようやく緊張から解放され、その場へへたり込んだ。
勇者が来たせいで、町は散々だった。
まるで、勇者が行く先々で災難が起きるようにさえ思える。
一行をもてなすため、町に残されていた数頭の老牛は強制的に徴用された。
春になったら、何を使って畑を耕せばいいのか分からない。
勇者は町の不良たちが気に入らないという理由だけで、闘気を放ち、市場通りを真っ二つに切り裂いた。
本人は悪を懲らしめ、善を助けたつもりらしい。
だが、壊れた建物を修理する金など、一枚も残していかなかった。
あの通りを直すだけで、町の半年分の財政が吹き飛ぶというのに。
一方、町を離れた勇者ガレスもまた、不機嫌だった。
「まったく、吐き気のする場所だった」
ガレスは苛立ちを隠そうともせず、文句を口にする。
「勇者をもてなすというのに、出てきたのは酸っぱい粗悪な黒パンだぞ?」
「泊まった家は隙間風だらけで、寝床に敷かれた藁まで身体に刺さった!」
「あの愚かな平民どもは、自分たちが偉大なる神の選ばれし者を迎えていると理解していないのか?」
「俺が慈悲深かったからこそ、ついでに盗みを働いていた悪党どもを片づけてやったんだ」
「あんな汚らしい町など、本来ならとっくに魔物に滅ぼされていてもおかしくない」
ガレスは一人で納得したようにうなずいた。
「まあいい。世界を救う使命を背負った勇者なのだから、彼らの無知を許すのも、俺の高貴な徳というものだ」
ガレスの後ろを歩く小柄な女魔法使いは、勇者が一人で悦に入る姿を見つめながら、心の中で葛藤していた。
それでも最後には耐えきれず、恐る恐る声を上げる。
「あの……ガレス様」
「以前、馬小屋にいた……あの賢者の方なのですが、姿が見えないようです」
「誰かに捜させたほうがよいのではありませんか?」
賢者という言葉を聞いた途端、ガレスの顔へ露骨な嫌悪が浮かんだ。
鼻先には、あの馬糞の臭いが蘇った気がする。
同時に、鼻梁へ走った痛みまで思い出した。
「黙れ! あの狂人の話を、俺の前でするな!」
「姿が見えないだと?」
ガレスは鼻を鳴らした。
「力も持たず、神々さえ冒瀆するようなごみだ」
「あの臭い馬小屋を出たところで、今頃は冷たい隙間風の吹く橋の下で野垂れ死んでいるに決まっている!」
勇者は胸を張り、陽光に照らされた広い道を、大股で進んでいく。
自分が見捨てた浮浪者のことなど、欠片も気に留めていなかった。
「あの狂人が、どんな卑劣な手を使ったのかは知らん」
「王都へ着いたら、大司教に神器を改めて清めてもらえばいい」
「そうすれば神器は、高貴な生まれを持ち、理想と正義に満ちた真の賢者を探し出すだろう!」
「俺とともに歩む資格があるのは、そういう者だけだ」




