第4話 魔王の食卓
「ぺっ」
レインは顔をそむけ、口の中に溜まっていた血を床へ吐き出した。それから、口元についた血を手の甲で拭う。
目の前の狡猾な銀髪の魔族に、まんまと利用された。
安っぽい挑発に乗せられ、見事に手のひらの上で踊らされたのだ。
もちろん、騙されたことに腹が立たないわけではない。
それでもレインの心には、不思議と大した抵抗感はなかった。
このろくでもない異世界で、泥まみれになりながら何年も生きてきた。
その間に、嫌というほど思い知らされたことがある。
レインは人間領に、ほんのわずかな帰属意識も抱いていなかった。
高みに座る貴族も、偽善に満ちた教会も、残虐で血に飢えていると噂される魔族と、本質的には何も変わらない。
どちらも超越的な力を独占し、平民を虫けらのように扱う支配者だ。
神々が仕組んだ、勇者による魔王討伐の聖戦。
レインの目には、最初から筋書きの決まった茶番にしか映らなかった。
人間であろうと魔族であろうと、苦しんでいるのは底辺にいる者たちだ。
彼らは皆、解放されるべき存在だった。
このろくでもない世界が、自分に声を上げる機会を与えないのなら。
人間の教会が、自分の作ったものを焼き払ったのなら。
そして今、魔族が実験の場を与えてくれるというのなら――断る理由などない。
もちろん、ただの人間の身体で超越者の体系に挑み、神々の作った規則を覆そうとしても、成功する可能性が限りなく低いことくらい分かっている。
道半ばで死ぬかもしれない。
遺体すら残らないほど、徹底的に滅ぼされるかもしれない。
だがレインは、それ以上に大切なことを知っていた。
肉体はいつか滅びる。
それでも、思想は残り続ける。
この遅れた愚かな世界に、進歩という楔を一本でも打ち込むことができればいい。
たとえ自分が死んでも、考えが受け継がれるなら。
誰か一人でも、その思想を学ぶ者が現れるなら。
進歩の火種は、決して消えない。
「ふう……」
レインは迷うことなく右手を差し出し、メフィストの手を握った。
「必ず証明してみせる」
その目をまっすぐに見据え、一語一語、力強く告げる。
「万象魔主、メフィスト」
握った手から伝わる力を感じ、メフィストの瞳に隠しきれない称賛が浮かんだ。
彼もまた、力強く握り返す。
「楽しみにしていますよ。大賢者、レイン」
そう言うと、メフィストは顔を横へ向けた。
ずっと巨柱のそばで見物していたセシリアへ、いかにも得意げな視線を送る。
「ふん。くだらない男ね」
セシリアは呆れたように目を回した。
メフィストがレインを完全に言いくるめた以上、自分の役目はこれで終わりだ。
彼女の身体が、足元の影へ溶け込んでいく。
「私は人間の王都へ戻って、あの尊い勇者様を見張らなくちゃいけないの。魔王城で楽しく過ごしてね、小さな狂人さん」
軽やかな笑い声を残し、セシリアは影の中へ消えていった。
広大な宮殿に残されたのは、レインとメフィストの二人だけだ。
そこでレインは、ふと思い出したように脇の下へ手を入れた。
取り出したのは、あの治癒薬だった。
今使わずして、いつ使う。
木栓を抜き、瓶の中身を一気に飲み干す。
清涼な魔力が喉から全身へ流れ込み、顔や腹に残っていた痣がみるみる薄れていく。先ほどの殴り合いで負った痛みも、大きく和らいだ。
ようやくひと息ついたレインは、目の前の万象魔主を上から下まで眺めた。
「なあ。あんたが魔主なら、魔王は誰なんだ?」
「今からお会いしていただきます」
メフィストは乱れた襟元を整え、宮殿の奥にある扉へ向かって歩き出した。
「もっとも、魔王陛下は政務で大変お忙しい御方です。処理すべき仕事が山積みですから、一人の人間のために割ける時間は、そう多くありません」
そのあとを歩きながら、レインは疑わしそうに眉をひそめる。
「政務で忙しい? 仕事が山積み? 俺一人に割く時間もない?」
それは本当に、自分が想像していた魔王なのか。
毎日、白骨の玉座へ座り、赤ワインを飲みながらサキュバスの踊りを眺めている異世界の悪の親玉ではないのか。
話を聞く限りでは、悪徳商人に搾取され、朝から晩まで働かされる哀れな労働者にしか思えない。
メフィストはレインの疑問を無視し、宮殿の外に広がる空を一瞥した。
「ちょうど食事の時間ですね。魔王陛下も、そろそろいらっしゃるでしょう。食堂でお待ちしましょう」
食事という言葉を聞いた途端、レインの腹が大きな音を立てた。
魔王がどんな姿をしているかなど、今はどうでもいい。
まず腹を満たす。それが最優先だ。
二人は長い回廊を抜け、魔王城の食堂へ向かった。
レインは、魔王城の食堂ともなれば、長机に豪華な料理が並び、丸焼きの牛と樽いっぱいの鮮血が用意されているものだとばかり思っていた。
しかし、扉をくぐった先にあった光景は、想像とはまるで違っていた。
食堂は異様なほど広い。
だが、恐ろしいほど静まり返っている。
何列も並ぶ長い木の机は、どれも綺麗に磨かれていた。それなのに、食堂内にいる魔族は数えるほどしかいない。
彼らの多くは簡素な麻布の服をまとい、黙々と皿の中の食事を口へ運んでいた。
邪悪な本拠地らしい喧騒など、どこにもない。
レインは窓際の席を選び、腰を下ろした。
窓の外には、ひび割れた暗赤色の大地が果てしなく広がっている。空には一年中、灰のような厚い雲が漂っていた。
ほどなくして、メフィストが木製の盆を持って戻ってきた。
それをレインの前へ置く。
「どうぞ。本日の食事です」
レインが盆の上を見下ろすと、目元が引きつった。
あるのは、灰褐色の濃いスープが一杯だけ。
中には正体の分からない植物の根が数切れ浮かび、その隣には、小さくて硬そうな干し肉が添えられている。
「これだけか? 魔族の幹部が、こんなものを食ってるのか?」
レインは目を疑った。
「魔界では、肉を口にできるだけでも贅沢なのです」
メフィストは向かい側へ座り、がつがつと食べ始めたレインを静かに見つめた。
スープには、ほとんど味がついていない。
植物の根も粗く、喉へ引っかかるほど硬かった。
それでも空腹の極みにあったレインは、夢中になって口へ運んだ。
粗末な食事とは思えないほど、うまそうに食べ続ける。
そんなレインを眺めながら、メフィストは静かに語り始めた。
大賢者の前へ、魔族が置かれている過酷な現実を差し出すように。
「人間はいつも、魔族が生まれながらに強靭な肉体と膨大な魔力を持っていることを羨みます」
「ですが彼らは、その恵みには代償があることを知りません」
メフィストは窓の外に広がる暗赤色の大地を指差した。
「魔界の土壌には、あまりにも多くの魔力が含まれています。豊かという言葉では足りないほど、荒れ狂っているのです」
「普通の作物の種を蒔いても、魔力に焼かれて死ぬか、恐ろしい変異を起こし、猛毒を持つ蔓を伸ばします」
「この大地は、魔族へ比類なき戦闘力を授けました」
メフィストはわずかに間を置いた。
「その代わりに、終わることのない……飢えも与えたのです」
レインが食べ物を噛む速度が、次第に遅くなっていった。
その視線は自然と窓の外へ向かう。
魔王城の外に広がる荒れ地で、痩せ細った魔族の少女が地面に膝をついていた。
身につけている服は、ぼろぼろに破れている。
少女は砂と石に覆われた地面を、汚れた小さな手で必死に掘っていた。
不意に、何かを掘り当てたらしい。
やつれた顔に、喜びが浮かぶ。
少女は迷うことなく、土まみれのそれを口へ入れようとした。
その瞬間、少し年上に見える魔族の少年が駆け寄ってきた。
少年は少女の手を叩き、持っていたものを地面へ落とした。
大声で叱りつけながら、それには毒があるのだと、必死に言い聞かせているようだった。
食べ物を失った少女は、その場へ座り込んだ。
ひび割れた唇を大きく開き、声を上げて泣き始める。
その泣き声は、あまりにも絶望に満ちていた。
本当の飢えを知る者にしか上げられない、悲痛な叫びだった。
少年は泣き続ける少女を見つめた。
しばらく黙り込んだあと、歩み寄って、その小さな身体を抱き上げる。
そして片脚を引きずりながら、遠くにある低い石造りの家へ向かっていった。
窓の内側で、レインはその光景を見つめ続けていた。
食べ物を運んでいた手が、空中で止まる。
つい先ほどまで腹を満たすために必死で噛んでいた植物の根が、急に味のないものへ変わった。
胃が痙攣し、喉元へせり上がってくる。
吐き気がした。
それでもレインは歯を食いしばり、込み上げてくるものを無理やり飲み込んだ。
自分に噛めと言い聞かせる。
飲み込めと命じる。
皿の中の食べ物を、一つ残らず腹へ収める。
食べ物を無駄にすることこそ、最大の罪だからだ。
レインが顔を伏せ、必死に食事を続けていると、そのすぐそばから、柔らかく幼い声が響いた。
だが、その声音には逆らうことを許さない威厳が宿っている。
「食べ物を粗末にしてはいけませんよ、大賢者」
レインが顔を上げた。
机の横に立っていたのは、背丈がレインの胸元に届く程度の、白髪の少女だった。
何度も目立たないように繕われた、大きな黒い長衣をまとっている。
頭には一対の黒い螺旋状の角が生えていた。
その手には、レインとまったく同じ木製の盆がある。
中に載っているのも、同じ味気ないスープと干し肉だった。
万象魔主メフィストが立ち上がる。
右手を胸へ当て、深く頭を垂れた。
「魔王陛下に、謹んでご挨拶申し上げます」
「……は?」




