第3話 採用します
レインが再び目を覚ましたとき、後頭部にはまだ鈍い痛みが残っていた。
どうにか身を起こし、周囲を見回す。
そこは、呆れるほど巨大な宮殿だった。
天井は遥か高く、十人がかりでようやく抱えられそうな黒い巨柱が何本も立ち並び、広大な空間を支えている。
だが妙なことに、それほど壮大な宮殿でありながら、内部はあまりにも殺風景で、がらんとしていた。
山のように積まれた金銀財宝もなければ、青緑色の炎を燃やす髑髏の玉座もない。
それどころか、まともな絨毯すら一枚も敷かれていなかった。
剥き出しの冷たい石床からは、貧乏くさいほどの簡素さが漂っている。
「何だよ、この最高級の未完成物件は……」
レインは頭をさすりながら、今日はとことん運がないと心の中で悪態をついた。
何もしていないというのに、一日のうちに二度もひどい目に遭っている。
あの役立たずの『賢者の書』も、何が天命を導く神器だ。
神器ではなく、災いを呼ぶ厄介物とでも名乗ればいい。関わった者から不幸になる。
レインが顔をしかめながら胸の内で毒づいていると、視線の先に見覚えのある姿が映った。
夜影魔主セシリアが、両腕を組んで巨柱のそばに寄りかかっている。からかうような目でこちらを眺め、その口元には艶めいた笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見た途端、レインの怒りが一気に込み上げた。
すぐさま右手を掲げ、万国共通の友好的な身振りを突きつける。声を張り上げ、この女魔族の先祖代々までまとめて罵ってやろうとした、その瞬間――
「シュッ……」
何の前触れもなく、端整な顔が視界を遮った。
鼻先が触れそうなほど近い。
そこにいたのは、身体に合った上品な長衣を身につけた男だった。柔らかな銀色の長髪と、底知れない深い瞳を持っている。
宙に手を上げたまま固まるレインを見て、男は微笑んだ。
「どうやら、我らの尊き賢者殿が、ようやくお目覚めになったようですね」
突然目の前に現れた男に驚き、レインは反射的に上体をのけぞらせた。
少しして、苛立たしげに眉をひそめる。
だが直感が告げていた。
ここは間違いなく、魔族の中枢に近い場所だ。
そして、物音ひとつ立てずに目の前へ現れたこの銀髪の男も、ただ者ではない。
「誰だ、あんた」
レインは警戒しながら、男を観察した。
「魔王か?」
男は答えなかった。
むしろ笑みを深め、わずかに首を傾げる。
「さて、どうでしょう?」
その思わせぶりな態度を見て、レインは心の中で鼻を鳴らした。
こいつが魔王だろうが何だろうが関係ない。
わざわざ自分をここまで攫ってきたということは、それだけ利用価値があるということだ。
レインは唐突に、冷たい石床へ仰向けに寝転がった。
完全に開き直った態度である。
「魔王だろうが、魔物兵站部の責任者だろうが、よく聞け」
脚を組み、声を張り上げる。
「今すぐ、柔らかい寝台のある快適な客室を用意しろ。風呂には熱い湯を張れ。今夜の食事には、焼いた肉とエールを必ずつけろ!」
「一つでも欠けたら、俺はここで舌を噛んで死ぬ。この何もない宮殿を、死体で飾ってやる!」
指先についた泥をほじりながら、余裕たっぷりに付け加える。
「俺が死ねば、あの神器はすぐに次の賢者を選び直す。光だの正義だのを頭に詰め込んで、毎日お前たちを根絶やしにすると叫ぶような奴をな」
「疑うなら、試してみればいい」
その厚かましい脅しを受けても、銀髪の男は平然としていた。
セシリアはすでに、馬小屋で起きた出来事も、レインのその筋の通らないようで妙に理屈の通った言い分も、魔主会議で笑い話として共有している。
その場にいた者は皆、何を言っても動じないこの人間を、滅多にいない変わり者だと見ていた。
銀髪の男は、真剣に考え込むような仕草を見せた。
そして、床に寝転がるレインの周囲を、ゆっくり歩き始める。
「なるほど……確かに、非常に建設的で、なおかつ十分な脅威を備えた提案ですね」
男は一度うなずいた。
だが、すぐに話題を切り替える。その声には、隠しきれない好奇心がにじんでいた。
「ですが、あなたに客室を用意することよりも、私が気になっているのは別のことです」
「なぜ神器は、あなたを選んだのでしょう?」
レインは目を閉じたまま、死んだふりをして答えようとしなかった。
男は気にした様子もなく、そのまま話を続ける。
「私が調べた限り、あなたの体内には魔力がまったく存在しない。闘気も、ほんのわずかすら練り上げられていない」
「あなたは紛れもなく、何の力も持たないただの人間です」
男の足音が、広い宮殿の中へ響き渡る。
「さらに妙なのは、人間領にあるすべての魔法学院と騎士学校の記録を調べても、あなたに関する情報が一つも見つからなかったことです」
「各地の教会が開いている読み書き教室の名簿まで確認しましたが、それでも何も出てこなかった」
「まるで、ある日突然、この世界に現れたかのように」
男は足を止めた。
目を細め、床に寝転がるレインを見下ろす。
「文字すら読めない文盲。泥の中を這い回るだけの役立たず」
「それなのに……私の情報網によれば、あなたは木材や鉄片を組み合わせ、何かを作ることにひどく執着していたそうですね」
男はわずかに間を置いた。
「魔力の反応すらない、くだらない――ごみを」
ごみ。
目を閉じて死んだふりをしていたレインが、怒りに任せて両目を見開いた。
ここ数年、レインは何度となく冷たい目を向けられてきた。
この世界の力を持たないせいで、どれだけ虐げられても反撃できなかった。この世界で通用する学歴がないせいで、商会へ仕事を探しに行っても、卑しい荷運び人扱いされて追い払われた。
現代社会で高等教育を受けた人間として、神学と魔法のことしか頭にない異世界の住人たちから、文盲扱いされることが、レインは何よりも我慢ならなかった。
それでも、耐えてきた。
役立たずと見下されることも受け入れた。馬小屋で殴り倒され、馬糞まみれになることさえ受け入れた。
自分が偉大な発明家ではないことくらい、よく分かっていたからだ。レインはただ、現代文明の知識を盗み取っただけの人間にすぎない。それを利用して、この遅れた世界で何とか食いつないでいこうとしていただけだった。
だが――
これだけは。
これだけは、絶対に許せない。
あの世界で積み重ねられてきた努力を、幾世代もの人類の知恵が結晶となった機械や農具、水利設備を、その背後にある現代文明そのものを、ごみと呼ばれることだけは!
それは転生者であるレインが、魂の奥底に抱えている誇りであり、決して踏み越えさせてはならない一線だった。
「誰の何が、ごみだって言った!?」
レインは咆哮すると、床から跳ね起き、そのまま銀髪の男へ飛びかかった!
「あれはごみなんかじゃない! 生産力を高めるための道具だ! 平民を腹いっぱい食わせ、文明を前へ進めるための鍵なんだよ!!」
「魔法を弄ぶことしか知らない原始人に、何が分かる!!」
そばで様子を見ていたセシリアは、思わず目を見開いた。
泥鰌のようにつかみどころのなかった人間が、何気なく投げかけられたひと言だけで、ここまで我を失うとは思ってもみなかった。
命知らずにも飛びかかったレインを止めようと、セシリアが動きかける。
しかし、そこで予想外のことが起きた。
牙を剥くように襲いかかってくるレインを前に、銀髪の男は手を上げ、セシリアへ手出しは無用だと示した。
魔法を使うこともなければ、恐ろしい魔族の威圧を放つこともない。
代わりに、妙に庶民じみた仕草で――袖をまくり上げた。
ドゴッ!
怒りに任せて振り回したレインの拳が、男の顔面をまともに捉えた。
男の顔が横を向く。
だが次の瞬間には、鋭い右拳がレインの腹へ深く突き刺さっていた。
「ぐっ!」
レインは苦痛の声を漏らした。
それでも下がるどころか、男の襟元をつかみ、勢いよく頭突きを食らわせる!
魔法もない。
闘気もない。
華やかな技の一つすらない。
そこにあるのは、ならず者同士の路上喧嘩としか思えない、剥き出しの殴り合いだった。
さらに異様なのは、底知れない実力者に見えた銀髪の美男子が、純粋な腕力では、慢性的な飢えに苦しんできたレインとほとんど互角だったことだ。
二人は広い宮殿の中で組み合い、そのまま床を転げ回った。
拳が肉を打つ鈍い音が何度も響く。
一進一退の、泥臭い殴り合いだった。
「文明を進める鍵だと?」
男は肘でレインの首を締め上げながら、息を切らして冷笑した。
「本当に鍵だというのなら、なぜ人間の教会はお前を異端者として火刑台へ送ろうとした? 自分の身すら守れないものが、ごみでなくて何だ!」
「あいつらが馬鹿だからだ! お前たちみたいに高みに立つ超越者が、傲慢で無知だからだよ!!」
レインは目を血走らせ、必死に男の腕を引き剥がした。
身体をひねって上へ回ると、そのまま男の目元へ拳を叩き込む。
「魔法で全員を腹いっぱい食わせられるのか!? 闘気を大量生産できるのか!? お前たち馬鹿には何も分かってない!!」
「強がったところで何になる!」
男は反対にレインを床へ押さえ込み、言葉で執拗に神経を逆撫でした。
「絶対的な力の前では、お前の言うごみなど、ファイアボール一発すら防げない! お前が鍵と呼んでいるものは、弱者である自分の無能さを隠すための、ただの言い訳だ!」
「ふざけるなああああ!!」
レインは完全に激昂した。
この数年、胸の奥へ溜め込み続けてきた屈辱も、怒りも、この世界に対するやり場のない悔しさも、すべてが一気に噴き上がる。
興奮が頂点へ達したその瞬間、レインは思いもよらない力を振り絞り、のしかかっていた男を跳ね飛ばした。
その襟元をつかみ、自分の顔の前まで引き寄せる。
顔中を血に染めたレインは、目を見開いて男を睨みつけた。
そして歯を食いしばり、一語ずつ叩きつけるように吼える。
「いつか必ず……実際に形にして、結果で証明してやる!!」
「お前がごみと呼んだものを使って、お前たちみたいな思い上がった超越者も、天にいる目の見えないろくでもない神も、まとめて地面に這いつくばらせてやる!!!」
咆哮が、広大な宮殿の中で何度も反響した。
……
セシリアは、そばで完全に呆然としていた。
この御方の襟元をつかみ、これほどの暴言を浴びせる人間など、今まで一人も見たことがない。
ところが、レインに襟をつかまれていた銀髪の男は、ゆっくりと口元をつり上げた。
そこに浮かんだのは、思惑どおりに事が運んだ者の笑みだった。
「上出来です」
男はレインの手を払いのけた。
乱れた衣服にも構わず立ち上がると、床で息を切らしているレインへ、満足そうな眼差しを向けた。
「その日を、楽しみにしていますよ」
襟元を整えながら微笑み、レインへ手を差し出す。
「改めて名乗りましょう。私は万象魔主メフィスト。先ほどのやり取りは、採用試験の一環でした」
「おめでとうございます。誇りを折らなかった賢者殿。あなたを採用します」




