第2話 見つけられない
勇者の姿が街道の先へ完全に消えると、馬小屋の外に落ちていた影が、ようやく水面のように揺らめいた。
夜影魔主セシリアが、音もなく影の中から姿を現す。
彼女はもともと、ひとりの人間が泣き崩れ、世界を憎む悲劇的な光景を楽しむつもりでいた。
ところが、顔を覗かせた途端、その思惑はあっさり崩れた。
つい先ほど勇者に顔中を血まみれにされ、狂った異端者と断じられた男は、慣れた手つきで治癒薬を脇の下にあるぼろ布の中へ押し込んでいた。
薬を隠し終えると、レインは干し草を軽く叩き、楽な姿勢に座り直した。そのまま目を閉じ、二度寝を始めようとする。
眠りにつきかけたレインの頭の中は、どうすればこの薬を金に換えられるかという計算でいっぱいだった。
「こいつはかなり上物だ。少なくとも銀貨五枚にはなる……いや、駄目だ。これを持って闇市へ行ったら、片目組の屑どもにその場で刺し殺されて奪われるに決まってる」
「それなら、トム爺さんのところへ直接持っていって、黒パン十個と肉の煮込み一鍋に換えてもらうか。残りは口止め料にして……」
腹いっぱい食べる夢を見ながら、レインの呼吸は次第に穏やかになっていった。
目の前の風変わりな男を眺めながら、セシリアは腕を組み、興味深そうに馬小屋の入口へ立っていた。
一秒、また一秒と時間が過ぎていく。
眠っていたレインが、わずかに眉をひそめた。何かがおかしい。
自分の体内時計が正しければ、もう外の陽射しが尻まで届いている頃だ。
それなのに、今日はいつまで経っても身体がひんやりしたままだ。
それに……馬糞とかびた干し草と鼠の尿の臭いが年中漂っているこのぼろ馬小屋に、なぜ突然、香水の匂いが混じっている?
貧民街の底辺でもまれながら生き延びてきたレインは、すぐに異変を察した。
罠に違いない!
〇・一秒に及ぶ慎重な思考の末、レインは最も安全な作戦を即座に決定した。
死んだふりだ。
目を開けなければいい。目を覚まさなければいい。そうすれば、どんな厄介事だろうと絶対に俺を見つけられない!
レインは呼吸をゆっくりにし、いびきをかき始めた。何の価値もない浮浪者を装うつもりだった。
だが、セシリアは暗殺と潜入を極めた魔主のひとりだ。
レインの筋肉がわずかに強張ったことも、呼吸の間隔がほんの少し変わったことも、彼女の目には丸見えだった。
「ふふ……」
セシリアの口元に笑みが浮かぶ。わざとらしく咳払いをすると、大げさなほど驚いた声で言った。
「あらあら、これは大変ね。馬小屋の中に、全身血まみれの浮浪者が倒れているじゃない」
「こんなに汚れていたら、そばにいる可哀想な馬たちへ病気をうつしてしまうかもしれないわ。いけないわね。通りすがりの親切な者として、急いで馬小屋の主人を呼んでこなくちゃ……」
その言葉を聞いた瞬間、干し草の上に横たわっていたレインの胸がぎくりと跳ねた。
もし豚のように太った馬小屋の主人に、ここでこっそり寝ていたことがばれたら――
ひどく殴られるだけでは済まない。今夜は町外れにある、風が吹き込む冷たい石橋の下で眠る羽目になる!
こんな忌々しい秋に橋の下で寝たら、本当に死んでしまう!
「待て待て待て! 話し合おう! 俺は病気なんか持ってない!」
レインは勢いよく跳ね起き、両手を頭の上へ掲げた。
目も完全には開いていないうちから、交渉を始めるつもりでいた。
しかし、目の前にいたのは余計な世話を焼く町の住人などではなかった。
身体にぴったりと張りつく革鎧をまとい、思わず目を奪われるほど豊満な肢体を持つ、毒蛇のように妖艶な美女だった。
セシリアはそんなレインの様子を眺めると、彼の言葉を遮り、単刀直入に尋ねた。
「あなたが賢者なの?」
つい先ほどまで緊張に満ちていたレインの顔が、その言葉を聞いた途端に固まった。
死んだ魚のような目を向けると、ばさりと音を立てて、再びまっすぐ干し草の山へ倒れ込む。
ついでに干し草をひとつかみ引き寄せ、自分の顔へかぶせた。
干し草の山の下から、くぐもったレインの声が聞こえてきた。
「人違いだ。賢者ならさっき右へ曲がって出ていった。この下で寝てるのは、死ぬのを待ってるだけの役立たずさ」
セシリアは思わず笑みをこぼした。
「人違いかどうかは、私が決めることよ」
一歩前へ踏み出す。
革靴が干し草を踏みしめ、小さな音を立てた。
「自己紹介くらいはしておきましょうか。私は魔王陛下に仕える魔主のひとり、夜影のセシリア。ちなみに、一番得意なのは暗殺よ」
空気がゆっくりと冷え込んでいく。
普通の人間なら、魔主という名を聞いた瞬間に腰を抜かしていただろう。
だがレインは顔にかぶせていた干し草をどけると、目の前の妖艶な魔族を静かに見つめた。
「へえ、暗殺者のお姉さんか。で?」
肩をすくめ、ひとつあくびをする。
「俺を殺しに来たのか?」
レインは気だるそうに両手を広げた。
「知ってると思うが、『賢者の書』はまだ完全には俺と契約を結んでない」
「ここで俺を殺したら、神器はすぐ次の宿主を探し始める。魔族を心の底から憎んでて、愛と正義に燃えてるような熱血馬鹿を、世界中から連れてくるだけだ」
耳をほじりながら、自分の鼻先を指差す。
「でも今はどうだ? 神器が選んだのは、戦う力もなく、魔王軍と敵対する気もさらさらない浮浪者だ」
「俺を殺すってことは、勇者に新しい仲間を補充してやるようなもんだ。逆に俺を生かしておけば、勇者は賢者って切り札を永遠に失ったままになる」
「どう考えても、何の脅威にもならない賢者を殺すなんて悪手だろ。魔王軍の幹部って、その程度の損得勘定もできないのか?」
その言葉を聞き、セシリアは黙って考え込んだ。
……完璧だ。
厭世的な狂人だと思っていた男の中に、これほど冷静で合理的な思考が隠れていたとは。
神器は間違っていない。
この男は、間違いなく得難い人材だ。
「確かに、その通りね」
セシリアは微笑みを深くした。
「あなたを殺すのは、どうやら損な取引みたい」
ゆっくりと身をかがめる。
その動きに合わせ、しなやかな身体の曲線が艶やかに浮かび上がった。
「勇者についていく気がないのなら、いっそ魔王軍へ来ない?」
囁くような声が甘く響く。
「頷いてくれるだけでいいわ。望むだけの富を与える。魔族の貴族として、万人の上に立つ地位も約束する」
「財産も、権力も、それにサキュバスたちの奉仕だって……あなたが望むものなら、魔王城は何でも用意できるわ」
突然始まった甘い勧誘にも、レインはまったく動じなかった。
「やめとけって」
あっさりと言い返す。
「無尽蔵の財産? 力の裏付けがない金なんて、紙くずと変わらない」
「万人の上に立つ権力? そんなもん、毎日終わらない仕事と責任を押しつけられるだけだろ」
「それにサキュバス?」
レインは自分の痩せ細った身体を指差した。
「この身体で近づいたら、三日もしないうちに干からびて死ぬぞ」
「だからお断りだ。俺はここで寝てるのが一番いい」
セシリアが差し出した魅力的な条件は、一つ残らず切り返されてしまった。
まるで暖簾に腕押し。
どんな言葉もまったく効かない。
それなのに、その飄々とした態度が、セシリアにはますます面白く思えてならなかった。
最近の魔王陛下は、筋肉でものを考えることしかできない魔族の将軍たちに頭を悩ませている。
そんな連中の中へ、この変わり者の人間を放り込んだら――
きっと、とびきり面白いことになる。
そう思った瞬間には、もう決心していた。
セシリアは何も言わず、ゆっくりとレインへ歩み寄る。
「おいおい、何だ?」
レインは最初こそ気にも留めず、口を動かし続けていた。
「図星を突かれて腹でも立ったのか? 言い返せなくなったから力づく――」
そこまで言いかけて、ようやく気づく。
セシリアの目が、さっきまでとはまるで違っていた。
……なんか、嫌な予感しかしないんだけど!?
「ちょ、ちょっと待て! その目は危ない! 来るな! 警告しとくけど、俺は何日も風呂に入って――うおっ!?」
最後まで言い切る前に、セシリアの拳が視界いっぱいに迫っていた。
ドゴッ!
避ける暇などない。
レインは目の前が真っ暗になり、顔面へ鈍い激痛が走る。
次の瞬間には白目をむき、そのまま意識を失っていた。
「ふふっ。本当に、おしゃべりで可愛い子ね」
満足そうに手を払うと、セシリアは気絶したレインを軽々と肩へ担ぎ上げる。
彼女の足元から、黒い影が静かに広がっていく。
立ち去る前、セシリアは馬小屋をひと目だけ振り返った。
この誘拐劇を最初から最後まで見届けた目撃者は、一頭の老馬だけだ。
老馬は干し草をもぐもぐと噛みながら、連れ去られていく人間をどうでもよさそうに眺める。
そして、小さく鼻を鳴らした。
「ブルル……」
影は静かに溶けるように消えていく。
こうして、魔主と賢者の姿は、荒れ果てた馬小屋から跡形もなく消え去った。




