第1話 狂人
「この男が……本当に神器の捜し求めていた賢者なのか?」
帝国南部にある、寂れた小さな町。その酸っぱい悪臭が漂う馬小屋の前で――
勇者ガレスは足を止め、眉をひそめながら、神々しい光を放つ手元の『賢者の書』を見つめていた。天命を示すと伝えられるその神器は、頑ななまでに馬小屋の隅を光で指し示している。
しかし、馬小屋の中にあるのは、かびた干し草の山だけだった。その上には、泥と馬糞にまみれた浮浪者が、大の字になって寝転がっている。
勇者の疑念に答えるかのように、馬小屋の老馬が鼻を鳴らし、ひと声いなないた。
ガレスはその場でしばらく葛藤していた。持ち上げた足は、どうしても汚れた泥の上へ踏み出そうとしない。結局、彼は半歩後ろへ下がり、背後に立つローブ姿の、小柄で愛らしい女魔法使いに命じた。
「水魔法を使え。こいつを叩き起こしてみろ」
女魔法使いはびくりと身をすくませたが、すぐに素直にうなずき、杖を掲げた。
バシャッ……!
冷たい清水が何もない空間から現れ、レインの顔を直撃する。
「げほっ! くそっ、俺は馬の餌なんて盗み食いしてないぞ……!」
眠っていたレインは、勢いよく飛び起きた。気管に水が入り、無様に咳き込みながら、慌てて顔の泥水を拭う。真っ先に思い浮かんだのは、馬小屋のけちな太っちょ主人が、また追い出しに来たのだということだった。
だが、目を開けたレインは呆然とした。
馬小屋の外に立っていたのは、黄金の鎧を身にまとい、腰には宝石をあしらった剣を下げ、髪の一本一本まで陽光を浴びて輝いている男だった。
そして、その背後に隠れるようにして、怯えた目でこちらを見つめる可愛らしい女魔法使いがいる。
一瞬の戸惑いのあと、レインは冷静さを取り戻した。首を軽く回しながら、ずぶ濡れになったぼろ布の服を確かめる。
「おい。あんたらがどこのお偉い貴族様かは知らないが、人を起こすときの最低限の礼儀も教わらなかったのか?」
レインは遠慮なく非難した。
「ずいぶん失礼な真似だな」
ガレスの目尻が引きつった。高貴な身分である彼が、浮浪者ごときにこれほど無礼な口を利かれたことなど一度もない。
それでも、ガレスは胸の内に湧き上がる不快感を無理やり押し殺し、威厳に満ちた態度を作った。
「無礼な平民め。私は神の導きを受けた勇者だ」
ガレスは『賢者の書』を掲げ、高らかに告げる。
「そして貴様こそが、神器に選ばれた天命の賢者だ。立て。まずはその身の汚れを洗い落とし、私とともに魔王を討ち、この世界を救う偉大なる旅へ出るのだ!」
…………
「へえ」
レインはひと言だけ返すと、背を向けた。干し草の山から、少しでも乾いている場所を探し出し、もう一度横になろうとする。
勇者だの、魔王を倒して世界を救うだの、レインにとっては馬糞よりも胸焼けのする話だった。
転生者であるレインも、かつては目の前にいる、この全身をきらきらと輝かせた馬鹿と同じように、胸いっぱいの理想を抱いていた。
彼は文明の火をこの世界へもたらそうとした。収穫量を増やす農具を発明し、水の流れを利用した機械を設計して、貧しい平民たちの暮らしを少しでも良くしようとした。
その結果はどうだった?
彼を待っていたのは、教会による異端審問だった。
貴族と聖職者どもは、神の創造物を冒涜したという理由で、彼が心血を注いだ成果を焼き払い、財産を奪い、あげくの果てには火刑台で丸焼きにされかけた。
泥の中を転げ回りながら、どうにかこの安い命を拾ったあの日から、レインはこの世界がどれほど愚かであるかを思い知った。
今の彼にとって大事なのは、今日、黒パンを半切れでも手に入れられるかどうかだけだ。世界が滅びようがどうしようが、知ったことではない。
「私の言葉が聞こえなかったのか!?」
まるで取り合おうとしないレインを見て、ガレスの声は思わず大きくなった。
「これは女神より授けられた使命だ! 魔王の軍勢が各地を蹂躙し、人々は苦しみの中で泣き叫んでいる! 賢者である貴様が、なぜこのような場所で無為に時を過ごしていられる……!」
「はいはい、もういい!」
レインは耳が痛くなるほどの説教に耐えかねた。
ゆっくりと立ち上がり、ガレスの前まで歩いていくと、勇者の肩へ手を伸ばす。
「なあ、兄ちゃん。もう諦めろ。俺は興味が――」
パンッ!
レインが言い終えるよりも先に、ガレスはその手を乱暴に払いのけた。
レインの手が宙で止まる。
やがて腕を引き戻すと、目を細め、目の前の勇者を上から下まで眺め回した。
豪華なだけで実戦には何の役にも立たなそうな魔法鎧。傷一つない宝剣。貧民街に立っていながら、なおも高々と持ち上げられた顎。そして、骨の髄まで染みついた、下層の者に対する侮蔑と傲慢。
レインは不意に笑った。
「こんな奴でも、勇者になれるのか?」
レインは口元を歪め、ガレスの目を真っ直ぐに見据える。
「どうやら天上にいる、そのろくでもない女神とやらは、本当に見る目がないらしいな」
女魔法使いが恐怖に顔をこわばらせ、両手で口元を覆った。
そのあまりにも不敬な冒涜の言葉に、ガレスの理性は完全に切れた。
浮浪者の無作法なら、まだ耐えられる。だが、最も敬愛する女神を、異端者がその汚らわしい口で侮辱することだけは、断じて許せなかった。
「この忌まわしい異端者が!!」
ガレスはそのまま拳を振り上げ、レインの顔面を力任せに殴りつけた。
「ぐっ!」
殴られたレインはよろめきながら後退し、馬小屋の木柱に背中をぶつけた。生臭く甘い血の味が、瞬く間に口の中へ広がる。
だが、その一撃は同時に、レインが何年も胸の奥へ押し込めてきた荒々しい衝動を引きずり出した。
一度死んだ人間が、今さら痛みを恐れるか? 死を恐れるか?
「ふざけるな! お前の女神なんざ知るか!」
長い飢えで、この身体にはろくな力が残っていない。相手は闘気を身に宿した勇者だ。それでもレインは一歩も引かなかった。
血の混じった唾を吐き捨てると、狂った野犬のように飛びかかる!
目の前の浮浪者が反撃してくるなど、ガレスは夢にも思っていなかった。不意を突かれ、泥と悪臭にまみれたレインの拳が、勇者の鼻っ柱をまともに打ち抜いた。
「ぐっ!」
実際のところ、それほど痛い一撃ではなかった。だが、強烈な酸っぱい悪臭が鼻を突き抜け、ガレスの頭まで一気に駆け上がる。その端正な顔が醜く歪んだ。
怒り。
吐き気。
屈辱。
「殺してやる!!」
勇者は完全に我を失った。
神も、教えも、理性も、すべてかなぐり捨てる。レインを地面へ蹴り倒すと、そのまま何度も殴り、容赦なく蹴りつけた。
鈍い音が、馬小屋の中に何度も響き渡った。レインにはもはや反撃する力などなく、ただ急所をかばうことしかできない。
「へっ……げほっ……は、はははは……」
レインは、激昂する勇者を嘲笑っていた。滑稽な神託を、この荒唐無稽で愚かな世界そのものを、笑っていた。
「もうおやめください! ガレス様、お願いですから、これ以上は……! このままでは死んでしまいます!」
最後には、女魔法使いが泣きながら飛びつき、ガレスの腕をつかんだ。
ガレスは荒い息を吐き、胸を激しく上下させていた。ようやく動きを止めると、顔中を血に染めながら、それでも痙攣するように笑い続ける男を見下ろした。
強い嫌悪が込み上げる。
「神器が間違えたに決まっている」
ガレスは忌々しげに腕を振り払い、冷たい目を向けた。
「こいつは賢者などではない。ただの完全に狂った異端者だ。行くぞ!」
そう言い捨てると、彼は踵を返し、不快感しか覚えないその薄汚れた場所から大股で立ち去っていった。
女魔法使いはその場に残り、地面に倒れた弱々しいレインを見つめながら、唇を噛んだ。やがてローブの中から治癒薬を取り出すと、レインから少し離れた地面へそっと置く。
それから、倒れたレインに向かって深々と頭を下げた。罪悪感に満ちた顔で、小さく「ごめんなさい」と告げると、急いで勇者のあとを追っていった。
馬小屋には、再び静寂が戻った。レインは苦労しながら身体を仰向けにし、黒ずんだ天井を見上げる。ただ黙って、全身を襲う激痛を受け止めていた。
勇者、か……。
まったく、笑わせてくれる。
だがレインは知らなかった。
馬小屋の近くに落ちる影の中から、この馬鹿げた茶番を最初から最後まで見届けていた者がいたことを。
闇の中で、妖艶な肢体を持つ魔族の領主が、血だまりに倒れるレインを興味深そうに見つめていた。
「神々さえ嘲笑う狂人……。なんて完璧な芸術品なのかしら」




