第17話 篝火の祭典
アシュリーアが慌ただしく鉱坑へ向かったあとも、レインはじっとしていなかった。
そのまま大図書館へ直行する。
では、なぜ巨腹魔主バル本人に、食用に向いた魔獣について直接尋ねないのか。
理由は単純だった。
ただの人間であるレインには、あの魔主が普段どの山で食事をしているのか、まるで分からなかったからだ。
蝋燭の明かりの下。
レインは山のように積まれた本に囲まれ、羊皮紙に書いた名前を木炭筆で次々と消していた。
「炎豚……駄目だ。腹を空かせると火を吐くのか。木造の飼育場なんて、一瞬で灰になるな」
「岩甲牛……これも駄目。育つのが遅すぎる。肉が取れる頃には、何もかも手遅れだ」
「酸液兎……何だこれ、糞に強酸が含まれてるのか? 誰が掃除するんだよ」
レインは苛立たしげに頭を掻いた。
資料を調べた結果、飼育に向いていそうな低位魔獣はいくつか見つかった。
だが、どれにも必ず何かしらの欠点がある。
この異世界の生物は、人類による長い年月の家畜化を経ていない。
餌をあまり食べず、成長が早く、そのうえ肉も多い。
そんな理想的な家畜を見つけ出すのは、砂漠で針を探すようなものだった。
「やっぱり本だけ読んで考えても限界があるな。詳しいあの太った爺さんに聞くしかないか……」
いつの間にか時間は流れ、窓の外はすっかり闇に包まれていた。
窓の隙間から冷たい風が吹き込み、薄着のレインは思わず身震いする。
その足元で、影が波打った。
「真夜中まで紙くずと格闘しているなんて、大賢者は本当にお元気ですね」
甘い香りとともに、セシリアが影の中から姿を現した。
今日は人間帝国での情報収集を終え、勇者の最新動向を魔王アシュリーアへ報告するため戻ってきたところだった。
ところが魔王城中を探しても、アシュリーアの気配が見つからない。
することもなく、図書館にまだ明かりがついていることへ気づいたセシリアは、いつも奇跡を生み出す賢者の様子を見に来たのだ。
レインの背後まで歩み寄ると、その薄い衣服へ目を落とした。
セシリアは軽く手を振り、魔獣の羊毛で作られた毛布を取り出す。
それをレインの肩へかけた。
「身体には気をつけなさい、小さな狂人さん」
気怠そうに机へ寄りかかり、赤い唇をつり上げる。
「今のあなたは、魔族の未来を背負う希望なのよ。冷たい風に当たって風邪を引き、そのまま死んだりしたら、笑い話にもならないわ」
肩を包む温かさに、レインの胸にもわずかな温もりが広がった。
毛布を引き寄せ、身体へしっかり巻きつける。
「ありがとな、殺し屋のお姉さん。こんな夜中に来たってことは、何か用か?」
「大した用事はないわ。陛下が見つからなかっただけ」
セシリアは指先で机の蝋燭の炎を弄びながら、何気なく尋ねた。
「噂話でも聞く?」
「聞かせてくれ」
セシリアは口元を隠し、くすりと笑った。
「勇者様は今、ずいぶん苦労しているみたいよ」
「教会から授けられた神託に従い、次の天命の仲間を探す旅へ出たわ」
「私の情報網によれば、その仲間はエルフの少女弓使いらしいわね」
「エルフか。あの長耳どもは傲慢で、人間の王にすら顔を見せず、森へ引きこもってるって聞いたぞ」
レインは顎を撫でた。
「そのとおりよ。だから勇者の旅も、簡単には進まないでしょうね」
「エルフたちは幾重もの試練を用意していて、勇者様はここ数日、森の外縁でずいぶん苦労しているみたい」
セシリアは一度言葉を切る。
その声音に、わずかな哀れみが混じった。
「もっと可哀想なのは、勇者についている小さな魔法使い、イリスね」
「あの勇者、自分の品位を保つために、汚れ仕事も、野営の準備も、料理も、全部あの子一人へ押しつけているのよ」
「可哀想に。ここ二日ほど疲れ切って、杖を持ち上げるのもやっとらしいわ」
レインの目が一瞬だけ暗くなる。
だが、すぐに平静を取り戻した。
「旅が大変なら、それでいい」
「仲間を集めるまでに苦労して、時間を無駄にしてくれるほど、魔族が力を蓄え、畑を広げる時間が増える」
そこまで言ったところで、レインの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
「そういえば、お前の情報網は、あいつらが毎日何をしているかまで把握してるんだろ?」
「それなら、勇者がまだ十分に成長していなくて、仲間も揃っていない今のうちに……」
「お前みたいな一流の暗殺者を何人か送り込んで、殺してしまえばいいんじゃないか?」
危険は芽のうちに摘む。
それが最も基本的な考え方ではないのか。
その問いを聞き、蝋燭の炎を弄んでいたセシリアの指が止まった。
「昔の魔王たちが、それを試さなかったと思う?」
セシリアは身体を起こした。
「この数千年、魔族は勇者が弱いうちに殺そうと、何度も暗殺を試みてきたわ」
「毒殺、奇襲、魔主による命懸けの自爆まで……」
「結果は?」
「殺せなかった」
「勇者が完全に成長し、魔王を倒す力を得るまでは、女神に守られているからよ」
「致命的な攻撃が届こうとするたび、偶然落ちてきた隕石が暗殺者を直撃したり、神器が破壊不能の神聖障壁を展開したりする」
「時には空間の乱れが起きて、勇者だけが遠くへ転移させられたこともあったわ」
「それが、この世界の規則なの」
「物語が最後の決戦へ辿り着くまでは、悪役である私たちにできるのは、勇者の足を少し引っ張る程度」
「その命を終わらせることはできない」
レインは呆れたように首を振った。
「致命傷を受けないうえに、物語の都合で死ぬことすらないのか……あのろくでもない神、本当に露骨な贔屓をしやがる」
小さく悪態をつくと、その件を頭の隅へ追いやった。
「もういい。あの反則野郎のことは放っておこう」
レインは立ち上がり、衣服を整えた。
「殺し屋のお姉さん。巨腹魔主バルの領地がどこにあるか、知ってるか?」
「バル?」
セシリアは露骨に嫌そうな顔をした。
「知ってはいるけれど。こんな夜中に、あの太って醜い爺さんへ何の用?」
レインはにやりと笑った。
「魔族の未来のために決まってるだろ」
「温室で作物を育てるだけじゃ、飢えをしのげるようになるだけだ」
「あの爺さんと相談して、魔族に肉を食わせる方法を考えたい」
レインの構想を聞き、セシリアは少し驚いたように目を向けた。
魔獣の飼育については何も知らない。
それでも、その重要性は理解できる。
「分かったわ。肉のためなら仕方ないわね」
セシリアは歩み寄り、レインの腕へ自分の腕を絡めた。
「しっかり掴まって。影渡りは、あまり乗り心地がよくないから」
激しく天地が回るような感覚とともに、二人は深い闇の中へ足を踏み入れた。
……
レインの視界が再び鮮明になったとき、そこは広々とした谷間の盆地だった。
巨腹魔主バルの領地である。
足を踏み下ろした直後から、レインは他の場所とは明らかに違う空気を感じた。
魔主の領地など、深夜には陰気で恐ろしく、死んだように静まり返っているものだと思っていた。
だが予想に反し、盆地は明々と照らされ、大勢の声で賑わっている。
谷の中央では、いくつもの巨大な篝火が燃えていた。
炎が魔界の初冬の寒風を追い払っている。
数百、数千もの魔族の民が篝火を囲み、素朴ながらも熱気に満ちた祭りを開いていた。
人々の中心。
巨大な石を積み上げて作られた祭壇の上に、巨腹魔主バルがあぐらをかいて座っている。
肥えた顔には、人の良さそうな慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
まるで異世界の巨大な冬祭りの老人だ。
足元には、いくつもの大きな麻袋が積まれている。
その中には、甘みを持つ樹皮と糖分を煮詰めて作った菓子が詰まっていた。
「きちんと並べ、きちんと! 今日は全員の分があるぞ!」
バルの声が夜空へ響き渡る。
大きな手を伸ばし、列を作って祭壇へ上がってくる魔族の子供たちへ、一つずつ菓子を配っていた。
ぼろぼろの服を着た子供たちは、菓子を受け取ると、純粋で眩しい笑顔を浮かべた。
「ありがとう、バル様!」
「魔主様、ありがとうございます!」
レインは影の中に立ち、その温かな光景を静かに見つめていた。
祭壇に座るバルが、何かを感じ取った。
顔を上げ、人々の向こう側へ視線を向ける。
セシリアに連れられてきたレインを見つけた瞬間、老バルの目が輝いた。
菓子を配っていることさえ忘れ、興奮で全身の肉を揺らしながら立ち上がる。
大股でレインのもとへ歩いてきた。
「わはははは! 誰が来たかと思えば!」
「我ら魔族の奇跡、偉大なる大賢者ではないか!」
バルの豪快な笑い声が、篝火の爆ぜる音さえかき消した。
レインの前まで来ると、親しげに肩を抱き、そのまま有無を言わせず篝火の中央へ連れていく。
「バル爺、こんな夜中に、何を祝ってるんだ?」
レインはバルの脇の下から、どうにか顔を出した。
バルは周囲で笑う子供たちを指差した。
「何を祝うかだと?」
「我々が、ようやく食糧を手に入れたことに決まっておる!」
「ここ数十年で初めて、この子供たちは冬を迎える前に、腹が満たされるという感覚を知ったのだ」
バルはレインへ顔を向けた。
「すべては大賢者、あなたのおかげだ」
「今宵の篝火は――」
「あなたのために焚かれたものなのだ!」




