第16話 知識と肉
昼食を終える頃には、互いの意図を察した者同士らしい、妙に打ち解けた空気ができ上がっていた。
レインは口元を拭い、席を立つ。
「腹も満たされたことだし、よければ魔王城を案内しようか。少し歩けば、食後の運動にもなるだろう」
「ぜひ、お願いいたします」
ニックはすぐに立ち上がった。
その瞳には、隠しきれない期待が浮かんでいる。
ついに、この謎めいた仮面の男が、魔族の切り札を見せるつもりなのだ。
二人は食堂を出ると、レインの案内で奥深い回廊を進み、魔王城の大図書館へ辿り着いた。
すでに入口で待っていた万象魔主メフィストが、微笑みながら片手を上げる。
巨大な二枚の扉が、ゆっくりと左右へ開いていった。
ゴゴゴゴ……。
その先に広がっていたのは、高さ数十メートルにも及ぶ円形の書架だった。
宙に浮かぶ魔法の光球が書架の間を行き交い、数万冊にも及ぶ蔵書を照らしている。
この時代、知識――とりわけ魔法に関する知識は、極めて高価で、一部の者に独占された財産だった。
人間帝国では、欠損した低位ファイアボールの巻物一枚でさえ、闇市で高値がつく。
幾重にも連なる書架を前に、ニックは自分の父親を思い出していた。
かつて中位の風属性魔法書を手に入れるため、父は人間の子爵邸の前で、犬のように丸一日跪いた。
商隊の半年分の利益を差し出し、卑屈なほど頭を下げて、ようやく手にしたのは薄い冊子が一冊だけだった。
それなのに、この場所では、人間貴族が宝物のように扱う魔法知識が、道端の石ころのように無造作に書架へ並べられている。
レインは書架の前へ進み、埃をかぶった古書を一冊、適当に引き抜いた。
ふっ……。
表紙の埃を吹き飛ばし、そのままニックの胸元へ押しつける。
「読んでみろ」
ニックは慌てて古書を受け止めた。
『魔獣の生態大全および高位精神調教法陣の構築』
震える指で頁を開く。
そこには、大陸に生息する数百種もの魔獣について、生態、弱点、餌まで詳細に記されていた。
さらに後半には、完全な形の魔獣調教法陣まで、図解つきで収録されている。
「そ、そんな……あり得ない……」
幼い頃から商隊で育った狐人だからこそ、この本が持つ価値を誰よりも理解できた。
荒野を進む商隊にとって、最大の損失と危険は盗賊ではない。
いつ、どこから現れるか分からない魔獣の襲撃だった。
もし商隊が調教法陣を手に入れれば、輸送時の安全問題を根本から解決できる。
それだけではない。
風走獣を馴らして荷車を引かせれば、輸送効率を十倍以上に高められるかもしれない。
これは、金の卵を産み続ける鉱山そのものだった。
「閣下、この本を――」
顔を真っ赤にしたニックが、思わず譲ってほしいと口にしかける。
「しっ」
レインは人差し指を立て、仮面の口元へ当てた。
「そう興奮するな、ニック殿」
入口に立つメフィストを指差す。
「残念だが、俺はこの図書館の主じゃない」
「この本に書かれた知識がどれほど魅力的でも、借りていけるかどうかは、今後あなたが万象魔主を満足させるだけの誠意を示せるかにかかっている」
ニックは、そこでようやく意味を悟った。
手の中の古書を見つめる。
瞳には迷いと欲望が交錯し、最後には決意へ変わった。
名残惜しそうに本を閉じると、深く頭を下げ、元の場所へ丁寧に戻す。
本を返したその瞬間、ニックの覚悟は完全に固まっていた。
胸に残った考えは一つだけだ。
父親は、目先しか見えない大馬鹿者だ。
たかが食糧価格三割分の利益を得るために、これほどの蓄積を持つ魔族を脅そうとしたのか。
あの見識のない老いぼれは、この世界で本当に価値あるものが何なのか、まるで理解していない。
この図書館にある知識の千分の一でも手に入るなら、古い麦を売るどころか、商隊そのものを丸ごと魔族へ差し出しても惜しくはない。
大図書館を出たあと、レインは興奮冷めやらぬニックを連れ、魔王城の外にある魔力温室へ向かった。
「次は、これを見てくれ」
レインは魔力抑制陣が作る透明な穹窿を軽く叩いた。
ニックはその内側を覗き込む。
土から芽を出し、健康に育つ鮮やかな緑色の豆苗が見えた。
「こ、これは……普通の植物ですか?」
「魔界の大地で……?」
ニックは目の前の緑を凝視した。
魔界の呪いを破り、正常な植物を育てられる。
つまり、魔族が食糧危機から脱するのは、もはや時間の問題だった。
父親の命知らずな脅迫を哀れに思うと同時に、自分が正しい選択をしたことへ心底安堵する。
「農業だけじゃない」
レインは温室の外側に設置された法陣を指した。
空気中の遊離魔力を吸収し、低位魔晶へ変換し続ける捕集法陣だ。
「ニック殿。あなたは頭がいい」
「魔族の地下に、大陸最大の魔晶鉱脈があることも知っているだろう」
「こういう低位魔晶は、魔界ではごみ同然だ」
レインの瞳に、商人めいた鋭い光が浮かぶ。
「人間帝国が重宝するのは高位魔晶だ。だが、この大陸で多数を占めるのは、高位魔晶など買えない低位魔法使いと見習いたちだ」
「利益を薄くして数を売る。富裕層ではなく、大多数を狙う」
「意味は分かるな?」
餌を差し出すように、レインは続けた。
「将来、魔族は安価な低位魔晶を、大量にあなたへ供給できる」
「あなたはそれを使い、人間帝国の中低価格帯の魔法市場を独占すればいい」
「こちらの要求は一つだけだ」
ニックの目をまっすぐ見据える。
「種が欲しい」
「優良な農作物の種を、できる限り大量に」
「寒さに強い小麦、収穫量の多い米、乾燥に耐える野菜。種類は多ければ多いほどいい」
「それが、俺たちの最初の取引だ」
「まったく問題ありません!」
ニックは一瞬も迷わずうなずいた。
彼にとっては、空から利益が降ってきたような話だった。
だが商才に優れたニックの脳裏には、先ほど図書館で見た古書が浮かんでいた。
そして、大胆な発想がそのまま口から飛び出す。
「閣下。失礼を承知で申し上げます」
「温室があり、作物を育てられ、さらに魔獣を調教する魔法書までお持ちなのなら……魔獣の飼育も考えてはいかがでしょうか?」
ニックは興奮気味に身振りを交えた。
「人間帝国の騎士は、闘気を鍛えるために大量の魔獣肉を食べ、血肉を補わなければなりません」
「ですが、野生の高位魔獣は狩るのが難しく、魔獣肉は常に高値で取引されています」
「もし魔族が温室で飼料を育て、低位、あるいは中位魔獣を大規模に飼育できれば……」
「それは大陸の誰も手をつけていない、莫大な利益を生む市場になります!」
魔獣の畜産だと?
こいつ、本当に商売の天才じゃないか!
レインはこれまで、農業によって飢えを解決することしか考えていなかった。
この異世界特有の、魔獣肉という蛋白源の需要を見落としていたのだ。
ニックを見る目に、さらに満足の色が浮かぶ。
この代理人を選んだのは、間違いではなかった。
……
見学は終わった。
ニックは、レインから与えられた密約と契約条件を胸に、意気揚々と帰路へついた。
メフィストも自ら見送りに立ち、この将来の代理人へ十分な面目を与えた。
商隊の代表者が荒野の彼方へ消えると、レインは仮面を外した。
「話はまとまりましたか?」
いつの間にか、アシュリーアが隣に立っていた。
王衣は脱ぎ、動きやすそうな身体に合った作業着へ着替えている。
袖は高くまくり上げ、銀髪も簡単な一つ結びにまとめられていた。
「全部、予定どおりだ」
「魚は餌へ食いついた。あとは自分から釣り糸を首へ巻きつけるのを待てばいい」
レインは自信ありげに笑った。
それから、アシュリーアの格好を上から下まで眺める。
「その格好……どこへ行くつもりだ?」
アシュリーアは頬を膨らませ、じろりとレインを睨んだ。
「重要ではありません」
魔界の王である私が、温室建設で生じた穴を埋めるために、わざわざ鉱山へ下りて鉱夫の真似をしなければならないなんて。
すべて、この腹立たしい賢者のせいです!
不機嫌なまま深淵鉱坑へ向かおうとしたところで、レインが何かを思い出した。
「待ってくれ、アシュリーア」
立ち去ろうとする彼女を呼び止める。
「行く前に、一つだけ教えてほしい」
レインは真剣な表情で尋ねた。
「魔界に、あまり餌を食わず、成長が早くて、しかも大量に繁殖する魔獣はいないか?」
「餌をあまり食べず、成長が早くて、大量に繁殖する魔獣……?」
アシュリーアは足を止めた。
眉を寄せ、しばらく真剣に考える。
「食べることに関する話でしたら……」
やがて、一つの提案を口にした。
「大賢者。巨腹魔主バルへ尋ねるのがよいでしょう」




