第15話 料理人と食材
評議の間の扉が閉まり、メフィストとニックの背中が見えなくなった。
先ほどレインがほんのわずかに視線を送っただけで、万象魔主はすぐに意図を察していた。
柔らかな笑みを浮かべて立ち上がると、魔族の歴史と文化を知ってもらいたいという名目で、ニックを魔王城の歴史回廊へ案内したのだ。
広大な評議の間には、レインとアシュリーアだけが残された。
外部の者がいなくなった途端、アシュリーアは顔を覆っていた薄布を勢いよく外した。
そしてレインへ向き直り、じっと睨みつける。
小さな頬は、不機嫌なフグのようにぷっくりと膨らんでいた。
何も言ってはいない。
だが、その瞳には大きな疑問符がいくつも浮かんでいる。
「こほん……魔王陛下、どうかお怒りをお鎮めください」
レインは少し気まずそうに、仮面の縁へ手を触れた。
「勝手に計画を変えたことは謝る。だが、あの吸血鬼どもに妥協したわけじゃない」
「ただ……もっといい考えを思いついたんだ」
「もっといい考え?」
アシュリーアは目を細めた。
「あのニックという混血の狐人が関係しているのですか?」
「そのとおりだ」
レインは冗談めいた態度を収めた。
「あの若者は頭の回転が速い。状況への対応力も非常に高い」
「それに、自分が置かれている立場への不満も隠しきれていなかった」
「いずれ必ず頭角を現す人材だ。そしていつか、強欲で目先の利益しか見ていない父親や兄たちと、商隊の実権を巡って争うことになる」
レインは机の上へ指を置き、ゆっくりと叩いた。
「どうせ将来、身内で権力争いを始めるのなら、こちらから少し早めてやればいい」
「今回の値上げを受け入れたふりをして、相手を油断させる」
「これは、あの商隊に食わせる最後の豪華な食事だ」
「裏からニックを支援し、彼の一族を内側から空にして、最後には商隊そのものを丸ごと呑み込む」
「そうすれば魔族が手に入れるのは、一時的な物資だけじゃない」
「商路も、資金も、情報網も含めて、完全にこちらの支配下に置かれた専属商隊だ」
壮大な構想を聞き終え、アシュリーアは静かに考え込んだ。
目先のわずかな損失と引き換えに、将来の商路と情報網を完全に掌握する。
どう計算しても、魔族にとっては大きな利益となる取引だった。
「あなたの長期的な考えには賛成です」
だが、アシュリーアの瞳には不安が残っていた。
「ただ……すでに聖戦は始まっています。人間帝国の情勢も、いつ変わるか分かりません」
「ニックも結局は、利益によって動く商人です」
「彼が率いる新たな商隊が、将来さらに大きな利益を求めて、魔族を裏切らないとどうして言い切れるのでしょう」
魔王の懸念を聞き、レインはただ手を伸ばした。
そして、アシュリーアの小さな手をそっと握る。
まっすぐに目を見つめ、迷いのない声で告げた。
「俺を信じろ」
手の甲へ伝わる温かさに、アシュリーアの身体がわずかに強張った。
レインの黒い瞳を見つめていると、胸の中にあった未来への不安が、不思議なほど静かに消えていく。
やがて若き魔王は、小さくうなずいた。
「分かりました」
「では、すべて……あなたにお任せします」
……
話を終えると、レインは休む間もなく魔王城の厨房へ飛び込んだ。
元手もなしに相手を取り込み、将来有望な商人を引き抜こうというのだ。
これから始まる食卓での交渉には、それ相応の切り札を用意する必要がある。
誠意を示すため、レインは遠慮なく食料庫の奥へ入り、秘蔵されていた高位魔獣の腿肉を引っ張り出した。
薄く切り分ける。
弱火で時間をかけて焼く。
残り少ない香辛料で、丁寧に味を整える。
ほどなく厨房には、食欲を激しく刺激する脂の香りが満ち始めた。
昼食の時間。
メフィストはニックを伴い、魔王城の専用食堂へやって来た。
長い食卓では、すでにレインが待っていた。
卓上には、湯気を立てる料理が並んでいる。
付け合わせは相変わらず、粗末な植物の根や茎ばかりだった。
それでも香ばしく焼き上げられた魔獣の腿肉が添えられているだけで、ひどく豪華な食事に見えた。
レインからの視線を受け、メフィストは自然な足取りで立ち止まった。
「ニック殿。申し訳ありませんが、私は急ぎ処理すべき軍務がございます」
「魔王陛下も、まだ山のように積まれた書類を抱えておられますので、昼食には同席できません」
メフィストは丁寧に一礼し、座席にいるレインを示した。
「代わりに、こちらの賢者が心を込めておもてなしいたします」
「魔主殿、お気遣いなく」
ニックはうなずき、去っていくメフィストを見送った。
実のところ、この状況はニックにとっても望むところだった。
魔力を一切感じ取れないにもかかわらず、魔王と対等の席へ座っていた謎の仮面の男。
その正体を探りたかった。
そして何より、なぜ商隊の法外な条件を、あれほど簡単に受け入れたのかを知りたかった。
ニックはレインの向かいへ腰を下ろした。
すぐには口を開かず、無言で相手の様子を観察する。
「そう固くなるな、ニック殿」
レインは親しげに卓上の料理を指した。
「食べてみてくれ。魔界特産の魔獣肉と、こちらで採れる植物を使った簡単な料理だ」
ニックはナイフとフォークを手に取る。
脂をたっぷり含んだ肉を小さく切り分け、口へ運んだ。
咀嚼した瞬間、狐のような目がわずかに見開かれる。
魔族の料理など、この荒れ果てた大地と同じく、粗野で食べにくいものだと思っていた。
だが実際には、肉の火入れが驚くほど正確だった。
さらに魔獣の脂を使い、植物の根に残る苦味をうまく和らげている。
「驚きました」
ニックはナイフとフォークを置き、率直に感想を述べた。
「使われているのは、極めて簡素な食材ばかりです」
「それでも、想像以上に味がいい」
「魔族にも、暮らしを楽しむ術を知る者がいるのですね」
「本当に惜しい話だ」
レインは首を振り、含みのあるため息を漏らした。
「この程度の食材では、どれだけ工夫しても、できることには限界がある」
「もっと質がよく、種類も豊富な食材を揃えられれば、大陸中の者を夢中にさせる料理だって作れるんだがな」
一見すれば、ただの雑談だった。
だがニックの狐耳が、ぴくりと動く。
目の奥にいくつもの考えが行き交った。
ナプキンで口元を拭い、レインの言葉へ乗るように返す。
「失礼ながら、そのお考えには同意できません」
「ほう?」
レインは両手を組み、顎の下へ添えた。
「ぜひ理由を聞かせてほしい」
ニックは仮面の下にあるレインの瞳を見据え、一語ずつ明瞭に告げた。
「どれほど優れた食材であっても、凡庸な者の手に渡れば、金を無駄にするだけのごみに変わります」
「優れた料理人は、食材そのものよりも重要です」
「商隊でも、いくつか上等な食材を持っているだけで自分を過大評価し、価値あるものを台無しにしている愚か者を、私は何人も見てきました」
レインの瞳に、はっきりと賞賛が浮かんだ。
「まったく同感だ」
笑みを浮かべ、ゆっくりとうなずく。
「良質な食材なら、金さえ払えば手に入ることもある」
「だが、火加減を理解し、食材の価値を最大限に引き出せる本物の料理人となれば、そう簡単には見つからない」
レインはわずかに身を乗り出した。
「ところで、ニック殿」
「各地を巡り、多くの者を見てきたあなたなら……そのような優れた料理人が、どこにいるか知っているのではないか?」
食堂に、数秒間の沈黙が落ちた。
「ええ、知っています」
ニックは視線を逸らさずに答えた。
「ただし、その料理人は少々変わり者です」
「周囲の凡庸な下働きたちから疎まれ、ずっと隅へ追いやられてきた」
「そのせいで今に至るまで……彼がどれほど優れた腕を持っているのか、誰にも知られていません」
レインは耐えきれずに笑い声を上げた。
「はははは! なるほど、誰にも知られていない、か!」
愉快そうに笑いながら、手元の杯を持ち上げ、向かいの狐人の青年へ掲げる。
「ニック殿。昔から、良い酒の香りは、どれほど奥まった場所からでも人を呼び寄せると言う」
「本当に力を持つ者なら、いつか必ず見つけ出される」
レインはニックの皿に乗った魔獣の腿肉を指した。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ」
「せっかくの食糧を無駄にするなよ」
ニックはわずかに目を見開いた。
やがて、常に商人としての体裁と上流階級らしい振る舞いを守ってきた狐人の青年は、すべての取り繕いを捨てた。
大きく口を開け、皿の肉へ食らいつく。
次から次へと頬張り、夢中になって食べ続けた。
二十年以上にわたって受けてきた侮辱も、冷たい視線も、抑え込んできた悔しさも。
すべてを、この肉と一緒に腹の底へ呑み込もうとしているかのようだった。
口元を脂まみれにしながら食べ続けるニックを見つめる。
昼食が終わりに近づいた頃、レインは再びゆったりと問いかけた。
「では、仮の話だが……」
「魔王陛下が、その優れた料理人を直接雇い、魔界専属の宮廷料理人に迎えたいと望まれたなら」
「彼は、承諾するだろうか?」
ニックは口の中の肉を飲み込んだ。
ナプキンを掴み、乱雑に口元を拭う。
「もちろん、承諾するでしょう」
「魔王陛下の料理人となり、魔族へこの上なく豊かな宴を捧げられるのであれば――」
「それは、その料理人にとって生涯最高の栄誉となります」
言葉が途切れた。
二人の狐は、互いの目を見つめ合う。
次の瞬間。
魔王城の食堂に、息の合った、そしていかにも悪巧みを企んでいる者たちらしい、楽しげな笑い声が響き渡った。




