第14話 いい商隊
早朝。
魔王城は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
コンコンコン。
静かな廊下に、扉を叩く音が響く。
ちょうど身支度を終えたレインが扉を開けると、外に立っていた人物を見て、思わず目を瞬かせた。
そこにいたのは、アシュリーアだった。
今日はいつもより格式のある、黒い王衣を身にまとっている。
頭部の螺旋状の角も曇り一つなく磨き上げられていたが、目元にはまだわずかに眠気が残っていた。
「おはようございます、大賢者」
アシュリーアはレインを見上げる。
「朝食をご一緒しようと思い、お迎えに参りました。それから……間もなく亜人商隊の代表者が到着します」
そう言って、背後から黒い仮面を取り出し、レインの前へ差し出した。
「これは?」
レインは仮面を受け取った。
金属でも木でもない、不思議な手触りをしている。
見た目に反して、驚くほど軽かった。
二人は並んで食堂へ向かう。
廊下を歩きながら、アシュリーアが説明した。
「大賢者が人間であることを隠すための仮面です」
「今や、あなたは魔族にとって最も重要な存在であり、私たちの希望でもあります。万が一のことがあってはなりません」
一度言葉を区切り、アシュリーアはさらに続けた。
「亜人商隊を構成しているのは、金のためなら何でもする無法者と悪徳商人たちです」
「魔力を持たない人間が魔族の知恵袋となり、さらには自分たちの利益まで断とうとしていると知られれば……どのような卑劣な暗殺を仕掛けてくるか分かりません」
レインは顎を撫で、納得したようにうなずいた。
「確かにな。他人の稼ぎ口を潰すのは、そいつの親を殺すようなものだ。追い詰められた悪徳商人なら、何をしてもおかしくない」
今のレインの頭には、現代科学と商戦の知識が詰まっている。
だが肉体そのものは、戦う力など持たないただの人間だ。
道を歩いている最中に、刺客から首を掻き切られでもしたら、あまりにも割に合わない。
仮面で素性を隠すのは、妥当な自衛策だった。
……
簡単に朝食を済ませた二人は、早めに評議の間へ入り、代表者の到着を待った。
室内では、アシュリーアが玉座へ腰を下ろしていた。
目の前の机には、早朝に届いたばかりの書類が何通か積まれている。
彼女は真剣な表情で内容を確認していた。
ただしその視線は、時折書類の端からそっと覗き、左手側に座るレインへ向けられていた。
レインはすでに仮面を着けている。
仮面は顔の上半分を覆い、輪郭のはっきりした顎と黒い瞳だけが露出していた。
普段の気怠げな雰囲気は鳴りを潜めている。
仮面を着け、無言で情報書類へ目を通すレインからは、正体の掴めない神秘的な気配が漂っていた。
アシュリーアはしばらく、その姿へ見入っていた。
羊皮紙をめくる音が響き、慌てて視線を戻す。
レインは、小さな魔王が自分を盗み見ていたことなど、まるで気づいていなかった。
意識のすべては、セシリアから届いた最新の情報へ向けられている。
「面白いな……」
今回、亜人商隊から交渉役として派遣される人物は、ニックというらしい。
商隊を率いる首領の末息子。
狐人と人間の混血であり、血筋が純粋ではないことを理由に、商隊内部では冷遇されている傍流の人物だった。
商隊上層部が今回ニックを送り込んだ理由も単純だ。
魔族の怒りを受け止めるための、生贄として使うつもりなのだ。
商隊の者たちは、魔族がどれほど激怒しようと、迫る冬と聖戦を前にしては耐えるしかないと考えている。
歯を食いしばり、屈辱を飲み込んででも、最終的には法外な値上げを受け入れるしかない、と。
静寂の中で、ゆっくりと時間が流れていく。
やがて、評議の間の扉が開いた。
メフィストが落ち着いた足取りで入ってくる。
その背後には、若い亜人の男が一人ついていた。
上座に座るアシュリーアは、黒い薄布で顔を覆っていた。
薄暗がりの中、その小柄な輪郭が揺らめいて見える。
レインは顔を上げ、ニックと呼ばれる青年を観察した。
目立つ狐の耳。
ふさふさとした狐の尾。
上質な生地を使いながらも、華美に過ぎない服を身につけ、身だしなみも隙なく整えている。
ただし、その顔には――どうにでもなれ、と言わんばかりの投げやりな表情が浮かんでいた。
どうやら、この冷遇された末息子は、自分が捨て駒として送り込まれたことを十分に理解しているらしい。
怒り狂った魔族に、その場で八つ裂きにされる覚悟すら決めているようだった。
メフィストはアシュリーアの右側へ着席する。
ニックは一人だけ、長机の最も遠い席へ座らされた。
交渉が始まった。
「尊き魔王陛下に、ご挨拶申し上げます」
ニックは胸元へ手を当て、形だけの礼をした。
その後は暗記した文章を読み上げるように、無表情のまま商隊側の値上げ要求を述べていく。
声にも感情はない。
まるで、法外な条件の数々が自分とは何の関係もないとでも言うようだった。
傲慢な通告を聞き終え、アシュリーアの表情が面紗の向こうで冷え込んだ。
昨日までであれば、魔族の民を冬から守るため、怒りを抑えて値下げ交渉を続けていただろう。
だが昨夜、カイザーの日記を読み終えた。
さらに、レインが生み出した魔力温室という切り札もある。
若き魔王は今、王としての強硬な一面を隠そうともしなかった。
「受け入れられません」
アシュリーアの声は、氷のように冷たかった。
商隊の要求がいかに不合理であるかを、順序立てて鋭く指摘していく。
実際の商路における損耗。
過去の取引実績。
長年積み重ねてきた契約と信用。
一つずつ根拠を並べ、商隊の強欲さを余すところなく暴き出した。
ところが、長机の端に座るニックは、アシュリーアの糾弾をほとんど聞いていなかった。
狐の耳をわずかに動かしながら、机の向こう側に並ぶ三人をひそかに観察している。
中央で怒っているのが、魔王本人。
右側の、俺をここまで連れてきた男が万象魔主。
なら、左側にいる黒い仮面の男は何者だ?
ニックは目を細めた。
常に生死の境を渡り歩く商人として、彼には優れた魔力感知の才能がある。
魔王の身体から放たれる、深淵を思わせる恐ろしい魔力。
メフィストの内側に広がる、果ての見えない膨大な力。
そのどちらも、はっきりと感じ取れた。
だが、左側の仮面の男からだけは――魔力を一切感じられない。
完全に魔法の気配がない。
まるで、動き一つない淀んだ水のようだ。
ニックは小さく唾を飲み込んだ。
いや、あり得ない。
ただの一般人が、魔王と同じ席に着けるはずがない。
まさか……力を完全に内側へ封じ込められるほど、恐ろしい境地に達した者なのか?
魔族に、いつからこれほどの隠れた強者がいた?
「ニック殿」
メフィストが指先で机を軽く叩いた。
その音が、ニックの意識を現実へ引き戻す。
「魔王陛下は、あなたの説明をお待ちです」
ニックは我に返った。
投げやりだった表情を消し、懐から用意していた資料を取り出す。
魔王からの追及を受けても、捨て駒であるはずの青年に動揺はなかった。
「陛下のご指摘は、いささか一面的かと存じます」
ニックは資料を開き、淀みなく反論を始めた。
「今年の不作は、人間帝国全土を襲った災害です。当然、穀物の仕入れ価格も高騰しております」
「加えて聖戦が迫るにつれ、国境地帯では魔獣の活動が活発化しました」
「我々の護衛隊も、輸送の途中で何度も魔獣の襲撃を受けています。死傷者への補償金、武具の損耗費だけでも、昨年の倍以上です」
「さらに――」
ニックは次々と数字と事実を挙げていった。
最後に資料を閉じ、正面にいる三人を臆することなく見つめる。
「我々商隊にも、養わなければならない者がいます」
「今回の値上げは、高まった危険と費用に対応するための、正当な要求です」
「魔族の皆様にお受け入れいただけないのであれば、残念ながら今年度の取引は中止せざるを得ません」
一分の隙もない説明だった。
火事場泥棒も同然の行為を、やむを得ない経営判断へ見事にすり替えている。
仮面の下で、レインの目が細くなった。
本来なら、セシリアが集めた裏情報を叩きつけ、その場で商隊の代表者を徹底的に追い詰めるつもりだった。
だが今は、反論する気が少し薄れていた。
レインはニックの狐のような目を見つめる。
そこに宿っているのは、商人らしい抜け目のなさ。
そして、抑えきれない不満だった。
頭の回転が速い。
弁舌にも優れ、突然の問いにも即座に対応できる。
間違いなく、得難い人材だ。
そんな男が、商隊ではいつでも切り捨てられる身代わりとして扱われている。
不満を抱かないはずがない。
レインの中に、大胆で――さらに性質の悪い考えが浮かび上がった。
外部の商隊は、どこまでいっても他人のものだ。
それならいっそ、この商隊を骨まで丸ごと呑み込み、魔族自身の商隊へ変えてしまえばいいのではないか?
結局のところ――。
自分たちの商隊こそ、最も信用できる商隊なのだ。
アシュリーアとメフィストは、レインが切り札を叩きつける瞬間を待っていた。
ところが。
パチ、パチ、パチ。
レインは手を上げ、静かに拍手を始めた。
「素晴らしい。実に筋の通った話だ」
声には、心から感心したような笑みさえ含まれている。
「穀物の減産、魔獣による襲撃、輸送費の増大……」
「なるほど。貴商隊の値上げには、きちんとした事情がある。極めて正当な要求だ」
……
メフィストはわずかに目を細めた。
どうやら、この大賢者はまた別の策を思いついたらしい。
一方、アシュリーアは大きく目を見開いていた。
薄い面紗越しでも、その驚愕と困惑がはっきり伝わってくる。
あの者たちに交渉というものを教えるのではなかったのですか?
そう言っていましたよね?
なぜ、いきなり降伏しているのですか!?
ごすっ。
レインの笑顔が、わずかに引きつった。
机の下で、革靴を履いたアシュリーアの小さな足が、レインの脛を思い切り蹴りつけたのだ。
明らかに、物理的手段で抗議と怒りを伝えている。
長机の向こう側にいるニックも、呆然としていた。
てっきり、罵倒され、下手をすれば皮の一枚くらい剥がされるものと覚悟していた。
ところが相手は怒るどころか、彼の口から出た方便を全面的に認めてしまった。
「では……魔族の皆様には、我々の事情をご理解いただけたということでしょうか」
ニックは探るように尋ねる。
声には、隠しきれない戸惑いが混じっていた。
「つまり、値上げを受け入れると?」
「それならば、今回の交渉は……これで終了ということで?」
レインは脛に走る痛みを耐えながら、机の下へ手を伸ばした。
再び蹴り込もうとしていたアシュリーアの足首を掴む。
そのまま落ち着けと伝えるように、靴の甲を指先で二度、軽く叩いた。
アシュリーアの身体がびくりと震える。
すぐさま足を引っ込めた。
暴走しかけた小さな魔王をどうにか鎮め、レインは改めて姿勢を正した。
両手を組み、机の上へ置く。
「もちろんだ」
「すでに双方の認識が一致した以上、価格に関する交渉はこれで終了だ」
レインの声が、親しげなものへ変わった。
「とはいえ、ニック殿は遠路はるばる魔王城まで足を運んでくださった」
「このまま帰してしまうのは、魔族の客人に対する礼を欠くだろう」
「よければ今日は、こちらで簡単な食事でもどうだ?」
「我々の……円満な取引成立を祝うということで」
突然向けられた友好的な誘いに、ニックの警戒心はさらに高まった。
だが、相手はすでに法外な要求を受け入れている。
ここで断る理由も、すぐには思いつかなかった。
「魔族の皆様からのお心遣いとあれば……」
ニックはわずかに身をかがめた。
「ありがたく、お受けいたします」




