第13話 遺伝学
その夜。
魔王城の大図書館で、レインは机へ向かっていた。
木炭筆を握った手が、羊皮紙の上を目まぐるしく走る。
時折ぴたりと動きを止めては、髪を掻きむしりながら深く考え込んだ。
紙面には、父本、母本、除雄、受粉といった、この世界の人間には理解不能な言葉がびっしりと書き込まれている。
レインが考えていたのは、ある壮大な計画だった。
彼は農学を専門に学んだわけではない。
そのため思いついたのは、最も原始的な方法だった。
性質の異なる二種類の植物を交配させる。
たとえば、乾燥には強いが収穫量の少ない小麦と、収穫量は多いが乾燥に弱い小麦を交配し、受粉させる。
そして生まれた子孫の中から、乾燥に強く、なおかつ収穫量も多い優良な個体を選び出すのだ。
人間の社会で行えば、気の遠くなるほど長い時間がかかる方法だった。
運が悪ければ、何世代もの農学者が数十年を費やし、畑で失敗を重ね続けて、ようやく一つの優れた性質を安定させられるかどうかという世界である。
だが、この世界なら話は別だった。
レインの脳裏に、アシュリーアが軽く手を振っただけで、種をわずか半分ほどの時間で発芽させ、花を咲かせ、実までつけさせた光景が蘇る。
「あの白髪の金持ち娘に魔法で協力してもらえば、普通なら数十年かかる世代交代を、俺は数日で回せる!」
書き進めるほど、レインの気分は高揚していった。
アシュリーアが全面的に協力してくれるなら、わずか数年。
いや、数か月でさえ、桁違いの収穫量を持つ超高収量作物を生み出せるかもしれない。
そんな大志に胸を膨らませていた、そのとき。
背後の影が波打った。
「こんな真夜中まで紙くずと格闘しているなんて、大賢者は本当にお元気ですね」
夜影魔主セシリアが影の中から姿を現した。
同時に、真夜中の香辛料を思わせる独特な香りが漂う。
思考を遮られたレインは、不機嫌そうに目を細めた。
「余計なことはいい。情報は持ってきたか?」
「もちろんです。夜影の情報網は、決して期待を裏切りません」
セシリアは分厚い羊皮紙の書類束を机へ放り出した。
そのまま、ごく自然な動作で、レインが先ほどまで書き込んでいた交配育種計画書を手に取る。
レインは彼女を気にせず、書類束の封を解いた。
亜人商隊に関する極秘情報へ、素早く目を通していく。
記録によると、亜人商隊の立場は、実のところかなり微妙だった。
獣人、ゴブリン、人間との混血たちによって成り立つ商人組織である彼らは、自らを高貴だと誇る人間帝国でも歓迎されていない。
むしろ大貴族たちから、卑しい混血だと蔑まれることすら多かった。
それでも辺境で勢力を伸ばせたのは、双方を相手に商売をしていたからだ。
人間の領地で安く仕入れた、古く質の悪い穀物を魔界へ持ち込む。
それを魔族が安値で手放す高品質な魔晶と交換する。
さらに、その魔晶を人間の貴族へ高値で転売し、莫大な差額を稼いでいた。
「なるほどな……」
レインは指先で、軽く机を叩いた。
「こいつらが今回、急に食糧価格を三割も引き上げたのは、聖戦が間もなく始まると読んだからか」
「魔族が戦争に備えて、大量の食糧を蓄えなきゃならないと分かっている」
「だから混乱につけ込んで、最後にもう一度、魔族の動脈から思い切り血を吸うつもりなんだな」
情報の最後には、レインが思わず笑ってしまうほど皮肉な極秘事項が記されていた。
亜人商隊の首領は、今回魔族から搾り取る予定の莫大な利益と高位魔晶を使い、人間の教会へ取り入ろうとしている。
さらに将来、勇者ガレスの一行へ資金と物資を提供し、その功績と引き換えに、人間帝国の世襲男爵位を得るつもりらしい。
「見事な人の褌だな」
魔族との取引で腹を満たしながら、その魔族の足元を崩す。
最後には、魔族から搾り取った金で、魔王を殺しに来る勇者ガレスを支援する。
その目的が、人間貴族の肩書という首輪を手に入れることだとは。
「こいつらが好き勝手できるのは、魔族が自分たちの食糧なしでは生きられないと見切っているからだ」
レインは情報書類を机へ放り、椅子の背にもたれた。
「だが、運が悪かったな」
「お前らは俺に出会った」
明日、どうやって亜人商隊から一枚残らず皮を剥いでやろうか。
レインがそんなことを考えていると、隣にいたセシリアが疑問を口にした。
「異なる二種類の植物の花粉を混ぜれば、もっと優れた実ができるのですか?」
レインの記録を見つめる表情には、疑いがはっきりと浮かんでいた。
セシリアは一流の暗殺者だ。
毒物や薬草についても、極めて深い知識を持っている。
だが彼女の常識では、植物の成長を決めるのは大地と魔力の性質だった。
「大賢者の知恵を疑うつもりはありません」
「ですが、ここに書かれた交配計画など聞いたこともありません」
「植物は魔獣ではないのですよ?」
「そのように適当に組み合わせるだけで、より優れた……あなたの言葉で言う性質を得られるものなのでしょうか」
疑いに満ちた視線を向けられ、レインは椅子から立ち上がった。
現代科学をこの異世界へ広めるには、複雑な理論を、相手にも理解できる言葉へ置き換えなければならない。
「分からないなら、一番簡単な例を出してやる」
レインは人差し指を立てた。
「人間と人間の間に生まれた子供は、当然、人間だ。そうだろ?」
セシリアはうなずく。
「常識ですね」
「なら、エルフとエルフの間に生まれた子供はエルフだ。これも問題ないな?」
「もちろんです」
レインは両手を打ち合わせ、身を乗り出した。
セシリアの瞳をまっすぐ見つめる。
「では、人間とエルフの間に生まれた子供は何になる?」
セシリアは反射的に答えた。
「ハーフエルフです」
「そうだ。ハーフエルフだ!」
レインは指を鳴らした。
「ハーフエルフにはどんな特徴がある?」
「エルフの長い寿命と、魔法への高い親和性を持つ」
「同時に、人間の繁殖力と環境への適応力まで受け継いでいる!」
「これは何を意味する?」
「生まれた子供が、父親と母親、双方の優れた特徴を持っているということだ!」
「人間社会でも、エルフの社会でも、ハーフエルフは差別されているらしいが――」
レインは机を指先で叩いた。
「人間とエルフですら、より優れた特徴を持つ子孫を生み出せる」
「それなら、どうして植物にできない?」
「ハーフエルフが存在するなら、収穫量が多く乾燥にも強い小麦を作れる!」
「毒がなく、巨大に育つジャガイモだって作れる!」
レインは目の前の夜影魔主を見据えた。
「これは、聞いたこともない怪しい継ぎ接ぎなんかじゃない」
「殺し屋のお姉さん、よく覚えておけ」
「これを遺伝学というんだ」
セシリアの手から、羊皮紙が静かに滑り落ちた。
机の上へ、乾いた音を立てて落ちる。
人間とエルフが結ばれ、ハーフエルフが生まれる。
大陸で幾度となく起き、誰もが当たり前のこととして受け入れてきた現象。
それを目の前の大賢者は、世のあらゆる生命の継承を説明する、壮大な法則へ変えてみせた。
この遺伝学という知識が、本当に作物へ応用できるのなら――。
セシリアの呼吸が、わずかに速くなった。
「よし、生物の授業はここまでだ」
レインはあくびを一つ漏らす。
机の上にあった情報書類と図面をまとめて巻き、懐へ押し込んだ。
身につけた長衣を軽く払い、大股で図書館の出口へ向かう。
「今日はもう寝るぞ」
「明日は、身の程を知らない亜人商隊の連中と、じっくり話をしてやろうじゃないか」




