第11話 不甲斐ない魔王
アシュリーアは身体を起こした。
奇跡を生み出した大賢者へ目を向けたところで、ようやくレインの目元に濃い疲労が浮かんでいることに気づく。
「大賢者。ずいぶんお疲れのようです。まずは少しお休みになってください」
アシュリーアは柔らかな声でそう勧めた。
休むという言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたレインの神経が緩んだ。
興奮が引いていくと、頭の中へ錆びついた歯車を詰め込まれたような重さが襲ってくる。
考えることすら億劫になるほど、思考が鈍っていた。
「言われてみれば……確かにそうだな。今の俺、頭の中が完全にぐちゃぐちゃだ」
レインはこめかみを揉みながら、曖昧な口調で同意した。
アシュリーアはうなずくと、そのまま踵を返し、魔王城の方角へ歩き始める。
レインはその場に立ち尽くした。
「何だ? 適当に干し草でも見つけて寝ろってことか?」
首をかしげていると、後ろにいたメフィストが肘でレインの背中を小突いた。
「大賢者。何をしているのです。早くおつきになってください」
「魔王陛下が、直々に寝室までご案内くださるのですよ」
そこでようやく意味を理解し、レインは慌ててアシュリーアの背中を追った。
道中、アシュリーアが先を歩き、レインがその後ろをついていく。
後方からでは、アシュリーアがどんな顔をしているのかは見えなかった。
今、先頭を歩くアシュリーアは頬を膨らませ、心の中で自分自身へ腹を立てていた。
まったく、私は何をしていたのでしょう。
大賢者の寝室を用意していなかったことに、今の今まで気づかなかったなんて。
冷たい大図書館で一晩中図面を描かせてしまうなど、アシュリーア、あなたは何と気の利かない、客人をもてなす資格すらない駄目な魔王なのでしょう!
この失態への罰として、今夜はさらに二時間残って仕事をしなければなりません。
国境から届いた三十通の物資報告書も、すべて今日中に目を通します!
そんなふうに自分を責め続けている間に、二人は廊下を抜け、魔王城の上層にある一枚の木製の扉へ辿り着いた。
アシュリーアは足を止め、扉を押し開ける。
部屋は特別広いわけではないが、隅々まで整然としていた。
日当たりもよく、大きな窓からは魔王城の領地の大半を見渡すことができる。
非常に見晴らしのいい部屋だった。
「ここは、先代魔王カイザーの寝室です」
入口に立ったまま、アシュリーアは静かに告げた。
「彼が亡くなってから、この部屋が開かれることはありませんでした」
そう言って、アシュリーアは指先を上げる。
そこに淡い魔力の光が宿った。
柔らかな風が部屋の隅々まで吹き抜ける。
数年にわたって積もっていた埃が風に巻き上げられ、窓の外へ流れ出していった。
瞬く間に、寝室は見違えるほどきれいになった。
レインは部屋へ足を踏み入れる。
先代魔王の寝室だと聞き、少しばかり興味を引かれていた。
周囲を見渡す。
魔界の最高統治者が眠っていた部屋にしては、驚くほど質素だった。
置かれているのは、寝台と本棚、それに木製の机だけ。
唯一目を引く装飾は、壁に掛けられた何枚もの絵だった。
どの絵もひどく拙い。
色だけは鮮やかだが、技法と呼べるようなものは何もない。
大きな角を生やした棒人間が、何人もの小さな棒人間と手を繋いでいる絵。
歪んだ黒い花が描かれた絵。
どう見ても、幼い子供たちの落書きだった。
掃除を終えると、アシュリーアは入口で両手を身体の前に重ね、レインへ頭を下げた。
「ここで、どうかゆっくりお休みください。大賢者」
「しばらくは、誰にも邪魔をさせません」
その言葉を残し、アシュリーアは気を利かせて扉を閉めた。
足音が遠ざかる。
やがて、部屋には完全な静寂が戻った。
レインはすぐに寝台へ向かわなかった。
部屋に置かれた木製の机へ視線を引かれ、その前に腰を下ろす。
何気なく、一段目の引き出しを開けた。
中には、粗末な手作りの品々が静かに収められていた。
ありふれた木を不器用に削って作られた、小さな獣の置物。
磨いただけの粗い小石を繋いだ首飾り。
そして、とうに乾き、色褪せた名も知らぬ野花。
レインはそれらを眺めたまま、手を触れなかった。
一見すれば何の価値もないが、この部屋のかつての主にとっては、間違いなく金では買えない宝物だった。
だからこそ、レインはその宝物へ最大限の敬意を払った。
続いて、二段目の引き出しを開ける。
中には、黄ばんだ分厚い手帳が一冊入っていた。
好奇心に駆られ、レインはそれを取り出した。
椅子の背にもたれ、古びた頁を開く。
それは、先代魔王カイザーの日記だった。
書かれている文字は力強く、毎日の記録はどれも簡潔だった。
レインは、一頁ずつ丁寧に読み進めていく。
長い年月を越えて残された文字の向こうに、かつてこの机へ向かい、幾度もの長い夜を過ごした大柄な男の姿が見えるようだった。
日記の始まりには、王座へ就いたばかりの頃の大志が満ちていた。
『本日、戴冠した。長老たちへ誓う。魔王となった私は、必ず民を世界で最も幸福な者たちにしてみせる』
中盤へ入ると、その志は冷たい現実によって少しずつ削られ、苦悩に満ちた足掻きへ変わっていく。
『人間が商路を封鎖した。食糧の価格も、また上がった』
『仕方なく私自ら部隊を率い、危険度の高い魔獣を狩った。三十人の戦士が死に、持ち帰れた肉は三日分にしかならなかった』
『これでは、まるで足りない……』
さらに先へ進む。
聖戦が始まると、文章からは隠しきれない喪失感と、どうしようもない無念が滲み始めていた。
『なぜだ?』
『人間の勇者は祈るだけで、神器によって致命傷さえ癒やされる』
『それなのに、私の戦士たちは薬もない泥水の中で、苦しみながら叫ぶことしかできない』
『こんなものは戦争ではない。なぜだ!』
『我々が魔族だからか!?』
レインは顔を上げた。
壁に掛けられた幼い絵。
引き出しの中に収められた、粗末な手作りの品々。
その答えは、日記の中に書かれていた。
どれも、魔族の子供たちが自ら作り、魔王カイザーへ贈ったものだった。
日記の後半では、カイザーは何度も絶望の言葉を書き残していた。
だが、その嘆きの終わりには、必ず同じ意地が記されている。
『今日も荒野で、飢え死にした者を見つけた』
『疲れた。本当に、人間の教会へ降伏しようと考えたこともある』
『たとえ私が火刑に処されようと、それで民が助かるのなら構わないと』
『だが、子供たちから贈られたものを見るたびに……』
『たとえ勝ち目など欠片もない戦いだとしても』
『たとえ相手が、遥か高みにいる神々だとしても』
『それでも私には、絶対に諦めることのできない理由がある』
日記をめくるレインの指に、知らず知らずのうちに力がこもっていった。
そしてついに、最後の頁へ辿り着く。
先代勇者との決戦を翌日に控えた日の記録だった。
紙には、大きく滲んだ水の跡が残っている。
この一文を書いた者が、ここへ熱い涙を落としたかのようだった。
文字も、この頁だけは乱れ、震えていた。
『すまない。私の民よ』
『かつて約束した未来を、私はお前たちへ与えることができなかった』
『私は本当に……不甲斐ない魔王だ』
日記は、そこで途切れていた。
レインは椅子へ座ったまま、長い間沈黙していた。
胸の奥に何かが詰まり、息をすることさえ苦しい。
一つの種族が背負わされた絶望の宿命を、その男は一人で背負っていた。
越えることのできない壁へ、生涯をかけて何度も身体を打ちつけた。
そして最後には、民への謝罪を胸に抱いたまま、死へ向かって歩いていったのだ。
レインは日記を、両手で静かに閉じた。
もう一度、一段目の引き出しを開ける。
中にあった粗末な品々を、一つずつ慎重に取り出していった。
木彫りの小さな獣。
小石を繋いだ首飾り。
枯れた野花。
それらを、机の上へ丁寧に並べる。
レインは、ただ黙って見つめていた。
一つの種族の純粋な希望が込められた宝物を。
不甲斐ない魔王が、死の瞬間まで守り続けた想いを。
眺めているうちに、レインの視界は少しずつ霞んでいった。
両腕を机の上へ重ね、その上へゆっくりと頭を伏せる。
粗末な手作りの品々に囲まれながら、レインはいつしか深い眠りへ落ちていった。
夢の中には、飢えも戦争もなかった。
ただ、風に揺れる黄金色の麦畑だけが、どこまでも広がっていた。




