第10話 奇跡の実証
万象魔主メフィストはレインの腕を掴んだまま、魔王城の廊下を全速力で駆け抜けた。
やがて、装飾の施された木製の扉の前で急停止する。
勢い余って、レインは危うく扉へ頭から突っ込みそうになった。
メフィストは乱れた襟元を整え、深く息を吸う。
そのまま手を上げて扉を叩こうとしたが、何かを思いついたのか、瞳に狡猾な光が浮かんだ。
メフィストは動きを止めると、紳士らしく横へ身を引き、レインへ場所を譲った。
そして「どうぞ」とでも言うように手を差し出し、この大賢者自身に扉を叩かせようとする。
レインは訳が分からなかった。
何なんだ、こいつ。
さっきまで一刻を争うように焦っていたくせに、急に礼儀を気にし始めやがった。
レインは当然、この扉の向こうにはアシュリーアの執務室があるのだと思っていた。
そのため、ノックすらせず、手を伸ばして扉を一気に押し開ける。
「バタン」
扉が開いた。
だが、レインが想像していた山積みの書類も、威厳に満ちた執務机もなかった。
目の前にあったのは、柔らかそうな寝台だった。
アシュリーアは、どうやら朝の入浴を終えたばかりらしい。
銀白色の長い髪にはまだわずかに水気が残り、滑らかに肩へ垂れている。
今の魔界の王は、少し大きめの白い綿の寝間着を身につけ、威厳の欠片もなく寝台の上へ腹ばいになっていた。
膝から下を宙へ上げ、二本の脚を無意識にぱたぱたと揺らしている。
手には昨夜処理しきれなかった書類が握られていた。
まずい朝食を食べに行く前に、残った政務を片づけておこうとしていたのだろう。
突然扉が開いた音を聞き、アシュリーアが顔を上げる。
大きな人間と、小柄な魔王。
高い視線と低い視線。
二組の目が、空中で真っ向からぶつかった。
レインの視線が、ゆったりとした寝間着、水滴の残る白い頬、そして硬直した黒い螺旋状の角を順に追う。
一秒。
二秒。
レインは無表情のまま半歩下がった。
扉の取っ手を掴み――
「バタン!」
何事もなかったかのように、きっちりと閉め直した。
……
レインは振り返った。
隣で天井を見上げているメフィストを、死んだ魚のような目で睨みつける。
「お前、絶対わざとだろ?」
歯を食いしばりながら問い詰めた。
メフィストは無実を訴えるように両手を広げる。
「大賢者、それはあまりにも心外です」
「奇跡を生み出した大賢者ご自身にノックしていただこうと思い、わざわざ場所をお譲りしたのですよ」
「まさか魔王陛下の寝室の扉を、ご自宅へ帰ったかのような勢いで開けるとは、誰が予想できたでしょう」
「てめえ……!」
レインが罵声を浴びせようとした、そのとき。
目の前の扉が、内側から勢いよく開かれた。
すでに黒い長衣へ着替え、全身を隙なく包んだアシュリーアが、冷たい顔で立っている。
その視線が、レインとメフィストの間を往復した。
「二人とも、本当に報告すべき用件があるのでしょうね」
「そうでなければ、頭を冷やすために二人まとめて深淵河へ放り込みます」
……
「魔族の存亡に関わる、間違いなく重大な話だ!」
レインは慌てて図面とぼろぼろの本を、アシュリーアの目の前へ突き出した。
「これを見てくれ! 魔族全員が腹いっぱい食えるようになる、全自動魔力温室の法陣構想だ!」
腹いっぱい食べられる。
その言葉を聞いた瞬間、アシュリーアの瞳に宿っていた殺気がわずかに薄れた。
視線を下げ、荒々しく描かれた図面へ目を落とす。
隣ではレインが身振り手振りを交えながら、魔晶の生成、抑制法陣、無魔力空間を循環させる理論を説明している。
話を聞くにつれ、アシュリーアの表情は少しずつ変わっていった。
最初は怒り。
次に驚き。
最後には、抑えきれない焦燥と期待へ変わる。
「行きます!」
アシュリーアはレインの手首を掴むと、そのまま魔王城の外へ向かって走り出した。
……
魔都の外縁。
暗赤色の大地。
アシュリーアは自ら現場へ立ち、超越者の力がどれほどの建設効率を持つのか、レインへ見せつけた。
「ヴン……!」
アシュリーアが宙へ浮かび上がる。
指先から魔力の光があふれ、虚空へ素早く線を描いていく。
巨大で複雑な法陣の紋様が、大地の上を這うように広がり、幾重にも交差した。
わずか数分。
それだけで、施設は完成した。
「カチッ」
捕集法陣が光を放つ。
空気中に漂う遊離魔力が、法陣の中心へ吸い込まれ始めた。
数分後、純度の低い下級魔晶が中枢部で形を成す。
アシュリーアはそれを拾い上げると、隣に設置された抑制法陣へ投げ入れた。
透明な穹窿の内側で、魔力抑制陣が稼働を始める。
内部に満ちていた魔力が排除され、強制的に抑え込まれていった。
数十平方メートルほどの無魔力温室が、こうして何もない荒野に建ち上がった。
隣で見ていたレインは、何度も唾を飲み込んだ。
これが魔法だと?
人型の自走式三次元造形機と、全自動の数値制御工作機械を合わせたようなものじゃないか!
俺が一晩かけて木炭筆で図面を引いたものを、こいつは指を動かしただけで数分で完成させやがった!
「外部環境からの隔離は完了しました」
アシュリーアは空中から地面へ降り立った。
そして懐から、もともと間食にするつもりだった小さな木の実を一つ取り出す。
果肉を食べ終えると、残った種を土の中へ埋めた。
続けて両手を、種を埋めた場所の上へかざす。
濃密な生命力を帯びた翠緑色の光が、掌からあふれ出し、土の中へ染み込んでいった。
サラサラサラ……。
レインが見つめる中、土が内側から押し上げられた。
鮮やかな緑の芽が地表へ顔を出す。
そのまま目に見える速度で伸び、枝を広げ、豊かな葉を生やしていく。
わずか半分ほどの時間で、小さな花まで咲かせてしまった。
「嘘だろ……」
レインの顎が外れそうになった。
「こんな成長促進の反則技を持ってるのに、どうやったら飢えられるんだよ!?」
メフィストが苦笑しながら説明する。
「大賢者、これは生命の根源へ干渉する高位魔法です」
「大陸全土を見渡しても、ほとんどの魔法使いは、生涯をかけても生命の領域へ触れることすらできません」
「魔族でも扱えるのは、魔王陛下と数名の魔主、それにごく一部の精鋭だけです」
「しかも、この術は魔力の消耗が極めて激しい」
「たとえ魔主であっても、畑一面の作物を成熟させれば魔力が枯渇します」
「これを通常の魔法のように使えるのは、魔王陛下だけです」
メフィストは、温室内で生き生きと育つ植物を見つめた。
声音に、深い感慨がにじむ。
「そして生命魔法は、成長を速めることはできても、環境そのものを変えることはできません」
「これまで魔界の大地には、荒れ狂う魔力が満ちていました」
「そこで生命魔法を使えば、植物は急速に変異し、やがて枯れ果ててしまう」
「大賢者が生み出した無魔力温室があってこそ、生命魔法は初めて本来の力を発揮できるのです」
実地での検証は終わった。
アシュリーアは目の前に広がる、何一つ異常のない、完全に健康な木の実の茂みを見つめていた。
千年以上にわたり魔族を苦しめてきた飢えの呪いは、今日、大賢者の手によって完全に解かれた。
この方法は、間違いなく実現可能だった。
風が荒野を吹き抜ける。
アシュリーアは振り返った。
幼い顔に、魔王としての苛烈さと威厳が浮かぶ。
「メフィスト」
「御前に」
「直ちに、この法陣の図面を複製し、すべての魔主へ送ってください」
「各領地における不要不急の防衛任務を停止させ、今すぐ魔力温室の建設を全面的に開始させます」
「それから、混乱につけ込んでいる亜人商隊については……今はまだ、相手をなだめておいてください」
「たとえ、さらに一割値上げされても構いません」
「最後の施しだと思って、払っておきましょう」
アシュリーアの暗赤色の瞳が冷たく細められる。
「この冬を越え、温室から最初の収穫が得られたとき――」
「魔族の血を吸ってきた寄生虫たちは、もう必要ありません」
「これまで奪ったものを、利子まで付けて吐き出させます」
「御意、我が王よ」
メフィストは片膝をついた。
その瞳にも、復讐の時を待ち望む熱が宿っている。
すべての指示を終えると、アシュリーアは再びレインへ向き直った。
白髪と赤い瞳を持つ小さな魔王は、半歩下がる。
両手を身体の前で重ね、王としての威圧感を静かに収めた。
荒野の中。
風を受けて揺れる魔力の穹窿を背に、目の前の賢者へ深く腰を折り、魔族の礼を捧げる。
「大賢者レイン」
「魔族は、あなたから受けた恩恵を、永遠に忘れません」




