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スワイピング・ゼロ  作者: 源三郎


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第9話 強制ロード

 手袋をしない男。世界のソースコードに、素手で触れる者。

 はじめて、管理者が二人の前に立つ。

 男は雨に濡れていなかった。


 二人が逃げ込んだ、廃駅のホーム。その反対側の端に男はいつのまにか立っていた。降りしきる酸性雨がその体の一センチ手前でみんな、避けていく。世界のほうが彼に気をつかっているみたいに。


 仕立てのいい、灰色の外套。歳のわからない、のっぺりとした顔。手袋はしていなかった。素手だ。手袋なんて、いらない。彼の指は命令をなぞる必要すらない。


 仁たち下っ端のスワイパーは、網膜のUIを指先でなぞって世界の「表面」を操作する。だから、手袋がいる。この男は違った。UIなんて要らない。世界のソースコードに、じかに手を突っ込める。退屈そうで、有能で、一片の迷いもない。


 だが、何より仁をたじろがせたのは、その顔だった。目も、鼻も、口も、たしかにある。なのに、見ているそばから輪郭がほどけて、記憶に残らない。次にまばたきをすれば、もう思い出せない気がした。まるで、その顔だけが、うっすらと、上書きされつづけているみたいに。──長く世界を書き換える者は、いつか、自分の顔まで書き換えてしまうのかもしれない。タップの言った、"のっぺらぼう"。その意味が、いま、目の前にあった。


「管理者、だ」仁はリアを背にかばった。


「そう呼ぶ者もいる」男は静かに言った。「私はただ、この世界を正しく保っているだけだ。バグを取り除く。矛盾を上書きする。──君たちのような余りものを片づける」


「余りものか」


「ゼロ号は消し損ねた、古いデータだ。神坂仁、君はそのデータに絆されて仕事を放り出した、不良品だ。どちらもあってはならない。だから消す。恨みはない。これは掃除だ」


 男が指を一本、立てた。


 それだけで仁の視界が真っ赤に染まった。


《強制読み込み――開始》


「――う、あ」


 仁の頭の中で灰色の箱がいっせいにこじ開けられた。


 これまで彼が意識の隅に押し込めてきた、すべての残響。消した人間の最期の声。帰れなかった家。果たせなかった約束。何百人ぶんもの飲み込んできた、他人の痛み。


 それが一度に逆流してきた。


『兄貴、待って』『まだ言い足りない』『家に帰らせて』『やめてくれ』『さむい』『なんでだよ』『――』


 声が声が声が。


 仁は耳を押さえた。押さえても無駄だった。音は外から来るんじゃない。全部、彼自身の脳の中から噴き出していた。膝が崩れる。ホームの冷たいコンクリートに額を押しつける。吐いた。何度も。それでも声は止まらない。


 声だけじゃなかった。感情がいっしょに流れ込んでくる。消される直前のあの身を裂くような恐怖。誰かを遺していく、無念。もう二度と家に帰れないと悟った、その瞬間の底なしの絶望。仁がこれまでそっと蓋をして、見ないふりをしてきた、他人のいちばん柔らかい部分。それがいっぺんに彼の胸を内側から抉る。


 自分の感情と他人の感情の境目が溶けていく。どれが自分の痛みなのか、わからない。仁という器があふれ、決壊しかけていた。これが続けば、自分が自分でなくなる。何百人ぶんもの名前のない誰かになって散る。


「これが君の抱えてきたものだ」男は淡々と言った。「一人でよく抱えたな。だがもういい。上書きすれば、消える。楽になれ。──君は初めからこんなものを背負う必要は……」


 男は、そこで、ふいに言葉を止めた。


 なにか言いかけたまま、視線が、宙の一点で迷う。まるで、自分がいま何を話していたのか、その糸をたぐり損ねたみたいに。ほんの一瞬。声も、表情も、ぬけがらのように空になった。


 やがて男は、何事もなかったように続けた。「……背負う必要は、なかったんだ」。だが、仁は見てしまった。世界のすべてを掌握したこの男の中に、ぽっかりと、四角い穴が開いているのを。──仁の頭に、母の声だけが刃物で四角く切り抜かれた、あの空白と。まったく同じ、かたちの。


 楽になれ。


 その言葉が甘く聞こえた。


 抗う理由が一つずつ、指の間からこぼれ落ちていく。そうだ。全部、忘れてしまえば。上書きされて、なにも覚えていない、ただの処理装置に戻れば――もうこの声を聞かなくてすむ。


 仁の指の力が抜けかけた。


「――ゼロ!」


 その声が彼を繋ぎとめた。


 リアが仁の前に飛び出していた。両手を広げて。仁と管理者のあいだに割って入って。


 赤い警告文がリアの小さな背中で爆ぜた。


《READ-ONLY》


 強制読み込みの真っ赤な奔流がリアの体にぶつかって――そこで止まった。上書きを受けつけない、彼女の存在がその濁流を堰き止めていた。仁の頭の中の声がリアに触れた瞬間、すと遠のいていく。凪いでいく。


「リア、どけ、お前が――」


「へいき」


 リアの声は震えていた。へいき、じゃ、なかった。


 彼女の輪郭の指先や、髪の先がうっすらとほどけ始めている。タップのときと同じだ。読み取り専用の壁であれだけの奔流を受け止めれば。彼女自身が削れていく。


「わたしは消えないよ。元のかけら、だもん。──でもあなたの痛みを代わりに持つくらいはできる」


 リアの声が途切れ途切れになる。彼女の輪郭が雨に溶けた墨みたいにぼやけていく。それでも彼女は両手を下げなかった。仁と真っ赤な奔流のあいだに立ちつづける。傘だ、と仁は思った。ひとつしかない、小さな傘。


「やめろ。お前が壊れる」


「壊れないってば」リアは振り向いて、笑った。ほどけかけた、顔で。「こう見えて、しぶといんだから」


 管理者が初めてかすかに眉を寄せた。


「……ゼロ号。おまえ、自分がなにをしているのか、わかっているのか。旧データの分際で正規の処理を妨害している。おまえが消えれば、すべては丸く収まるのだぞ」


 その言葉に。


 リアの背中がほんの少し揺れた。


 そして、彼女は仁のほうを振り返らずに言った。声だけが雨の中に落ちた。


「……ねえ、ゼロ」


「なんだ」


「わたしを消して」


 仁の息が止まった。


「あなたには消せないってわかってる。READ-ONLYだから。──でもあなたが本気で望めば。あなただけはたぶんわたしを上書きできる。三年前、できなかったことを今度こそ。そうすれば、この人は満足して、帰る。あなたは初期化されない。母さんの声も戻る。ぜんぶ、元通りになる」


 リアはそこでやっと振り返った。


 雨の中で、眉をやわらかく下げて、それでもまっすぐに笑って。


「わたしを消せば、あなたは楽になれるよ」


 仁の右手が震えていた。


 黒い手袋の指先がゆっくりと持ち上がる。


 三年前、この子の額の数センチ手前で止まった、その指が。


 読んでくれてありがとう。

 "消して"と、リアは言った。――それが、いちばんみんなを救う道だと信じて。

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