第10話 消せない指
三年前、額の数センチ手前で止まった指。
今夜もう一度、仁はそこで止まる。
仁の指先が、リアの額へ伸びる。
三年前と同じ距離。あと数センチ。ここで望みさえすれば、この子を上書きできる。楽になれる。声も、頭痛も、罪も、ぜんぶ消える。母の声だって、戻ってくる。
リアは目を閉じていた。抵抗しない。何もかも、受け入れようとしている。そのまつ毛の震えを見て、仁は思い出した。
いや。思い出したんじゃない。ずっと、体が覚えていたのだ。四角く切り抜かれた穴の、まわりのぜんぶを。軒下で丸くなっていた小さな影。二人ぶんの鍋。割れた卵。「ゼロ。卵、また割ったの?」と笑った、その声を。
消したんじゃなかった。預けていたんだ。この子に。三年間、ずっと。
母の声を奪われたと思っていた。この子の記憶を奪われたと思っていた。違う。奪われたんじゃない。世界が、無理やりこの子に預けさせたのだ。何より大事なものを、手の届かない場所へ。二度とたどり着けないように。それを抱えたまま、この子は戻ってきた。危なくなった仁を、助けるために。自分が消されるかもしれない場所へ、のこのこと。
こんな子を消せば、楽になれる、だと。
「――ふざけるな」
仁は、伸ばした指を握りしめた。
リアの額の数センチ手前で、今度も指は止まった。三年前と同じ場所で。違うのは、もう震えていなかったことだ。
「消さない」
立ち上がる。膝が笑っていた。頭の中はまだ、何百人ぶんもの声でうるさい。それでも。
「楽になんて、ならない。俺は忘れない。あいつらのことも、こいつのことも。全部、覚えたまま生きる。それが、俺の仕様だ」
管理者の顔が、わずかに動いた。
「愚かだな。その痛みは、一生消えないぞ」
「消えなくて、いい」
言い切った、その瞬間だった。
仁がずっと灰色の箱に鍵をかけ、蓋を押さえ、見ないふりをしてきた、あの残響が――逆流した。
抱えて生きると腹をくくった、そのとたん、こらえていた力の向きが狂った。堰が、内側から決壊する。
何百人ぶんもの声が、感情が、最期が、仁の体から噴き上がった。制御なんてできない。しようとも思えない。ただ、噴き出す。仁自身が、その奔流に足をすくわれる。
『助けて』『こわい』『どうして』『兄貴』『いやだ』『痛い』
その濁流が、たまたま近くにあった大きな“系”へ――管理者の完璧なシステムへ、まともになだれ込んだ。
《更新プログラム、適用中――エラー》
《想定外の要求量》
《処理、遅延――》
止まっていた雨粒が、ばらばらと地面に落ちた。世界の時間が、あの男の許可を待ちきれずに動きだす。整いすぎた処理が、行き場のないデータの、あまりの物量につっかえている。世界が一度は消そうとして、消しきれなかったものたちだ。
「なにを……」管理者の声に、色が混じる。
だが、仁も無事ではなかった。
噴き出した残響は、外へ向かうと同時に、内側からも仁を飲もうとしていた。自分の感情と、他人の絶望の境目が溶ける。どこまでが神坂仁で、どこからが名前のない誰かなのか、わからなくなる。膝が崩れる。目の前が白く遠のく。――ああ、このまま散るのか。何百人かの、最後の一人になって。
「ゼロ!」
その手が、仁を繋ぎとめた。
リアが、仁の顔を両手ではさんでいた。ほどけかけた、小さな手で。READ-ONLYの凪が、溶けかけた仁の輪郭を、また一つに結び直す。
「戻ってきて。あなたは、あなたのままでいいんだよ」
その声に引かれて、殺到する声の底から、もう一つの声が浮かんだ。
『――仁。おかえり』
母の声だった。四角く切り抜かれていた場所に。ほんの切れ端だけ。けれど、たしかに。
仁の目から、雨じゃないものがこぼれた。それを合図に、噴き出していた奔流がしぼんでいく。行き場をなくした声たちは、また仁の中の灰色の箱へ、ゆっくりと沈んでいった。全部は出しきれなかった。半分も。むしろ、体を内側から削られただけだ。
だが、仁は悟った。これは、武器じゃない。まだ。もしこの暴発を、自分の意志で狙って放てるようになれたら。あの男の処理を、止められる。今の仁には、暴れ馬にしがみつくのが精一杯だったが。
「リア。今のうちだ」
「うん」
二人は駆けだした。処理落ちした管理者の、動けない一瞬の隙を縫って。廃駅のホームを蹴って、雨の街へ。
背後で、管理者の声が追ってきた。もう事務的では、なかった。
《まぐれだ。ゴミデータの暴発に、たまたま救われただけ。おまえに、あれを制御する術はない》
《だが――覚えておけ、神坂仁。次は、まぐれはない》
《この第三階層を、まるごと上書きする。おまえの思い出も、その子の居場所も、なにもかも。世界ごとな》
声が遠ざかる。
角を曲がって、ようやく足を止めた。リアの手は、まだ仁の手の中にあった。ほどけかけていた指先は、いつのまにか、またしっかりとかたちを取り戻している。
「ねえ、ゼロ」息を切らしながら、リアが見上げた。「あなた、さっき、泣いてた?」
「……雨だ」
「うそ」
「雨だ」
リアが笑った。今度は、泣きそうな顔じゃなかった。ただ、うれしそうに、けらけらと。それから、ふいに笑うのをやめる。濡れた前髪の奥で、その目がまっすぐ仁を見た。
「わたし、決めた」
「なにを」
「逃げるの、もうやめる」
リアは、仁の手を今度は自分から握り直した。細い指に、さっきまでとは違う力がこもっている。
「あの人はどこまでも追ってくる。世界ごと書き換えるって。だったら、逃げてても同じ。だから行く。世界の奥、OSの中枢へ。わたしがなんで消されたのか、なんで戻ったのか、その答えごと、ぜんぶ取り返す」
仁は、その顔を見た。
路地裏で雨に打たれて、誰かを待っていた、あの少女は、もういなかった。待つのをやめた顔だった。もう、行く場所を自分で決めている。
「……無茶を言う」
「知ってる。でも、一人じゃ無理。だから」
リアはちょっと意地わるく笑った。初めて会った夜の、あの生意気な顔で。
「あなたも来て。ゼロ」
仁はしばらく黙っていた。
まだ、なにも終わっていない。母の声は、ほんの切れ端だけ。残響を制御する術もない。世界をまるごと敵に回して、勝ち目なんて、どこにもない。
それでも。誰かを消すことで生きてきた男が、たった一人を忘れないために、今夜、初めて指を止めた。今度はその指で、逃げるのではなく、進む番だ。
「ああ」
仁はリアの手を、握り返した。
「連れてってやる。世界のいちばん奥まで」
雨が、また、ちゃんと上から下へ落ちていた。当たり前のことが、こんなにありがたい夜はなかった。
二人の足音が、走りだす。もう、追われる走りじゃない。行く先を、自分たちで決めた足だった。
読んでくれてありがとう。
逃げるのは、もうやめ。――二人は、世界のいちばん奥へ向かうと決めた。




