第8話 オーバーライト、接近
世界を書き換える男が、近づいてくる。
雨粒のひとつぶずつが、凶器に変わっていく。
止まった雨の中を歩いてくる足音があった。
一粒ずつ宙に浮いた雨のあいだをなにかが縫ってくる。仁はリアを背にかばって身構えた。指先の痺れがひどい。箱を長く焚いたつけがまだ抜けていない。
高架の暗がりから現れたのは――タップだった。
いつものへらへらした笑顔。ではなかった。制服はあちこち焼け焦げ、片腕が妙な方向にだらりと垂れている。
「せんぱい……。逃げてくださいって言ったのに」
「タップ。お前」
「上の人、来ちゃいましたよ」タップは笑おうとして、失敗した。「おれ、盾にされてるんす。あの人が通る道の露払い。命令、断れなくて」
仁の頭上で荘厳な書体の文字がゆっくりと回転していた。
《更新プログラム、適用中――一二パーセント》
止まった雨粒のその一つひとつが色を変えていく。透明だったものが鈍い鉛の色に。落ちてくる途中の雨が無数の小さな弾丸に書き換えられていた。物理法則を丸ごと上書きする力。これが管理者だ。
仁の能力とは格が違った。仁にできるのは世界の表面を指で少しだけいじること。距離を伸ばす。位置を入れ替える。せいぜいその程度だ。世界の「設定」そのものには指一本、触れられない。
だが管理者はその「設定」ごと書き換える。雨は下に落ちるものという決まりごとを、雨は凶器だ、と書き直してしまう。世界のほうが、それに逆らえない。
「これがオーバーライト……」
「そうっす。あの人にかかると雨も石も空気もぜんぶ、凶器になる。──おれ程度じゃ、話になんない」
タップが垂れた腕をかばうように抱えた。その指が震えている。仁は気づいた。恐怖じゃない。あれは消えかけている、震えだ。
「せんぱい」
タップの輪郭が、その外側からうっすらとほどけ始めていた。砂が風に流れるみたいに。
「おれ、使い終わったら、消されるらしいっす。盾ってそういうもんすもんね。……あはは。おれ、たぶん消したやつら、一人も覚えてないまま、消えるんだな」
「タップ」
「なあ、せんぱい。ひとつ、頼んでいいすか」
彼の足首から下はもうほとんど砂だった。
「おれのこと覚えといて、くれませんか。操崎累。回収屋のタップ。せんぱいに憧れてた、しょうもない後輩。──せんぱい、覚えるの得意でしょ。消したやつのことぜんぶ、覚えてる、って。だから」
仁は動けなかった。手袋の指を握りしめた。
「……覚える」
声が掠れた。
「操崎累。回収屋のタップ。俺に憧れてた、口の減らない、いい後輩だ。──忘れない。俺が覚えてる。ぜんぶ」
タップの顔がくしゃりと笑った。今度は失敗しなかった。
「よかった。……それなら、おれ、いた、ことになる」
風が吹いた。
砂が散った。
高架の下にもうタップはいなかった。焦げた制服もへらへらした笑顔も垂れた腕も。最初からそんな後輩はいなかったみたいに。
だが仁は覚えている。
リアが仁の背中にそっと額を押しつけた。
「……あなたが覚えてるかぎり」小さな声だった。「消された人はほんとうには消えないんだね」
「ああ」
「それってすごく、つらいことだけど。──すごく、優しいことだね」
仁は答えなかった。ただ、こぶしの震えが少しだけ収まった。
頭上の文字がまた、回転する。
《更新プログラム、適用中――二〇パーセント》
止まった世界のいちばん奥から声が聞こえた。
男の声だった。低く静かでどこまでも事務的な。怒りも悪意もない。ただ、片づけるべき仕事がそこにある、という声。
《ゼロ号。旧データ。おまえは正規版で上書きされる。抵抗は無意味だ》
《そして――執行者ゼロ。神坂仁》
その名を呼ばれた。
本名を。世界のどこにも出していないはずの母がくれた名を。
《おまえは三年前、処理を中断した。不良実行者だ。今回の更新でついでに初期化する。おまえの余計な記憶ごと。──安心しろ。痛みは上書きすれば、消える》
仁はリアの手を握った。
止まった雨のあいだにほそい逃げ道が一本だけ見えた。リアのいる場所だけ、雨粒が鉛に変わっていない。READ-ONLY──上書きを受けつけないこの子の周り一歩ぶんだけ、まだ本物の世界が残っていた。
「リア。走れるか」
「うん」
「俺の手を離すなよ。お前のそばだけがあいつの書き換えが届かない」
二人は駆けた。
鉛の雨が降りそそぐ、その隙間の細い糸の上を。リアの手が道を切り開く。触れた雨粒が彼女に近づくたび、鉛の色を失って、透明な本物の水に戻っていく。
仁はその一歩を頼りに走った。リアの手を痛いほど握って。少しでも離れれば、鉛の雨が皮膚を抉る。現に仁の肩を一粒が掠めた。焼けた鉄を押しつけられたような痛み。だが止まれば、終わりだ。仁は歯を食いしばってリアの背中を追った。
皮肉なものだ、と思った。世界から人を消してきた自分が今は世界に消されないために消せない少女の手を借りて、走っている。
更新プログラムの進捗を示す文字が視界の上で無情に数字を増やしていく。三〇パーセント。四〇。あの数字が百に届いたとき、この一帯のなにもかもが「正規版」に書き換わる。仁の育った街も消したくない記憶もまだ名前も知らない誰かの暮らしもぜんぶ。管理者にとってそれはたった一行の更新履歴にすぎない。
高架を抜け、角をいくつも折れて、二人はなんとか更新領域の外へ転がり出た。
背後で荘厳な声が静かに告げた。
《逃げたか。──よい。座標はもう押さえた》
《次は私がじかに行こう》
読んでくれてありがとう。
操崎累。回収屋のタップ。――仁が「覚えておく」と誓った、最初のひとり。




