第7話 リードオンリーの理由
卵を割りすぎる癖。それは不器用さじゃなく、名残だった。
消された記憶を、体だけがこっそり握りしめていた。
逃げろ、とクロは言った。
だが逃げる暇はなかった。
クズ屋の天井がぐにゃりと波打った。積まれたがらくたの山が、いっせいに色を失う。錆びた端末も、焼けた素子も、はしからぼろぼろと剥がれ、虚空へ溶けていく。世界がこの店を「なかったこと」にしようと、書き換えを始めていた。
「上書きだ」クロが吐き捨てた。「あいつの得意技だよ。気に入らねえ過去は丸ごと別のものに書き換えちまう。──ほら、坊主。ぼやぼやするな」
老人は崩れかけの棚から小さな記録媒体を一つ、リアの手に押しつけた。
「さっきの記録の写しだ。おれの店ごと消されてもこれだけは残る。持ってけ」
「クロ、あんたは」
「じいさん一人、逃げ足くらい、心得てる。──それより坊主」
クロの片目のレンズがリアと仁を順に映した。
「その子を消すな。何があってもな。……昔のお前はそれができた男だ。番号なんか、もらう前のお前は」
崩れる暖簾の隙間から二人は外へ転がり出た。
振り返るとクズ屋のあった場所はもうただの濡れた壁だった。店も暖簾も老人も、ぬぐい取られたあとみたいに跡形もない。だがリアの手のなかにはたしかに記録媒体が握られている。世界がまだ拾いきれなかった、かけらが。
仁はその壁をしばらく見ていた。クロが逃げ切れたのか、消されたのか、確かめるすべはない。世界はどちらだったかを教えてくれない。それがいちばん、こたえた。誰かがいなくなったことすら、ちゃんと悲しませてもらえない。それがこの街の消され方だった。
「……覚えとく」仁は濡れた壁に小さく言った。「クロ。あんたのことも俺が覚えとく」
誰にも届かない言葉だった。それでも言わずにはいられなかった。
*
二人は雨の中を走れるだけ走った。
どこをどう抜けたのか、気づけば、使われていない高架の下だった。列車はもう何十年もこの上を通っていない。錆びた鉄骨の隙間から酸性雨が糸を引いて落ちてくる。
リアが膝に手をついて、肩で息をしていた。
「……あの人、消えちゃったのかな」
「クロはしぶとい。ああ見えて、逃げるのだけは天才だ」
仁はそう言いながら、自分でも半分しか信じていなかった。だがそう言わないとリアがまた、自分のせいだという顔をする。
ふと、リアの足もとの一画だけ、地面の亀裂も鉄骨の錆もまわりより古びて見えて、まるで世界の書き換えがそこだけ遅れて届いているようだった。
「なあ、リア」
仁は濡れた鉄骨に背中をあずけた。
「三年前。俺はお前を消せと言われた。そして、途中でやめた。──なんでやめたのか、お前は知ってるのか」
リアはしばらく雨を見ていた。
「うん」
「話してくれ」
「あなたがいいなら」
リアは鉄骨の下、雨のかからない場所にちんまりと座った。膝を抱えて、そこに昔の自分をそっと置くみたいに。
「あのころ、あなたはまだ『ゼロ』じゃなかった。ただのなんでも屋のお兄さんだった。わたしは行くところがなくて、あなたの店の軒下にいた。あなたは追い出さなかった。卵の入った鍋を二人ぶん、作ってくれた」
「……」
「わたしね、その鍋を作るとき、卵をまた割っちゃって。あなた、もったいないって怒った。──でも二人で食べて、あなた、笑ったんだよ。今のしかめっ面じゃなくて、ちゃんと」
仁の記憶にはその顔がない。
なのに頬の筋肉がその笑い方を覚えている気がした。
「ある日、統治局の人が来た。わたしを消せって。わたしが世界の『バグ』だから。──あなたは命令に逆らえなかった。指をわたしに伸ばした。ここまで来て」
リアは自分の額のすぐ手前を指でさした。あと数センチ。
「でもあなたはそこで止まった」
「なぜ」
「わたしが言ったから」
リアは笑った。泣きそうな、あの笑い方で。
「『ゼロ。卵、また割ったの?』って。──その日の朝もあなた、卵、割ってたから。それを言っただけ。そしたら、あなた、手を止めた。指が震えてた。そして、命令を無視した」
仁の視界がにじんだ。雨のせいだ、と思い込むことにした。
卵を割る。たったそれだけのなんでもない朝の癖。今でも仁は二個に一個は殻を割りすぎて、白身をこぼす。ずっと不器用なだけだと思っていた。掃除屋のくせにそんなところだけ鈍い自分を笑っていた。
違った。あれは癖じゃない。名残だったのだ。この子と過ごした、あの台所の。忘れさせられても体だけがこっそり握りしめていた、たった一つのしるし。世界は記憶を消せても指の癖までは消しきれなかった。
「そのあと統治局が別の人を寄こして、わたしを消した。あなたは罰を受けた。母さんの声とわたしのことをまとめて、持っていかれた。──だからあなたは悪くない。あなたは最後まで消さなかったんだから」
「……なのにお前はここにいる」
「うん。わたし、消しきれなかったの。『元のかけら』だから。ずっと世界の隙間に引っかかってた。そして、あなたがまた、危なくなったから――戻ってきた」
リアは立ち上がって仁の前に来た。
小さな手で仁の黒い手袋の上からその指をそっと包んだ。
「今度はわたしがあなたの手を止める番」
仁はなにか言おうとした。
その口を開きかけた瞬間。
二人の頭上で錆びた高架がみしり、と鳴った。
仁の視界に見たことのない荘厳な書体の文字が静かに降ってきた。まるで空そのものが一枚の命令書であるかのように。
《更新プログラムを適用します》
《対象領域――第三階層》
《旧データ『ゼロ号』を正規版で上書きします》
《管理者より》
雨が止んだ。
いや、止んだのではない。落ちてくる途中の雨粒が一粒ずつ、空中で静止していた。
世界の時間がその男の許可を待って息をひそめている。
読んでくれてありがとう。
雨が、空中で止まる。――いちばん上の"管理者"が、はじめて動いた。




