第5話 ノイズ
箱の青い光が、薄くなっていく。
猶予は、もうほとんど残っていない。
その声を聞いてから仁は眠れなくなった。
皮肉なものだ。リアのそばであれだけ静かに眠れたのに。今はその静けさの底に幼いリアの声が沈んでいるのを知ってしまった。凪いだ海の底に沈んだ船を見つけたようなものだった。見なければ、忘れていられたのに。
三日目の朝が来た。
箱の青い光は初日よりあきらかに弱い。仁の権限がそのぶん、削れている。指先が時々痺れた。ドラッグの残量表示みたいに自分の脳が目減りしていくのがわかる。
「顔色、わるいよ」
卵を割らないように慎重に鍋を作りながら、リアが言った。三日目にして、彼女は電熱器の扱いを覚えていた。
「箱のせいだ。じきに切らないといけない」
「切ったら、どうなるの」
「頭の中がまた、うるさくなる。それだけだ」
嘘だった。それだけじゃない。箱を切れば、外から丸見えになる。だがそう言えば、この子はきっと自分のせいだと思う。仁はこの子にそういう顔をさせるのがなぜか、ひどく嫌だった。
その「なぜか」をもう深く考えないことにした。考えるとたぶん引き返せなくなる。
昼を過ぎたころ。
箱の境界線がぐにゃりと歪んだ。
青い光の面に外側から白い手のひらが押しつけられている。ぐ、ぐと。まるで薄いビニールを内側から破ろうとするみたいに。
「せんぱーい。命令、数え終わりましたよ」
声は壁のすぐ向こうにあった。
「三日も待ったんすよ、おれ。えらくないっすか」
「リア。下がってろ」
仁は立ち上がった。手袋をはめる。指先の痺れを意識から追い出す。
次の瞬間、箱の一面がぱりんと割れた。破れ目から白い手がこじ入れられ、そこへタップが身を滑り込ませてくる。制御室の狭い空間で、二人のスワイパーが向き合った。
「上の鍵、借りてきちゃいました。ちょっとズルなんすけどね」
「趣味のわるい借り物だ」
タップが指を弾いた。
仁の足元の床がぐんと持ち上がる。ピンチアウト。距離を伸ばして、仁を天井へ叩きつける気だ。仁はとっさに親指と人差し指を開き、床と自分のあいだの空間を逆につまんで縮めた。
伸びる力と縮む力がぶつかる。
空間がみしっと鳴いて――弾けた。二人とも反動で壁まで吹き飛ばされる。背中に古い配管の角が食い込み、肺の底から息が押し出された。
「うわ、痛。せんぱい、まだ動けるんすね。頭、けっこう焼けてるはずなのに」
「よくしゃべる奴だ」
「だって話さないと忘れちゃうから」タップはへらりと笑った。「おれ、消したやつのことなんにも残らないんすよ。誰を消したかもなんで消したかも。だからせめて消す前くらい、いっぱいしゃべっとくんです。──せんぱいは逆でしょ?」
仁の指が止まった。
「ぜんぶ、覚えてるんでしょ。消したやつの最期の顔とか、声とか。だからそんな死にそうな顔してる。──おれ、正直、かわいそうだなって思いますよ。なんで捨てないんすか、そんなの」
捨てられたら、どんなに楽か。
仁も何度も思った。数えれば眠れなくなる残響を丸ごとどこかへ流してしまえたら。タップみたいに綺麗な手のまま、命令だけを数えていられたら。
仁は廃車の陰のリアを見た。リアはこちらを見返していた。こわがっていなかった。ただ、心配そうに仁の痺れた指先を見ている。その目を見たら、なぜだか、答えが口から出た。
「――捨てたら」
仁は口を開いた。自分でも意外なほど静かな声だった。
「あいつらが本当にいなかったことになる。俺まで忘れたら、この世界のどこにもあいつらがいた証拠がなくなる。……誰かが覚えてなきゃいけない。たとえ消した本人でも」
タップの笑顔がほんの少し固まった。
その一瞬の隙を仁は逃さなかった。
中指と人差し指でタップの輪郭と床の廃材を同時につまむ。マルチタッチ。こめかみの奥で焦げた針金がばちんと弾ける。目の裏が白く光った。二つが限界。三つ目はない。
指を交差させる。スワップ。
タップと重い廃材の位置が入れ替わった。廃材が宙に現れた反動でタップの体勢が崩れる。仁はその襟首を掴んで、割れた箱の破れ目の外へ力まかせに引きずり出した。腕にずしりと重みがかかる。ドラッグ。
「うわっと」
タップが通路の水たまりに無様に転がる。
仁の頭の中であの声たちがまた、ざわめき始めていた。マルチタッチとスワップを立て続けに使ったせいだ。能力を使うたび、灰色の箱の蓋が少しずつ、ゆるむ。処理落ちした男の悲鳴が遠い雨音に混じって聞こえる気がする。だがリアがそこにいるかぎり。その声は水際で凪いだ。
仁は破れ目のこちら側に立ったまま、指をリアへ向けた。──いや、リアのすぐ手前へ。タップから彼女を隠すように。
「その子には届かない。お前もさっき見ただろう」
通路でタップがのろのろ起き上がった。濡れた前髪の奥でその目が初めてまじめにリアを見ていた。
「……せんぱい。ひとつ、教えてあげます。おれの命令書、対象の名前んとこ、なんて書いてあったと思います?」
仁は答えなかった。
「『リア』じゃないんすよ」
タップは指で自分のこめかみをとんとんと叩いた。
「『ゼロ号』。──せんぱいと同じ番号持ちだ。あの子、たぶんあんたのいっこ前だ」
白い手のアイコンが通路の暗がりへすっと消えていく。
「じゃ、次は上の人が来ますね。おれじゃ、無理みたいなんで。──あの人、こわいっすよ。せんぱいもその子も覚えてるうちに逃げといたほうがいい」
気配が消えた。
制御室に割れた箱のしゅうしゅうという音だけが残る。
仁はゆっくり振り返った。
リアは壁ぎわで膝を抱えて座っていた。ゼロ号、という言葉を聞いても驚いた顔はしていなかった。ただ、知っていたことをまた一つ、思い出しただけみたいな顔で。
「……ねえ」リアが小さく言った。「わたしのこと少しずつ、こわくなってきた?」
仁は壊れた箱を見上げた。青い光が明滅して、やがてふっと消える。
世界がまた、二人を覗きこめるようになった。
読んでくれてありがとう。
消せない少女の番号は「ゼロ号」。――仁の、ひとつ前。




