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スワイピング・ゼロ  作者: 源三郎


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4/10

第4話 凪

 割れた卵と、豆腐と、葱だけの鍋。

 それでも、ふたりで食べると、妙にうまい。

 こつ、こつ、と。


 外壁のノックは、しばらく続いた。


 仁(じん)は境界の内側から、その白い手を見上げていた。タップの指は箱を叩くばかりで、中へは入ってこられない。当然だ。この隔離領域は仁の権限で組んである。破るには、仁より上の鍵がいる。


 やがて宙の文字が変わった。


《まあいいや。今日はここまで。……でもせんぱい。その箱、電気代みたいに権限を食うでしょ。ずっとは保たないよ》


 図星だった。仁は答えなかった。


《おれ、気長なんで。待ってます》


 白い手がすっと消える。気配が、通路の奥へ遠ざかっていった。


 仁はようやく肩の力を抜いた。タップの言うとおりだ。この箱は、仁の脳を薪にして燃えている。長く焚けば、そのぶん仁が削れる。二日か、三日か。それが猶予のすべてだった。


「行った?」


 椅子の上で、リアが目をこすっていた。


「ああ。今日はな」


「おなか、すいた」


 仁は笑いそうになった。世界を敵に回して、追手に囲まれて、それでも腹は減る。当たり前のことが、この子といるとやけに眩しく見えた。


 思えば、ずいぶん長いこと、飯を「食べたい」と思ったことがなかった。腹に何か入れる。栄養を補給する。掃除屋のゼロにとって、食事は車に燃料を入れるのと同じだった。味なんて、どうでもよかった。他人の恐怖を飲み込んだあとの口に、何を入れても鉄の味しかしなかったから。


 なのに今夜は、腹が鳴った。ちゃんと鳴った。それがなんだか可笑しくて、少しだけこわかった。人間に戻りかけている。戻ってしまったら、たぶん次に誰かを消すとき、前よりずっと痛い。


 制御室の隅に、古い電熱器があった。仁は水を沸かし、割れずに残った卵と豆腐と葱を刻む。土鍋の代わりは、へこんだ片手鍋だ。殺しに行く男の買い物が、こんなところでやっと役に立った。


 本物の葱も、豆腐も、第三階層ではちょっとした贅沢だった。ふだん口に入るのは、培養槽育ちの代用蛋白(だいようたんぱく)ばかり。噛んでも味の薄い、あの灰色のかたまりだ。だから、割れた卵の一つが、やけに惜しい。


「鍋って、ふたりで食べるとなんか、いいね」


 湯気の向こうでリアが言った。ジャンパーの袖をまくり、子どものように豆腐をふうふう冷ましている。


「昔も、こうやって食べた」


 仁は箸を止めた。


「昔。誰と」


「あなたと」


 リアはそれを、当たり前のこととして口にした。


「わたしが卵を割っちゃって。あなた、すごく怒った。二個も割るなって。……でも、割れた卵で作ったやつ、いちばんおいしかった」


 仁の記憶には、ない。台所も、割れた卵も、怒った自分も。四角く切り抜かれた、その向こう側だ。なのに体のどこかが、その話を懐かしいと言っている。喉の奥が、勝手に熱くなる。


「……作り話だろう」


「そう思っておけば?」リアはちょっと意地悪く笑った。「そのほうが楽なら」


 仁は返せなかった。


 しばらく、二人は黙って鍋を食べた。電熱器のじいという音。境界線の青い光。それだけの、しずかな夜だった。


「ねえ、ゼロ」


 鍋が空になったころ、リアがぽつりと言った。声の色が、少し変わっていた。


「わたし、行きたいところがあるの」


「どこだ」


「世界のいちばん奥。OSの中枢」


 仁は箸を置いた。


 中枢。世界OSのいちばん深い場所。すべての記録が集まり、すべての上書きがそこから発せられる。統治局の人間ですら、末端の役人がその存在を噂で知っているだけ。掃除屋のゼロでさえ、命令を「受け取る」ことはあっても、それが「どこから来るのか」まではたどったことがない。たどろうとした者がどうなったかを、知っていたからだ。


「なにを言ってる。あそこは統治局の心臓だ。行けるわけがない。行っても消される」


「わたし、一度消されてるよ」


 さらりとリアは言った。あんまり軽く言うから、仁は一瞬、意味を取り損ねた。


「消された人間が、なんでここにいる」


「わかんない。それを知りたいの」リアは膝を抱えた。「わたしね、自分がなんで消されたのか、なんで戻ってこられたのか、なんにも覚えてないの。あなたが、母さんの声を忘れてるみたいに。……ぜんぶ、あそこにあるんだと思う。中枢に。だから行きたい」


 母さんの声。


 その言葉を、仁はこの子に話した覚えがない。


「……なんで、それを」


「知ってるもん。あなたのこと」


 リアはそれ以上、言わなかった。


 仁は天井を見上げた。答えなんて、出るわけがない。この子を中枢へ連れていくのは、崖から飛び降りるよりたしかな死だ。だが、この子を手放せばまた、あの頭痛が戻ってくる。それだけじゃない。手放したくない、と体が言っている。理由もなく、ずるく。


「……今夜は寝ろ」仁は話を打ち切った。「行く行かないは、明日、考える」


「明日になっても、あなた、同じこと言うよ。『まだ危ない』って」


「よくわかってるじゃないか」


「うん。あなたのこと、知ってるもん」


 また、それだ。知ってる。仁はその言葉を返さなかった。返せば、認めることになる。この子と自分のあいだに、たしかになにかがあったのだと。ぽっかり空いた、あの穴の向こう側に。


 その夜、リアが先に眠ってから。


 仁は箱の壁に背をあずけて、目を閉じた。頭のなかは、しんとしている。リアがそばにいるかぎり、残響は凪いだままだ。


 だから、それはあってはならない音だった。


 凪いだ静けさの、そのいちばん底で。ちいさな声がひとつ、聞こえた。


『――ゼロ』


 消えた誰かの声じゃない。仁が勝手に作った声でもない。それはリアの声だった。今、目の前で眠っている、この子の。まだ幼い、もっと小さなリアの声。


『ゼロ。卵、また割ったの?』


 仁は目を開けた。心臓がうるさかった。


 その声は、記憶の底から――仁自身がとうの昔に消したはずの場所から、聞こえていた。


 消した記憶は行き場をなくして、消した本人の脳へ流れ込む。仁はそれを、他人の記憶の話だと思っていた。だが──もし三年前、この子の記憶を奪われたのが自分自身だったとしたら。行き場をなくしたその欠片は、何年もかけて、少しずつ仁のもとへ戻ろうとしているのかもしれない。


 だとしたら、この静けさの底で聞こえた声は、他人のものじゃない。仁が失くした、何より大切な記憶の、最初の一滴だ。


 仁は眠るリアの横顔を見た。見覚えがある、なんてものじゃなかった。この子の笑う顔を、自分は知っている。喉から手が出るほど知っている。ただ、その「いつ」だけが、きれいに抜け落ちている。


 夜が明けるまで、仁はもう眠れなかった。


 読んでくれてありがとう。

 凪いだ静けさの底から聞こえたのは、幼いリアの声だった。――仁が、自分の手で消したはずの。

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