第3話 サンドボックス
人を消す道具で、人をかくまう。
仁がはじめて、自分の頭の中の静けさに気づく夜。
結局、店には戻らなかった。
戻れば、真っ先に探される。仁の店はもう統治局の地図に赤い印がついているはずだ。看板も机も机の下のバケツも置いてきた。惜しくはない。惜しいと思えるものをいつのまにかあまり持たなくなっていた。
夜明け前の第三階層を二人は縫うように歩いた。リアには廃車の中から見つけた古い作業用のジャンパーを着せた。丈が合わず、袖から指先しか出ていない。
街はまだ眠っていた。閉じたシャッターに貼られた、色あせた広告。誰も待たないバス停の割れた時刻表。頭上、はるか高いところに第二階層の底が灰色の天井みたいに広がっている。あそこには太陽が届くらしい。ここには届かない。第三階層の人間は生まれてから死ぬまで本物の空を一度も見ないまま終わる者がほとんどだった。
仁はそういう街で育った。リアもたぶんそうだ。だからだろうか。この子は天井を見上げてもうらやましそうな顔をしなかった。
「これ、くさい」
「文句を言うな。裸足よりましだ」
「靴もくさいのしかなかったよ」
たしかにそうだった。仁は黙った。
配管街のさらに奥、下水の点検口を三つくぐった先に使われていない古い制御室がある。仁だけが知っている場所だ。むかし、まだ「ゼロ」になる前――と言いかけて、仁はその先を思い出せないことに気づく。いつからここを知っていたのか。誰に教わったのか。記憶のちょうどその部分だけが四角く、ない。
「ここだ」
鉄の扉を押すと埃が舞った。狭い。机がひとつ、椅子がふたつ、毛布が一枚。それだけ。
「せまい」
「贅沢を言うな」
「言ってない。事実を言った」
リアはへりくつだけは達者だった。
仁は扉を閉めると右手の黒い手袋を指の股まではめ直した。それから部屋の四隅に向けて、順に指を滑らせる。
視界に半透明の枠が立ち上がった。部屋をすっぽりと包む立方体。境界線がうっすらと青く光る。
「なにしてるの」
「箱を作ってる。隔離領域だ。この中だけ、世界のシステムから切り離す。何をしても外の記録には残らない」
「へえ。すごい」
「本当は消す相手を一時的に閉じ込めるためのものだ。人を殺す道具で人を匿う。ふざけた話だと思うか」
リアは少し考えてから首を振った。
「包丁で料理もできるし、けがもさせられる。道具は道具でしょ。使う人の問題だよ」
仁は手を止めた。妙に大人びたことを言う。それとも自分がとっくに子どもの言い分すら忘れているだけか。
箱が閉じた。
――その瞬間だった。
仁の頭の奥でずっと鳴りつづけていた、あの音が。
消えた人間の最期の声。知らない台所。すすり泣き。何百人ぶんもの残響。世界が引き取らなかった、ぜんぶの残りかす。
それがすうっと遠のいた。
波が引くみたいに。
「……なんだ、これは」
仁は思わず壁に手をついた。膝が勝手に崩れる。痛みがないことが逆にこわい。もう何年もこの頭痛は彼の体の一部だった。骨や、内臓と同じくらい、あって当たり前のものだった。
痛みがあるあいだはまだましだった。痛みはあいつらがたしかにいた、という証だ。感じる資格くらいは消した本人にあってもいい。そう思って抱えてきた。だからそれがふいに消えると、まるで自分があいつらを二度見捨てたみたいなうしろめたさがこみあげた。
それがない。
「ゼロ?」
リアが袖から指先だけ出した手で仁の腕に触れた。
触れられた場所から静けさがじわりと広がる。
仁は悟った。箱のせいじゃない。この子のそばにいるせいだ。あの雨の路地でもそうだった。リアが名を呼んだ瞬間、あの声たちはいっせいに黙った。
「お前、なんなんだ、本当に」
「わかんない」リアはまっすぐ言った。「でもあなたのその頭の中がうるさいの知ってる。ずっと前から」
この街の連中は、消される前に、大切な記憶を小さな物へ移して形見にする。握れば、消えたものを、少しだけ思い出せる。だが、この子は物じゃない。生きて、しゃべって、割れた卵を心配する。──生きた形見なんてものが、あっていいのか。仁には、わからなかった。ただ、この子のそばでだけ、とうに失くしたはずの静けさが、手のなかに戻ってくる。
仁は目を閉じた。
音がなかった。その静けさが、かえって涙を押し上げてくる。泣き方なんて、とっくに忘れたつもりでいたのに。
仁はしばらくその静けさの中に座り込んでいた。
「なあ、リア」
「なに」
「お前、腹は減ってないのか」
いちばん、どうでもいいことを訊いた。訊きたいことは山ほどあったのに。お前は何者だ。なぜ俺を知っている。ゼロという名をどこで覚えた。──どれも口にすれば、この静けさが壊れそうで。
「減った。すごく」
「……そうか」
「作ってくれるの?」
「材料が割れた卵と豆腐と葱しかない」
「じゅうぶんだよ」リアは笑った。「わたし、あなたの作る鍋、好きだから」
好きだから。まるで何度も食べたことがあるみたいな言い方だった。仁は聞き流そうとして、聞き流せなかった。その引っかかりを卵と一緒に腹の底へしまいこむ。
その夜、仁は久しぶりに眠った。
夢も見ずに途中で誰かの声に叩き起こされることもなく、ただ、深く。目が覚めたとき、毛布はリアが仁にかけたものだった。当のリアは椅子の上で膝を抱えて、船を漕いでいる。
仁はしばらくその寝顔を見ていた。見覚えがある、と思った。理由はわからない。ただ、この子が笑うところを自分は昔、何度も見た――そんな気がした。
「……気持ち悪いな」
自分に言って仁は立ち上がった。感傷だ。眠れたせいで頭がふやけている。
箱の壁に近づいて、外の様子をうかがう。境界の青い光越しに点検通路が見えた。人影はない。
ないはずだった。
こつ、こつ、と。
箱の外壁を誰かが指で叩いた。
青い境界線に白い手のかたちのアイコンがぺたりと貼りついている。ノックするみたいにこつ、こつ。
《せんぱーい。いるのわかってますよー》
文字が宙に浮いた。
仁はリアを起こさないようにそっと手袋をはめ直した。眠りの礼はもう済んだ。ここから先はまた、いつもの仕事だ。
こつ、こつ、と。
箱の外でタップの指が辛抱づよく、鳴りつづけていた。
読んでくれてありがとう。
箱は仁の脳を薪にして燃えている。――凪いだ静けさは、長くはもたない。




