第2話 回収屋
逃げる少女を追って、仁は雨の裏町へ。
消す側だった男に、はじめて「消される番」が回ってくる。
裸足の足音が、雨を蹴っていた。
仁はその背中を追う。少女は細い路地を右へ左へ、迷いもなく折れていく。行き先を知っている足だ。助けを求めて逃げる人間の走り方じゃない。
「おい。どこへ行く気だ」
「しゃべると、舌を噛むよ」
言ったそばから、少女は小さく「いた」と呻いた。自分で噛んだらしい。かわいげがあるのやらないのやら、仁には判断がつかない。
背後で第三階層の警報が、層を伝って降りてくる。ぶうん、ぶうん、と空気そのものが軋むような音だ。統治局が「回収」を始める合図。消し損ねた対象と、命令に背いた実行者。今夜の獲物は、たぶんその両方だった。
視界の隅に、見慣れない赤い枠が灯る。
《実行者ID:0 状態――保留》
《再評価中》
保留。消す側から消される側へ、天秤が傾きかけている。
角を折れたところで、少女がぴたりと足を止めた。仁は危うく、背中にぶつかる。配管街の外れ、古い立体駐車場の入り口だった。錆びたシャッターが半分だけ落ちて、下に人ひとりぶんの隙間が空いている。少女はためらいなく身を屈め、そこへ滑り込んだ。
「入って。早く」
一拍だけ迷って、仁も続いた。
中は、雨の音が遠かった。油と埃と、冷えたコンクリートの匂い。天井の非常灯が一つだけ、赤くまばたきしている。廃車が数台、タイヤを潰したまま眠っていた。
少女は抱えていた紙袋を、当たり前みたいに床へ置く。中を覗いて、割れた卵に「あーあ」と眉を寄せた。
「豆腐は無事。葱も。まあ、鍋はできるね」
「……お前、いま、そこ気にするとこか」
「お腹すいてるもん」
仁は返す言葉をなくして、シャッターの隙間から外をうかがった。雨。ネオンのにじみ。人影はない。まだ、ない。
だが時間の問題だった。消し損ねた対象を、統治局が放っておくはずがない。ましてやその対象は、消せない。世界OSにとって、消せないバグほど恐ろしいものはない。放っておけば増え、やがてシステムそのものを疑いはじめるから、何よりも先に消す。
仁は、赤く点滅しつづける「保留」の文字をもう一度見た。天秤はまだ揺れている。今この子を突き出せば、元の側へ戻れるのかもしれない。掃除屋のゼロとして。何も背負わない、ただの指として。
ちらりと、少女を見た。
少女は割れた卵を指でつまんで、しげしげと眺めていた。もったいない、とでも言いたげに。突き出すなんてことを、微塵も疑っていない横顔で。
仁は視線を、外へ戻す。
「名前」
「え?」
「お前の名前だ。呼ぶのに要る」
少女は濡れた前髪を指で払った。しずくが、ぱたっと床に落ちる。
「リア」
「リア」
「うん。あなたはゼロ。……ほんとは、ちがう名前も知ってるけど」
仁の胸の奥で、なにかがことりと鳴った気がした。神坂仁。母がつけた名前だ。看板にも書類にも、どこにも出していない。掃除屋に本名はいらない。なのに。
問いただそうとした、そのとき。
視界いっぱいに、白い手のかたちのアイコンがふわりと浮いた。仁のものじゃない。他人の操作だ。
「――伏せろ」
リアの肩を掴んで、廃車の陰へ引き倒す。次の瞬間、二人がさっきまで立っていた床が、しゃぼん玉みたいにぐにゃりと歪んだ。空間がつままれ、伸ばされ、ねじられて、コンクリートが波打ち、また元へ戻る。
「もう見つけたのか」
舌打ちする。あれはピンチとドラッグの合わせ技。使い手がいる。
「やっほー、ゼロせんぱい」
声は、シャッターの上、朽ちた梁から降ってきた。
若い男がそこに膝を抱えて座っている。二十歳そこそこだろう。統治局の白い制服を、わざと着崩している。人懐こい笑顔。両手の指には、仁と同じ黒い手袋。右手の人差し指だけ、黄色い糸で雑に繕ってある。統治局の支給品にしては、みっともない縫い目だった。
「操崎累。回収担当。せんぱいのこと、ずっと憧れてたんすよ、ほんとに」
「……回収屋か」
「タップって呼んでください。こっちのが通りがいいんで」
タップは梁の上から、ひらりと指を振った。とたん、仁の足元の影がするりと横へ滑る。ドラッグだ。仁は爪先で床を蹴り、体ごと逆へ跳んだ。
「うわ、避けた。さすがっす」
「用件を言え」
「んー、二つ。ひとつ、そこの女の子を回収。ふたつ、せんぱいも一緒に回収。……あ、怒らないでくださいね。おれ、命令を数えてるだけなんで。誰を消したかとか、いちいち覚えてないし」
覚えていない。
その一言が、仁の耳の奥をちりっと焼いた。こいつは消しても、なにも持ち帰らない。残響も、最期の声も、割れた茶碗も。世界が「なかったこと」にする側の人間だ。手が綺麗なままでいられる。
うらやましい、と一瞬でも思った自分に、少しむかついた。
「その子には触るな」
「無理っすよ。命令なんで」
タップの指が、リアへ向く。白い手のアイコンが、リアの輪郭をつまむ。
――弾かれた。
ばちん、と乾いた音。タップの体が見えない壁に押し返されて、梁の上でぐらついた。
《READ-ONLY》
深紅の文字が、今度はタップの視界にも出たらしい。彼はきょとんと、自分の指先を見た。
「……え。なにこれ。読み取り専用って、なに」
初めて、その顔から笑みが消えた。
「せんぱい。この子、なんなんすか」
「知らん。俺が訊きたい」
遠くでまた、警報が層を跨いだ。タップはちらりと梁の外を見て、それからいつもの笑顔に戻る。ただ、目の奥だけ笑っていない。
「なあ」仁は訊いた。「その"上"ってのは、誰だ。命令を出してる管理者ってのは、どんな奴だ」
「さあ?」タップは、けろりと首をかしげた。「顔なんて、誰も見たことないっすよ。名前も。……"いる"ってことに、なってるだけ。おれら回収屋は、そいつの命令を数えてるだけっす。──でも、噂は聞くな。いちばん上のあいつは、たぶん、自分が昔、誰だったのかも、もう覚えてないって。そういう"のっぺらぼう"らしいっすよ」
冗談めかした、軽い声だった。なのに、仁の首の裏が、ひやりとした。
「今日は報告だけにしときます。上に持って帰らなきゃいけないんで。……でもせんぱい」
彼は指を、ひとつ鳴らした。
「次はおれも、命令を数え終えてるんで。そのときはちゃんと消しますね。せんぱいのこと」
白い手のアイコンが、ふっと消える。梁の上に、もう誰もいなかった。座っていた痕跡ひとつ、残さずに。
雨の音だけが戻ってくる。仁は、詰めていた息をゆっくり吐いた。
振り返ると、リアが廃車の陰からこちらを見上げていた。膝を抱えて、少しだけ寒そうに。
仁は廃車の足元から油臭いゴムマットを引きずり出し、リアの裸足の下へ蹴った。
「なにこれ」
「床よりは、ましだ」
「やさしいね」
「油で足が汚れる」
「もう汚れてるよ」
見れば、そのとおりだった。仁は黙った。
「ねえ」
「なんだ」
「今の、こわくなかったの? 消されるって言われたのに」
「慣れてる。……お前はこわかったか」
リアは首を横に振った。それから、ふっと泣きそうな顔で笑う。あの雨の路地で見たのと、同じ笑い方だった。
「あなたが庇ってくれると思ってたから」
仁は答えられなかった。庇ったのは、ただの反射だ。理由なんてなかった。なかったはずだ。
「なあ」紙袋を拾い上げる。「お前、なんで俺の本名を知ってる」
リアはしばらく黙っていた。非常灯の赤が、彼女の頬で明滅する。
「あなた、わたしを覚えてないんだね」
問いには、答えなかった。
ただ、その声があんまり静かだったから。仁は、なにか取り返しのつかないものをとっくの昔に落としてきたような気がして、雨の底でしばらく動けなかった。
読んでくれてありがとう。
顔も名前も忘れた"のっぺらぼう"が、いちばん上にいるらしい。――その噂だけ、覚えておいてください。




