↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スワイピング・ゼロ  作者: 源三郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

第1話 雨の底にいるもの

 指を横に払うだけで、人がひとり消える。

 そんな街で「掃除屋」をやっている男の話を、はじめます。

 この世界で、神坂(かみさか)仁(じん)に消せないものは、なかった。


 指を横に払うだけで、人ひとりが消える。肉も、声も、帰りを待っていた誰かの記憶も。まとめて、世界から。最初からそんな人間はいなかったことに、世界のほうが勝手に辻褄を合わせる。世界OS公認の掃除屋――それが、仁の裏の稼業だった。


 なのに昼の仁は、その同じ指で、まるで逆のことをしている。人の消したい記憶を、消さずに“預かって”いた。


 ――その指が、たった一人の少女の前で、初めて止まる夜が来るまでは。


  *


 忘れたい記憶ほど、どういうわけか隅々まで残っている。


 殴られた頬のじんとした熱。倒れた拍子に目に入った、冷蔵庫の下の埃のかたまり。出ていく父が履き違えていった、左右で色のちがう靴下。そんなどうでもいいものばかりが律儀に居座って、肝心なものほど先に薄れていく。


 だから仁は、記憶を消す仕事を、心のどこかで信じていなかった。それを生業にしていながら。


 この街には、もう一つのやり方がある。仁の店に払う金のない連中の、やり方だ。消される前に、いちばん失くしたくない記憶を、小さな物へ移しておく。硬貨、ボタン、瓶の蓋、写真の切れ端。指の熱で、念を押し込むように。そうして遺した物を、この街では形見(かたみ)と呼んだ。妙なもので、世界OSは人の頭なら容易に書き換えるくせに、物にしがみついた記憶だけは、うまく消せないのだ。


「ほんとうに、消えるんですか」


 椅子の女がそう訊いた。三十を少し過ぎたくらいだろうか。濡れた買い物袋を膝に抱えて、さっきから持ち手をねじっている。袋の口からは、安売りの長葱が一本、所在なげに首を出していた。


「消えませんよ」


 神坂(かみさか)仁は短く返す。


 女の指が止まった。


「でも、看板には……嫌な記憶を消します、って」


「客を入れるための嘘です。忘れさせるわけじゃない。思い出しにくいところへ、ずらすだけだ」


「それ、同じじゃないですか」


「ちがう」


 少し強く言いすぎた、と思う。


 仁は目を伏せて、古机の端を指の腹で二度叩いた。謝るかわりの癖だ。口で謝ると、どうしても嘘くさくなる。これなら、少なくとも失敗しない。


 窓の外では、防汚ガラスが雨で白く曇っていた。第三階層(だいさんかいそう)まで落ちてくるころには、雨はもう鉄の匂いがする。軒のネオンがにじんで、診療所とも質屋ともつかない狭い店を、病人の頬みたいな青に染めていた。


「つらかったことが、なかったことになるわけじゃありません。ただ、そこへ続く道を一本だけ切る。寝る前に勝手に戻ってくるやつは、たぶん減ります」


「たぶん、なんですね」


「絶対って言う奴のほうを、信用しないほうがいい」


 女は泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ笑った。


 仁は手を伸ばし、女の右耳のうしろに触れる。皮膚の下の小さな端子が、彼の視界のなかだけで淡く縁取られて光った。そこに、女には見えない窓が浮いている。


 誰かの怒鳴り声。割れる皿。床に散った、白い花柄の破片。女のものではないはずの恐怖が、ほんの一瞬だけ爪の内側に入り込んで、仁の胃をひっくり返しかけた。


 それでも指は離さない。


 その記憶のかたまりを、意識の隅に開けた灰色の箱へそっと移す。消すのではなく、しまう。取り出そうと思えば、いつか取り出せる。そうでなくちゃいけない、と仁は思っている。理由は、自分でもうまく言えないままだ。


「終わりました」


 女は何度か瞬きをした。


「……あの人の、顔が」


 口元に手をあてる。


「思い出せない」


「無理に探さないで」


「悲しいのに、ですか」


「その悲しさは、あなたのものだから。持っていっていい」


 女は五百クレジット硬貨を三枚、机に置いた。規定料金には一枚足りない。仁は、数えなかったふりをした。


 扉が閉まると同時に、机の下のバケツへ吐いた。


 他人の恐怖は、何度飲み込んでも他人の味しかしない。喉の奥がひりつく。水道の水で口をすすいでいると、視界のまんなかを赤い線が横に走った。


 警告音は鳴らない。音なんかなくても逆らえないと、向こうはとっくに知っている。


《強制割り込み》

《デバッグ対象 三》

《座標転送》

《実行者ID:0》

《応答猶予 十秒》


「……せめて、飯くらい食わせろよ」


 誰も聞いていない。


 残り七秒で、右耳の奥がじりっと熱を持った。


 一度だけ、命令を無視したことがある。三年前の冬だ。それから仁は、母の声を思い出せなくなった。顔は残っている。笑ったところも、口が動くところも。なのに声だけがない。刃物で、そこだけ四角く切り抜いたみたいに。


 もう一度でいいから、あの声が聞きたい。消すのではなく「しまう」やり方に仁がこだわるのは、つまるところ、それだけの理由だった。いつか自分のぶんも、取り戻せるように。


 次に逆らえば、今度は何を持っていかれるのか。それは知らない。試す気は、とっくに失せている。


 引き出しから黒い手袋を出して、右手にはめた。店の灯りを落とす。


 五分後、彼は青果店の紙袋を抱えて、雨のなかを歩いていた。葱、豆腐、期限まぎわの卵。今夜の鍋の中身だ。人を殺しにいく人間の買い物にしては、ずいぶん間が抜けている。だが卵を店に置いてくれば、明日の朝めしが消える。世界の都合で腹はふくれない。


 指定された座標は、配管街の裏路地だった。


 角を曲がる前から、三人いるのがわかった。世界の表面にうっすら重なった識別の枠が、その三人ぶんだけ赤く脈打っている。輸送車を襲ったあとらしい。倒れた警備員のそばで、銀色のケースが一つ、雨に転がっていた。


「止まれ」


 いちばん若い男が、銃を向けてくる。


 仁は紙袋を、濡れない軒下にそっと置いた。


「その人、生きてるか」


「あ?」


「警備員だよ」


「知るかよ。お前もそこで寝てろ」


 引き金に指がかかる。


 仁は右手の親指と人差し指を、すっと開いた。銃口と自分の胸のあいだ、たった五メートルの空間が、飴みたいに引き延ばされる。弾は雨粒を砕きながら飛んできた。速い。それでも、避けるのにあくびが出るくらいには遅い。


 半歩、横にずれる。伸ばした距離を保てるのは三秒。それを越えたら、ごまかしたぶんの近さが一気に戻ってくる。視界の隅で、数字が減る。二、一。


「な――」


 男の顔に「気づき」が届くより先に、仁はその輪郭を二本の指でつまんだ。濡れた路面を、百キロ近い身体がずるりと滑る。男は銃を落とし、喉の奥から子どもみたいな声を漏らした。視界の端で黒い四角が口を開ける。そこへ放り込むと、悲鳴だけが一拍遅れて、ぷつりと切れた。


 残る二人が、左右に散った。判断は悪くない。ただ、遅い。


 右の男が倒れた警備員の襟をつかんで、こめかみに銃口を押しつけた。左の男は、銀のケースを抱えて走りだす。


「動くな! こいつの頭、ぶち抜くぞ!」


 仁は左の男を人差し指で押さえたまま、右の男に中指を重ねた。とたんに視界が、警告の黄色に染まる。こめかみの奥で、焦げた針金みたいなものがぱちっと弾けた。


 同時に触れられるのは、二つまで。三つ目に手を出せば、どれかが指からこぼれる。だからさっきの一人を先に片づけていなければ、この二人には届かなかった。


 銃口が、警備員の皮膚にめり込む。


 仁は二本の指を、交差させた。選んだ二人の立っている場所が、入れ替わる。


 鈍い発砲音。走っていた男の肩が跳ねて、銀のケースが宙を舞った。撃った男は、自分の弾が届いた先を見て、固まっている。


 その一瞬で足りた。二人まとめて手前へ引きずり、あの黒い四角へ落とす。


《削除しますか》


 いつも同じ確認だった。「はい」の下に、ちゃんと「いいえ」がある。まるでこっちに選ばせてやっている、みたいな顔で。


 仁は指を、左へ払った。


 三人が消えた。肉も血も、濡れた足跡も残らない。警備員の横に転がっていた銃さえ、ない。あとは放っておいても、世界のほうでつじつまが埋まる。輸送車は襲われなかったことになり、警備員の傷には、別のもっともらしい理由がつく。帰りを待つ家族がいたとしても、その空白に気づかされることは、二度とない。


 便利なものだ。だから、仁だけが覚えている。


『兄貴、待って』


 消したはずの若い男の声がした。耳のすぐ奥で。


 知らない台所が見える。縁の欠けた茶碗。湯気の向こうで笑う、小さな妹。金を持って帰ると約束した。今日で最後にするから、と言った――。


「……うるさい」


 こめかみを押さえる。


 消された人間の記憶は、行き場をなくす。世界が引き取らない残りかすは、始末した仁の脳へそのまま流れ込んでくる。何人ぶん溜まっているのか、もう数えていない。数えたら、二度と眠れなくなる気がして。


 警備員が、小さく呻いた。生きている。仁は膝をついて呼吸をたしかめ、救護局へ匿名でつないだ。


 ――三人とも、殺さずに済んだんじゃないのか。妹の声がそう責めてくる。いや。あれは妹の声じゃない。仁が勝手に作りあげた声だ。答えは出ない。答えの出ないまま、人を消すことだけが、いつまでもうまくなっていく。


 紙袋を拾いあげる。卵が二つ、割れていた。


「……最悪だ」


 そのとき、二本目の赤い線が視界を裂いた。


《追加タスク》

《緊急度:最上位》

《対象:不明》


 座標は、ここから三十メートル先。仁の嫌な予感は、だいたい当たる。


 細い路地の、いちばん奥。少女が立っていた。


 傘もささず、裸足で。白いワンピースが雨を吸って肌に貼りつき、黒い髪の先から雫がぽたぽたと落ちている。十七、八だろうか。怯えているのかと思ったが、ちがった。少女は、古い知り合いでも待っていたみたいな目で、まっすぐ仁を見ていた。


「ゼロ」


 少女が、彼の名を呼んだ。


 仁は紙袋を、足元に置く。


「……どこでそれを」


「ずっと知ってたよ」


「俺はお前を知らない」


「うん。消されたからね」


 頭のなかの痛みが、ふっと消えた。


 若い男の声も、知らない誰かのすすり泣きも、脳をこすりつづける何百人ぶんもの残響(ざんきょう)も。ぜんぶ、いっぺんに黙った。静かだった。静かすぎて、仁はそれをこわいと思った。


 少女が、くしゅんとくしゃみをした。それから、ずず、と洟をすすって、手の甲で乱暴に鼻の下をこする。二人のあいだに、なんとも締まらない沈黙が落ちた。


「……いまの、忘れて」


「悪いな。そういう仕事は、さっき店じまいした」


 少女はむっと眉を寄せた。その顔だけは、世界の秘密でも致命的なバグでもない。ただ雨に濡れて、寒くて、ついでにちょっと腹を立てている、そのへんの娘の顔だった。


「相変わらず、意地わるい」


「初対面だ」


「あなたにとっては、ね」


《対象を完全消去してください》


 命令文の下で、承認待ちの赤いボタンが明滅している。


 仁は少女へ手を伸ばした。輪郭をつまむ。――そのはずだった。


 指先が、硬いなにかに弾かれる。衝撃で右腕が痺れ、手袋の縫い目が裂けた。視界いっぱいに、見たこともない深紅の文字が広がる。


《ACCESS DENIED》

《READ-ONLY》


 読み取り専用。


 あれだけ世界から人を消してきた指が、はじめて、なにひとつ動かせなかった。


 少女は雨に濡れたまま、少しだけ悲しそうに笑う。


「やっぱり、あなたには消せないんだ」


 その目が、仁の足元に落ちた。


「……卵、また割ったの?」


 今度こそ、仁は息をするのを忘れた。


 遠くで、第三階層の警報が鳴りはじめる。少女は音のしたほうを見あげると、仁の返事も待たずに足元の紙袋をひょいと拾いあげた。割れた卵の入った袋を、当たり前みたいに自分の胸へ抱える。


「走って。今度は、あなたが消される番だよ」


 裸足のまま、路地を駆けだす。助けを待っていた走り方じゃない。行く先を最初から決めていた、足だった。


 仁は一秒だけ迷って、その細い背中を追った。


 読んでくれて、ありがとうございました。

 あらゆる指で消せるはずが、たった一人だけ弾かれた。――その少女が何者なのかは、次話から少しずつ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。