仕事のあとに
土曜の昼前、冬真が棚に市内地図を補充していると、案内所の入口から見覚えのある男が入ってきた。
背が高く、明るい茶色の髪を短くしている。
「あ」
向こうも冬真に気づいた。
「こんにちは」
「こんにちは」
前に真岡から北へ向かう道路のことを聞いていたロシア人だ。
名前はたしか、アレクセイ・ヴォローニン。
富樫も気づいたらしい。
「先日はどうも」
「ありがとうございました。西海岸、見てきましたよ」
ヴォローニンは壁へ目を向けた。
小能登呂岬のポスターは、もう外されている。代わりに二鷲崎展望台の大きな写真が貼られていた。
海が水平線まで広がり、北の端に小さく岬が見える。
「これは?」
「二鷲崎です」
芽瑠萌が答えた。
「小能登呂の少し南にあります」
「きれいですね」
「私が撮りました」
言ってから、芽瑠萌は少しだけ照れたように写真を見た。
「この前行ってきたんです。現地確認で」
「そうなんですか」
ヴォローニンは二人を見た。
「もう立派な観光案内の人ですね」
冬真は笑った。
「まだ全然です」
「今日は何かお探しですか?」
富樫が聞いた。
ヴォローニンは市内地図を一枚取った。
「豊原を上から見たいんです。市街地全体が見えるところはありますか?」
「それなら旭ヶ丘ですね」
富樫が地図の上で、市街地の東側を指した。
平地の街並みが終わり、そのまま山へぶつかるところに旭ヶ丘がある。
冬はスキー場になり、山麓からゴンドラが延びている。山の上からなら、碁盤目の市街と、その西を流れる鈴谷川、その向こうへ長く延びる鈴谷平野まで見渡せる。
「山頂まで上がれますか?」
「夏もゴンドラが動いてますよ。今日は――」
富樫が端末を確認する。
「二十時までですね」
「帰りの最終も二十時?」
「上りが十九時半、下りが二十時です」
ヴォローニンは市内地図の余白に、細い黒のボールペンで時刻を書き込んだ。数字は小さく、妙に揃っていた。
「北の方は、どこまで見えますか?」
「天気次第ですけど、かなり先まで見えますよ」
「市街地の北端も?」
「見えると思います」
「鈴谷川の橋も見えますか?」
「大きい橋なら分かると思います」
「望遠鏡はありますか?」
富樫が少し考えた。
「山頂にあったかな」
「双眼鏡を持っていった方がよさそうですね」
ヴォローニンは地図の上を指でなぞった。
「南側は? 空港の方も見えますか」
「見えますよ。かなり遠いですけど」
「なるほど」
ヴォローニンは満足そうに地図を畳んだ。
「夕方に行ってみます。ありがとうございます」
帰り際、冬真と芽瑠萌にも軽く頭を下げた。
「旭ヶ丘って、そんなに見えるんですか?」
ヴォローニンが出ていったあと、冬真が聞いた。
富樫が冬真を見る。
「豊原の人でしょ?」
「小学校のとき行った気がします」
「気がする」
「遠足だったかな」
芽瑠萌が言った。
「私、行ったことない」
「マジで?」
「うん。下から見たことはあるけど」
冬真は市内地図を見た。
学校や駅からでも、東を向けば山は見える。わざわざあの上に登って毎日いる街を見下ろすという発想が、冬真には今までなかった。
「俺も覚えてないし、同じようなもんか」
芽瑠萌も地図を覗いた。
「近いのにね」
*
五時に勤務が終わり、芽瑠萌は更衣スペースでベストを脱いだ。
白いブラウスから薄手のカットソーに着替え、上着を羽織ってから結んでいた髪をほどく。
外から声が聞こえた。
「じゃ、お疲れさまでした」
「お疲れー」
冬真だった。
芽瑠萌の手が止まった。
佐々木くんが帰る。
そう思った途端、髪を直す手が少し速くなった。
バッグを肩に掛ける。ロッカーを閉める。一度閉めてから、中にスマートフォンを忘れたことに気づいて、少し慌て気味に開け直した。
何を急いでいるんだろうと思った。
駅まで一緒に帰る約束なんてしていない。
スマートフォンをバッグへ入れて事務室を出ると、冬真はまだいた。
「これ、いつのですか?」
冬真がカウンターの端に置かれた段ボール箱を見ている。
「何が?」
菅原が聞いた。
「この落とし物。キツネ」
箱から、小さなキツネのぬいぐるみが顔を出していた。
「ああ、それ昨日」
「取りに来ます?」
「電話はあった。今日来るって」
「じゃあまだなんですね」
「うん」
「これ、売店のやつですか?」
「たぶん」
「エトピリカより可愛いな」
「六千六百円の?」
「そうです」
「佐々木くん、あれ気に入ってるでしょ」
「高いなって毎週見てるだけです」
菅原が笑った。
冬真が顔を上げて、芽瑠萌に気づいた。
「あ、黒川」
「お疲れ」
「お疲れ」
「じゃあ二人とも、またね」
菅原が言う。
そのまま自然に二人で案内所を出る流れになった。
冬真は、どうして帰り際に落とし物のキツネが気になったのか、自分でもよく分かっていなかった。
芽瑠萌も、自分がどうして急いで着替えたのか、もう考えていなかった。
向かいの店先には、まだ六千六百円のエトピリカが座っている。
「まだいるね」
芽瑠萌が言った。
「いつもいるな」
「売れてないのかな」
「売れて、補充されてる可能性もある」
芽瑠萌は少し考えた。
「じゃあ、私たち毎週違うエトピリカ見てる?」
「怖いこと言うなよ」
「佐々木くんが言ったんだよ」
一階へ下りると、ガラスの外に午後の街があった。
時計は五時を過ぎているが、太陽はビルのずっと上にあり、空は青く澄んでいた。
内地はもっと早く暗くなるらしいが、この時期の豊原では八時過ぎまで空が明るい。
いつもならそのまま地下へ入って駅へ向かう。
だが、今日はエスカレーターの下で冬真が立ち止まった。
「黒川、このあと何かある?」
芽瑠萌が振り向いた。
「ないよ」
「じゃあ、外でなんか食ってかない?」
少しだけ間があった。
「……うん」
「駅の向こう行こうぜ」
「いいよ」
冬真は一階の出口の方へ歩いた。
*
外へ出ると、日はまだ高く、通りには昼下がりの光が差していた。
二人で大通りを渡る。
ミルカラの向かい側には三越があり、その先にも百貨店やファッションビルが続いている。ルイ・ヴィトンやグッチの看板に混じって、交差点の角にはカルティエの路面店があった。
家電量販店の壁にはロシア語と韓国語で免税の広告が出ている。ホテルやオフィスの高層階がその上に重なり、横道にも人の流れが続いていた。
「この辺、地下だとどこだ?」
冬真が足元を見る。
「どこだろ」
二人で少し考えた。
「あ、カルティエの下、ダイソーじゃない?」
「その隣TSUTAYAだ」
「あ、ほんとだ」
「なんか変な感じだな。地上なんて、ほとんど出ないし」
芽瑠萌も笑った。地下では何度も歩いている場所なのに、地上の店と重ねて考えたことはなかった。
「どっち行く?」
芽瑠萌が聞いた。
「決めてない」
「ご飯は?」
「それも決めてない」
芽瑠萌が少し笑った。
「じゃあ歩く?」
「うん」
それで決まった。
通り沿いの大型ビジョンでは、薄い髪を短く刈った初老のロシアの大統領が、逞しい上半身を裸にして沿海州の草原を馬で駆けていた。
《極東の自然保護区を視察》という字幕が出ている。
「あの人またやってる」
「この前はアムール川で寒中水泳してた」
隣を歩いていたロシア語の三人組も、画面を見上げて笑っていた。二人はそのまま、ビジョンの下を通り過ぎた。
大通りを少し進むと店の並びが途切れ、広大な慰霊公園が現れた。
石敷きの広場の中央で永遠の火が燃え、その奥には街路樹をはるかに越す慰霊塔と、昭和二十年八月の日付と名前を刻んだ長い石壁が続いていた。
二人はその横を歩いた。
「あ、あそこまだある」
冬真が言った。
小さなゲームショップだった。
「知ってるの?」
「中学のとき来た」
「入る?」
「黒川、ゲームやる?」
「やるよ」
店へ入りながら、冬真が聞いた。
「何やるの?」
「最近はポケモン。あと、どうぶつの森」
「あ、ポケモン俺もやってた」
「ほんと?」
芽瑠萌の声が少し上がった。
「去年だけど。途中で止まってる」
「どこまで?」
冬真が答えると、芽瑠萌は少し笑った。
「そこから面白くなるのに」
そう言いながら、棚に掛かっていたニャオハのアクリルキーホルダーを手に取った。
そこからしばらく、食事のことを忘れた。
ゲームショップを出た後は服を見て、その先のスポーツ用品店にも入った。
冬真が陸上用品の棚を見ている横で、芽瑠萌が二足のランニングシューズを見比べた。
「これ、何が違うの?」
「全然違う」
「見た目は似てるよ」
冬真は一足を棚から取った。
「こっちは普通に走る練習用。俺もこういうの履いてる。で、こっちは速い練習とかレース用」
「履いたら分かる?」
「分かる。こっち、持ってみて」
芽瑠萌が受け取る。
「軽い」
「でしょ。底も違う」
冬真は靴を裏返して、厚いソールを指で押した。
「こっちは柔らかくて、毎日走っても脚に来にくい。こっちはプレート入ってて、踏むと返ってくる感じ」
「板が入ってるの?」
「カーボン。まあ、俺が試合で履くのはこれじゃなくてスパイクだけど」
「へえ」
芽瑠萌は本当に感心したように靴底を見た。
冬真は少し嬉しくなって、プレートがどうとか反発がどうとか、四百メートルだと最後の百メートルで脚が動かなくなるとか話した。
途中で、
「ごめん、興味ないよな」
と言うと、芽瑠萌は首を振った。
「ううん。知らないから面白い」
冬真はもう少し話した。
*
六時半を過ぎて、ハンバーガー店に入った。
外はまだ夕暮れには遠い。
冬真はダブルチーズバーガーのセット。
芽瑠萌はチーズバーガーとポテト、アイスティー。
「結構歩いたな」
冬真が言った。
「うん」
「黒川、疲れた?」
「少し。でも楽しい」
言ってから、芽瑠萌はアイスティーを飲んだ。
冬真は一瞬だけ黙った。
「俺も」
芽瑠萌が目を上げる。
冬真はポテトを食べた。
「そういや、白石さんとはよくこういうとこ来る?」
「菜月? 来るよ。学校帰りとか」
「何するの?」
「買い物したり、映画見たり。あとはずっと喋ってる」
「何を?」
芽瑠萌が笑った。
「いろいろ」
「一番分かんないやつ」
「佐々木くんは江口くんと何話すの?」
「部活とか、飯とか」
「それだけ?」
「……あと何だろ」
考えると、説明できなかった。
芽瑠萌が少し笑う。
冬真も笑った。
「黒川ってさ」
「うん」
「学校だと、もうちょっと静かだよな」
芽瑠萌の手が止まった。
「そうかな」
「俺が見てるときだけかも」
「学校だと……あんまり男子と話さないから」
「そうなの?」
「うん。話すことがあれば話すけど」
芽瑠萌はストローを指で少し回した。
「何話したらいいか分からないときがある」
「俺とは?」
冬真が聞いた。
芽瑠萌が顔を上げた。
「え」
「今、普通に喋ってるじゃん」
「……佐々木くんは」
そこで言葉が止まった。
冬真は待った。
「バイトでずっと一緒だったから。もう、大丈夫」
「大丈夫って」
冬真が笑う。
芽瑠萌も少し笑った。
「変な意味じゃなくて」
「分かってるよ」
「ならいいけど」
芽瑠萌は少し赤くなって、アイスティーを飲んだ。
*
店を出たところで、冬真がスマートフォンを出した。
「そういやさ」
「うん?」
「俺らLINE知らないよな」
芽瑠萌が一瞬止まった。
「……うん」
「交換しない?」
「うん」
返事は一瞬だった。
二人ともスマートフォンを出す。
芽瑠萌のQRコードを冬真が読み取る。アイコンは、雪の積もった林だった。
「これどこ?」
「敷香。前に住んでたとき撮った」
「自分で?」
「うん」
「いいじゃん」
芽瑠萌は少しはにかむように笑った。
冬真のアイコンは陸上競技場で走っている写真だった。
「小さいね」
「何が?」
「佐々木くん」
「写真だからな」
「そうじゃなくて」
芽瑠萌が画面を見ながら笑う。
冬真も覗き込んだ。
肩が触れそうになり、芽瑠萌がほんの少しだけ動いた。離れるというより、どうしたらいいのか迷ったような動きだった。
冬真も少し距離を戻した。
*
駅へ戻る途中、冬真が東の空を見た。
街の向こうに旭ヶ丘の山が見える。斜面はまだ明るく、稜線も青い空にはっきりしていた。
「黒川」
「何?」
「あそこ、今度行ってみない?」
芽瑠萌も山を見る。
「旭ヶ丘?」
「俺もちゃんと覚えてないし。黒川行ったことないんだろ」
「うん」
「じゃあ行こうぜ」
芽瑠萌は少し黙った。
「……二人で?」
冬真も一瞬だけ黙った。
「そのつもりだったけど」
芽瑠萌は冬真を見て、それから前を向いた。
「……うん。行きたい」
冬真は少しだけ嬉しくなった。
「じゃ、いつ行くかLINEで決めよう」
「うん」
*
駅に着いたのは、八時を少し過ぎたころだった。それでも夜ではなかった。
太陽はもう沈んでいたが、空はまだ青く、街の西側だけが淡く明るかった。雲の縁には、わずかに黄色が残っている。東京ならとっくに街灯だけの時間なのに、豊原ではまだ夕方の明るさが残っていた。
改札の前で二人は止まった。
「じゃあ、また月曜」
冬真が言う。
「うん。またね」
「今日はありがとな」
「私も。ありがとう」
それだけ言って別れた。
*
地下鉄に乗ってから、冬真はスマートフォンを開いた。
LINEの友だち一覧に《黒川芽瑠萌》がいる。
トーク画面を開く。
まだ何もない。
《今日は楽しかった》
打ってみる。
見た瞬間、妙に恥ずかしくなった。
消す。
《旭ヶ丘いつ行く?》
まだ早い気がする。
消す。
スタンプだけ送ろうかと思って、やめた。
別に、月曜に会う。
次のバイトも一緒だ。
連絡先を交換したからといって、今すぐ何か送らなければならないわけでもない。
冬真は画面を閉じた。
十秒くらいしてから、また開いた。
何も増えていなかった。
*
芽瑠萌もスマートフォンを見ていた。
冬真とのトーク画面は白いままだった。
《今日はありがとう》
打つ。
少し考える。
消す。
今さら送ったら、わざわざ家に帰る途中まで冬真のことを考えていたみたいだった。
そこまで考えてから、芽瑠萌はスマートフォンを伏せた。
電車の窓の外は、まだ完全には暗くなっていない。
少しして、また画面を表にした。
まだ通知はなかった。




