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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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9/28

仕事のあとに

土曜の昼前、冬真《ふゆま》が棚に市内地図を補充していると、案内所の入口から見覚えのある男が入ってきた。

背が高く、明るい茶色の髪を短くしている。


「あ」


向こうも冬真に気づいた。


「こんにちは」

「こんにちは」


前に真岡《まおか》から北へ向かう道路のことを聞いていたロシア人だ。

名前はたしか、アレクセイ・ヴォローニン。


富樫《とがし》も気づいたらしい。

「先日はどうも」

「ありがとうございました。西海岸、見てきましたよ」

ヴォローニンは壁へ目を向けた。


小能登呂《このとろ》岬のポスターは、もう外されている。代わりに二鷲崎《にわしざき》展望台の大きな写真が貼られていた。

海が水平線まで広がり、北の端に小さく岬が見える。


「これは?」

「二鷲崎です」

芽瑠萌《めるも》が答えた。

「小能登呂の少し南にあります」

「きれいですね」

「私が撮りました」

言ってから、芽瑠萌は少しだけ照れたように写真を見た。

「この前行ってきたんです。現地確認で」

「そうなんですか」

ヴォローニンは二人を見た。

「もう立派な観光案内の人ですね」

冬真は笑った。

「まだ全然です」


「今日は何かお探しですか?」

富樫が聞いた。

ヴォローニンは市内地図を一枚取った。

「豊原を上から見たいんです。市街地全体が見えるところはありますか?」

「それなら旭ヶ丘ですね」

富樫が地図の上で、市街地の東側を指した。


平地の街並みが終わり、そのまま山へぶつかるところに旭ヶ丘がある。

冬はスキー場になり、山麓からゴンドラが延びている。山の上からなら、碁盤目の市街と、その西を流れる鈴谷《すすや》川、その向こうへ長く延びる鈴谷平野まで見渡せる。


「山頂まで上がれますか?」

「夏もゴンドラが動いてますよ。今日は――」

富樫が端末を確認する。

「二十時までですね」

「帰りの最終も二十時?」

「上りが十九時半、下りが二十時です」


ヴォローニンは市内地図の余白に、細い黒のボールペンで時刻を書き込んだ。数字は小さく、妙に揃っていた。


「北の方は、どこまで見えますか?」

「天気次第ですけど、かなり先まで見えますよ」

「市街地の北端も?」

「見えると思います」

「鈴谷川の橋も見えますか?」

「大きい橋なら分かると思います」

「望遠鏡はありますか?」

富樫が少し考えた。

「山頂にあったかな」

「双眼鏡を持っていった方がよさそうですね」

ヴォローニンは地図の上を指でなぞった。


「南側は? 空港の方も見えますか」

「見えますよ。かなり遠いですけど」

「なるほど」

ヴォローニンは満足そうに地図を畳んだ。

「夕方に行ってみます。ありがとうございます」

帰り際、冬真と芽瑠萌にも軽く頭を下げた。


「旭ヶ丘って、そんなに見えるんですか?」

ヴォローニンが出ていったあと、冬真が聞いた。

富樫が冬真を見る。

「豊原の人でしょ?」

「小学校のとき行った気がします」

「気がする」

「遠足だったかな」

芽瑠萌が言った。

「私、行ったことない」

「マジで?」

「うん。下から見たことはあるけど」


冬真は市内地図を見た。

学校や駅からでも、東を向けば山は見える。わざわざあの上に登って毎日いる街を見下ろすという発想が、冬真には今までなかった。

「俺も覚えてないし、同じようなもんか」

芽瑠萌も地図を覗いた。

「近いのにね」


     *


五時に勤務が終わり、芽瑠萌は更衣スペースでベストを脱いだ。

白いブラウスから薄手のカットソーに着替え、上着を羽織ってから結んでいた髪をほどく。

外から声が聞こえた。

「じゃ、お疲れさまでした」

「お疲れー」

冬真だった。

芽瑠萌の手が止まった。


佐々木くんが帰る。


そう思った途端、髪を直す手が少し速くなった。

バッグを肩に掛ける。ロッカーを閉める。一度閉めてから、中にスマートフォンを忘れたことに気づいて、少し慌て気味に開け直した。


何を急いでいるんだろうと思った。

駅まで一緒に帰る約束なんてしていない。


スマートフォンをバッグへ入れて事務室を出ると、冬真はまだいた。

「これ、いつのですか?」

冬真がカウンターの端に置かれた段ボール箱を見ている。

「何が?」

菅原が聞いた。

「この落とし物。キツネ」

箱から、小さなキツネのぬいぐるみが顔を出していた。

「ああ、それ昨日」

「取りに来ます?」

「電話はあった。今日来るって」

「じゃあまだなんですね」

「うん」

「これ、売店のやつですか?」

「たぶん」

「エトピリカより可愛いな」

「六千六百円の?」

「そうです」

「佐々木くん、あれ気に入ってるでしょ」

「高いなって毎週見てるだけです」

菅原が笑った。


冬真が顔を上げて、芽瑠萌に気づいた。

「あ、黒川」

「お疲れ」

「お疲れ」

「じゃあ二人とも、またね」

菅原が言う。


そのまま自然に二人で案内所を出る流れになった。

冬真は、どうして帰り際に落とし物のキツネが気になったのか、自分でもよく分かっていなかった。

芽瑠萌も、自分がどうして急いで着替えたのか、もう考えていなかった。


向かいの店先には、まだ六千六百円のエトピリカが座っている。

「まだいるね」

芽瑠萌が言った。

「いつもいるな」

「売れてないのかな」

「売れて、補充されてる可能性もある」

芽瑠萌は少し考えた。

「じゃあ、私たち毎週違うエトピリカ見てる?」

「怖いこと言うなよ」

「佐々木くんが言ったんだよ」


一階へ下りると、ガラスの外に午後の街があった。

時計は五時を過ぎているが、太陽はビルのずっと上にあり、空は青く澄んでいた。

内地はもっと早く暗くなるらしいが、この時期の豊原では八時過ぎまで空が明るい。


いつもならそのまま地下へ入って駅へ向かう。

だが、今日はエスカレーターの下で冬真が立ち止まった。

「黒川、このあと何かある?」

芽瑠萌が振り向いた。

「ないよ」

「じゃあ、外でなんか食ってかない?」

少しだけ間があった。

「……うん」

「駅の向こう行こうぜ」

「いいよ」

冬真は一階の出口の方へ歩いた。


     *


外へ出ると、日はまだ高く、通りには昼下がりの光が差していた。

二人で大通りを渡る。

ミルカラの向かい側には三越があり、その先にも百貨店やファッションビルが続いている。ルイ・ヴィトンやグッチの看板に混じって、交差点の角にはカルティエの路面店があった。

家電量販店の壁にはロシア語と韓国語で免税の広告が出ている。ホテルやオフィスの高層階がその上に重なり、横道にも人の流れが続いていた。


「この辺、地下だとどこだ?」

冬真が足元を見る。

「どこだろ」

二人で少し考えた。

「あ、カルティエの下、ダイソーじゃない?」

「その隣TSUTAYAだ」

「あ、ほんとだ」

「なんか変な感じだな。地上なんて、ほとんど出ないし」

芽瑠萌も笑った。地下では何度も歩いている場所なのに、地上の店と重ねて考えたことはなかった。


「どっち行く?」

芽瑠萌が聞いた。

「決めてない」

「ご飯は?」

「それも決めてない」

芽瑠萌が少し笑った。

「じゃあ歩く?」

「うん」

それで決まった。


通り沿いの大型ビジョンでは、薄い髪を短く刈った初老のロシアの大統領が、逞しい上半身を裸にして沿海州の草原を馬で駆けていた。

《極東の自然保護区を視察》という字幕が出ている。

「あの人またやってる」

「この前はアムール川で寒中水泳してた」

隣を歩いていたロシア語の三人組も、画面を見上げて笑っていた。二人はそのまま、ビジョンの下を通り過ぎた。


大通りを少し進むと店の並びが途切れ、広大な慰霊公園が現れた。

石敷きの広場の中央で永遠の火が燃え、その奥には街路樹をはるかに越す慰霊塔と、昭和二十年八月の日付と名前を刻んだ長い石壁が続いていた。

二人はその横を歩いた。


「あ、あそこまだある」

冬真が言った。

小さなゲームショップだった。

「知ってるの?」

「中学のとき来た」

「入る?」

「黒川、ゲームやる?」

「やるよ」

店へ入りながら、冬真が聞いた。

「何やるの?」

「最近はポケモン。あと、どうぶつの森」

「あ、ポケモン俺もやってた」

「ほんと?」

芽瑠萌の声が少し上がった。

「去年だけど。途中で止まってる」

「どこまで?」

冬真が答えると、芽瑠萌は少し笑った。

「そこから面白くなるのに」

そう言いながら、棚に掛かっていたニャオハのアクリルキーホルダーを手に取った。

そこからしばらく、食事のことを忘れた。


ゲームショップを出た後は服を見て、その先のスポーツ用品店にも入った。

冬真が陸上用品の棚を見ている横で、芽瑠萌が二足のランニングシューズを見比べた。


「これ、何が違うの?」

「全然違う」

「見た目は似てるよ」

冬真は一足を棚から取った。

「こっちは普通に走る練習用。俺もこういうの履いてる。で、こっちは速い練習とかレース用」

「履いたら分かる?」

「分かる。こっち、持ってみて」

芽瑠萌が受け取る。

「軽い」

「でしょ。底も違う」

冬真は靴を裏返して、厚いソールを指で押した。

「こっちは柔らかくて、毎日走っても脚に来にくい。こっちはプレート入ってて、踏むと返ってくる感じ」

「板が入ってるの?」

「カーボン。まあ、俺が試合で履くのはこれじゃなくてスパイクだけど」

「へえ」

芽瑠萌は本当に感心したように靴底を見た。


冬真は少し嬉しくなって、プレートがどうとか反発がどうとか、四百メートルだと最後の百メートルで脚が動かなくなるとか話した。

途中で、

「ごめん、興味ないよな」

と言うと、芽瑠萌は首を振った。

「ううん。知らないから面白い」

冬真はもう少し話した。


     *


六時半を過ぎて、ハンバーガー店に入った。

外はまだ夕暮れには遠い。

冬真はダブルチーズバーガーのセット。

芽瑠萌はチーズバーガーとポテト、アイスティー。


「結構歩いたな」

冬真が言った。

「うん」

「黒川、疲れた?」

「少し。でも楽しい」

言ってから、芽瑠萌はアイスティーを飲んだ。

冬真は一瞬だけ黙った。

「俺も」

芽瑠萌が目を上げる。

冬真はポテトを食べた。

「そういや、白石さんとはよくこういうとこ来る?」

「菜月? 来るよ。学校帰りとか」

「何するの?」

「買い物したり、映画見たり。あとはずっと喋ってる」

「何を?」

芽瑠萌が笑った。

「いろいろ」

「一番分かんないやつ」

「佐々木くんは江口くんと何話すの?」

「部活とか、飯とか」

「それだけ?」

「……あと何だろ」

考えると、説明できなかった。

芽瑠萌が少し笑う。

冬真も笑った。


「黒川ってさ」

「うん」

「学校だと、もうちょっと静かだよな」

芽瑠萌の手が止まった。

「そうかな」

「俺が見てるときだけかも」

「学校だと……あんまり男子と話さないから」

「そうなの?」

「うん。話すことがあれば話すけど」

芽瑠萌はストローを指で少し回した。

「何話したらいいか分からないときがある」

「俺とは?」

冬真が聞いた。

芽瑠萌が顔を上げた。

「え」

「今、普通に喋ってるじゃん」

「……佐々木くんは」


そこで言葉が止まった。

冬真は待った。


「バイトでずっと一緒だったから。もう、大丈夫」

「大丈夫って」

冬真が笑う。

芽瑠萌も少し笑った。

「変な意味じゃなくて」

「分かってるよ」

「ならいいけど」

芽瑠萌は少し赤くなって、アイスティーを飲んだ。


     *


店を出たところで、冬真がスマートフォンを出した。

「そういやさ」

「うん?」

「俺らLINE知らないよな」

芽瑠萌が一瞬止まった。

「……うん」

「交換しない?」

「うん」

返事は一瞬だった。


二人ともスマートフォンを出す。

芽瑠萌のQRコードを冬真が読み取る。アイコンは、雪の積もった林だった。

「これどこ?」

「敷香《しすか》。前に住んでたとき撮った」

「自分で?」

「うん」

「いいじゃん」

芽瑠萌は少しはにかむように笑った。


冬真のアイコンは陸上競技場で走っている写真だった。

「小さいね」

「何が?」

「佐々木くん」

「写真だからな」

「そうじゃなくて」

芽瑠萌が画面を見ながら笑う。

冬真も覗き込んだ。

肩が触れそうになり、芽瑠萌がほんの少しだけ動いた。離れるというより、どうしたらいいのか迷ったような動きだった。

冬真も少し距離を戻した。


     *


駅へ戻る途中、冬真が東の空を見た。

街の向こうに旭ヶ丘の山が見える。斜面はまだ明るく、稜線も青い空にはっきりしていた。

「黒川」

「何?」

「あそこ、今度行ってみない?」

芽瑠萌も山を見る。

「旭ヶ丘?」

「俺もちゃんと覚えてないし。黒川行ったことないんだろ」

「うん」

「じゃあ行こうぜ」

芽瑠萌は少し黙った。

「……二人で?」

冬真も一瞬だけ黙った。

「そのつもりだったけど」

芽瑠萌は冬真を見て、それから前を向いた。

「……うん。行きたい」

冬真は少しだけ嬉しくなった。

「じゃ、いつ行くかLINEで決めよう」

「うん」


     *


駅に着いたのは、八時を少し過ぎたころだった。それでも夜ではなかった。

太陽はもう沈んでいたが、空はまだ青く、街の西側だけが淡く明るかった。雲の縁には、わずかに黄色が残っている。東京ならとっくに街灯だけの時間なのに、豊原ではまだ夕方の明るさが残っていた。

改札の前で二人は止まった。

「じゃあ、また月曜」

冬真が言う。

「うん。またね」

「今日はありがとな」

「私も。ありがとう」

それだけ言って別れた。


     *


地下鉄に乗ってから、冬真はスマートフォンを開いた。

LINEの友だち一覧に《黒川芽瑠萌》がいる。

トーク画面を開く。

まだ何もない。


《今日は楽しかった》


打ってみる。

見た瞬間、妙に恥ずかしくなった。

消す。


《旭ヶ丘いつ行く?》


まだ早い気がする。

消す。


スタンプだけ送ろうかと思って、やめた。


別に、月曜に会う。

次のバイトも一緒だ。

連絡先を交換したからといって、今すぐ何か送らなければならないわけでもない。

冬真は画面を閉じた。


十秒くらいしてから、また開いた。

何も増えていなかった。


     *


芽瑠萌もスマートフォンを見ていた。

冬真とのトーク画面は白いままだった。


《今日はありがとう》


打つ。

少し考える。

消す。

今さら送ったら、わざわざ家に帰る途中まで冬真のことを考えていたみたいだった。

そこまで考えてから、芽瑠萌はスマートフォンを伏せた。


電車の窓の外は、まだ完全には暗くなっていない。


少しして、また画面を表にした。

まだ通知はなかった。

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