↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/28

隣の教室

月曜日の朝、冬真《ふゆま》は三組の教室へ向かう途中で芽瑠萌《めるも》を見つけた。

一組の前で、菜月と話している。

芽瑠萌はまだ冬真に気づいていなかった。


一昨日は朝から夕方まで一緒にいた。

豊原から真岡《まおか》を抜けて、小能登呂《このとろ》岬まで行った。帰りは芽瑠萌が運転した。二鷲崎《にわしざき》では海を見た。

なのに制服を着て廊下にいると、いつもの黒川芽瑠萌に見えた。


冬真が近づくと、芽瑠萌がこちらを見た。


「あ」


今度は、そのまま通り過ぎなかった。


「おはよう」

「おはよう」


菜月も冬真を見る。冬真は軽く頭を下げた。

「じゃ」

そのまま三組へ向かう。

教室に入ると、先に来ていた江口が机に鞄を置いていた。

「おはよ」

「おう」

冬真も鞄を置く。


「黒川さんと喋るようになったんだな」

「見てたの?」

「廊下にいたから」

江口はスポーツバッグからタオルを出して、机の横のフックに掛けた。

「昨日もバイト?」

「土曜」

「何してた?」

「真岡《まおか》の先まで行った」

「バイトで?」

「うん」

「遠くね?」

「遠かった」


冬真は椅子を引いて座り、鞄から一時間目の教科書を出した。

「何食った?」

「コンビニ」

「そこまで行って?」

冬真は笑った。

「仕事だからな」

江口は筆箱を机に放った。

「真岡なら二郎あるだろ」

「仕事中に二郎食えって?」

「真岡店、ラムあるじゃん」

「知らねえよ」

冬真は教科書をめくった。


「行者ニンニクも増せるらしいぞ」

「それ食って案内所戻れって?」

「異常なし」

「あるわ」

向かいで笑い声がした。

「案内所の人と行ったの?」

「黒川と二人」

「黒川さんも?」

「うん」

江口は一瞬だけ廊下の方を見た。

「ふうん」

それだけ言って、机の上の教科書を開いた。


冬真もそれ以上話さなかった。

ただ、前は廊下ですれ違っても「あ」くらいだったな、とは思った。


     *


二時間目のあと、芽瑠萌は菜月と一緒に教室を出た。

次はロシア語だった。選択授業なので、二組と三組からも何人か来る。廊下を渡って語学教室へ入ると、前のスクリーンにはすでにロシア語の文章が映っていた。


Куда ты хочешь поехать летом?


芽瑠萌は席に座って、教科書を出した。


「夏、どこへ行きたい?」

菜月が画面を読んだ。


「たぶん」

「たぶん?」

「合ってるよ」

そこで前の扉が開き、ナタリヤ先生が入ってきた


「Доброе(ドーブラェ) утро(ウートラ)」


四十代くらいで背が高い。明るい茶色の髪を肩の少し上で切っている。


「Доброе(ドーブラェ) утро(ウートラ)」


教室からまばらに返る。

「少ない。月曜日だから?」

先生が日本語で言った。

「もう一回。Доброе(ドーブラェ) утро(ウートラ)」

今度は少し大きくなった。


今日の課題は二人組の会話だった。夏休みに行きたい場所を決めて、相手を誘う。

ナタリヤ先生はスクリーンの例文を指した。

「場所は好きなところに変えてください。札幌でも東京でも、島の中でもいいです。私はハバロフスクにします」

「先生、それ帰省じゃないですか」

後ろから声が上がった。

「帰省も旅行です」

「ずるい」

「何がずるいの」

教室に笑いが起きた。


「教科書そのまま読まないでね。場所と日にちは変える。断ってもいいです」

ナタリヤ先生は教卓に腰を預けた。

「でも、ちゃんと理由をつけて断ってください。『行きたくない』だけは禁止」

「それが一番簡単なのに」

後ろから声がした。

「簡単だから禁止です」

また後ろの方で笑い声がした。

「じゃあ二人組。三分。あとで何組かやってもらいます」

ナタリヤ先生は腕時計をちらりと見て、同じことをロシア語でも言った。

「Три(トリ) минуты(ミヌートゥィ). Начали(ナチャーリ).」


芽瑠萌は菜月と向き合った。

菜月が教科書を伏せる。


「Куда(クダー) ты(トゥィ) хочешь(ホーチシ) поехать(パイェーハチ) летом(リェータム)?」


芽瑠萌は少し考えた。


「Я(ヤー) хочу(ハチュー)……」


行きたいところ。

最初に海が浮かんだ。砂丘の向こうの灯台と、そのあとで見た高台からの日本海。


――ここでも、夕日見てみたい。


――また来ればいいじゃん。


芽瑠萌は一瞬黙った。


「黒川?」

菜月が小声で呼ぶ。

「あ、ごめん」

前からナタリヤ先生の声がした。

「黒川さん。考えすぎると夏終わりますよ」

教室で笑いが起きた。

芽瑠萌も笑った。


「じゃあ、札幌」


ロシア語で言い直す。

菜月が札幌で何をしたいか聞いてくる。

芽瑠萌は食べる、買い物する、と知っている単語を並べた。


小能登呂、とは言わなかった。


     *


昼休み、冬真のスマートフォンに観光案内所からメッセージが届いた。

菅原からだった。


『土曜の小能登呂の写真、黒川さんが撮った分も共有フォルダに入れてもらえる? 立入制限の案内を今日更新します』


冬真は画面を眺めた。

黒川に転送すれば済む。そう思ってから、一組はすぐ隣だと気づいた。

教室を出て一組を覗くと、芽瑠萌は菜月と弁当を食べていた。


「──黒川」


冬真が入口から呼ぶと、顔を上げた芽瑠萌が一瞬、固まった。

「……佐々木くん?」


教室の中には何人もいる。こちらを見る生徒もいた。冬真は気にせず中に入り、芽瑠萌の机の前まで歩いてスマートフォンを見せた。

「菅原さんから。土曜の写真、共有に入れてほしいって」

「あ、うん」

芽瑠萌はすぐ自分のスマートフォンを取った。

「どれ?」

「小能登呂で撮ったやつ全部じゃない?」

「二鷲崎も?」

「それも使うんじゃない? 代わりに案内するって言ってたし」

「分かった。あとで入れとく」

「頼む」

それだけで用事は終わった。


冬真は教室へ戻ろうとして、芽瑠萌の机の上を見た。

「今日もピロシキ?」

芽瑠萌の横で食べていた菜月が、一瞬、袋を見てから顔を上げる。

「今日は鮭」

「黒川じゃなくて白石さんの方か」

「佐々木くん、菜月のこと知ってるの?」

芽瑠萌が聞いた。

「江口が言ってた。ロシア語のテストで死んでる人って」

「あいつ、何言ってんの」

菜月が笑った。

「今日、ロシア語だった」

芽瑠萌が言った。

「じゃあ、今日も死んだ?」

「今日は生きてる」

「よかったじゃん」

菜月が笑い、芽瑠萌も笑った。その顔を見て、冬真は土曜日の車の中を少し思い出した。

学校でも普通に笑うんだな、と考えてから、当たり前だと思い直した。


「じゃ、写真よろしく」

「うん」

冬真が教室を出る。

席へ戻る途中、後ろで菜月が何か言った。何を言ったのかまでは聞こえなかった

。

     *


「びっくりした」

冬真がいなくなってから、芽瑠萌は言った。

「何が?」

菜月が聞く。

「教室に来ると思わなかったから」

「隣のクラスでしょ」

「そうだけど」


芽瑠萌はスマートフォンを開いて、土曜日の写真を見た。

立入禁止の看板。

金属柵。

遠くの灯台。

二鷲崎の海。

最後の一枚だけは仕事で撮ったものではなかった。

水平線と、まだ高い午後の日。冬真の横で、自分が何となく撮った写真だった。

それだけは共有フォルダには入れなかった。


     *


放課後、冬真は江口とグラウンドへ出た。

七月の地区記録会が近い。会場はいつもの通り、豊原防災公園だった。

冷戦が終わったあとに返還された米軍基地の跡地で、陸上競技場や体育館のほか、巨大なイオンモールも建っている。

江口がシューズの紐を結びながら言った。

「記録会終わったらモール寄らね?」

「またフードコート?」

「ほかにどこ行くんだよ」

「お前、去年もそれ言ってたな」

「去年も行ったからな」


二人とも、地区で勝ち上がってどこか遠くへ行くような選手ではない。

冬真は四百メートル、江口は八百メートル。記録会に出て自己ベストが出れば嬉しい。それくらいだった。


「今日何本?」

江口が聞く。

「三百二本と二百」

「きつ」

「八百のやつに言われたくない」

「俺もお前に言われたくない」


アップを終えて、一本目を走る。

最後の直線で脚が重くなった。

ゴールを抜け、冬真はしばらく歩いてから膝に手をついた。

「最初、飛ばしすぎ」

江口が後ろから来た。

「分かってる」

「毎回じゃん」

「分かってるって」



校舎の方から女子生徒が何人か歩いてくるのが見えた。

その中に芽瑠萌がいるのに気づいた。菜月と並んでいる。

冬真が顔を上げると、芽瑠萌もこちらを見た。


少しだけ歩く速度が落ちた。


冬真は手を上げた。

芽瑠萌も、ほんの少しだけ片手を上げた。


それだけだった。


芽瑠萌は横を向いて菜月と何か話しながら、そのまま校門の方へ歩いていった。



「黒川さんじゃん」

江口が言った。

「うん」

「さっき昇降口でも視認した」

「視認ってなんだよ」

「見たってこと」

「それは分かるけどさ。普通、視認って言うか?」

「言うだろ」

「言わねえよ」

「親父がよく言ってる」

「それ、空自だからじゃねえの」

「そうなの?」

江口は本当に分かっていない顔をした。

冬真はそこで立ち上がった。

「次、何分後?」

「十二分」

「長え」

「だから、一本目飛ばすからだろ」

冬真は答えず、水を飲んだ。


     *


「佐々木くん、ほんとに走ってた」

校門を出てから、芽瑠萌がふと言った。

菜月が振り返る。

「陸上なんだから走るでしょ」

「そうなんだけど」

「何?」

「四百って聞いてたから」


さっき冬真が走っていた距離が何メートルだったのかは分からない。

ただ、思っていたよりずっと速く見えたし、走り終わったあとはかなり苦しそうだった。


「大変そうだった」

「陸上?」

「うん」


芽瑠萌は少し歩いてからスマートフォンを見た。

観光案内所の共有フォルダには、さっき送った写真が並んでいる。

次の勤務は土曜日だった。冬真の名前も、ちゃんとあった。それを確認して画面を閉じる。


菜月が言った。

「駅寄る?」

「うん」

二人で地下鉄の入口へ向かった。


     *


夕食のあと、冬真は居間のソファでスマートフォンを見ていた。

観光案内所のサイトが更新されている。


《小能登呂岬周辺は現在、立入制限区域となっています》


その下に、新しく二鷲崎展望台が追加されていた。写真は芽瑠萌が撮ったものだった。


「何見てんの?」

摩央《まお》が横から覗いた。

「バイト」

「海じゃん」

「仕事で行った」

「いいな」

「片道二時間以上だぞ」

「仕事でドライブじゃん」

「立入禁止の確認だよ」

摩央は画面を指した。

「ここは?」

「帰りに見つけた展望台」

「へえ。きれいじゃん」

冬真も写真を見る。

画面の中では、日本海が水平線まで広がっている。


「ここ、夕日きれいそう」

摩央が言った。

冬真は少し黙った。

「たぶんな」

「見なかったの?」

「まだ昼だったから」

摩央はもう興味を失ったらしく、テーブルにあった菓子の袋を取った。

「これ食べていい?」

「俺の」

「一個」

「ほんとに一個な」

摩央が袋を開ける。

冬真はもう一度、海の写真を見てからサイトを閉じた。摩央はもう二個目を食べはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。