隣の教室
月曜日の朝、冬真は三組の教室へ向かう途中で芽瑠萌を見つけた。
一組の前で、菜月と話している。
芽瑠萌はまだ冬真に気づいていなかった。
一昨日は朝から夕方まで一緒にいた。
豊原から真岡を抜けて、小能登呂岬まで行った。帰りは芽瑠萌が運転した。二鷲崎では海を見た。
なのに制服を着て廊下にいると、いつもの黒川芽瑠萌に見えた。
冬真が近づくと、芽瑠萌がこちらを見た。
「あ」
今度は、そのまま通り過ぎなかった。
「おはよう」
「おはよう」
菜月も冬真を見る。冬真は軽く頭を下げた。
「じゃ」
そのまま三組へ向かう。
教室に入ると、先に来ていた江口が机に鞄を置いていた。
「おはよ」
「おう」
冬真も鞄を置く。
「黒川さんと喋るようになったんだな」
「見てたの?」
「廊下にいたから」
江口はスポーツバッグからタオルを出して、机の横のフックに掛けた。
「昨日もバイト?」
「土曜」
「何してた?」
「真岡の先まで行った」
「バイトで?」
「うん」
「遠くね?」
「遠かった」
冬真は椅子を引いて座り、鞄から一時間目の教科書を出した。
「何食った?」
「コンビニ」
「そこまで行って?」
冬真は笑った。
「仕事だからな」
江口は筆箱を机に放った。
「真岡なら二郎あるだろ」
「仕事中に二郎食えって?」
「真岡店、ラムあるじゃん」
「知らねえよ」
冬真は教科書をめくった。
「行者ニンニクも増せるらしいぞ」
「それ食って案内所戻れって?」
「異常なし」
「あるわ」
向かいで笑い声がした。
「案内所の人と行ったの?」
「黒川と二人」
「黒川さんも?」
「うん」
江口は一瞬だけ廊下の方を見た。
「ふうん」
それだけ言って、机の上の教科書を開いた。
冬真もそれ以上話さなかった。
ただ、前は廊下ですれ違っても「あ」くらいだったな、とは思った。
*
二時間目のあと、芽瑠萌は菜月と一緒に教室を出た。
次はロシア語だった。選択授業なので、二組と三組からも何人か来る。廊下を渡って語学教室へ入ると、前のスクリーンにはすでにロシア語の文章が映っていた。
Куда ты хочешь поехать летом?
芽瑠萌は席に座って、教科書を出した。
「夏、どこへ行きたい?」
菜月が画面を読んだ。
「たぶん」
「たぶん?」
「合ってるよ」
そこで前の扉が開き、ナタリヤ先生が入ってきた
「Доброе утро」
四十代くらいで背が高い。明るい茶色の髪を肩の少し上で切っている。
「Доброе утро」
教室からまばらに返る。
「少ない。月曜日だから?」
先生が日本語で言った。
「もう一回。Доброе утро」
今度は少し大きくなった。
今日の課題は二人組の会話だった。夏休みに行きたい場所を決めて、相手を誘う。
ナタリヤ先生はスクリーンの例文を指した。
「場所は好きなところに変えてください。札幌でも東京でも、島の中でもいいです。私はハバロフスクにします」
「先生、それ帰省じゃないですか」
後ろから声が上がった。
「帰省も旅行です」
「ずるい」
「何がずるいの」
教室に笑いが起きた。
「教科書そのまま読まないでね。場所と日にちは変える。断ってもいいです」
ナタリヤ先生は教卓に腰を預けた。
「でも、ちゃんと理由をつけて断ってください。『行きたくない』だけは禁止」
「それが一番簡単なのに」
後ろから声がした。
「簡単だから禁止です」
また後ろの方で笑い声がした。
「じゃあ二人組。三分。あとで何組かやってもらいます」
ナタリヤ先生は腕時計をちらりと見て、同じことをロシア語でも言った。
「Три минуты. Начали.」
芽瑠萌は菜月と向き合った。
菜月が教科書を伏せる。
「Куда ты хочешь поехать летом?」
芽瑠萌は少し考えた。
「Я хочу……」
行きたいところ。
最初に海が浮かんだ。砂丘の向こうの灯台と、そのあとで見た高台からの日本海。
――ここでも、夕日見てみたい。
――また来ればいいじゃん。
芽瑠萌は一瞬黙った。
「黒川?」
菜月が小声で呼ぶ。
「あ、ごめん」
前からナタリヤ先生の声がした。
「黒川さん。考えすぎると夏終わりますよ」
教室で笑いが起きた。
芽瑠萌も笑った。
「じゃあ、札幌」
ロシア語で言い直す。
菜月が札幌で何をしたいか聞いてくる。
芽瑠萌は食べる、買い物する、と知っている単語を並べた。
小能登呂、とは言わなかった。
*
昼休み、冬真のスマートフォンに観光案内所からメッセージが届いた。
菅原からだった。
『土曜の小能登呂の写真、黒川さんが撮った分も共有フォルダに入れてもらえる? 立入制限の案内を今日更新します』
冬真は画面を眺めた。
黒川に転送すれば済む。そう思ってから、一組はすぐ隣だと気づいた。
教室を出て一組を覗くと、芽瑠萌は菜月と弁当を食べていた。
「──黒川」
冬真が入口から呼ぶと、顔を上げた芽瑠萌が一瞬、固まった。
「……佐々木くん?」
教室の中には何人もいる。こちらを見る生徒もいた。冬真は気にせず中に入り、芽瑠萌の机の前まで歩いてスマートフォンを見せた。
「菅原さんから。土曜の写真、共有に入れてほしいって」
「あ、うん」
芽瑠萌はすぐ自分のスマートフォンを取った。
「どれ?」
「小能登呂で撮ったやつ全部じゃない?」
「二鷲崎も?」
「それも使うんじゃない? 代わりに案内するって言ってたし」
「分かった。あとで入れとく」
「頼む」
それだけで用事は終わった。
冬真は教室へ戻ろうとして、芽瑠萌の机の上を見た。
「今日もピロシキ?」
芽瑠萌の横で食べていた菜月が、一瞬、袋を見てから顔を上げる。
「今日は鮭」
「黒川じゃなくて白石さんの方か」
「佐々木くん、菜月のこと知ってるの?」
芽瑠萌が聞いた。
「江口が言ってた。ロシア語のテストで死んでる人って」
「あいつ、何言ってんの」
菜月が笑った。
「今日、ロシア語だった」
芽瑠萌が言った。
「じゃあ、今日も死んだ?」
「今日は生きてる」
「よかったじゃん」
菜月が笑い、芽瑠萌も笑った。その顔を見て、冬真は土曜日の車の中を少し思い出した。
学校でも普通に笑うんだな、と考えてから、当たり前だと思い直した。
「じゃ、写真よろしく」
「うん」
冬真が教室を出る。
席へ戻る途中、後ろで菜月が何か言った。何を言ったのかまでは聞こえなかった
。
*
「びっくりした」
冬真がいなくなってから、芽瑠萌は言った。
「何が?」
菜月が聞く。
「教室に来ると思わなかったから」
「隣のクラスでしょ」
「そうだけど」
芽瑠萌はスマートフォンを開いて、土曜日の写真を見た。
立入禁止の看板。
金属柵。
遠くの灯台。
二鷲崎の海。
最後の一枚だけは仕事で撮ったものではなかった。
水平線と、まだ高い午後の日。冬真の横で、自分が何となく撮った写真だった。
それだけは共有フォルダには入れなかった。
*
放課後、冬真は江口とグラウンドへ出た。
七月の地区記録会が近い。会場はいつもの通り、豊原防災公園だった。
冷戦が終わったあとに返還された米軍基地の跡地で、陸上競技場や体育館のほか、巨大なイオンモールも建っている。
江口がシューズの紐を結びながら言った。
「記録会終わったらモール寄らね?」
「またフードコート?」
「ほかにどこ行くんだよ」
「お前、去年もそれ言ってたな」
「去年も行ったからな」
二人とも、地区で勝ち上がってどこか遠くへ行くような選手ではない。
冬真は四百メートル、江口は八百メートル。記録会に出て自己ベストが出れば嬉しい。それくらいだった。
「今日何本?」
江口が聞く。
「三百二本と二百」
「きつ」
「八百のやつに言われたくない」
「俺もお前に言われたくない」
アップを終えて、一本目を走る。
最後の直線で脚が重くなった。
ゴールを抜け、冬真はしばらく歩いてから膝に手をついた。
「最初、飛ばしすぎ」
江口が後ろから来た。
「分かってる」
「毎回じゃん」
「分かってるって」
校舎の方から女子生徒が何人か歩いてくるのが見えた。
その中に芽瑠萌がいるのに気づいた。菜月と並んでいる。
冬真が顔を上げると、芽瑠萌もこちらを見た。
少しだけ歩く速度が落ちた。
冬真は手を上げた。
芽瑠萌も、ほんの少しだけ片手を上げた。
それだけだった。
芽瑠萌は横を向いて菜月と何か話しながら、そのまま校門の方へ歩いていった。
「黒川さんじゃん」
江口が言った。
「うん」
「さっき昇降口でも視認した」
「視認ってなんだよ」
「見たってこと」
「それは分かるけどさ。普通、視認って言うか?」
「言うだろ」
「言わねえよ」
「親父がよく言ってる」
「それ、空自だからじゃねえの」
「そうなの?」
江口は本当に分かっていない顔をした。
冬真はそこで立ち上がった。
「次、何分後?」
「十二分」
「長え」
「だから、一本目飛ばすからだろ」
冬真は答えず、水を飲んだ。
*
「佐々木くん、ほんとに走ってた」
校門を出てから、芽瑠萌がふと言った。
菜月が振り返る。
「陸上なんだから走るでしょ」
「そうなんだけど」
「何?」
「四百って聞いてたから」
さっき冬真が走っていた距離が何メートルだったのかは分からない。
ただ、思っていたよりずっと速く見えたし、走り終わったあとはかなり苦しそうだった。
「大変そうだった」
「陸上?」
「うん」
芽瑠萌は少し歩いてからスマートフォンを見た。
観光案内所の共有フォルダには、さっき送った写真が並んでいる。
次の勤務は土曜日だった。冬真の名前も、ちゃんとあった。それを確認して画面を閉じる。
菜月が言った。
「駅寄る?」
「うん」
二人で地下鉄の入口へ向かった。
*
夕食のあと、冬真は居間のソファでスマートフォンを見ていた。
観光案内所のサイトが更新されている。
《小能登呂岬周辺は現在、立入制限区域となっています》
その下に、新しく二鷲崎展望台が追加されていた。写真は芽瑠萌が撮ったものだった。
「何見てんの?」
摩央が横から覗いた。
「バイト」
「海じゃん」
「仕事で行った」
「いいな」
「片道二時間以上だぞ」
「仕事でドライブじゃん」
「立入禁止の確認だよ」
摩央は画面を指した。
「ここは?」
「帰りに見つけた展望台」
「へえ。きれいじゃん」
冬真も写真を見る。
画面の中では、日本海が水平線まで広がっている。
「ここ、夕日きれいそう」
摩央が言った。
冬真は少し黙った。
「たぶんな」
「見なかったの?」
「まだ昼だったから」
摩央はもう興味を失ったらしく、テーブルにあった菓子の袋を取った。
「これ食べていい?」
「俺の」
「一個」
「ほんとに一個な」
摩央が袋を開ける。
冬真はもう一度、海の写真を見てからサイトを閉じた。摩央はもう二個目を食べはじめていた。




