行けない海
案内所の壁に、小能登呂岬の大きなポスターがある。
砂丘の向こうに一本の灯台が立ち、低い夕日が日本海を橙色に染めている。下の隅にはハートの形をした《恋人の聖地》のロゴも入っている。
南樺太の西岸では有名な場所だ。冬真も名前は前から知っていたし、案内所で働き始めてからは、パンフレットでも何度も見た。
そのポスターの前に、一人の男が立っていた。
背が高く、明るい茶色の髪を短くしている。三十代くらいだろうか。明治の初めに日本領となってからもロシア人がそのまま暮らしてきた島だから、こういう顔立ちの日本人は特に珍しくない。
「この道路なんですが、真岡から北へ行くなら、こちらで合っていますか」
日本語も自然だった。
富樫がカウンターの地図を広げる。
「久春内方面ですか?」
「そこまで行くかは決めていません。海沿いを見ながら走ろうかと」
男は道路だけでなく、真岡港で一般客が入れる場所、海岸沿いの駐車場、冬季に通れなくなる区間まで尋ねた。
質問は細かいが、富樫は気にした様子もなく一つずつ端末で確認していく。
冬真と芽瑠萌は少し離れたところでパンフレットを補充していた。
男がふと二人を見る。
「高校生ですか?」
「はい」
冬真が答えた。
「ここで働けるんですね」
「アルバイトです」
「いいですね。自分の町をよく知れそうです」
そう言って、男はまた地図へ目を戻した。
帰り際、富樫がアンケートを頼んだ。
男は立ったままペンを走らせる。
───アレクセイ・ヴォローニン。
居住地の欄には、ロシア連邦と書く。
「ありがとうございました」
富樫がそう言って紙を受け取った。
ヴォローニンが出ていってから、冬真はガラス扉の向こうを見た。
「ロシアの人だったんだ」
芽瑠萌もアンケートをちらりと見た。
「日本の人だと思ってた」
「俺も」
あれだけ日本語が自然なら、まずそう思う。
「二人とも、ちょっといい?」
菅原に呼ばれた。
端末に表示されていたのは、さっき壁で見たのと同じ灯台だった。
「小能登呂、入れなくなってるらしい」
「全部ですか?」
冬真が聞いた。
「それが分からないんだよ」
菅原が防衛省のサイトを開く。
沿岸監視施設の整備に伴い、六月から岬周辺の一部を立入制限区域とする、とある。
「昨日だけで問い合わせ三件。うちのサイトも西海岸のパンフも、普通に行けることになってる。防衛省の図だけじゃ駐車場まで行けるのかも分からないから、入口と看板、見てきてもらえる?」
「今日ですか?」
芽瑠萌が聞いた。
「今日。車使っていいから」
菅原が鍵を置いた。
冬真はそれを取りかけて、壁のポスターをもう一度見た。
《恋人の聖地》
芽瑠萌も同じところを見たらしい。
「……二人で?」
「うん。何か問題ある?」
「───ないです」
事務室を出て階段を下りる。
「恋人の聖地か」
冬真が呟くと、前を歩いていた芽瑠萌が少しだけ振り返った。
「……仕事で行くんだけどね」
「まあな」
芽瑠萌はまた前を向いた。
観光協会の車は白い小型車だった。
冬真も芽瑠萌も免許は持っているが、市外まで自分で運転するのは二人とも初めてだった。行きは冬真、帰りは芽瑠萌に決めた。
駅前から北へ走り、豊原北ICで樺太縦貫道へ入る。
合流車線を抜けると、市街地は急速に低くなった。
物流倉庫、乳業工場の銀色のタンク、灰色のデータセンター。大型店舗や配送センターが道路沿いに点々と残り、その向こうには山が見えている。
制限速度百三十キロの標識を過ぎて、冬真はアクセルを踏み込んだ。
「高速、初めて?」
助手席の芽瑠萌が聞く。
「運転するのは」
「私も」
「帰り大丈夫か?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
少しして、冬真はこの前聞いた話を思い出した。
「内地って、十八まで免許取れないらしいな」
「え、そうなの?」
「俺もこの前知った」
「じゃあ高校生、誰も運転してないんだ」
芽瑠萌は少し考えてから、前を走る車を見た。
「北だと、百四十のところもあるよ」
「北樺太?」
「うん。上敷香から留武加のあたり」
「マジで?」
「北樺太県の高速だけ違うの。ずっと真っ直ぐで、有事には戦闘機も使えるようにしてるって噂」
「ほんとかよ」
「さあ」
頭上を大きな案内標識が通り過ぎた。
《敷香 289km》
《恵須取 301km》
《奥端 839km》
八百三十九。
同じ島の道路標識に並ぶ数字としては、妙に大きく見えた。
やがて右側に高い金網が現れた。陸上自衛隊豊原北部基地だった。
道路はその外周に沿って走っている。金網の向こうには巨大な格納庫や通信塔、盛土で囲まれた施設が次々と現れ、走っても走っても柵が続いた。
対向車線では迷彩色のトラックが何台も連なり、その間に装輪装甲車が混じって南へ走っていく。
基地の外周がようやく途切れたところで、鈴谷JCTの案内が現れた。冬真は左の車線へ移り、樺太縦貫道を離れて西海岸道へ入る。
ここまで来ると建物は急に減った。
白く巻かれた牧草ロールが草地に転がり、その向こうにはジャガイモ畑が続いている。
製材所には丸太が壁のように積まれ、長い材木を載せたトレーラーが本線へ入ってきた。
山へ入る手前で、制限速度が百三十から百キロに落ちた。
しばらくすると、ナビが短い音を鳴らした。
『この先、ヒグマの目撃情報があります。道路外への立入りに注意してください』
画面の道路脇に、小さな熊のマークが出ている。目撃日時は昨日の夕方だった。
「昨日じゃん」
芽瑠萌が画面を見た。
「そのへんにいるかもな」
道路脇にも《ヒグマ出没注意》の黄色い標識が立っていた。
西海岸道はそのまま山へ入った。トドマツとダケカンバの斜面を縫って高度を上げ、谷が深くなるにつれて橋とトンネルが増えていく。
長い上りでは登坂車線が現れ、大型トラックがゆっくり左へ寄った。
春日峠の表示を過ぎたころには、左右はすっかり山だった。トンネルを抜けるたびに別の谷へ出て、また橋を渡り、次の山腹へ潜る。
熊笹峠の長いトンネルを抜けて下りに入ると、ラジオに雑音が入った。
冬真が選局を動かすと、太い電子音に若い女の歌声が重なった。日本語ではない。
「これってロシアの?」
「たぶん」
芽瑠萌が聞き入る。
「分かる?」
「歌は全然」
そのまま流していると、曲のあとに男の早口の声が入り、また別のポップスが始まった。
やがて下り坂の先に日本海が見えはじめた。
西海岸道が真岡北ICで終わると、冬真は右の久春内方面へ曲がり、しばらく走ったところで海岸沿いのコンビニに寄った。
道路の向かいには、高い金網に囲まれた施設があった。巨大なパラボラアンテナが二基、その周りにも鉄塔や細長いアンテナが何本も立っている。門には《防衛省》とあった。
冬真がおにぎりとパンを選んでいる間に、芽瑠萌はクヴァスを二本取った。レジに置いてから、道路の向こうを指す。
「すみません、あれって何なんですか?」
店員は窓の外を見た。
「知らない。ロシア見てるんじゃないの」
「そうなんですか?」
「いや、知らないけど」
駐車場で昼を済ませ、また北へ走る。
「小能登呂サンセットライン」と書かれた青い標識を過ぎた。日本海はずっと左側にある。山裾を回り込むたびに視界が開け、ガードレールの下には岩礁と青い海が広がった。
海側には昭和の頃からありそうなレストハウスが建ち、広い駐車場に何台か車が停まっていた。
その先のカーブでは、迷彩色の自衛隊車両が二台続けて南へ走っていった。
谷へ下りると小さな集落があり、それを抜けるとまた道は高くなる。
やがて小能登呂岬の茶色い標識が現れた。
海岸は次第に平らになった。砂地と低い草原が広がり、遠くに白い灯台が一本だけ立っている。周囲には高い建物も崖もない。
灰色がかった砂丘、その向こうの日本海、そこに灯台だけが突き出していた。
「あれだ」
冬真が言った。
芽瑠萌も前を見る。
「ほんとにポスターと同じ」
ナビでは、道は灯台まで続いていた。
『およそ五百メートル先、目的地は左側です』
ところが、その五百メートルを走ることはできなかった。
「あれ」
芽瑠萌が前を見た。
道路を、新しい金属柵が塞いでいる。
ナビは構わず、
『道なりです』
と言った。
金属柵の脇には真新しい白い看板があった。
二人で車を降りて読む。
《小能登呂岬周辺における一般立入制限について》
防衛省。
沿岸監視施設の整備と施設保安のため、六月十五日から岬周辺を管理区域とする。
図を見ると、駐車場も展望地も、灯台へ続く道も管理区域の内側だった。
「全部じゃん」
冬真が言った。
芽瑠萌は観光協会のサイトを開いた。画面には、夕日に染まった同じ灯台が出ている。
「こっちには普通に『駐車場から徒歩五分』って書いてあるよ」
後ろを振り返れば、道路の案内標識もまだ灯台を指している。
これが西海岸の観光名所でなければ、しばらく「立入禁止」で済んだのかもしれない。
だが、ここは豊原駅の案内所にまで大きなポスターを貼っている場所だった。
冬真は看板を撮った。芽瑠萌は柵と道路、それから古い案内標識を撮る。
仕事は済んだ。
それでも二人はすぐには車へ戻らなかった。
柵の向こうに灯台が見える。
砂丘を渡る風が強く、海は思っていたより近かった。
「行けないね」
芽瑠萌が言った。
「な」
ポスターなら、ここが夕焼けになる。
芽瑠萌は灯台を見たまま、風で乱れた髪を耳に掛けた。
「夕日、見たかったな」
帰りは芽瑠萌が運転した。
最初のうちはハンドルを握る手に少し力が入っていたが、十分もすると速度は安定した。冬真は助手席でクヴァスを飲みながら、海岸を眺めていた。
小能登呂岬を出て十五分ほど経ったころだった。
「あ」
芽瑠萌が前を見たまま言った。
道路脇に茶色い標識が立っている。
《二鷲崎展望台 1.6km》
二人とも知らない名前だった。
「行ってみる?」
冬真が聞いた。
「うん」
芽瑠萌がウインカーを出した。
細い道は海岸から離れて、丘を上っていった。
着いた先には十台ほどの駐車場と、古い案内板、海側に並んだベンチがあるだけだった。
だが車を降りて柵のところまで行くと、冬真は足を止めた。
眼下に海岸線が長く伸びていた。
すぐ下を国道が走り、その向こうで白い波が何本も砕けている。西には日本海が何も遮らず広がり、北のずっと先には、さっきまでいた小能登呂岬が低く海へ突き出していた。
白い灯台も、小さいが見える。
「ここ、いいじゃん」
冬真が言った。
芽瑠萌はスマートフォンを取り出した。
「夕日も見えるね」
「代わりに案内できそう」
何枚か写真を撮る。
芽瑠萌は撮り終えても、すぐにはスマートフォンをしまわなかった。
「小能登呂じゃないけど」
「うん」
「ここでも、夕日見てみたい」
冬真は水平線を見た。まだ日は高かった。
「また来ればいいじゃん」
芽瑠萌がこちらを見る。
それから、海へ視線を戻した。
「……うん」
帰りの車では、もう二人とも、黙っていることを気にしなかった。
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設定メモ
この世界では、豊原北郊に陸上自衛隊の師団が駐屯している設定です。
春日峠と熊笹峠は、いずれも樺太に実在する地名です。史実では、1945年8月のソ連軍侵攻時に熊笹峠周辺で戦闘が行われた記録があります。
小能登呂岬も実在する地名です。
二鷲崎は創作地名ですが、現在の地図で小能登呂岬から南へ約16キロ、サドヴニキ(Садовники)の南側に見える海沿いの高台をモデルにしています。
なお、サドヴニキ(Садовники)はロシア語で「庭師たち」を意味します。




