ユジノサハリンスク
その店の上には赤い看板が掲げられていた。
《ЮЖНО-САХАЛИНСК》
冬真はロシア文字の看板を見上げた。
「ユジノ……」
「ユジノサハリンスク」
芽瑠萌が言った。
「どういう意味?」
「南樺太、だったと思う」
「これで?」
「ユジノが南で、サハリンが樺太」
「へえ」
冬真はもう一度看板を見る。
「じゃあ、店の名前が南樺太?」
「そうなるのかな」
「そのまんまだな」
赤い看板には、白いロシア文字が大きく並んでいる。芽瑠萌も隣で看板を見上げていた。
「ロシア語にすると、お店っぽくなるんじゃない?」
「でも豊原に南樺太って店があるの、変じゃないか?」
冬真は首を傾げた。
「そう?」
「東京に東日本って店があるみたいな」
「ありそうだけど」
「あるのかな」
「ていうか、なんで樺太がサハリンなんだ?」
「え?」
「全然違うじゃん」
「ああ」
芽瑠萌は指先を顎に添えた。
「サハリンって名前も古いんだった気がする」
「そうなの?」
「たぶんね」
そういえばたまに「サハリン」とか「サガレン」とかいう名前の店や銀行を見かける。これまではあまり気にしていなかった。
店へ入ると、中には十人ほど客がいた。観光客らしい人もいれば、近所から昼を食べに来ただけに見える老夫婦もいる。
窓際の席に座ってメニューを開き、冬真は少し黙った。
「知ってるのばっかだな」
「うん」
ボルシチ。
ペリメニ。
ブリヌイ。
ビーフストロガノフ。
ピロシキ。
写真まで、だいたい見覚えがある。
「これ全部ロシア料理なんだ」
芽瑠萌が顔を上げて言った。
「ペリメニもロシア料理だったのか」
「ここに載ってるんだから、そうなんじゃない?」
「俺、ただの冷凍食品だと思ってた」
「それは料理の種類じゃないよ」
芽瑠萌が小さく笑った。
「でも、分かる。うちも冷凍のやつ」
「だよな」
「水餃子みたいな感じで食べてる」
「うちも」
冬真はページをめくった。
「ボルシチがロシア料理なのは知ってた」
「それは私も知ってた」
「ピロシキは日本のものだと思ってた」
「購買にあるしね」
「昨日、江口が食ってた」
「菜月もよく食べてる」
そこで冬真は少し考えた。
「でもロシア料理って言われると、もっと知らないもの出てくると思ってた」
「私も」
二人でもう一度メニューを見る。
知っているものばかりが並んでいるのに、店の中ではそれが全部、ロシア料理という名前でまとめられている。
少し変な感じがした。
結局、冬真はペリメニのセット、芽瑠萌はボルシチと黒パンのセットを頼んだ。
料理が運ばれてくる。
冬真の皿にはペリメニの他にも、見覚えのない小皿がついていた。
四角く切ったポテトサラダのようなものが載っている。横から見ると、じゃがいもらしい白っぽい層の下に、細かく刻んだものが何段か重なっている。
いちばん上は鮮やかな赤紫色で、ところどころ白いマヨネーズが混じって桃色になっている。
「これ何?」
芽瑠萌も小皿を覗き込んだ。
「分かんない」
二人でメニューを見ると、「毛皮のコートを着たニシン」と書いてあった。
「何それ」
「そう書いてある」
「毛皮どこ?」
芽瑠萌は小皿と写真を見比べた。
「この上にかぶさってるのが毛皮なんじゃない?」
フォークで端を切ると、赤紫色の下から、じゃがいも、卵、にんじんが崩れて、いちばん下から細かい魚が出てきた。
「ほんとにニシン入ってる」
「名前に書いてあるよ」
食べてみると、最初にマヨネーズとビーツの甘みがきて、そのあとに塩気の強いニシンの味がした。
見た目ほど変な味ではない。
「これは食ったことない」
「私も」
冬真は次にペリメニを一つ食べた。
「……違う」
芽瑠萌が顔を上げた。
「何が?」
「いつものと」
「そんな違う?」
もう一つ食べる。
皮が厚い。肉の匂いも強い。横には白いクリームのようなものがたっぷり添えられている。
「これ何?」
「スメタナかな」
「スメタナ?」
「サワークリームみたいなやつ」
「これが?」
冬真は少しつけて食べた。
「酸っぱ」
「そういうものだから」
「うち、ヨーグルトだぞ」
「うちもだよ」
芽瑠萌が自分のボルシチを混ぜながら言った。
「普通の家でスメタナ買うこと、あんまりないんじゃないかな。高いし」
「じゃあヨーグルトかけてたの、偽物?」
「偽物じゃないでしょ」
「でもこれが本場なんだろ」
「本場に近いってことじゃない?」
冬真はペリメニを見た。
家では冷凍庫から袋を出して、鍋で茹でる。
母親が面倒な日はそれだけで夕飯のおかずになった。ヨーグルトを横に置くこともあれば、ポン酢で食べることもある。
それをロシア料理だと思ったことはなかった。
「俺、これロシア料理食ってたんだな」
「今さら?」
「だって家で出るじゃん」
「ボルシチだって家で出るよ」
「黒川、家でロシア料理食ってるって思う?」
「思わない」
芽瑠萌は少し考えてから首を振った。
「ボルシチの日は、ボルシチの日」
「だよな」
「ペリメニの日はペリメニの日」
「だよな」
芽瑠萌が笑った。
冬真は芽瑠萌のボルシチも少しもらった。
酸味が強い。
家のものより赤く、味も濃い。
「これも違う」
「うちのもっと甘い」
「うちも」
「お母さん、砂糖入れてるのかな」
「知らない」
「私も知らない」
芽瑠萌は黒パンをちぎって、スープにつけた。
「でも、こっちもおいしい」
「うん」
冬真は、もう一つペリメニをスメタナにつけた。
「じゃあ購買のピロシキも、ロシア料理なのか」
「そうなるね」
「鹿肉のやつも?」
「たぶん」
「野沢菜とか高菜とか、こしあん大福とか入れてあるのも?」
「それはどうだろう」
「何でも入ってるじゃん」
「樺太のピロシキだからじゃない?」
冬真は少し笑った。
しばらく食べてから、冬真は聞いた。
「黒川んちって、こういうのよく作る?」
「普通くらいだと思う」
「ボルシチとか?」
「冬はわりと。お母さんが好きだから」
芽瑠萌はスプーンでスープを混ぜた。
「あと、何代か前にロシア人がいるらしいし」
「へえ」
冬真は驚かなかった。
樺太では珍しくない。クラスにも、祖父母やもっと前の代にロシア系がいるという生徒は何人かいる。
「どのくらい前?」
「よく知らない。かなり前。白系ロシア人だったって聞いたことある」
「ふうん」
冬真はボルシチをもう一口飲んでから、芽瑠萌の顔を見た。
芽瑠萌もこちらを見る。
冬真はそのまま見続けた。
「……何?」
初めて気づいた。
髪は黒に近い。顔立ちも、今まで特に変わっていると思ったことはない。
でも、目の色が少し薄い。
これまでは茶色だと思っていた。でも、窓から入る光の中で見ると、むしろ灰色に近かった。
「黒川、目、灰色なんだな」
「え」
芽瑠萌が瞬きをした。
「今?」
「今気づいた」
「……そう」
冬真はもう少し見た。
確かに灰色っぽい。
「何」
「いや、ほんとだなと思って」
「そんな見なくても……」
「今まで気づかなかったから」
「もう分かったでしょ」
「うん」
それでも何となく芽瑠萌の顔を見続けていると、芽瑠萌の視線が落ち着かなくなった。
一度横を向く。
また冬真を見る。
頬が少し赤くなっている。
「……何?」
「だから目」
「分かったって言ったじゃん」
「言った」
「じゃあ……」
芽瑠萌はまた目を逸らした。
少しして、そっとこちらを見る。
また目が合った。
冬真も、逸らさなかった。芽瑠萌も逸らさない。
数秒、そのままになった。
「……何これ」
芽瑠萌が小さく言った。
「知らない」
「佐々木くんが見てるから」
「黒川も見てるじゃん」
「だって……」
芽瑠萌の口元が少し緩んだ。
冬真も耐えられなくなった。
「にらめっこ?」
「ふっ」
芽瑠萌が吹き出した。
冬真も笑った。
「何で笑うんだよ」
「だって……変だし」
「黒川もだろ」
「うん。変」
二人とも笑いが止まらなくなった。
隣のテーブルの老夫婦が一度こちらを見たので、冬真は慌てて声を小さくした。
芽瑠萌も口元を手で隠している。それでも目が笑っていて、頬が少し赤い。
しばらくして、ようやく芽瑠萌がボルシチを一口飲んだ。
「冷めちゃった」
「ごめん」
「……別にいいけど」
そう言って、また少し笑った。
*
案内所へ戻るころには、午後二時を回っていた。帰りは芽瑠萌も地下街を通ることに反対しなかった。
「帰りはいいの?」
「経路確認終わったから」
「やっぱこっちの方が早いだろ」
「観光客に説明できる?」
「駅って書いてある方に行けば着く」
「それは雑だよ」
「でも着くだろ」
地下街を歩きながら、冬真は今日撮った写真を確認した。
公園の説明板。
改装中の売店。
古い建物。
正教会の見学案内。
ロシア料理店の看板。
見慣れていた場所もあれば、初めて入った場所もある。
「黒川」
「何?」
「豊原って、意外と見るとこあるな」
芽瑠萌が少し考えた。
「観光案内所で働いてる人が今言う?」
「だから今知ったんだよ」
芽瑠萌が笑った。
「黒川だって知らなかっただろ」
「私は豊原来てまだ四年くらいだもん」
「それずるくない?」
「何が?」
冬真は答えずに歩いた。
地下街の案内表示に《豊原駅 徒歩六分》と出ている。
「これ六分?」
冬真が言った。
芽瑠萌が表示を見た。
「佐々木くんなら四分じゃない?」
「三分」
「走らないでね」
「走らねえよ」
少し先を歩いてから、冬真は速度を落とした。
芽瑠萌が隣に並ぶ。
二人で歩くと、駅までは確かに六分くらいだった。




