街歩き
次の土曜日、冬真が観光案内所へ着くと、菅原がパソコンの画面を見ながら言った。
「佐々木くん、今日歩ける?」
「歩けますけど」
「何キロ?」
「何キロでも」
横で富樫が笑った。
「じゃあ黒川さん来たら、二人で現地確認行ってきて」
「どこですか」
「市内。豊原公園から正教会の方」
菅原が印刷した紙を三枚渡してきた。観光案内所のWebサイトを印刷したものだった。
タイトルは《豊原駅から歩く 歴史と文化の二時間コース》とあり、豊原公園、旧市街の建物がいくつか、大きなロシア正教会、最後に飲食店が二軒載っている。
冬真は紙をめくった。
「何確認するんですか」
「情報が古くないか。道順、看板、見学時間。写真も撮ってきて。店は営業してるか外から見るだけでいい」
「中入らなくていいんですか」
「食べたいなら昼休憩そこで取っていいよ。自腹だけど」
「自腹」
「当たり前だろ」
入口から芽瑠萌の声がした。
「おはようございます」
冬真が振り返る。
「黒川、今日外だって」
「外?」
「現地確認」
「どこ?」
「公園とか」
芽瑠萌が近づいてきて、冬真の持っている紙を覗いた。
「あ、豊原公園」
「知ってる?」
「うん」
「行ったことある?」
「あるよ。何回か」
冬真も紙を見る。
「俺もある」
「じゃあ何で聞いたの?」
「いや、観光地として」
芽瑠萌が首を傾げた。
「ここって、観光で行くところなの?」
「俺もそれを思った」
菅原が二人を見た。
「だから君らに行ってもらうんだよ」
*
午前十時半、二人は案内所の腕章をつけて外へ出た。
駅前から地下へ入り、そのまま地下街へ向かう。芽瑠萌も隣を歩いていたが、途中でスマートフォンを見た。
「佐々木くん、サイトだと地上からになってる」
「地下の方が近いだろ」
「うん。でも」
芽瑠萌は足を止めて、スマートフォンと頭上の案内表示を見比べた。
「初めて来た人だと迷うかも」
「案内あるじゃん」
冬真も見上げた。
豊原駅、バスターミナル、豊原大通り、西一条通り。矢印の先に出口番号が並んでいる。
寒い日も暑い日も、吹雪の日も風の日も、駅前では地下を歩く。
豊原ではその方が普通だった。地上へ出なくても、大通りの向こうまで行ける。
「そういえば中学のとき、内地から転校してきたやつが、渋谷よりややこしいって言ってたな」
「渋谷ってどこだっけ」
「東京」
「東京か」
芽瑠萌はもう一度、案内表示を見た。
「東京の方が複雑そうなのに」
「俺も行ったことないから知らない」
「私も」
そこで会話が途切れた。
買い物袋を提げた人たちが二人の横を通り過ぎ、迷わずそれぞれの通路へ分かれていく。
芽瑠萌がスマートフォンに目を戻した。
「私、豊原に来たばっかりのころ、ここで迷った」
「地下で?」
「うん。一時間くらい歩き回って、違う出口から出た」
冬真は出口案内を見た。
どこで迷うのか、いまひとつ分からない。
「地上から行ってみる?」
芽瑠萌が聞いた。
「サイトもそっちだし」
「じゃあ、そうするか」
二人は来た道を戻った。
階段を上がると六月の空は薄く曇り、風が冷たかった。冬真は印刷した紙を開いた。
「豊原駅から徒歩十分」
「時間、測ってみようか」
「どうやって」
「スマホ」
芽瑠萌が画面を操作した。
「ここからでいい?」
「いいよ」
芽瑠萌が画面を押す。
「じゃあ、スタート」
冬真が歩き出した。
しばらくして横を見ると、芽瑠萌が少し後ろにいた。
足を緩めると、すぐに芽瑠萌が隣に戻ってくる。
「速かった?」
芽瑠萌が冬真の足元をちらっと見た。
「ちょっと速い」
それからは同じくらいの速さで歩いた。
公園に着くと、芽瑠萌がスマートフォンを見る。
「十二分」
「遅っ」
「信号もあったから」
冬真は駅の方を振り返った。
「俺一人なら八分くらいだな」
「観光の人なら、途中で地図も見ると思う」
芽瑠萌は画面の十二分という数字を冬真に見せた。
「十分から十五分くらいにする?」
冬真は紙の《徒歩十分》の横に書き込んだ。
「幅あるな」
「その方が困らないと思う」
「なるほど」
それから公園の入口の写真を撮る。
豊原公園には、冬真も何度も来たことがある。
小学生のころ遠足で来た。中学のときには友達と自転車で来た。王子ヶ池の鴨にパンをやって先生に怒られたこともある。
でも、説明板を読んだことはなかった。
芽瑠萌が足を止めた。
「明治四十二年だって」
「何が?」
「公園できたの」
「そんな古いの?」
「書いてあるよ」
冬真も説明板を見た。
豊原の市街地整備に伴って開設され、その後何度か拡張されたらしい。古い写真も載っている。
冬真は写真と目の前の景色を見比べた。
「これどこ?」
「ここじゃない?」
「全然違うじゃん」
「百年以上前だもん」
古い写真には、今よりずっと小さな木が並んでいた。ただ、背景にある山の形だけは同じだった。
王子ヶ池の方へ歩くと、水面の向こうに豊原神社の木立が見えた。六月の境内は静かで、正月になると参道まで人で埋まる場所には見えない。
池のそばにも古い石碑があった。
「昭和十一年、王子製紙の寄付だって」
芽瑠萌が読んだ。
「そんな前から王子ヶ池なんだ」
「王子の工場も昔からあるのかな」
「今の工場と同じ会社?」
「たぶん。あとで調べようか」
「そうする」
冬真が碑の写真を撮る。
王子といえば、郊外にある大きな工場の方しか思い浮かばなかった。
少し先の木立には、昭和二十年の戦没者を慰霊する黒い石碑が立っていた。前にはまだ新しい花が供えられている。
二人は案内板と一緒に写真を撮って、そのまま先へ進んだ。
「佐々木くん、こういうの知ってた?」
「全然」
「そうなんだ」
芽瑠萌は少し意外そうに冬真を見た。
「黒川は?」
「公園が古いのは知ってた」
「なんで?」
「中学で豊原に来たとき、授業でやったから」
「俺も同じ授業受けてるはずなんだけど」
「……忘れたとか?」
冬真は少し考えた。
「聞いてなかったかも」
「そっか」
芽瑠萌が笑った。
二人で王子ヶ池の周りから園内の案内板を確認する。
サイトには《園内売店あり》と書いてあったが、売店だった建物には《改装中》の紙が貼られていた。
「あ、佐々木くん」
芽瑠萌が建物を指した。
「改装中」
「ほんとだ」
「サイト、売店ありになってる」
芽瑠萌が写真を撮った。
「一個見つけた」
「仕事してるじゃん」
「ちゃんと仕事してるよ」
芽瑠萌が笑う。
「俺もなんか見つけよ」
「探してみて」
冬真は辺りを見回した。
*
公園を出ると、二人は真岡通りの方へ歩いた。
木立を離れると、車の音が近くなった。大通りをバスが走っていく。
交差点の向こうには新しいビルが並び、その間に、低い古い建物が残っている。
冬真はこの辺りを何度も通っていた。ただ、どの建物が古いのかなんて考えたことはなかった。
サイトの地図には《歴史散歩》と書いてある。
「これも撮るのかな」
冬真が古い石造りの建物を指した。
芽瑠萌が紙を見る。
「えっと……たぶん」
「何の建物?」
「待って」
芽瑠萌は説明を探した。
「旧拓銀豊原支店」
「銀行?」
「だったみたい」
「今は?」
「美術館の別館」
冬真は建物を撮った。
「知らなかった」
「私も」
少し歩いたところで、前から来た夫婦に声を掛けられた。
「すみません、旧庁舎ってこっちですか?」
二人の視線が同時に腕章へ落ちた。
芽瑠萌が地図を開き、冬真も横から画面を覗いた。
「こっちじゃない?」
冬真が道の先を指した。
芽瑠萌は画面を見ている。
「あ、一本向こうかも」
「え」
「こっちでも行けるけど、次の信号を右に曲がった方が近いです」
夫婦は芽瑠萌が示した方を見た。
「次の信号ね」
「はい。そこを右です」
礼を言って、二人は歩いていった。
姿が見えなくなってから、冬真は言った。
「今の、俺いらなかったな」
「腕章つけてるから二人とも案内の人に見えたんじゃない?」
「黒川だけでよかったじゃん」
「佐々木くんが先に間違えてくれたから、私が正しいこと言えた」
「俺、踏み台?」
「役に立ったね」
「そういう役立ち方したくない」
芽瑠萌が笑った。
少し前まで、学校で会っても「あ」くらいしか言わなかった相手とは思えない。
冬真はそう思ってから、別に学校でも話せばいいのか、と気づいた。
ただ、一組までわざわざ行く理由はない。
少し歩いてから、芽瑠萌が言った。
「でも、二人とも地図見たね」
「結局、二人とも分かんなかったからな」
「この前言ってたやつ」
「何?」
「二人で分かんないって言えるって」
「ああ」
冬真も思い出した。
「ほんとに二人とも分かんなかったな」
「うん」
芽瑠萌はまた少し笑った。
真岡通りから西一条通りへ折れ、南へ向かうと、道路標識には《豊原競馬場》と出ていた。
「あっち競馬場か」
冬真が言った。
「行ったことある?」
「ない。黒川は?」
「ないよ」
「馬走ってるだけだろ」
「たぶん」
「またたぶん」
「だって行ったことないもん」
芽瑠萌が少し笑った。
冬真は印刷した地図を見た。
「次、正教会」
「うん」
芽瑠萌もスマートフォンを開いた。
「こっちでいいのかな」
「たぶん」
「たぶん?」
「大通りまで出れば分かる」
「じゃあ、行ってみよ」
通りを曲がると、建物の間から丸い屋根が見えた。
「あれが教会かな」
芽瑠萌が言った。
近づくにつれて、屋根が一つではないことが分かった。淡い白色の壁の上に青い丸屋根が並び、それぞれの上に金色の十字架が立っている。
門の脇の石には、
《日本ハリストス正教会 豊原ハリストス復活大聖堂》
と刻まれていた。
「でかいな」
冬真が言った。
芽瑠萌は建物を見上げた。
「こんな大きかったっけ」
「知ってた?」
「バスから見たことある。でも近くで見たの初めて」
冬真も同じだった。
サイトには《日本最大の正教会》とある。
門の前には、見学を待っているらしい人が何人かいた。
金髪の若い女の人と、白髪の男の人がロシア語で話している。その隣では、色の薄い目をした親子が日本語で何か相談していた。
観光客なのか、豊原に住んでいる人なのかは分からない。
冬真は特に気にせず、入口の案内板を見た。日本語とロシア語が並んでいて、その下に英語もある。
「黒川、これ読める?」
冬真がロシア語を指した。
芽瑠萌が少し眉を寄せる。
「礼拝……と、見学……かな」
「読めるじゃん」
「単語だけ」
「この前何も分かってなかったのに」
「何もじゃないよ」
「固まってたじゃん」
「それは、急にいっぱい喋られたから」
しばらく文字を追ってから、日本語の方を見る。
「日本語あるじゃん」
「最初からそっち見ればよかった」
「佐々木くんがロシア語聞くから」
見学時間は、サイトに載っているものと三十分違っていた。
「あ、これ」
芽瑠萌が指をさす。
「サイト、四時までになってる」
「こっちは三時半」
「写真撮っといた方がいいよね」
「うん」
冬真が案内板を撮った。
中へ入ると空気がひんやりとしていて、蝋燭と香の匂いが漂っていた。壁には聖人や聖母子のイコンが並び、高い天井から灯りが下がっている。
二人とも自然に声が小さくなった。
見学を終えたあと、冬真は門の外から大聖堂をもう一度見上げた。
「ずっと豊原に住んでるのに、初めてちゃんと見た」
「私も、四年いるのに」
芽瑠萌が言った。
「知らないところ、けっこうあるね」
「黒川は引っ越してきたんだからいいだろ」
「佐々木くんは?」
「十六年いる」
「……じゃあ、佐々木くんの方が知らないね」
芽瑠萌が少し笑った。
冬真も笑った。
腕時計を見ると、十二時を少し回っていた。
「腹減った」
「私も」
印刷した紙の最後には、近くの飲食店が二軒載っている。
芽瑠萌が一軒を指した。
「ここ、近いみたい」
「何屋?」
「ロシア料理」
紙にはその店の名前が『ユジノサハリンスク』と記されていた。




