嬉しい理由
金曜日の昼休み、黒川芽瑠萌はスマートフォンで勤務表を開いた。
観光案内所から送られてきた共有ファイルには六月の予定が並んでいる。
明日の欄を見る。
芽瑠萌の一つ上に、佐々木冬真という名前がある。
「あ」
小さく声が出た。
───明日も一緒なんだ。
少し安心した。
初めてのアルバイトで、まだ何をすればいいのか分からない。同じ日に入った新人が一緒なら、その方がいい。
たぶん、そういうことだと思う。
「何見てるの?」
向かいに座っていた菜月が聞いた。
「バイトの勤務表」
「駅の観光案内だっけ」
「そう」
芽瑠萌は画面を閉じた。
菜月はそれ以上聞かず、購買で買ってきたチーズピロシキの袋を開けた。
「昨日も食べてなかった?」
「昨日は羊肉ピロシキ」
「だいたい同じだね」
「中身が違うよ」
芽瑠萌は自分の弁当を開けた。
窓の外では、六月の風に校庭の木が揺れている。
明日は九時半から。佐々木くんもいる。
もう一度そう考えてから、卵焼きを食べた。
*
翌朝、ミルカラ豊原の二階へ上がる。
土産物店の前には、今日も六千六百円のエトピリカがいた。売れていないのか、売れて補充されたのかは分からない。
芽瑠萌は少しだけそれを見てから、観光案内所へ入った。
「おはようございます」
「おはよう」
奥から返ってきたのは冬真の声だった。紺色のベストを着て、パンフレットの束を抱えている。
「おはよう」
芽瑠萌も返した。
やっぱり少し安心した。
「黒川、これどこ?」
冬真が一冊抜き出した。
《真岡・西海岸》
「西海岸じゃない?」
「その西海岸がどこだよ」
「棚に書いてあるでしょ」
「分かってたら聞いてない」
二人で棚を見る。
《豊原市内》
《南樺太》
《北樺太》
《交通》
《宿泊》
確かに、「西海岸」という分類はなかった。
「南樺太?」
冬真が言った。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「真岡は南でしょ」
「西だろ」
「南樺太のなかの西」
カウンターの向こうから富樫が言った。
「南樺太の青い見出し。西海岸」
青い札が見えた。
「あった」
芽瑠萌が声を上げると、冬真がパンフレットを差し込んだ。
「黒川、役に立たねえ」
「見つけたの私じゃん」
「富樫さんだろ」
「私も南樺太って言ったし」
富樫が笑った。
「はいはい。黒川さん、着替えてきて」
「はい」
芽瑠萌は奥の事務室へ入った。
ロッカーを開けて、紺色のベストを取り出したところで、先週のことを思い出した。
―─―似合うじゃん。
白いブラウスの上からベストを着て、鏡を見る。
特別なものではない。胸元に案内所のマークが刺繍されているだけだ。似合うと言われるようなものなのだろうか。
髪を後ろで一つにまとめて、もう一度鏡を見た。
前髪を少し直して、口角を上げて少し微笑んでみた。
「何やってんだろ」
小さく言った。
でも、お客さん相手の仕事だから表情は大事だ。
そのはずだ。
*
二度目の勤務は、先週より仕事らしくなった。
パンフレットを補充し、カウンター周りを整理し、その日の鉄道とバスの運行状況を確認する。
問い合わせの記録方法も教わった。
客が来れば、まず富樫の横で話を聞く。
「全部覚えようとしなくていいからね」
富樫は何度も言った。
「分からなかったら調べる。それでも分からなかったら聞く」
「はい」
「分かったふりが一番困るから」
先週と同じ話だった。
でも、客の前に立つと忘れそうになる。
午前十一時前。
カウンターの前に四十代くらいの背が高い男が来た。灰色の薄い上着に、小さな旅行鞄を肩から掛けている。
芽瑠萌は男の顔を見て、なんとなく外国人かと思った。ただ、どこの国かまでは分からない。
男はカウンターに置いてある豊原市内の地図を一枚取った。
芽瑠萌と目が合った。
「すみません」
日本語だった。
「あ、はい」
「これ、もらっていいですか」
「はい。どうぞ」
普通に日本語が通じたことに、少しほっとする。
男は地図を広げた。
「それと、ここへ行きたいです」
指した場所を見ると、樺太開拓資料館だった。
「ここですね」
芽瑠萌は地図を見た。
場所は分かるが、行ったことはない。
「地下鉄で行けますか」
「はい。たしか――」
たしか。
そこで止まった。
富樫に言われたばかりだった。
芽瑠萌は端末を開いた。
「少々お待ちください。確認します」
急いで最寄り駅と経路を確認する。
「地下鉄の東西線で、中央公園駅です。三番出口から歩いて七分くらいです」
「ありがとうございます」
男は丁寧に頭を下げてから、少し迷うように芽瑠萌の名札を見た。
「そちら、ロシア語ではできますか」
「え」
「Русский язык?」
ロシア語、と言ったのは聞き取れた。
芽瑠萌は一瞬迷った。
できません、と言えばそこで話は終わる。
でも、挨拶くらいなら。面接でもそう言った。
「Здравствуйте」
次の瞬間、長いロシア語が返ってきた。何を言っているのか、一つも分からなかった。
最初の二、三語くらいは知っていた気もする。
気がするだけだった。
芽瑠萌は固まった。
男も止まり、数秒、沈黙した。
横から声がした。
「翻訳端末は?」
冬真だった。
芽瑠萌は冬真を見た。
「……お願い」
冬真がカウンターの下から端末を取った。
「これ、ロシア語どれ?」
「それ」
「これ?」
「それはフランス語」
「分かんねえよ」
「国旗あるでしょ」
「似てるじゃん」
「全然違うよ」
男が笑って日本語で言った。
「大丈夫です。日本語、少しできます」
芽瑠萌は顔が熱くなった。
「すみません」
「いえ。私がロシア語で話しましたから」
男はまだ笑っている。
男は芽瑠萌とロシア語で話したかったのではなく、資料館の展示にロシア語の説明があるかどうかを知りたかっただけらしい。
芽瑠萌はますます顔が熱くなった。
富樫に確認すると、一部の常設展示にはロシア語の音声ガイドがあるらしい。
それを伝えると、男は礼を言って、地図と資料館のパンフレットを持って出ていった。
その姿が見えなくなってから、芽瑠萌はカウンターに両手をついて長々とため息を吐いた。
「もう、ほんと無理」
冬真が横で笑った。
「何が」
「いや」
「笑ってるでしょ」
「笑ってない」
「笑ってる」
「ズドラーストヴィチェって言った瞬間まではすごいできる人っぽかった」
「会話も噛み合ってなかったし」
それが一番恥ずかしかった。なんであのやり取りで唐突に「こんにちは」と言ったんだろう。
バカすぎる。
「ズドラーストヴィチェって言ったあと、急に止まった」
「でも佐々木くんだって何もできないじゃん」
「俺は最初からできないって言ってる」
「ずるい」
富樫も笑っていた。
「挨拶してあげて、って言ったでしょ」
「しました」
「ちゃんと喜んでたじゃない」
「そのあとがあると思わなかったんです」
「そりゃ返事くらいするよ」
芽瑠萌は自分の顔を手で扇いだ。
「もう二度とやらない」
冬真が言った。
「でも通じてたじゃん」
「挨拶だけ」
「俺よりできる」
「慰めにならない」
また笑われた。
かなり悔しい。
恥ずかしい。
でも、冬真に笑われること自体は、思ったほど嫌ではなかった。
*
昼休みは、冬真と同じ時間に休憩へ入った。
一階の売店で食べ物を買って、二階の従業員休憩室へ持っていく。冬真は紙袋を二つ抱えていた。
「何買ったの?」
「ピロシキと、これ」
袋から長いパンを出した。鮭とジャガイモが入っている。
「あと牛乳」
「よく食べるね」
「これからまだ六時間あるぞ」
「そんなないよ」
芽瑠萌は自分の紙袋を開けて、行者ニンニクとソーセージのパンを出した。小さな紙パックのコケモモジュースもある。
「午後、接客すんのにそれ食うの?」
「何が?」
「行者ニンニク」
芽瑠萌はパンを見た。
「……売店で売ってた」
「売ってるけど」
「じゃあいいでしょ」
「俺は知らないからな」
「何を」
「客に臭いって言われても」
「佐々木くんも一口食べる?」
「なんで巻き込むんだよ」
「共犯」
冬真が少し考えた。
「じゃあ食う」
「食べるんだ」
芽瑠萌はパンを少しちぎって渡した。
冬真が食べる。
「うまい」
「でしょ」
「もっとくれ」
「もう、あとは買ってきて」
冬真は自分のピロシキを開けた。
「これと交換で」
「何入ってる?」
「鹿肉」
「じゃあちょっと」
今度は冬真が半分にちぎって、紙袋の上で交換した。
指先が少し触れた。
芽瑠萌は一瞬だけ手を止めた。それから、何でもなかったようにコケモモジュースのパックにストローを刺した。
「佐々木くん」
「ん?」
「さっき、いてくれて助かった」
冬真がピロシキを食べながらこちらを見る。
「翻訳端末?」
「うん」
「俺、ロシア語選ぶとこ間違えただけだけど」
「一人だったら、もっと焦ってたと思う」
「富樫さんいたじゃん」
「いたけど」
そういうことではない気がした。でも、どういうことなのか自分でもよく分からなかった。
冬真は牛乳を飲んだ。
「黒川がいた方が、俺も楽だけど」
「何が?」
「分かんないとき、二人で分かんないって言える」
「それ何の役にも立ってないよ」
「一人で分かんないよりいいだろ」
芽瑠萌は少し考えた。
「まあ、ちょっと」
「だろ」
何も解決していないのに、冬真は得意そうだった。
芽瑠萌は笑った。
*
午後五時。
勤務を終えて私服に戻る。
案内所を出ると、冬真も後ろから着いて来た。
土産物店の前を通ると、六千六百円のエトピリカは、朝と同じ場所にいた。
「まだいる」
芽瑠萌が言った。
「今日一日で三回くらい見たな」
「毎週見ることになりそう」
「愛着湧いてきた?」
「まだ六千六百円」
「値段で呼ぶなよ」
ガラス張りの連絡通路へ出ると、外はまだ明るく、夕方の気配はなかった。日が沈むまでは、まだ二時間以上ある。
豊原駅の煉瓦色の建物に、午後の日が当たっていた。
先週ここを歩いたときは、何を話せばいいのか分からなくなった。今日はそうでもなかった。
「黒川、明日もバイト?」
「ないよ」
「俺も。部活あるけど」
芽瑠萌は少し意外に思った。
「部活やってるんだ」
「陸上」
学校で冬真を見かけるのは、教室か廊下ばかりだった。走っているところは見たことがない。
でも、言われてみれば歩くのが妙に速かったり、三、四キロを近いと言ったりするのは、そのせいなのかもしれない。
「どのくらい走るの?」
「俺は四百」
「四百メートル?」
「うん」
芽瑠萌は体育の授業で走ったときのことを思い出した。
四百メートルなら校庭を一周するくらいだ。あれを最初から最後まで全力で走るのは、かなり嫌だ。
何が楽しいのか分からない。
「毎日、四百メートル走るの?」
「それだけなら楽なんだけどな。練習じゃ普通に何キロも走るよ」
「大変そう」
「黒川は?」
「今は何もやってない。中学は美術部だったけど」
冬真が「へえ」と言った。
その言い方が少し気になった。
「何、その反応」
「意外」
「何が?」
「いや、なんとなく」
「何部だと思ってたの?」
冬真はしばらく黙った。
美術部に入ったのは、絵が特別うまかったからではない。
敷香から豊原へ移ってきて、まだ学校に慣れていなかったころ、いくつか見学した中で美術室がいちばん静かだった。それで入った。
最初の一年は、放課後に誰かと同じ部屋にいられるだけでよかった。
二年になるころには友達もできて、文化祭の前には遅くまで残って大きな絵を描いた。
「ロシア語部」
冬真がようやく言った。
「そんなのないでしょ」
「じゃあ分かんねえ」
「あんなに考えて、それ?」
「だってロシア語選んでるじゃん」
「あれは北樺太にいたとき、小学校から必修だったから」
「小学校から?」
「うん。国境が近いからかな? 英語より馴染みがあったし、楽そうだったから選んだだけ」
冬真は少し考えてから言った。
「楽だった?」
「今日見たでしょ」
「楽じゃなかったんだ」
「全然」
そのあとも、駅まで話は途切れなかった。
改札の手前で、二人の帰る方向が分かれる。
「じゃ、また学校で」
冬真が言った。
「うん」
芽瑠萌は少し間を置いた。
「次のバイトも一緒?」
「知らない。勤務表見てない」
「送られてるよ」
「あとで見る」
「見なよ」
「見るって」
「じゃあ、また」
「おう」
冬真が改札へ向かう。
芽瑠萌も自分の路線へ歩き出した。
十歩ほど歩いたところで、スマートフォンを取り出して、勤務表を開いた。
次の土曜日。
一緒だった。
確認して、画面を閉じる。
少し嬉しかった。
嬉しいのは、初めてのアルバイトで同じ日に入った新人が一緒だから。
たぶん、それだけのはずだ。




