↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/28

大きすぎる島

採用の連絡は、水曜日の夜に来た。

風呂から上がってスマートフォンを見ると、知らない番号から着信が一件。その直後にメールも届いていた。

《豊原駅前観光案内所 アルバイト採用のご連絡》


冬真《ふゆま》はタオルで頭をゴシゴシと拭きながらメールを読んだ。


採用。

初回勤務は土曜日、午前九時半。

持ち物、服装、入館方法。


長い説明を下まで読んでから、母親に言った。

「受かった」

台所から「よかったじゃん」と返ってきた。


居間では摩央《まお》がソファに寝転がっていた。

「冬真、観光の人になんの?」

「観光の人って何だよ」

「外国人に道教える人」

「日本人にも教える」

「英語で?」

「日本語に決まってんだろ」

摩央はスマートフォンから顔を上げた。

「冬真、外国人来たら英語喋れんの?」

「喋れない」

「ロシア語は?」

「ズドラーストヴィチェ」

「はぁ」

「これしか知らない」

「じゃあ終わりじゃん」

自分でもそう思う。


メールには《外国語能力は問いません》と書いてある。面接でも菅原がそう言っていた。

それでも、あの棚に並んでいた英語やロシア語のパンフレットを思い出す。


そういえば黒川は受かったのだろうか。

一瞬考えた。

連絡先は知らない。

学校で聞けばいい。

でも翌日、一組の前を通ったときには忘れていた。


     *


土曜日。

冬真がミルカラ豊原の二階へ着くと、六千六百円のエトピリカは今日もいた。

少し見慣れた。


案内所へ入って挨拶をすると、カウンターにいた中年の女性が振り返った。面接の日に最初に声を掛けてきた人だった。

「おはようございます。佐々木くんね」

「はい」

「富樫です。今日からよろしく」

名札には富樫《とがし》佐和子《さわこ》と書いてあった。

「荷物は奥のロッカー使って。制服はそのハンガーのやつ。サイズ、たぶん合うと思うけど」

「はい」

「着替えたら出てきて」


案内所の制服は紺色のベストだった。

着てみる。

鏡を見る。

急に観光案内ができそうな人に見えた。


見えるだけだった。




ロッカーを閉めて事務室から出ると、入口から誰かが入ってきた。

「おはようございます」

声に聞き覚えがある。

黒川芽瑠萌(めるも)だった。今日は髪を後ろで一つにまとめている。

冬真は芽瑠萌の姿を見て、一瞬変な気持ちになった。たぶん、ほっとしたような、嬉しいような感じだった。

変だった。


芽瑠萌は冬真を見て、一瞬目を丸くした。


「あ」


「あ」


今度は二人とも、その先が出た。

「黒川も受かったんだ」

「うん。佐々木くんも」

「今日から?」

「そう」

そこで富樫が言った。

「二人とも同じ日に入ってもらった方が、最初の説明一回で済むから」

理由が合理的だった。


芽瑠萌が奥のロッカーへ入っていく。

冬真はなんとなく、その後ろ姿から目を逸らして、土産物店のエトピリカを眺めた。

別にそこには何もない。


数分後、同じ紺色のベストを着た芽瑠萌が出てきた。

学校の制服とも、先週の私服とも違う。

「似合うじゃん」

そう言ってから、冬真は一瞬考えた。

別に変なことは言っていないはずだ。


芽瑠萌は少し驚いた顔をしたあと、自分のベストを見下ろした。

「佐々木くんも」

「ほんとに?」

「たぶん」

「たぶんかよ」

芽瑠萌が笑った。



富樫が二人を呼んだ。

「はい、新人さん。まずこれ」

渡されたのは分厚いファイルだった。

表紙に、《観光案内業務マニュアル 令和八年度版》と書いてある。

開くと、目次だけで二ページもあった。


「これ覚えるんですか」

「全部覚えたら私より詳しい」

富樫は平然と言った。

「覚えなくていいから、どこに何が書いてあるかを知って。あと、検索の仕方」

「検索?」

「お客さんに聞かれてから調べること、山ほどあるから」


面接で菅原に言われたことと同じだった。

分からないなら調べる。

調べても分からなければ聞く。

それでも分からなければ、分からないと言う。


富樫はカウンターの端にある端末を指した。

「交通関係はここ。JR、バス、フェリー、航空。運休情報も出る。天気はこっち。道路は道路情報センター。峠越える人には天気だけじゃなく道路も見て」

「峠?」

「真岡《まおか》方面とかね。六月ならまず大丈夫だけど」


芽瑠萌が画面を覗き込んでいる。

「ロシア語で来たらどうするんですか」

「分かる人がいたら呼ぶ。いなければ翻訳端末。長い相談なら電話通訳」

「私、ロシア語選択なんですけど」

「じゃあ挨拶してあげて」

「その先は?」

「翻訳端末」

芽瑠萌は安心したような、少し残念なような顔をした。

「英語も同じ。高校生に無理させないから大丈夫」


富樫はパンフレット棚へ移った。

「次、これね。南樺太、北樺太、市内、交通、宿泊、食事。外国語版は下。場所はそのうち覚える」


冬真は《北樺太》の棚を見た。先週取った奥端《おは》のパンフレットもある。

「これって、なくなったら補充?」

「そう。奥に在庫あるから」

「奥端って、観光客多いんですか」

富樫が冬真を見た。

「夏はそれなりに。仕事で行く人も多いけど」

「遠いですよね」

「遠いよ」

芽瑠萌が横から言った。

「すごく遠いよ」


冬真はそちらを見た。

「行ったことある?」

「あるっていうか」

芽瑠萌は少し間を置いた。

「生まれたところ」


「え」

冬真はもう一度、パンフレットの表紙を見た。

《奥端・北東海岸をめぐる》

「黒川、奥端生まれなの?」

「うん」

「初めて知った」

「言ったことないし」

それはそうだった。先週まで、まともに話したこともなかった。

「何歳まで?」

「小学校の途中まで。そこから敷香《しすか》」

「敷香も?」

「うん。それで中学のとき豊原」

「めちゃくちゃ移動してんじゃん」

「お父さんの仕事」


富樫が棚を整理しながら言った。

「じゃあ黒川さん、北の方は詳しい?」

「全然です」

即答だった。

「小さかったし。奥端も今はかなり変わってると思います」

「そっか。じゃあ二人とも一からね」

富樫は容赦がなかった。


     *


午前中はほとんど説明で終わった。

昼休憩を挟んで、午後はカウンターの後ろに立って先輩の対応を見ることになった。

実際の客は、冬真が想像していたより普通だった。

「市場って何時までですか」

「空港行きのバスはどこからですか」

「この近くで海鮮食べられます?」

「旭ヶ丘の展望台、今日行っても見えますか」

そういう質問が多い。

富樫はほとんど即答する。分からないことだけ端末で確認する。


午後一時を少し回ったころ、五十代くらいの夫婦がカウンターへ来た。

大きなキャリーケースを二つ持っている。

男性がスマートフォンを出した。

「ちょっと相談したいんやけど」

「はい」

富樫が応じる。

「今日、豊原に泊まるんです。明日の朝レンタカー借りて、奥端まで行こうと思ってて」


冬真は後ろで聞いていた。

奥端。さっき話したところだ。


男性は地図を画面に出した。

「せやで、向こう見てから真岡の方に回って、できれば明後日の昼くらいには豊原へ戻りたいんですけど」


芽瑠萌が隣で小さく、

「え」

と言った。


富樫の顔は変わらなかった。

「奥端と真岡、両方ですか?」

「はい。せっかく樺太まで来たんで、できるだけ見たいなと」

「運転はお二人で?」

「私だけです」

「樺太での運転経験は?」

「ないです。北海道なら何回か」

「分かりました」


富樫はカウンターの下から、一枚の紙を取り出した。

普通の樺太地図ではなかった。細長い樺太の輪郭に、本州と北海道が薄い線で重ねて描かれている。

冬真も初めて見る。

富樫はそれを夫婦の前に置いた。

「まず、大きさなんですけど」


男性が紙を見た。

女性も覗き込んだ。

数秒、二人とも何も言わなかった。


「……え?」

先に声を出したのは女性だった。

男性が地図へ顔を近づける。

「これ、縮尺一緒?」

「一緒です」

富樫が答えた。


男性が少し顔を離して、地図全体を見た。

「……青森から?」

指が本州を南へ下る。

「山口?」

「だいたい、そのくらいです」

「長っ」

女性が夫を見た。

「あんた、それ明日一日で往復しようとしてたん?」

「いや、島やから……」

「島やから何なん」

女性が夫を見た。

「淡路島みたいなもんやと思ったんや!」

「そんなんあんただけや!」

女性が夫の頭を軽くはたいた。

「だから飛行機って書いてあったんやろ」

「いや、島内線やろ? そんな遠いと思わへんやん」

「遠いから飛行機あるんやろ」


その横で冬真も重ね図を見ていた。

樺太が大きいことくらい知っている。

日本地図を見れば、北海道よりずっと長い。

でも本州を上から重ねられると、なんだか気持ちが悪い。自分が住んでいる島が、急に知らないものに見えた。


男性が地図の上を指でなぞった。

「ここから奥端まで行って……」

指が北へ動く。

「そこから真岡……」

今度はずっと南へ戻って、西へ動く。

途中で止まった。

「……あかんな」

「うん。絶対あかんと思う」

女性も言った。

芽瑠萌が隣で、ごく小さく頷いた。


富樫は笑わなかった。

「豊原から奥端まで、道路だと八百キロ以上あります」

「八百……」

「なので、まず一番行きたい場所を決めましょう」


その後ろで、冬真は芽瑠萌に小声で聞いた。

「奥端って、車だとほんとに一日かかる?」

「かかるよ」

「八時間くらい?」

「途中で休まないの?」

「休むけど」

「それに、あっちまで行って何も見ないで帰るの?」

「あ」

それはそうだ。観光しに行くのだった。


富樫は奥端のパンフレットを一部取り出した。

「奥端が目的なら、豊原から飛行機を使う方が現実的です。現地でレンタカーも借りられます。ただ、明日は空席を確認しないと」

男性が聞いた。

「真岡は?」

「真岡なら豊原から鉄道でも行けます。レンタカーでも大丈夫です。ただ、奥端と一度に回る旅程ではなく、どちらかを中心にされた方がいいと思います」

夫婦は顔を見合わせた。

「じゃあ……奥端かなあ」

「俺は真岡も見たいんやけど」

「二泊しかないんだから」

「そうなんだよなあ」

富樫は急かさず待っている。


結局、二人はその場では決めず、奥端への航空便の時刻表と、真岡方面のパンフレットを一部ずつ持っていった。

「ホテルで考えます」

「はい。決まったらまた寄ってください」

二人が去ったあと、富樫は重ね図を畳んだ。


冬真が聞いた。

「最初から無理って言わないんですね」

「何が?」

「奥端と真岡」

「無理って言われて気分いい人、あんまりいないでしょ」

「まあ」

「それに、何がしたいのか聞かないと、代わりを出せないから」

富樫は地図をカウンターの下へ戻した。

「観光案内って、正しいこと言えばいいわけじゃないからね」


少し難しい。

冬真は覚えておこうと思った。


隣で芽瑠萌が言った。

「でも無理ですよね」

「黒川さんは言うねえ」

「だって無理です」

富樫が笑った。


     *


午後三時過ぎ。

客が途切れたところで、冬真はもう一度北樺太のパンフレットを手に取った。


奥端。

写真には海と低い丘、その向こうに工場らしい設備が写っている。観光写真のはずなのに、巨大な配管まで見える。


「黒川」

少し離れたところでパンフレットを補充していた芽瑠萌が振り返った。

「何?」

「奥端って、どんなとこ?」

「どんなって?」

「生まれたんだろ」

「生まれたけど、観光案内できるほど覚えてないよ」

「そうじゃなくて」

冬真は表紙を見せた。

「住んでた感じ」


芽瑠萌は少し考えた。

「風が強い」

「それ観光パンフレットに書いてある?」

「知らない」

「ほかは?」

「冬が長い。雪が横から来る。あと、家からスーパーが遠かった」

「スーパー」

「車で行くの。お父さんが休みの日にまとめて買ってた」


冬真が想像していた話と違った。

もっと、海がきれいとか、景色がすごいとか、そういうものが出てくると思っていた。


「あとね」

「うん」

「冬になると、玄関の風除室に雪が入ってきて、お父さんが毎朝すごい文句言ってた」

「風除室あるのに?」

「あるのに」

芽瑠萌が笑った。

「それくらいしか覚えてない」

パンフレットの写真とは、ずいぶん違う。


冬真は表紙をもう一度見た。

《北の大地で、忘れられない体験を。》

芽瑠萌の忘れられない体験は、雪の入った風除室らしい。


「佐々木くんは?」

「何が?」

「豊原のこと聞かれたら」

「俺?」

「住んでた感じ」


冬真は考えた。


地下街。

ラーメン屋。

学校へ行くバス。

雨の日に濡れずに歩ける道。

スーパー。

陸上競技場。

母親がよく行くドラッグストア。


観光パンフレットに載りそうなものが一つもない。


「……地下街が広い」

「それは知ってる」

「日本一」

「知ってるって」

芽瑠萌が笑った。


富樫がカウンターからこちらを見た。

「二人とも、暇ならパンフレット補充して」

「はい」

「はい」

二人で返事をした。


冬真は奥端のパンフレットを棚へ戻した。

観光客に何を勧めればいいのかは、まだ分からない。自分の住んでいる街のことも、思ったほど知らない。黒川の生まれた町は、もっと知らない。

ただ、次に誰かが奥端へ車で行くと言ったら、八百キロ以上あることくらいは言える。

今日覚えたことは、それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。