高いエトピリカ
面接の日、冬真は制服で行くか私服で行くかを十五分くらい迷った。学校帰りなら制服で済んだのだが、その日は土曜日だった。
母親に聞くと、
「高校生のバイトなんだから制服でいいんじゃない」
と言われた。
摩央に聞くと、
「スーツ」
と言われた。
「持ってねえよ」
「じゃあ燕尾服」
「真面目に聞いた俺が馬鹿だった」
結局、白いシャツに黒いパンツで家を出た。
外は晴れていたが、風が冷たい。日陰へ入るとシャツ一枚では少し後悔する。
地下鉄で豊原駅まで行った。
普段なら改札を出て、そのまま地下街へ出る。今日は案内メールに「東口観光交流館(ミルカラ豊原)二階」と書いてあったので、エスカレーターで地上に上がって、駅構内の表示を見ながら歩いた。
東口観光交流館。
本当はそんな名前だったのか、と初めて知った。
ミルカラ豊原の建物自体は何度も見ている。
豊原駅の東口に沿って建つ、ガラス張りの大きな複合施設だ。
駅とは二階の連絡通路で直結していて、一階には空港や島内各地へ向かうバスの乗り場が並ぶ。レンタカーの受付に、コンビニ、カフェ、飲食店。
二階には樺太最大とかいう土産物店と、観光案内所がある。その上にはイベントホールや会議室が入り、さらに上の階はホテルになっている。
建物の中央は何階分かが吹き抜けになっていて、巨大な観光ポスターや催事の垂れ幕が、いつもそこに下がっていた。
屋上は夜景の名所らしいが、冬真は上ったことがない。
冬真にとってミルカラは、観光施設というより駅の一部だった。
雨の日は連絡通路を使う。冬は吹雪を避けて中を抜ける。バスに乗るときは一階へ降りる。待ち合わせなら吹き抜けの時計の下。
何が何階にあるのかは、だいたい知っている。
何のために建てられたのかは、今日まで知らなかった。
二階へ上がると、土産物店の前に、でかい鳥のぬいぐるみがいた。
黒い体に白い顔。黄色い飾り羽。やたら派手なくちばし。
値札を見ると、六千六百円だった。
「高っ」
冬真は小声で言った。
何の鳥だったかは知っている。
たしかエトピリカだ。本物を見たことはない。
その横には、鮭、カニ、熊、トドらしきもの、大きなホタテのぬいぐるみまで並んでいた。
トドはあまり可愛くなかった。
観光案内所は土産物店の向かいにあった。
壁の大半がガラスで、思っていたより明るい。カウンターが三つ。その後ろに樺太の大きな地図があり、壁際の棚には色別にパンフレットが並んでいる。
日本語だけではない。英語、ロシア語、中国語、韓国語、他にもよく分からない言葉。
冬真は入口の前で固まった。
───本当に外国人が来るところじゃん。
分かっていて応募した。それでも実物を見るとなると、話が違う。
街を歩く外国人の観光客はたまに見かけるが、実際に話したことがあるのは、学校の英会話教師とロシア語教師だけだ。
カウンターの向こうにいた女性が冬真に気づいた。
四十歳くらいだろうか。髪を後ろでまとめ、紺色のカーディガンを着ている。
「こんにちは。観光ですか?」
「いや、あの、今日バイトの面接で」
「ああ。佐々木さん?」
「はい」
「ちょっと待ってくださいね」
女性はカウンターの奥を振り返った。
「菅原さん、学生さん来ました」
奥から男の声で「はーい」と返ってきた。
冬真は入口脇へ避けた。
そのとき、背後で声がした。
「あれ」
聞いたことのある声だった。
振り返ると、薄いグレーのパーカーに、濃い色のロングスカートを履いた女子高生が立っていた。
黒に近い茶色の髪が肩より少し下まで伸びている。眼鏡はかけていない。肩から小さめのバッグを掛けている。小柄というわけではないが、冬真よりは背が低い。
一瞬、誰だったか出てこなかった。
向こうも冬真を見ている。
「あ……佐々木くん?」
そこで分かった。
「黒川?」
黒川芽瑠萌。
同じ学年だが、クラスは違う。たしか一組だ。
廊下ですれ違ったことは何度もある。体育祭でも見た。
名前と顔は一致するが、話した記憶は、ほぼない。
学校で見るときは制服だし、だいたい友達と一緒にいる。こうして一人で立っているところを正面から見ると、印象が少し違った。
黒川って、けっこう可愛いんだな。
最初にそう思った。
もちろん口には出さない。
「何してんの?」
聞いてから、冬真は少し後悔した。ここにいる理由なんて、だいたい同じだろう。
芽瑠萌は案内所を指した。
「面接」
「やっぱり?」
「佐々木くんも?」
「うん」
会話が止まった。
学校で話したことのない同級生と、休日に駅で二人。
これは微妙に困る。
芽瑠萌も同じらしく、土産物店の方を見た。
「……あれ、六千六百円するんだね」
「見た?」
「来るときに」
「高いよな」
「大きいからじゃない?」
「トドは三千八百円だった」
芽瑠萌が少し笑った。
「比較したの?」
「暇だったから」
さっきの女性が顔を出した。
「あなたも面接?」
「あ、はい」
「じゃあ二人とも中へどうぞ。今日は応募が重なっちゃって。学校同じ?」
「同じです」
芽瑠萌が答えた。
「友達?」
冬真と芽瑠萌は同時に相手を見て、一瞬黙った。
「いや」
「違います」
答えもほぼ同時だった。
女性は「あ、そう」とだけ言った。別に興味はなかったらしい。
*
二人まとめて面接というわけではなかった。冬真が先に呼ばれた。
案内所の奥には小さな事務室があり、さらにその奥に会議用の机が置かれている。そこに、さっき呼ばれていた菅原という男が座っていた。
黒縁の眼鏡を掛け、シャツの袖を肘までまくっていた。年齢は二十代後半くらいに見える。
「佐々木冬真くん。二年生」
「はい」
「陸上部?」
「はい」
「何走るの?」
「四百です」
「ああ、一番きついやつ」
「八百の方がきついです」
菅原は笑った。
「そこは譲れない?」
「八百のやつも四百が一番きついって言います」
「平和だな」
履歴書へ目を落とす。
「部活あるなら、平日はあんまり入れない?」
「部活ない日と、終わったあとなら。土日は大会がなければ入れます」
「夏休みは?」
「部活ありますけど、普段よりは」
「うん。学生さんは学校優先でいいです。試験前も相談して」
面接は、思ったよりあっさりしていた。
もっと志望動機とか、長所短所とか、そういうものを聞かれると思っていた。
一応考えてきた。
志望動機は、地域の魅力を――
そこまで頭の中で用意していたのに、菅原は、
「接客のバイトしたことある?」
とだけ聞いた。
「ないです」
「外国人に道聞かれたことは?」
「あります」
「どうした?」
「分からなかったんで、駅員のところ連れていきました」
「それで正解」
冬真は少し驚いた。
菅原が履歴書を机に置いた。
「ここで一番困るの、分からないのに答えちゃう人だから」
「はあ」
「観光客って、こっちが制服とか名札つけてると信じるんだよ。バスの時間を適当に答えたら、本当にその時間にバス停で待つからさ」
「……まずいですね」
「まずい。北の方で一本逃すと、次が明日とかあるし」
さらっと言われて、冬真は黙った。
次が明日。
豊原ではそんなことはない。同じ島の話とは思えない。
「分からなかったら調べる。調べても分からなかったら、分かる人に聞く。それでも分からなかったら、分かりませんって言う。これ大事」
「はい」
「外国語も同じ。無理して喋らなくていい。翻訳端末もあるし」
「ロシア語とか全然できないです」
「俺もできない」
「できないんですか」
「Здравствуйтеくらい」
「それは俺も知ってます」
「じゃあ同レベルだ」
この人、本当に面接する側なのか、と少し思った。
菅原は笑いながら履歴書をめくった。
「ただ、ロシア語できる人は何人かいるから大丈夫。英語もね。高校生に通訳やらせる職場じゃないから」
その言い方で、冬真は少し安心した。
「あと、現地確認に出てもらうことがあります」
「現地確認?」
「WebとかSNSに載せてる情報が古くなってないか見に行ったり、写真撮ったり。もちろん学生だけで危ないところへ行かせたりはしない。市内が中心」
「それ、バイトがやるんですか」
「人が足りないときは」
菅原は悪びれなかった。
「歩ける?」
「歩くのは全然」
「何キロくらい?」
「三、四キロなら普通に」
菅原が一瞬止まった。
「普通?」
「はい」
「……まあ、陸上部だもんな」
そう言って、履歴書に何か書いた。何を書かれたのか、冬真は少し気になった。
*
面接は二十分くらいで終わった。事務室を出ると、芽瑠萌がパンフレット棚の前に立っていた。
「次、黒川さん」
職員に呼ばれて、芽瑠萌が振り返る。
「はい」
冬真の横を通るとき、
「どうだった?」
と小声で聞かれた。
「普通。菅原さん、ロシア語できないって」
「え」
芽瑠萌が菅原のいる奥を見た。
「私、志望動機にロシア語選択って書いちゃった」
「できるの?」
「全然」
「じゃあ同レベルじゃん」
「同レベルじゃないよ。授業受けてるから、できないのがバレる」
意味がよく分からなかったが、芽瑠萌はそのまま面接へ入っていった。
そのまま帰ってもよかったが、案内所の中を少し見た。
棚にはパンフレットが大量にある。
冬真は一枚取った。
《奥端・北東海岸をめぐる》
奥端ってどこだっけ。
名前だけは知っている。
地図を見ると、思っていたよりずっと遠かった。
別のパンフレットを取る。
《敷香――湿原と鉄道の町》
そこは知っている。
行ったことはない。
さらに一枚。
《豊原歴史散歩》
これは自分の街だ。
開くと、知らない建物がいくつも載っていた。
「何これ」
思わず声が出た。
樺太開拓資料館。
昭和二十年抗戦記念館。
どちらも家の最寄り駅から地下鉄で四駅。
十七年住んでいるのに知らなかった。
「待ってたの?」
柔らかい声がして顔を上げると、芽瑠萌が出てきた。
「いや、そういうわけじゃ……面接終わった?」
「うん」
「ロシア語どうだった」
「聞かれた」
「なんて?」
「どのくらいできますかって」
「なんて答えた?」
「挨拶と、数字と、簡単な自己紹介くらいですって」
「できるじゃん」
「観光案内は無理」
「俺なんかズドラーストヴィチェしか知らない」
「発音ちょっと違う」
「ほら、できるじゃん」
芽瑠萌は何か言い返しかけて、結局やめたように口を閉じた。
その顔が可愛い、とまた思った。
案内所を出て、二人とも同じ方向へ歩いた。ガラス張りの連絡通路の向こうに、豊原駅の煉瓦の駅舎が見える。
「あ」
芽瑠萌が言った。
「何?」
「佐々木くん、帰る?」
「うん」
「地下鉄?」
「そう」
また会話が止まった。
さっきまで案内所の中では普通に話していたのに、外へ出た途端、芽瑠萌の口数が少なくなった。
土産物店の前を通ると、六千六百円のエトピリカが、入口でこちらを向いている。
芽瑠萌がそれを見た。
「採用されたら、毎回見ることになるね」
「買う?」
「六千六百円だよ」
「バイト代で」
「なんで働いてエトピリカ買うの」
「地元経済に貢献」
「観光客にしてもらって」
今度は、さっきより自然に笑った。
駅へ入るところで芽瑠萌が足を止めた。
「じゃあ、また学校で」
「うん。また」
言ってから冬真は思った。
学校で話すこと、あるのかな。
月曜日になれば、黒川は一組で、自分は三組だ。
たぶん廊下ですれ違う。
そのとき今日みたいに話すのか。それとも、今まで通りなのか。
「佐々木くん」
先に歩き出していた芽瑠萌が振り返った。
「何?」
「面接、受かるといいね」
「ああ。黒川も」
「うん」
芽瑠萌は手を小さく上げて、人の流れに入っていった。冬真も地下鉄へ向かった。
*
月曜日。
廊下の向こうから黒川芽瑠萌が歩いてきた。横に友達が二人いる。
冬真は江口と一緒だった。
距離が縮まる。
昨日は二十分以上話した。
エトピリカが高いとか、ロシア語ができないとか、そんな話をした。
芽瑠萌も冬真に気づいた。
目が合った。
「あ」
ほんの少し、芽瑠萌の口が動いた。
冬真も、
「お」
くらいは言おうとした。
そのまま、すれ違った。
三歩ほど歩いてから、江口が振り返った。
「一組の黒川か」
「知ってんの?」
「だからお前が他のクラス知らなすぎなんだって」
「昨日、会った」
「どこで?」
「駅」
「へえ」
それだけだった。
冬真は振り返らなかった。
昨日なら普通に喋れたのに、学校だとなんか違う。
理由はよく分からない。
ただ、次に観光案内所へ行ったときには、また普通に話せるような気がした。




