六月の桜
四時間目の数学は、窓を閉めるか開けるかで揉める季節だった。本州はもう暑いらしいが、ここは違う。
「寒いって。閉めろよ」
後ろの席から声が飛んで、窓際の男子が振り返った。
「暑いんだよ。日ぃ当たってんの、こっちなんだけど」
「じゃあカーテン閉めろ」
「暗くなるじゃん」
「授業中だぞ」
黒板の前で、野口がチョークを持ったまま言った。
誰も返事をしなかった。
野口は数学教師で、怒鳴らない。その代わり、こういうときは返事があるまで待つ。
四月の最初の授業でそれを知らずに喋り続けた生徒がいて、三分近く教室が止まった。それ以来、二年三組はだいたい二秒で黙るようになった。
「閉めるか開けるかは休み時間に決めろ。佐々木、続き」
冬真は顔を上げた。
黒板には二次関数が残っている。
「どこからですか」
「そこから」
「そこって」
「俺が今書いたところから」
江口が隣で笑った。
冬真は教科書を見た。ノートの右上に、途中まで書いた式がある。
その下には小さく、四百、二本、二百、三本、と書いてあった。これは午後の練習メニューだ。
「聞いてなかったな」
「聞いてました」
「じゃあ答えろ」
答えると、野口は一度だけ黒板を見て、「そう」と言った。
江口が小声で、
「聞いてねえじゃん」
と言った。
「分かればいいだろ」
「数学をそういう競技だと思ってる?」
冬真は消しゴムを投げようとしてやめた。
窓の外で、遠雷のような音がした。
最初は遠かった。それが数秒で大きくなり、教室のガラスがかすかに震えた。
冬真は「うるせぇな」と思ったが、口には出さなかった。江口の父親はたしか、空自だ。人の親の仕事にケチをつけるのは不味い。
野口が一度話を止め、戦闘機の音が抜けていくのを待って、そのまま続きを書き始める。
「この場合、頂点は――」
冬真はシャープペンを動かした。
二機だな、と思った。
音だけなので外れているかもしれない。
昼休み、江口にそれを言うと、
「何が二機?」
と聞き返された。
「さっきの」
「戦闘機?」
「たぶん」
「よく分かるな」
「いや、分かんないけど」
「じゃあ言うなよ」
父親が空自でも、戦闘機の音は聞き分けられないものらしい。身近すぎるものには意識が向かない。
世の中はそういうものかもしれない。
江口は購買の羊肉ピロシキの袋を破った。端から肉汁が指につき、「うわ」と言って舐める。
冬真は母親が作った弁当の蓋を開けた。
白飯。卵焼き。昨日の夕飯の鶏肉。ブロッコリー。それから、緑色のものが端に固まっている。
江口が覗いた。
「それ何」
「行者ニンニク」
「お前ん家の母さん、弁当にそれ入れるのかよ」
「昨日の残り」
「午後走るやつの弁当に入れる?」
「俺に言うなよ」
訂正。
江口の価値観の場合、人の親の仕事にケチをつけるのは許容範囲なのかもしれない。
行者ニンニクを噛みながら聞いた。
「今日、八百何本?」
「六百と三百。最後二百」
「俺、四百二本」
「交換する?」
「絶対やだ」
江口は八百メートルを走る。
陸上を知らない人間からは冬真の四百メートルと似たような競技に見えるらしいが、本人たちにとってはだいぶ違う。
冬真は八百の選手を、途中から何を考えて走っているのか分からない変人集団だと思っている。
江口は冬真たちを、最初から最後まで苦しい競技をわざわざ選ぶ変人集団だと思っている。
普通の生徒たちは二人とも何が楽しくて走っているのか分からない変人集団だと思っている。
たぶん、全員正しい。
「そういや進路希望、今日までじゃなかった?」
江口が言った。
冬真の箸が止まった。
「明日」
「今日」
「明日だろ」
「今日。進路室の前に箱出てた」
冬真はスマートフォンを出して、クラスの連絡を見る。今日だった。
「……あとで書くわ」
「間に合わなくない?」
「放課後までだろ」
「紙持ってんの?」
冬真は机の中を見た。
ない。
鞄を見た。
あった。
「勝った」
「何にだよ」
第一希望の欄は空白だった。
冬真は大学へ行くつもりではいる。ただ、どこへ行くのかとなると、急に話が遠くなる。
市内にも大学はいくつもある。札幌もある。東京まで出れば、選択肢は嫌になるほど増える。
この前、母親に東京の大学の名前を一つ出したら、学費の話より先に、
「年に何回帰ってくるつもり?」
と聞かれた。
冬真が「夏と正月」と答えると、
「航空券、自分で取るならね」
と言われた。
別に反対されているわけではない。金の話である。
そういうところが母親だった。
午後の選択授業へ移動する生徒が、廊下を通っていった。
「今日ロシア語だっけ」
江口が言った。
「お前取ってないだろ」
「菜月が小テストあるって死んでた」
「誰」
「一組の白石」
「知らん」
「お前ほんと他のクラス知らないよな」
「お前が知りすぎなんだよ」
「友達が多いと言って」
「顔が広い」
「同じじゃん」
「なんか違う」
冬真は進路希望調査の紙を出した。
第一希望。
とりあえず、市内の大学を一つ書いた。
第二希望は空欄にした。
担任に怒られたら、それはそのとき考える。
*
放課後のグラウンドには、まだ遅い桜が残っていた。六月の夕方は少し肌寒い。日向は暖かいのに、風が吹くと急に腕が冷える。
冬真はジャージを脱いで、トラックの外側に置いた。
「佐々木、一本目飛ばすなよ」
先輩が言った。
「はい」
「お前のはいは信用できない」
「なんでですか」
「先週飛ばしたから」
「先週は向かい風だったんで」
「関係ないだろ」
スタート地点へ歩く。
江口が少し離れたところで脚を振っていた。
冬真はトラックを一周見た。
学校の向こうにビルが並んでいる。そのさらに向こうは見えない。
豊原は平らな街ではない。場所によっては山が近く見えるし、地下鉄を二、三駅乗るだけで景色が変わる。
でも学校から見るぶんには、ただの街だった。
信号があり、マンションがあり、ドラッグストアの看板がある。体育館の屋根の向こうに、遠くを走る高架道路が見える。
珍しいものはない。
「行くぞー」
顧問がストップウォッチを上げる。
走り始めると、街はどうでもよくなった。
一本目は抑えた。
二本目で江口に、
「絶対一本目より速かっただろ」
と言われた。
「ちょっとだけ」
「だから言われんだよ」
三本目のあと、冬真はトラックの内側に倒れこんだ。
空が明るくて、雲が速かった。
「死んだ?」
江口が覗き込んだ。
「三分くらい死んでる」
「じゃあその間にスポドリもらうわ」
「殺すぞ」
予定より早く生き返った。
*
帰る頃には、風がもっと冷たくなっていた。
冬真は制服の上着を鞄に突っ込み、ジャージ姿のまま駅へ向かった。三、四キロなら歩いてもいいと思ったが、今日は脚が重い。
地下鉄の駅に入ると、改札の上に《豊原駅方面》と表示が出ている。ホームへ降りると、ちょうど電車が行ったところだった。
次は七分後。
冬真はベンチに座った。
向かいの壁には旅行会社の広告がある。
夏の札幌。
時計台、大通公園、海鮮丼。
時計台ってそんなに見るものあるのか、と冬真は思った。
中学の修学旅行で行った。
写真で見るより小さかった。
その隣には航空会社の広告がある。
東京。
早期予約なら安いらしい。
数字を見て、冬真は進路希望調査を思い出した。
東京に四年。
それは全然想像がつかなかった。
札幌なら、まだ分かる。
東京はニュースと動画とテレビの中だけにある場所という感じがする。
もちろん同級生には行ったことのあるやつもいる。ディズニーへ行ったとか、親戚が埼玉にいるとか、大会で千葉まで行ったとか。
冬真はどれもない。
そこで、電車が来た。
*
家に着くと、玄関に女物のスニーカーが二つあった。
「ただいま」
すぐに奥から妹が声を投げてきた。
「冬真、遅い」
「お前に言われる筋合いないだろ」
居間へ入ると、妹の摩央が制服のまま床に座っていた。テーブルいっぱいに教科書とノートを広げているくせに、片手にスマートフォンを握ってる。
「震央、勉強してんの?」
「してる。あと震央って呼ぶな」
「字が似てる。諸悪の根源。それに、スマホ持ってるじゃん」
「調べてる」
「何を」
「冬真には関係ないこと」
「じゃあ勉強じゃねえじゃん」
摩央は冬真を見て、
「くっさ」
と言った。
「何が」
「冬真」
「部活帰りなんだから当たり前だろ」
「違う。ニンニク」
「ああ」
「最悪」
摩央はズリズリと尻をずらして部屋の奥に動いた。
「お前も昨日食っただろ」
「私は今日、人に会うから食べてない」
「俺も人に会ってるよ」
「かわいそう」
「誰が」
「人」
冬真は摩央の頭を軽く押した。
「触んな。汗つく」
「風呂入ってくる」
「先に手洗って」
「母ちゃんかよ」
冬真が洗面所から戻ると、摩央はもう冬真の存在を忘れたようにスマートフォンに見入っていた。
たぶんまたくだらない面白動画でも見ているんだろう。
母親は鍋の蓋を開けている。
「今日、部活どうだった?」
「普通」
「普通って何」
「普通にきつかった」
「じゃあ普通じゃないじゃない」
母親は味噌汁を一口飲んで、少し味噌を足した。
「そうだ。冬真、夏休みバイトするって言ってたでしょ」
「夏休みだけじゃなくてもいいけど」
「じゃあちょうどいいんじゃない。募集の紙には長期歓迎って書いてあった」
「どこ」
「駅」
「駅の何」
「観光案内所」
冬真は冷蔵庫を開けて麦茶を出す。
「俺、観光とか何も知らないけど」
「住んでるんだから少しくらい分かるでしょ」
「駅で道聞かれたら答えられるけど」
「それでいいんじゃない?」
「よくないだろ、観光案内所なんだから」
摩央が顔を上げた。
「時計台とか案内すれば」
「それは札幌だろ」
「知ってんじゃん」
「その程度でいいなら全員できるわ」
母親が冷蔵庫に一枚の紙を磁石で留めた。
募集案内だった。
豊原駅前観光案内所
学生アルバイト募集
土日勤務あり
外国語能力不問。研修あり。
冬真は麦茶を飲みながら遠目に読んだ。
「外国語能力不問って書いてある」
「じゃあいいじゃん」
「外国人来たらどうすんの」
「逃げれば」
摩央が言った。
「仕事で逃げられるか」
「冬真、英語もロシア語もできないもんね」
「お前よりできる」
「私、中二なんだけど」
「じゃあ黙ってろ」
「比較対象にしたの冬真じゃん」
母親が二人を無視して、味噌汁に入っている鮭の切り身をよそった。
「応募するなら早めにしなさいよ。駅前だし、条件いいから埋まるんじゃない」
冬真はもう一度、紙を見た。
時給は悪くない。学校からも遠くない。部活の日程とも、たぶん合わせられる。
何より、コンビニや飲食店よりは少し面白そうだった。
観光。
冬真は豊原で生まれて、十七年住んでいる。
駅の地下なら、どの出口がどこへ出るかだいたい分かる。
安いラーメン屋も、高校まで一番早いバスも、雨の日に地下だけでどこまで歩けるかも知っている。ちなみに豊原の地下街は日本一広い。
けれど、観光客が何を見に来るのかは、よく知らなかった。
「面接だけは行ってみる」
冬真は言った。
摩央がすぐに、
「外国人来たら逃げないでね」
と言った。
「お前は宿題やれ」
「やってる」
「スマホ置け」
「冬真に言われたくない」
「なんでだよ」
「さっきから募集のQRコード、カメラで撮ろうとしてる」
冬真は手元を見た。
確かにカメラを開いていた。
母親が笑った。
「応募する気満々じゃん」
「まだ面接だけ」
そう言いながら、冬真は読取アプリを開き直して、応募フォームを画面に出した。




