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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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10/28

近すぎた距離

月曜の朝、芽瑠萌《めるも》は一組の前で冬真《ふゆま》を見つけた。

向こうもすぐに気づいたようだった。


「おはよう」

「おはよう」


冬真が少し足を緩める。

芽瑠萌も何か言おうとした。


土曜日は楽しかった。

ゲームショップへ行った。

ハンバーガーを食べた。

LINEを交換した。

旭ヶ丘へ二人で行こうと言われた。


――二人で?

自分で聞き返したことまで思い出した。


「……」

「……」


「じゃ、また」

「あ、うん」


冬真は三組へ入っていった。

芽瑠萌はしばらく立ち尽くした。


「おはよ」

後ろから菜月が来た。

「おはよう」

「何してんの?」

「何も」

「廊下で?」

「……うん」


芽瑠萌も教室へ入った。

席に座ってスマートフォンを見る。冬真とのトーク画面には、まだ何もない。


     *


昼休み、廊下の掲示板に夏休み前の予定が並んでいた。

大学説明会、補習、部活動の大会。

菜月がその中の一枚を見て言った。

「これ、江口とか佐々木くんとかが出るやつじゃない?」


紙には『豊原地区陸上競技記録会』とある。会場は豊原防災公園だった。


「──かもね」

「四百だっけ」

「うん」

「土曜じゃん」

「そうだね」

芽瑠萌は目を逸らした。

「──そういえば。……夏、北海道、結局どこ行くの?」

「え、なんの話?」

「札幌だっけ?」

「……札幌と知床」

「両方?」

「うん。お母さんが遠いって文句言ってる」

「豊原から恵須取《えすとる》くらいじゃないの?」

「分かんないけど、そんなもんかな」

「別に大して遠くないね」

「だよね」

菜月が次の掲示を見る。


芽瑠萌はもう一度だけ、記録会の日時をちらっと見た。

覚えた。


     *


放課後、冬真はトラックでスターティングブロックを蹴った。

百メートルを一気に加速して、そのまま向こう正面へ突き抜ける。二百を過ぎたところでようやく力を抜いた。


「今週、調子よくね?」

江口が言った。

「まあまあ」

「ベスト出るんじゃね」

「出したいけどな」

「五十秒切ろうぜ」

「お前、四百走ったことないから適当だろ」

「四十九秒くらいで走れば切れる」

「アホか」

冬真はタオルで汗を拭いた。


少し離れ、ポカリスエットを片手にスマートフォンを見る。

芽瑠萌とのトーク画面は、まだ白い。


土曜はあんなに普通に話していたのに、学校で会うと、妙に話しにくかった。

芽瑠萌も少し変だった。目が合っても、前より早く逸らされる気がする。

でも、気のせいかもしれない。


「佐々木、もう一本やるぞ」

「今行く」

急いでスマートフォンをバッグに突っ込んだ。


     *


「明日イオン行かない?」

芽瑠萌がそう言ったのは金曜日の夜だった。

昼を食べ、服を見て、本屋へ寄った。

菜月は文庫本を一冊買った。

芽瑠萌は何も買わなかった。


「さっきから時計見てない?」

「見てない」

「見てるよ」

「時間くらい見るでしょ」

「まあね」

芽瑠萌はスマートフォンをしまった。


少しして、また見た。

男子四百メートルの開始まで、あと二十五分。


「そろそろ帰る?」

「うん」


店を出る。

駅へ戻るなら西へ行けばいい。芽瑠萌はそこを反対へ曲がった。


「こっちから帰ろう」

「駅、反対じゃない?」

「こっちでも行けるよ」

「遠回りじゃない?」

「そんなに変わらないから」

芽瑠萌は菜月の腕を引いた。


「ちょ、何で急ぐの」

「急いでないよ」

「急いでるって」


前方から何かの場内アナウンスが聞こえてきた。

菜月が芽瑠萌の横顔を見る。

芽瑠萌は前だけを見て、白樺の木立の下を少し早足で歩き続けた。


     *


冬真は招集所に貼られたスタートリストを見た。

四組四レーン。その一つ上に、知っている名前があった。


五レーン、鈴谷《すすや》高校。

有里江《ゆりえふ》健太《けんた》。


「うわ。有里江《ゆりえふ》と同じ組じゃん」

江口が横から覗いた。

「あいつ、春に五十一秒台だろ」

「そう」

「後ろついてけ」

「簡単に言うな」

「最後抜けば勝ち」

「もっと簡単に言うな」


有里江《ゆりえふ》は地区で名前をよく見る男だった。自己ベスト54.18の冬真より明らかに速い。


場内アナウンスに呼ばれてトラックへ出る。

四レーン。

ブロックを合わせて、一度だけ軽く蹴る。

悪くはない。


隣の五レーンでは、有里江《ゆりえふ》が屈伸していた。

短く刈った髪に日に焼けた顔。脚が太い。止まっていても、いかにも走り出したら速そうな感じがする。

冬真は立ち上がって脚を振りながら、何となくスタンドへ目をやった。

豊原高校、鈴谷《すすや》高校、落合高校、小沼高専、豊南《とよなみ》高校、北防《ほくぼう》高校、留多加《るうたか》高校。青や白や赤のユニフォーム、学校のジャージ、保護者らしい人たち。

そのままトラックへ目を戻した。


――戻してから、また見た。


今、知っている顔があった気がした。

客席ではない。

客席が切れた脇、フェンスの向こう側。


肩にかかる黒っぽい髪。

小さな顔に、少し大きな目。


冬真の視線がそこで止まった。



土曜日、ゲームショップで並んで棚を見たとき。

LINEを交換するために、二人で画面を覗き込んだとき。

すぐ隣にあった黒っぽい髪と、そのとき微かにした匂いが、一瞬だけ戻ってきた。


「……黒川?」


まさか、芽瑠萌がここにいるはずがない。

でも、芽瑠萌だった。

隣には菜月もいた。


一回視線を逸らしてから、もう一度見た。

やっぱりいた。


なんで。

今日来るなんて聞いていない。

そもそも、自分が今日ここで走ることも教えていない。


冬真はブロックの位置を確かめるふりをして、また見た。

やっぱりいる。


芽瑠萌は横の菜月と何かを話している。こちらを見ている感じはしなかった。


もしかして。


そこまで考えて、いったんやめた。

防災公園にはイオンがある。

菜月も一緒だ。たまたま横を通りかかっただけかもしれない。

それでも、芽瑠萌がここにいる。

自分が走るところを見てもらえるかもしれない。

そう思ったら、自然に口元が緩んだ。


そのとき、芽瑠萌が顔を上げた。


目が合う。

向こうも一瞬止まった。

それから小さく笑って、胸のあたりでほんの少し手を振った。隣の菜月にも気取られないくらいに、ほんの少し。

冬真も少しだけ片手を上げた。

どうしても口が笑うのは止められなかった。


「──四レーン、準備してください」

「あ、はい」

慌てて前を向く。

それから横目で、もう一度だけフェンスの向こうを見た。

芽瑠萌はまだそこにいる。こちらを見ている。

さっきまで考えていた最初の二百の入りが綺麗に頭から飛んだ。


冬真は息を吐いた。

落ち着け。

自己ベストを出す。

それは最初から変わらない。

ただ、今はもう一つ増えていた。

格好悪いところは見せたくない。



ブロックに足を掛ける。

四百は、最初から全力では走れない。

だが、抑えすぎても終わる。


最初の百で速度に乗せる。

向こう正面で余計な力を抜く。

二百から三百、最後のカーブ。

そこからは耐える。

これまで何度もやってきた。


「On your marks」


両手を白線の手前につく。

芽瑠萌の顔が消えた。隣の有里江《ゆりえふ》の姿も、もう見えない。


「Set」


腰を上げる。

場内が水を打ったように静かになり、次の瞬間に号砲が鳴った。


蹴った。

一歩目、二歩目。身体を起こす。最初のカーブを廻る。

前には五レーンの有里江《ゆりえふ》がいる。

追うな。


百。

脚はまだ軽い。

バックストレートへ入る。

前を走る有里江《ゆりえふ》の背中は、まだ遠い

やはり速い。まだ追うな。


二百。

思っていたより少し速い。呼吸はまだいける。脇もまだ痛まない。有里江《ゆりえふ》が遠くならない。


三百の手前で、腿が重くなった。

来た。

毎回ここからだ。

だが、有里江《ゆりえふ》の背中も少しずつ近づいている気がする。

冬真は大きく腕を振った。


向こうも落ちている。

さらに一歩ずつ、背中が大きくなってくる。


最後のカーブで猛追をかける。

脚が急に自分のものではなくなる。

腿が上がらない。肺が痛い。それでも有里江《ゆりえふ》が近づいてくる。


速いやつだ。

春から何度も名前を見た。

五十一秒台の男。

その背中が、今は手の届きそうなところにある。


直線へ出る。

あと百。

長い。まだ走る。まだ走れる。有里江《ゆりえふ》までは数メートル。

腕を振り続ける。汗が目に入る。肺が悲鳴をあげる。頭が割れそうに痛む。それでも脚はついてくる。


有里江《ゆりえふ》の右に出た。全力で走りながら、彼が横目でこちらを見るのを感じた。

そのまま競り合いになる。

スタンドからいくつもの声が飛んできたが、風の音に紛れて何も分からない。


その中で、一つの声だけが耳に入った。


「佐々木くん!」


顔が上がった。

聞こえた。

芽瑠萌の声だ。


残り三十。

有里江《ゆりえふ》が粘る。

残り二十。

肩が少し後ろへ下がった。

冬真が前へ出る。

残り十。

胸を出す。


ゴールラインを駆け抜けて、そのまま何歩も走った。止まれなかった。

ようやく速度を落とす。

息が吸えない。腿が焼けている。腰に手を当てても苦しい。

横で有里江《ゆりえふ》が膝に手をついた。

「くっそ……お前、なんで急にそんな速くなったんだ」

冬真も息を切らしたまま答えた。

「知らねえよ……」

有里江《ゆりえふ》が笑った。


電光掲示板が切り替わった。

冬真は顔を上げる。

《豊原高校 佐々木冬真 52.84》


見上げた。

もう一度見た。

自己ベストが出た。


「っしゃあ!!」

拳を握って笑う。

有里江《ゆりえふ》を抜いた。ベストが出た。

それから、さっきの声を思い出した。


フェンスの向こう、菜月の隣で芽瑠萌が笑っていた。

目が合った。今度は芽瑠萌が大きく手を振った。冬真も振り返した。

さっきまで肺が痛くて仕方なかったのに、それとは別のところが急に軽くなった。


「くっそ……リア充かよ」

有里江《ゆりえふ》が隣で毒づく。冬真は聞き流した。


「佐々木!」

江口が遠くで叫んだ。

「どんだけ飛ばすんだよ!」

「ベスト出たからいいだろ!」

「最後死んでたぞ!」

冬真はまた笑った。


     *


「速かったね」

競技場の外で芽瑠萌が言った。冬真はまだ汗が引いていなかった。

「見た?」

「見たよ」

「ベスト出た」

「それも見た」

「有里江《ゆりえふ》を抜いた」

「隣、走ってた人?」

「そう。春に五十一秒台出してる」

「じゃあ、すごいんだね」

「まあ、今日は向こうも遅かったけど」

言いながら、また嬉しくなった。


タイムのことを誰かに話すのは珍しくない。江口とはいつもやっている。でも、芽瑠萌に話すのは全然別だった。


「最後、聞こえた」

「何が?」

「黒川の声」

「えっ」

芽瑠萌の目が少し大きくなった。

「聞こえたの?」

「うん」

いろんな声がしていた。何を言っているのか分からなかった。それでも、あの声だけは分かった。

「最後、黒川の声があったから、いけたのかも」

「……」


芽瑠萌が黙って俯いた。耳たぶのあたりが少し赤くなっていた。

冬真も、言ってから急に恥ずかしくなった。

でも、もう少し話していたかった。


「黒川、俺の、見に来てくれたの?」

芽瑠萌が顔を上げた。

「え」

一瞬、間が空いた。

「……イオン来たから」

「ああ」

「菜月と……買い物してて……帰り、通りかかって……」

「そっか」

「通ったついでで……」

「あ、そうか……」

冬真は小さく頷いた。

「でも、ありがとな。応援」

「……うん」


「佐々木!」

競技場の方から江口が呼んだ。

「リレーの確認!」

「今行く!」

冬真は二人に手を上げた。

「じゃ、また」

「うん。またね」

芽瑠萌が少しだけ微笑む。冬真はその顔を見ずに、走って戻っていった。


隣で菜月がしばらく黙っていた。

「ついで、なんだ」

「……何」

「別に」

「何」

「今日イオン行こうって言ったの、芽瑠萌だったなって」

「買い物したかった」

「何も買ってないけど」

「欲しいのがなかった」

「帰り道が競技場」

「こっちからも帰れるから」

「遠回り」

「……帰れるから」


芽瑠萌は菜月に背を向けて、早足で歩き出した。

「駅、そっちじゃないよ」

「──分かってるよ!」


     *


冬真は一人で地下鉄を待ちながら、さっきの会話を思い返していた。


──ついで。


別に、何もおかしくない。

防災公園にはイオンがある。学校の生徒だって、いくらでも来る。

たまたま近くにいた。通りかかったから見物した。それだけだ。

なのに。

さっきまであれほど嬉しかった自己ベストが、少し遠くなった気がした。


ずっと更新したかった数字だ。

有里江《ゆりえふ》も抜いた。五十一秒台の男に勝った。

嬉しい。

嬉しいはずだ。


でも、フェンスの向こうに芽瑠萌を見つけたとき、自分は別のことも期待していた。

自分を見に来たのか。

そう思った。

声が聞こえたときには、それをほとんど信じかけていた。

だから今、こんなに落ち込んでいる。


冬真はホームで眉を寄せた。

何を期待してたんだ、俺。

芽瑠萌は応援してくれた。それだけで十分だ。

十分なはずなのに。


胸の奥に残ったものが、なかなか消えなかった。


月曜の朝を思い出した。

芽瑠萌と目が合った。挨拶した。

でも、それだけだった。

LINEは一度も来ていない。


土曜日の街歩きも思い出す。

飯に誘ったのは自分だった。LINEを聞いたのも自分。旭ヶ丘へ誘ったのも自分だった。


もしかして。


近づきすぎたのか。


そう考えた途端、今度は別のところが重くなった。



土曜は楽しかった。

芽瑠萌も笑っていた。

一緒に店を見た。飯を食った。

旭ヶ丘へ行こうと言ったら、行きたいと言ってくれた。

でも、断りにくかっただけだったら。


自分はずっと、芽瑠萌が自分と同じくらい楽しいと思っているつもりだった。

LINEを送りたい。旭ヶ丘の日を決めたい。学校でも、見かけたら話したい。

さっきだって、芽瑠萌が自分を見に来たと思っただけで、あんなに嬉しかった。

でも、自分が勝手に舞い上がっているだけだったのか。


電車が入ってくる。歩き出した途端、腿の奥に鋭い痛みが走った。

胸の奥も重かった。


     *


月曜の朝、冬真は一組の前を通った。

教室の奥に芽瑠萌がいるのが見えた。土曜の私服ではなく、いつもの制服だった。

何か、話したかった。

記録会のことでも、バイトのことでも、買い物のことでもいい。旭ヶ丘の話なら、もっとしたかった。

芽瑠萌がふと顔を上げて、こちらを見る。

冬真は、さっと視線を逸らした。


三組の教室に入り、自分の席に鞄を置く。

芽瑠萌の顔をもう一度見たかった。でも、もう一度一組の前に戻るのは変だ。


昼休みも一組には行かなかった。

用事がない。


スマートフォンを出して、豊原の旧市街、小能登呂岬と二鷲崎で撮った写真を眺めた。

どこにも芽瑠萌は写っていない。写真を撮ったときには芽瑠萌が隣にいた。

でも、芽瑠萌の写真はない。

LINEのトーク画面も、相変わらず白いままだった。


───旭ヶ丘

そこまで打って、指が止まる。

文字を消して、スマホを伏せた。


     *


昼休み、芽瑠萌は一組の入口を見た。

朝、目を逸らされた。昼も冬真は来なかった。

前にはもう少し話していたはずだ。記録会では、あんなに笑っていた。


───黒川の声があったから、いけたのかも。


冬真の声を思い出して、顔が勝手に熱くなった。両手を頬に当てて肘をついた。

そのまま小さくため息を吐いて、顔を机に伏せた。


嬉しかった。

なのに、そのあとから何もない。


芽瑠萌はスマホを見た。

冬真からのLINEはまだ来ない。

自分から送ればいい。でも、送ることが何も浮かばなかった。

しばらく画面を見る。


土曜日、自分の言葉が浮かんできた。


――通ったついでで……。


違う。

ついでではなかった。

記録会の日を覚えた。菜月をイオンへ誘った。

時間を見ながら店を回った。駅と反対へ歩いた。


本当は、冬真が走るところを見たかった。

でも、本人の前では言えなかった。

それから冬真は話しかけてこなくなった。


芽瑠萌は画面を閉じた。


……嫌われたのかもしれない。


窓の外に目を向けると、建物の向こうに旭ヶ丘の稜線が見えていた。

二人で行こうと言っていた。

でも、もうそんな日は来ない気がした。

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