旭ヶ丘
土曜の朝、冬真と芽瑠萌は観光案内所で顔を合わせた。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶はできた。
芽瑠萌がプリンターから出した紙を冬真に渡す。
「昨日の集計」
「ありがと」
それで会話は終わった。
午前中には、札幌から来た夫婦に訊かれて鉄道の時刻を調べ、ロシア人の家族には富内湖までの行き方を案内した。端末を交代するときも、パンフレットを渡すときも、必要なことなら普通に話せた。
でも、それ以外が続かなかった。
昼を過ぎたころ、菅原がカウンターの奥から顔を出した。
「佐々木くん、黒川さん。今日このあと、旭ヶ丘行ける?」
冬真の手が止まった。
芽瑠萌も顔を上げた。
一瞬だけ目が合った。
「夏の案内に切り替わってるんだけど、サイトと現地でちょっと違うみたいなんだよね。ゴンドラの時間と遊歩道。写真も何枚か欲しいんだけど」
「あ……はい」
冬真が答えた。
「行けます」
芽瑠萌も言った。
菅原は二人の間に落ちた沈黙には気づかず、資料を取りに奥へ引っ込んだ。
旭ヶ丘。
二人で行こうと言った場所だった。
*
旭ヶ丘の麓は、夏の土曜で混んでいた。
ヘルメットをかぶった親子が駐車場からマウンテンバイクを押してくる。芝の広場では子供たちがボールを追いかけ、その向こうで帽子をかぶった年配者たちが山道へ入っていった。
車の後ろを開けたまま、外した前輪を取りつけている男もいる。その隣では、小柄な女性が足で何かの金具を押さえ、携帯溶接機の火花を散らしている。
レンタル棟には夏季営業中の木札が出ていた。壁際には泥のついた自転車が並び、売店の軒先では熊鈴がいくつも揺れていた。
冬真はゴンドラ乗り場の案内板を撮った。
「十七時半」
芽瑠萌がスマホで観光協会のページを開く。
「こっちは十七時」
「じゃあ修正だな」
「うん」
また静かになった。
列は少しずつ進んだ。
前の四人家族が搬器へ乗った。次に係員が手を上げた。
「二名様、どうぞ」
促されて、冬真と芽瑠萌が乗り込む。冬真は奥へ詰めて、後ろの客が乗るのを待った。
が、扉が閉まった。
「……」
芽瑠萌が扉を見た。
冬真も見た。
四人乗りだと思っていた。
ゴンドラが動き出すと、冬真は窓の外を見た。芽瑠萌も反対側の窓を見た。
麓の建物がゆっくり下がっていく。
「……人、多いな」
「──うん」
芽瑠萌は窓の外に視線を向けたまま、一言だけ返した。
下りのゴンドラとすれ違った。外側に泥のついた自転車が固定されている。
また静かになった。
下では夏草の斜面をトレイルランナーが登っていた。冬真は一度そちらを見たが、何も言わなかった。
何か話した方がいい。
そう思ったが、何も思いつかない。
少しして芽瑠萌が言った。
「高いね」
「まだ半分くらいじゃない?」
「そうなんだ」
「たぶん」
そこで終わった。
高度が上がるにつれ、背後に豊原の街が広がっていった。
山に挟まれた市街地は南北へ伸び、中心部には高層ビルが密集している。
住宅地の外側には、青や緑の屋根を載せたダーチャが点々と並び、その向こうで鈴谷川が光っていた。
道路はさらに北へ伸び、平野の先は薄く霞んでいる。
芽瑠萌が窓に近づいて下を見た。
冬真は一瞬だけその横顔を見て、すぐに外へ視線を戻した。
十二分が、長かった。
*
ゴンドラを降りると、風が強かった。
駅前の広場には家族連れが多かった。小さなリュックを背負った子供が走り、その後ろから母親が熊鈴を鳴らして追いかけていく。
横では本州から来たらしいカップルが背中を丸め、土産物のマフラーを首に巻いていた。
二人はすぐに仕事を始めた。
「遊歩道、二番が閉鎖」
「サイトは?」
「通れることになってる」
冬真が案内板を撮る。
「三番は?」
「変更なし」
「了解」
それだけだった。
山頂にはカフェと小さな記念館があった。
記念館の入口から、細長い木製のスキー板が見えた。
壁には雪に埋もれた旭ヶ丘の白黒写真、ジャンプ台を飛ぶ選手、昭和七年と印刷された大会ポスターが並び、その先に現在のコース図が掛かっている。
二人は営業時間を確認して、写真を撮った。
建物の裏手には小さな神社があった。赤い屋根が木立の間から覗き、石段を親子が上っていく。
「ここも載ってる?」
冬真が聞いた。
芽瑠萌がサイトを見る。
「載ってる。場所も合ってる」
「じゃ、いいか」
広場の奥が、もう一段高くなっていた。
短い階段を上がり、展望デッキへ出る。数歩、柵に近づいたところで、冬真は思わず足を止めた。
視界が一気に開けた。
豊原の街が、山に挟まれた平野を南北へ長く伸びていた。
駅の周辺には高層ビルが固まり、その周りを住宅地が埋めている。線路と高速道路が街を抜けて北へ伸び、郊外には工場や倉庫が並ぶ。
その先には広い自衛隊の基地があり、さらに向こうには畑と低地が続いていた。
「……すげえな」
芽瑠萌も柵の前まで歩き、冬真の隣に並んだ。
「こんなに見えるんだ」
ヴォローニンというロシア人が旭ヶ丘のことを尋ねてきたとき、ここから豊原が見渡せることは知った。芽瑠萌と来る話もしていた。
それでも実際に立ってみると、街は思っていたよりずっと平らで、ずっと遠くまで続いていた。
冬真はスマホを出した。
「写真、どっち向きがいいかな」
「駅の方はいると思う」
「空港も?」
「たぶん」
二人で何枚か写真を撮った。
冬真が画面を確認すると、芽瑠萌も少し近づいた。
「それ、暗くない?」
「逆光だからかな」
「こっちから撮ったら?」
「どこ?」
芽瑠萌が少し離れたあたりを指した。
冬真が移動する。
さっきより少しだけ、話が続いた。
******
確認する場所はまだあった。
展望デッキから西側の遊歩道へ入り、分岐の案内板を確認する。
エゾマツの林の奥から、熊除けのスプレーを腰に下げた老夫婦が歩いてきた。山菜を摘んでいたのか、妻の持つ袋からワラビらしいものが覗いている。
冬真たちは脇へ避けた。
「こんにちは」
「こんにちは」
すれ違ったあと、また二人だけになった。
「……」
「……」
強い風が吹いてスズランの草むらが揺れた。
どこかでカッコウが鳴いた。
通りかかる人はいない。
さっき展望台では少し話せたのに、二人きりになると、また無言に戻ってしまった。
冬真はスマホのチェック項目を見た。
「あと、カフェの時間」
「うん」
「戻る?」
「うん」
目を合わせないまま、来た道を引き返した。
カフェの窓際はほとんど埋まっていた。
芽瑠萌はハスカップのソフトクリーム、冬真はチェプオハウを受け取り、空いたばかりの小さなテーブルへ向かい合って座った。
冬真は一口すすった。
「熱っ」
芽瑠萌が顔を上げた。
「なんでそれにしたの?」
「腹減ってたから」
「でも熱いでしょ」
「めちゃくちゃ熱い」
芽瑠萌が少し笑った。
冬真も笑った。
それだけなのに、少し楽になった。
窓の向こうをマウンテンバイクが一台通った。ヘルメットをかぶった子供が、その後ろを走っていく。
芽瑠萌はソフトクリームをひと匙すくった。
冬真は鮭を箸で崩しながら、何か言おうとして、やめた。
チェプオハウをもう一口すすった。
*
カフェを出たあと、冬真は展望デッキへ戻った。
サイトに載せるなら、もう少し北側の写真があってもいい。
芽瑠萌が後ろからついてくる。
デッキにはさっきより人が増えていた。
双眼鏡を持った男が一人、北側の手すりの近くに立っている。
冬真はその横を通り過ぎて、何枚か写真を撮る。
「これなら使えるかな」
「うん。さっきより明るい」
「じゃあ送っとく」
画面を閉じて顔を上げると、芽瑠萌がさっき通り過ぎた方を見ていた。
「どうした?」
「……あの人」
「ん?」
「あそこ」
芽瑠萌の視線を追うと、手すりのそばで男が双眼鏡を下ろしたところだった。
背が高い。薄茶色の髪。
どこかで見た気がする。
「あ」
冬真も気づいた。
「あれ、ヴォローニンさんか?」
「だよね」
ヴォローニンはこちらには気づいていない様子で、双眼鏡をまた上げた。
「ほんとに来たんだ」
冬真が言った。
芽瑠萌がうなずく。
「富樫さんが教えたから」
「そりゃそうか」
ヴォローニンはこの前、双眼鏡を持っていった方がいいかと聞いていた。今日はちゃんと持ってきている。
冬真は少し嬉しくなった。
案内所に来た客が、実際にこの場所にいる。
「声かけてみる?」
芽瑠萌が聞いた。
冬真はヴォローニンを見た。
「いや、いいんじゃない? 俺らのこと覚えてるか分かんないし。邪魔しちゃ悪いし」
「うん」
二人はそのまま仕事へ戻った。
*
神社の横にある案内板を確認し、ゴンドラ駅へ戻る。
その途中のベンチに、またヴォローニンがいた。
冬真は気づいたが、やはり声はかけずに通り過ぎた。
ヴォローニンは本を読んでいた。
数歩進んだところで、冬真は足を止めた。
「……ん?」
芽瑠萌も止まる。
「何?」
冬真は振り返った。
ヴォローニンの本の表紙が見える。
飛行機の写真。
青い迷彩。
「いや」
「何?」
「さっきの本」
芽瑠萌も振り返った。
「自衛隊?」
「たぶん」
「好きなのかな」
「かも」
また歩き出した。
十歩ほど進んで、また立ち止まる。
「黒川」
「うん」
「前さ」
「うん」
「ヴォローニンさん、真岡の港のこと聞いてたよな」
芽瑠萌が少し考える顔をした。
「聞いてた」
「港に入れるかとか」
「駐車場も」
「そうそう」
冬真は一瞬だけ振り返った。
ヴォローニンはまだ座って本を読んでいる。
「まあ、港見る観光客もいるか」
「いると思う」
「だよな」
ゴンドラ駅まで歩く途中で、芽瑠萌が言った。
「道路も聞いてなかった?」
冬真が見る。
「道路?」
「冬に通れなくなるところ」
「ああ」
思い出した。
真岡から北へ向かう海岸道路。
冬季閉鎖。
除雪。
「結構細かかったな」
「うん」
「でも車で旅行してたら聞くか」
「聞くかも」
駅の前まで来たところで、冬真は立ち止まった。
「本、何だったんだろ」
芽瑠萌がスマホを出した。
「表紙、どんなだった?」
「戦闘機っぽいの。あと、防衛……年、なんとかって書いてなかった?」
「見えなかった」
二人で検索して、画像を何枚か開く。
「あ」
芽瑠萌が画面を止めた。
『防衛年鑑 二〇二六年版』
「これじゃないか?」
冬真が覗き込む。
「たぶんこれ」
「普通に売ってる」
大手書店の在庫が表示された。
「じゃあ普通じゃん」
「うん」
芽瑠萌が画面を閉じかける。
「……でも」
「何?」
「この前、旭ヶ丘から北側がどこまで見えるかも聞いてた」
冬真は黙った。
鈴谷川の橋。
空港。
北側の市街地。
北側。
豊原の北には、自衛隊と米軍の基地がある。
「……聞いてたな」
二人は顔を見合わせた。
「何なんだろ」
芽瑠萌が言った。
「軍事オタク?」
「わざわざロシアから来て?」
「ロシアにもいるだろ、そういう人」
「いるとは思う」
「じゃあそれじゃん」
「そうなのかな」
「分かんない」
「私も分かんない」
冬真は笑い、芽瑠萌も少し笑った。
そのまま二人で、前にヴォローニンが何を聞いたか思い出した。
港。
道路。
冬季閉鎖。
旭ヶ丘。
でも、どれも一つずつなら変ではない。
話しているうちに、冬真はふと芽瑠萌を見た。
「何?」
芽瑠萌が聞いた。
「いや」
「?」
「なんでもない」
さっきまでは、何を話せばいいのか分からなかった。
冬真はスマホをしまった。
「あと何だっけ」
芽瑠萌がチェック項目を開く。
「ゴンドラ駅の写真」
「撮ってない?」
「入口だけだね」
「じゃ、撮るか」
「うん」
そう言って、二人で駅へ戻った。
*
帰りの列には三組いた。
前の家族が一台に乗る。
係員が冬真たちへ手を上げた。
「どうぞ」
また二人だけになった。
ゴンドラが動き出した。
行きと同じ向かい合わせの席に座る。今度は冬真から窓の外を見た。
「ヴォローニンさん、菅原さんに言う?」
芽瑠萌が考える。
「何て?」
「防衛年鑑読んでました」
「それだけ?」
「……何の報告だよってなるな」
「うん」
冬真は笑うと、芽瑠萌も笑った。
そのあと少し沈黙した。
でも、行きとは少し違った。
山の下の街が近づいてくる。
ダーチャの屋根が一つずつ見えるようになり、鈴谷川の向こうを車が流れていた。
冬真は膝の上で手を組んだ。
「黒川さ」
「うん」
「俺、なんかした?」
芽瑠萌が冬真を見た。
「え?」
「最近。学校でも、なんか前と違ったから」
芽瑠萌は黙った。
冬真は続けた。
「この前、バイト終わってから一緒に歩いたじゃん」
「うん」
「LINEも聞いたし。旭ヶ丘も二人でって言ったし」
芽瑠萌の視線が少し下がった。
「俺、距離近すぎたかなって」
「違う」
その答えは、すぐに返ってきた。
冬真が顔を上げると、芽瑠萌は困ったような顔をしていた。
「嫌だったわけじゃない」
「でも、記録会も」
「……うん」
「俺、黒川が見に来てくれたのかと思ってたから。ついでって聞いて、ちょっと」
芽瑠萌はしばらく黙っていた。
ゴンドラの支柱が近づき、車体が少し揺れた。
その揺れが収まるのを待って、芽瑠萌が言った。
「ついでじゃないよ」
「え?」
「イオン、私が菜月を誘った」
冬真は何も言わなかった。
「時間も見てた」
芽瑠萌の声が少し小さくなった。
「佐々木くんの、見ようと思って行った」
「……マジで?」
芽瑠萌がうなずく。
「じゃあ何で、ついでって」
「分かんない」
「分かんない?」
「そのときは、そう言っちゃったの」
冬真が見ると、芽瑠萌は窓の外へ目を向けた。
耳が少し赤かった。
「そっか」
冬真は座席にもたれた。
しばらくして、芽瑠萌が聞いた。
「佐々木くんは」
「ん?」
「私が変だったから、話さなくなったの?」
「嫌がってると思ったから」
芽瑠萌が冬真をまっすぐ見る。
「嫌がってないよ」
今度は目を逸らさなかった。
「この前も、楽しかった」
冬真は少し笑った。
「俺も」
芽瑠萌も笑った。
ゴンドラが山麓駅へ近づく。
足元を覆っていた木々が途切れ、芝の斜面に変わった。係員がホームの端でこちらを見ている。
ゴンドラが速度を落とし、扉が開いた。
二人で降りて、外へ出ても、まだ日は高かった。
冬真のスマホが鳴った。
見ると、芽瑠萌からLINEが来ていた。山頂から撮った豊原の写真だった。
冬真は隣を見る。
「今?」
「忘れそうだから」
「隣にいるのに」
「でも、送るんでしょ」
「まあ」
冬真は写真を保存した。
*
戻って菅原に報告したあと、五時を過ぎて二人で観光交流館を出た。
外はまだ昼下がりのような明るさだった。
冬真は少し歩いてから言った。
「黒川」
「何?」
「なんか食って帰る?」
芽瑠萌は冬真を見て、すぐに答えた。
「うん」
樺太の夏の夕方は、まだずっと先だった。
樺太南部の日帰り圏で二人が出かけそうな場所のリクエストがあったら教えてください!




