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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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12/28

博物館と琥珀の来る海

「二人とも、今日ちょっと遠出できる?」

土曜の朝、菅原がカウンターに地図を置いた。

「どこですか」

「ここ」

冬真《ふゆま》と芽瑠萌《めるも》が覗き込む。


国立北方民族歴史文化博物館。


名前だけは知っていた。ただ、地図の印は冬真が思っていたより北の方にあった。


「ここなんだ」

「海の近くですね」

「豊原の市内だと思ってた」

「五月にリニューアルオープンしてから、訊かれること増えてるんだよ。車でどのくらいかかるとか、子供連れてって楽しめるかとか、何時間くらい見ればいいとか」


菅原は地図の横に車の鍵を置いた。

「パンフ見れば分かることじゃなくて、行った人じゃないと答えにくいところ見てきてほしくて。写真も何枚かお願い。十七時までに車戻せればいいよ」

「分かりました」

冬真が鍵を取った。

「行き、俺運転する?」

「うん。帰りやる」



九時半過ぎ、二人は豊原を出た。

街を抜けて高速へ上がる。薄い雲が空を覆い、遠くの山並みは上の方だけ霞んでいた。

しばらく走ると窓の外が屋根から畑へ、畑から牧草地へ変わった。浅い川の周りに柳が茂り、その向こうに白樺の林が続く。


豊原を出て三十分ほどで山が近づいた。

落合の手前で高速を下りて東へ向かうと、平らだった土地が狭まり、道の両側へ針葉樹の斜面が寄ってくる。


「うわ」

冬真がハンドルを握ったまま言った。道が急に大きく曲がり、何もない平地を迂回するように大きく弧を描いていた。

「なんでこんな変な作り方するんだろ」

「立ち退き反対とかかな」

「こんな何もないところで?」


そのまま道は山へ入る。長いトンネルを抜けると、斜面の切れ間に、灰青色の海が現れた。

「あ、オホーツク海」

芽瑠萌が言った。

冬真も一瞬だけ見る。

「もう東側か」

坂を降りきったところで、博物館の案内標識が現れた。


     *


博物館は、思っていたより大きかった。

林を背に、黒い壁と木の色をした建物が横へ長く伸びている。中央のガラスには、低い雲が白く映っていた。

駐車場から入口へ向かう途中、《世界遺産 樺太北方諸民族の文化的景観》と書かれた案内板が立っていた。

樺太の地図に赤い点が散り、その周囲に遺跡や集落跡、海岸、川辺の写真が並んでいる。

芽瑠萌が案内表示を撮った。


冬真もスマホを出す。

「何撮ればいい?」

「入口まで分かるやつ」

「じゃあこっちか」


中へ入ると、吹き抜けに世界遺産の大きなポスターが下がっていた。

受付の横には弓を持ったアイヌの少女のパネルがある。

「どこにでもいるよね、アシㇼパさん」

「ゴールデンカムイの? 名前は知ってる」

「樺太はあんな田舎じゃないって菜月が怒ってた」

「だいぶ昔の話だろ」


最初の展示室で、二人とも足が止まった。壁一面に巨大な地図があった。

真ん中に樺太、下に北海道と本州、右へ千島列島、左には沿海州、上にはアムール川の河口と大陸が広がっている。

普段よく見る日本地図とはかなり違った。


「日本が端っこだ」

冬真が言った。

芽瑠萌も少し離れて壁を見上げた。

「ほんとだ」


手前に大きな操作台がある。

冬真が《オホーツク文化圏》を押した。すると、樺太から北海道北部、千島へ紫色の光が大きく広がった。

「おお」


芽瑠萌も画面に触った。

《奥州藤原氏の東北支配》

今度は南の端のあたりが黄色く光った。


《ヌイヴォ・間宮海峡交易圏》

《安東氏の北海交易》

《北の元寇》

《山丹《さんたん》交易》

押すたびに色が重なり、海の上を線が走った。


「これ面白いな」

「写真撮っとく?」

「撮ろう」

仕事用に何枚か撮った。

そのあとも二人は、しばらくいろいろなボタンを押していた。


     *


展示室へ入ると、床に埋め込まれた樺太の地図に、海岸沿いの遺跡が光っていた。

ケースには骨の銛や釣針、その先には鉄鍋や刀、漆器、ガラス玉が並ぶ。本州から来たものと、アムール川の方から来たものが同じ場所から見つかっていた。


次の部屋には、樺太アイヌの刺繍の入った衣、魚皮を縫ったニヴフの衣服、ウイルタの毛皮衣が並んでいた。壁では、雪原を橇とトナカイが進む古い映像が流れている。

冬真が説明を読もうとして、その先を見た。

屋根があった。


「黒川」

「うん。私も見てた」


奥にあったのは、樺太アイヌの住居を実物大で復元したものだった。

中は薄暗い。中央に炉があり、壁際に寝床がある。

二人で覗き込んでいると、少し先から歓声が聞こえた。

そちらへ進むと、大きな画面に流氷の海が映り、その前で子供が模擬の銛《もり》を構えている。


子供は一発で的に当てた。

「うま」

冬真が言った。


順番が空いた。


「やる?」

「佐々木くん先」


一回目は外れた。

二回目も外れた。

「難しいんだって」


芽瑠萌が代わると、一回で的の中心に当てた。

「あ」

本人がいちばん驚いた。


「もう一回やって」

「私?」

「たまたまかもしれない」


また当たった。

冬真は黙って銛を受け取った。


「佐々木くん、後ろ」

家族連れが待っていた。冬真は銛を床に戻した。

「あとで来る」

「まだやるの?」

芽瑠萌が笑った。


     *


《いまも残る北方のことば》

壁の画面を何となく押すと、音声が流れた。

冬真は止まった。

もう一度押す。


「セテい?」


芽瑠萌も戻ってきた。


画面には「sirsetek(シㇼセテㇰ)」というアイヌ語が出ていた。

寒い。冷え込む。

その下に、「現代樺太方言:セテい」とある。


「これ、アイヌ語だったの?」

冬真が言った。

「知らなかった」

「普通に日本語だと思ってた」

「私も」

「内地じゃ使わないのかな?」


二人でもう一度音声を聞いた。

次の言葉と、その次の言葉は知らなかった。

三つ目で芽瑠萌が先へ歩き始めた。



次の部屋には体験衣装のコーナーがあった。

樺太アイヌ、ウイルタ、ニヴフ、エヴェンキ、ナナイ。復元された衣装が何着も並び、横には古写真と着用例が掲げられている。


芽瑠萌が足を止めた。

「これ着れるんだ」

少し屈んで案内を読む。

「写真も撮っていいって」

「へえ」

冬真が横から覗く。

芽瑠萌はもう一度、衣装を見た。

「着よう」

「黒川が?」

「佐々木くんも」

「俺も?」

「体験した方が案内しやすいでしょ」

そう言って、芽瑠萌はさっさと係員の方へ歩いていった。

冬真が後ろからついていくと、係員がすぐに衣装を何着か出してくれた。

「どれにする?」

芽瑠萌はそう言いながら、もう選び始めている。

「これがいい」

樺太アイヌの女性衣装だった。

「佐々木くん、こっち似合いそう」

指したのはウイルタの男性衣装だった。


「もう決まってるの?」

「嫌?」

「別に」

「じゃあこれで」

冬真の返事を待つより先に、芽瑠萌は係員へ衣装を渡した。


冬真は男性用の試着室の中で、壁に貼られた説明を見ながら着替えた。

青みのある濃い上着は膝近くまであり、襟元と裾に細い縁取りが走っている。腰帯を締めると、思ったより身体に馴染んだ。


外に出て鏡の前で待っていると、後ろから小さな声がした。


「佐々木くん」


振り返ると、芽瑠萌が立っていた。

藍に近い濃紺の長衣が膝下まで落ち、その上を、赤と白の布を重ねた幾何学模様が走っている。

胸元から裾へ伸びた太い文様は、さっきガラスケースの中で見た古い衣服より鮮やかだった。袖口にも同じ模様があり、動くたびに赤が覗いた。

黒に近い茶色の髪には細い鉢巻状の飾りが巻かれていた。額の上に刺繍が入り、後ろへ垂れた端が髪に重なる。

明るい照明の下で、灰色の瞳がいつもよりも薄く見えた。


冬真は一瞬、何も言えなかった。


「……どう?」


「──似合う。すごく」


少しだけ声がかすれた。芽瑠萌が笑った。

「佐々木くんも似合ってる」


一人ずつ写真を撮って、芽瑠萌が画面を確認した。

「二人で体験できるっていうのも、分かった方がいいと思う」

「じゃあ頼む?」

係員にスマホを渡した。

「観光案内所で使う写真なんですけど、二人でお願いします」

並ぶ。

「もう少し寄ってください」

そう言われて、二人で少し動いた。


肩が触れた。


芽瑠萌が横を見る。冬真も見た。


「あ」


どちらが言ったのか分からなかった。


「撮りますね」

二人とも前を向いた。

一枚。

「もう一枚いきますね」

二枚目。

今度は少し笑った。


     *


二時前に外へ出た。

駐車場へ戻る途中、芽瑠萌が周辺案内図の前で足を止めた。

「これって……」

冬真も戻る。


《落合東遺跡群》


道路建設に伴う発掘調査で見つかった、いくつもの時代の住居跡が重なる遺跡だった。

横には上空から撮った写真があり、保存区域を避けるように新しい道路が大きく弧を描いている。


「あ」

冬真は写真を指した。

「さっき通ったところか」

「行きの変なカーブだよね」

「これだ」

説明板の隅には、入口で見た世界遺産の印が付いていた。

「立ち退きじゃなかったね」

「人はいたけどな」

「何百年前の?」

「もっと前じゃない?」


周辺案内図には、海沿いの道の駅も載っていた。

「近いな」

冬真が言った。

「行く?」

「行こう」


道の駅までは車で数分だった。

宮沢賢治の小さな石碑の脇を過ぎたところで、「道の駅 オホーツクの丘のっさむ」という大きな看板が見えた。

広い駐車場に車を停めて中に入る。

野菜や土産物が並ぶコーナーを通って奥に進むと、「琥珀《こはく》の来る海」という大きなパネルが飾られていた。


「え、琥珀?」


芽瑠萌が立ち止まる。

波打ち際の写真に、飴色の小さな欠片が光っている。

ガラスの壁の向こうで、数名の職人が琥珀を磨いたり、紐を通したりしていた。そばに「持ち込みの琥珀も加工いたします」と書いてある。


「これ拾えるってこと?」

「運がよければ、だって」

「ちょっと探してみたい」

「私も」


隣には大きな地図もあった。


《南樺太・中知床 大地と海が出会うジオパーク》


道の駅のある場所から南へ、海岸線に沿って色が伸びている。

琥珀の浜、湿原、海食崖、山の湖。

冬真の知らない場所がいくつも並んでいた。


一通り見たあとに冬真が言う。

「──じゃあ、そろそろ帰る?」

「うん」

芽瑠萌が軽く頷いた。



外へ出ると、さっきまで空を覆っていた雲が海の上から切れ始めていた。 白い光が駐車場へ落ちる。急に気温が上がった感じがした。

「暑くなってきた」

「ほんとだ」

芽瑠萌が手で目元を遮る。


向こうにオホーツク海が広がっていた。青灰色の海面を、雲の切れ間から落ちた光がところどころ白く照らしている。


芽瑠萌がふと、小さな木の看板の前で足を止めた。

野寒《のっさむ》ツルコケモモソフト、と書いてある。


「──ツルコケモモって、どんな味だっけ」

「食べたことある気はする」

「私も。ジャムとかかな」


芽瑠萌が見る。

冬真も見る。


「……これも、確認しとくか」

「何を?」

「味」

芽瑠萌が冬真を見た。

「案内所で訊かれるかもしれないし」

「ソフトクリームの味を?」

「訊かれるかも」


少し間があった。


芽瑠萌が笑う。

「仕事だから、しょうがないね」

「しょうがない」

二人は、もう一度建物の中へ入った。



二つ買って、海の見えるベンチに並んで座る。

冬真が一口食べた。

「……これさ、ほぼクランベリーじゃない?」

芽瑠萌も食べる。

「あ、クランベリーだ」

「確認終了」

「早いよ」

「じゃあもう一口確認する」

「仕事だからね」

芽瑠萌ももう一口食べた。



食べ終わって、駐車場へ向かいかけたところで芽瑠萌が海岸を見た。

「……琥珀」

冬真も海岸を見る。

「探す?」

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけな」

二人は歩いて海岸へ下りた。


砂浜はあまり広くなかった。波打ち際には昆布と流木が転がり、濡れたところだけ砂の色が濃い。

芽瑠萌がしゃがみ込んだ。

「これは?」

「早い」

「琥珀っぽい」

冬真もしゃがむ。芽瑠萌の指先に、茶色い欠片が載っていた。

「それ、石だろ」

「まだ分かんないよ」

「絶対、石」

「じゃあ佐々木くん探してよ」

「探してるよ」

「立ってるだけじゃん」

冬真も砂利を掻いて、茶色いものを拾った。

「これ」

芽瑠萌が覗き込んだ。


顔が近い。

髪が風に流れて、冬真の手に少し触れた。


「……何これ」

「琥珀」

「木じゃない?」

じっと見る。


木だった。


「木だな」

芽瑠萌が笑った。

「私の方がまだ惜しい」

「どっちもゼロだろ」


そのまましばらく、歩きながら探した。芽瑠萌は波打ち際まで出た。

「黒川、そこ濡れるぞ」

「大丈夫」

そう言った途端に大きめの波が来た。

「わっ」

芽瑠萌が跳ねるように下がって、反射的に冬真の腕を掴んだ。


そのまま、二人とも固まった。

芽瑠萌の手が、冬真の袖を掴んでいる。


「あ」


二人とも海の方を見た。

「……濡れなかった?」

「うん」

「ならよかった」

袖から手を離して、また歩きはじめた。



しばらくして、芽瑠萌が言った。

「もう十分は経ったよね」

「経ったな」

「戻る?」

「戻るか」

そう言いながら、歩く方向は変わらなかった。


芽瑠萌が笑う。

「戻ってないじゃん」

「黒川もだろ」

「私は佐々木くんについてってるだけ」

「じゃあ戻る?」


芽瑠萌は足元を探しながら、

「あと一個だけ」

と言った。


「何の一個だよ」

「それっぽいやつ」

「石でも?」

「石でも」

冬真は笑った。

二人でまた探した。


少し先で芽瑠萌が、白っぽい丸石を拾った。

「これ、きれい」

「琥珀じゃないぞ」

「分かってるよ」

手のひらで転がしてから、冬真に見せる。

「いる?」

「なんで俺に」

「今日まだ何も見つけてないから」

「木見つけただろ」

「じゃあいらない?」

「……もらう」

芽瑠萌が笑う。

冬真は石をポケットに入れた。

「持って帰るんだ」

「くれたんだろ」

「そうだけど」


そのあと、今度は冬真が足を止めた。

濡れた砂の中に、小さな光が見えた。

しゃがんで親指で砂を擦る。何か飴色の小さな欠片が現れた。

「黒川」

芽瑠萌が寄ってくる。

「何?」

冬真が手を開いた。


「……え」


また二人の頭が近づく。

芽瑠萌が指先で欠片をそっとつまんで、雲の切れ間から落ちた光へ透かした。薄い茶色の縁だけが明るくなった。


「綺麗」

芽瑠萌が笑った。


冬真は琥珀ではなく、芽瑠萌の横顔を見ていた。

風で乱れた、黒に近い茶色の髪が頬にかかっている。さっきまで日に照らされていたせいか、頬も少し赤い。


胸の奥が、一度強く鳴った。


芽瑠萌がこちらを向きかけると、冬真はすぐに琥珀へ目を戻した。

「……本物かな」

「戻って見てもらおう」

「うん」

二人で歩き出す。


少しして、冬真が前を見たまま言った。

「たしか、加工もしてくれるって書いてあったよな」

「うん」

「ヘアピンとか」

芽瑠萌が冬真を見る。

「私に?」

「……ほかに誰がいるんだよ」

今度は芽瑠萌が前を向いた。

「じゃあ、もらおっかな」

「本物だったらな」

「石でもいいよ」

「石でも?」

芽瑠萌は少し笑った。

「佐々木くんが見つけたやつだし」

冬真は何も言えなかった。


ポケットの中で、さっきもらった白い石に指が触れる。

二人はそのまま並んで、道の駅への階段を上がっていった。

設定メモ


今回の話の舞台は南樺太の東岸、戦前の豊栄郡栄浜村、現在のスタロドゥプスコエにあたる地域です。豊原=ユジノサハリンスクから北北東に約50キロ、戦前には多くのアイヌ人が暮らしていました。1923年には宮沢賢治がこの地を訪れており、『銀河鉄道の夜』の着想の場所になったという説もあります。野寒(のっさん)も村内の地名として記録が残ります。

また、Wikipediaのスタロドゥプスコエの項目には、琥珀が流れ着く海岸があると記載されています。


博物館の展示のなかで「ヌイヴォ・間宮海峡交易圏」は完全な創作です。この世界では史実よりも北樺太(北サハリン)の発掘調査が進んでいるという設定を踏まえています。

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