博物館と琥珀の来る海
「二人とも、今日ちょっと遠出できる?」
土曜の朝、菅原がカウンターに地図を置いた。
「どこですか」
「ここ」
冬真と芽瑠萌が覗き込む。
国立北方民族歴史文化博物館。
名前だけは知っていた。ただ、地図の印は冬真が思っていたより北の方にあった。
「ここなんだ」
「海の近くですね」
「豊原の市内だと思ってた」
「五月にリニューアルオープンしてから、訊かれること増えてるんだよ。車でどのくらいかかるとか、子供連れてって楽しめるかとか、何時間くらい見ればいいとか」
菅原は地図の横に車の鍵を置いた。
「パンフ見れば分かることじゃなくて、行った人じゃないと答えにくいところ見てきてほしくて。写真も何枚かお願い。十七時までに車戻せればいいよ」
「分かりました」
冬真が鍵を取った。
「行き、俺運転する?」
「うん。帰りやる」
九時半過ぎ、二人は豊原を出た。
街を抜けて高速へ上がる。薄い雲が空を覆い、遠くの山並みは上の方だけ霞んでいた。
しばらく走ると窓の外が屋根から畑へ、畑から牧草地へ変わった。浅い川の周りに柳が茂り、その向こうに白樺の林が続く。
豊原を出て三十分ほどで山が近づいた。
落合の手前で高速を下りて東へ向かうと、平らだった土地が狭まり、道の両側へ針葉樹の斜面が寄ってくる。
「うわ」
冬真がハンドルを握ったまま言った。道が急に大きく曲がり、何もない平地を迂回するように大きく弧を描いていた。
「なんでこんな変な作り方するんだろ」
「立ち退き反対とかかな」
「こんな何もないところで?」
そのまま道は山へ入る。長いトンネルを抜けると、斜面の切れ間に、灰青色の海が現れた。
「あ、オホーツク海」
芽瑠萌が言った。
冬真も一瞬だけ見る。
「もう東側か」
坂を降りきったところで、博物館の案内標識が現れた。
*
博物館は、思っていたより大きかった。
林を背に、黒い壁と木の色をした建物が横へ長く伸びている。中央のガラスには、低い雲が白く映っていた。
駐車場から入口へ向かう途中、《世界遺産 樺太北方諸民族の文化的景観》と書かれた案内板が立っていた。
樺太の地図に赤い点が散り、その周囲に遺跡や集落跡、海岸、川辺の写真が並んでいる。
芽瑠萌が案内表示を撮った。
冬真もスマホを出す。
「何撮ればいい?」
「入口まで分かるやつ」
「じゃあこっちか」
中へ入ると、吹き抜けに世界遺産の大きなポスターが下がっていた。
受付の横には弓を持ったアイヌの少女のパネルがある。
「どこにでもいるよね、アシㇼパさん」
「ゴールデンカムイの? 名前は知ってる」
「樺太はあんな田舎じゃないって菜月が怒ってた」
「だいぶ昔の話だろ」
最初の展示室で、二人とも足が止まった。壁一面に巨大な地図があった。
真ん中に樺太、下に北海道と本州、右へ千島列島、左には沿海州、上にはアムール川の河口と大陸が広がっている。
普段よく見る日本地図とはかなり違った。
「日本が端っこだ」
冬真が言った。
芽瑠萌も少し離れて壁を見上げた。
「ほんとだ」
手前に大きな操作台がある。
冬真が《オホーツク文化圏》を押した。すると、樺太から北海道北部、千島へ紫色の光が大きく広がった。
「おお」
芽瑠萌も画面に触った。
《奥州藤原氏の東北支配》
今度は南の端のあたりが黄色く光った。
《ヌイヴォ・間宮海峡交易圏》
《安東氏の北海交易》
《北の元寇》
《山丹交易》
押すたびに色が重なり、海の上を線が走った。
「これ面白いな」
「写真撮っとく?」
「撮ろう」
仕事用に何枚か撮った。
そのあとも二人は、しばらくいろいろなボタンを押していた。
*
展示室へ入ると、床に埋め込まれた樺太の地図に、海岸沿いの遺跡が光っていた。
ケースには骨の銛や釣針、その先には鉄鍋や刀、漆器、ガラス玉が並ぶ。本州から来たものと、アムール川の方から来たものが同じ場所から見つかっていた。
次の部屋には、樺太アイヌの刺繍の入った衣、魚皮を縫ったニヴフの衣服、ウイルタの毛皮衣が並んでいた。壁では、雪原を橇とトナカイが進む古い映像が流れている。
冬真が説明を読もうとして、その先を見た。
屋根があった。
「黒川」
「うん。私も見てた」
奥にあったのは、樺太アイヌの住居を実物大で復元したものだった。
中は薄暗い。中央に炉があり、壁際に寝床がある。
二人で覗き込んでいると、少し先から歓声が聞こえた。
そちらへ進むと、大きな画面に流氷の海が映り、その前で子供が模擬の銛を構えている。
子供は一発で的に当てた。
「うま」
冬真が言った。
順番が空いた。
「やる?」
「佐々木くん先」
一回目は外れた。
二回目も外れた。
「難しいんだって」
芽瑠萌が代わると、一回で的の中心に当てた。
「あ」
本人がいちばん驚いた。
「もう一回やって」
「私?」
「たまたまかもしれない」
また当たった。
冬真は黙って銛を受け取った。
「佐々木くん、後ろ」
家族連れが待っていた。冬真は銛を床に戻した。
「あとで来る」
「まだやるの?」
芽瑠萌が笑った。
*
《いまも残る北方のことば》
壁の画面を何となく押すと、音声が流れた。
冬真は止まった。
もう一度押す。
「セテい?」
芽瑠萌も戻ってきた。
画面には「sirsetek(シㇼセテㇰ)」というアイヌ語が出ていた。
寒い。冷え込む。
その下に、「現代樺太方言:セテい」とある。
「これ、アイヌ語だったの?」
冬真が言った。
「知らなかった」
「普通に日本語だと思ってた」
「私も」
「内地じゃ使わないのかな?」
二人でもう一度音声を聞いた。
次の言葉と、その次の言葉は知らなかった。
三つ目で芽瑠萌が先へ歩き始めた。
次の部屋には体験衣装のコーナーがあった。
樺太アイヌ、ウイルタ、ニヴフ、エヴェンキ、ナナイ。復元された衣装が何着も並び、横には古写真と着用例が掲げられている。
芽瑠萌が足を止めた。
「これ着れるんだ」
少し屈んで案内を読む。
「写真も撮っていいって」
「へえ」
冬真が横から覗く。
芽瑠萌はもう一度、衣装を見た。
「着よう」
「黒川が?」
「佐々木くんも」
「俺も?」
「体験した方が案内しやすいでしょ」
そう言って、芽瑠萌はさっさと係員の方へ歩いていった。
冬真が後ろからついていくと、係員がすぐに衣装を何着か出してくれた。
「どれにする?」
芽瑠萌はそう言いながら、もう選び始めている。
「これがいい」
樺太アイヌの女性衣装だった。
「佐々木くん、こっち似合いそう」
指したのはウイルタの男性衣装だった。
「もう決まってるの?」
「嫌?」
「別に」
「じゃあこれで」
冬真の返事を待つより先に、芽瑠萌は係員へ衣装を渡した。
冬真は男性用の試着室の中で、壁に貼られた説明を見ながら着替えた。
青みのある濃い上着は膝近くまであり、襟元と裾に細い縁取りが走っている。腰帯を締めると、思ったより身体に馴染んだ。
外に出て鏡の前で待っていると、後ろから小さな声がした。
「佐々木くん」
振り返ると、芽瑠萌が立っていた。
藍に近い濃紺の長衣が膝下まで落ち、その上を、赤と白の布を重ねた幾何学模様が走っている。
胸元から裾へ伸びた太い文様は、さっきガラスケースの中で見た古い衣服より鮮やかだった。袖口にも同じ模様があり、動くたびに赤が覗いた。
黒に近い茶色の髪には細い鉢巻状の飾りが巻かれていた。額の上に刺繍が入り、後ろへ垂れた端が髪に重なる。
明るい照明の下で、灰色の瞳がいつもよりも薄く見えた。
冬真は一瞬、何も言えなかった。
「……どう?」
「──似合う。すごく」
少しだけ声がかすれた。芽瑠萌が笑った。
「佐々木くんも似合ってる」
一人ずつ写真を撮って、芽瑠萌が画面を確認した。
「二人で体験できるっていうのも、分かった方がいいと思う」
「じゃあ頼む?」
係員にスマホを渡した。
「観光案内所で使う写真なんですけど、二人でお願いします」
並ぶ。
「もう少し寄ってください」
そう言われて、二人で少し動いた。
肩が触れた。
芽瑠萌が横を見る。冬真も見た。
「あ」
どちらが言ったのか分からなかった。
「撮りますね」
二人とも前を向いた。
一枚。
「もう一枚いきますね」
二枚目。
今度は少し笑った。
*
二時前に外へ出た。
駐車場へ戻る途中、芽瑠萌が周辺案内図の前で足を止めた。
「これって……」
冬真も戻る。
《落合東遺跡群》
道路建設に伴う発掘調査で見つかった、いくつもの時代の住居跡が重なる遺跡だった。
横には上空から撮った写真があり、保存区域を避けるように新しい道路が大きく弧を描いている。
「あ」
冬真は写真を指した。
「さっき通ったところか」
「行きの変なカーブだよね」
「これだ」
説明板の隅には、入口で見た世界遺産の印が付いていた。
「立ち退きじゃなかったね」
「人はいたけどな」
「何百年前の?」
「もっと前じゃない?」
周辺案内図には、海沿いの道の駅も載っていた。
「近いな」
冬真が言った。
「行く?」
「行こう」
道の駅までは車で数分だった。
宮沢賢治の小さな石碑の脇を過ぎたところで、「道の駅 オホーツクの丘のっさむ」という大きな看板が見えた。
広い駐車場に車を停めて中に入る。
野菜や土産物が並ぶコーナーを通って奥に進むと、「琥珀の来る海」という大きなパネルが飾られていた。
「え、琥珀?」
芽瑠萌が立ち止まる。
波打ち際の写真に、飴色の小さな欠片が光っている。
ガラスの壁の向こうで、数名の職人が琥珀を磨いたり、紐を通したりしていた。そばに「持ち込みの琥珀も加工いたします」と書いてある。
「これ拾えるってこと?」
「運がよければ、だって」
「ちょっと探してみたい」
「私も」
隣には大きな地図もあった。
《南樺太・中知床 大地と海が出会うジオパーク》
道の駅のある場所から南へ、海岸線に沿って色が伸びている。
琥珀の浜、湿原、海食崖、山の湖。
冬真の知らない場所がいくつも並んでいた。
一通り見たあとに冬真が言う。
「──じゃあ、そろそろ帰る?」
「うん」
芽瑠萌が軽く頷いた。
外へ出ると、さっきまで空を覆っていた雲が海の上から切れ始めていた。 白い光が駐車場へ落ちる。急に気温が上がった感じがした。
「暑くなってきた」
「ほんとだ」
芽瑠萌が手で目元を遮る。
向こうにオホーツク海が広がっていた。青灰色の海面を、雲の切れ間から落ちた光がところどころ白く照らしている。
芽瑠萌がふと、小さな木の看板の前で足を止めた。
野寒ツルコケモモソフト、と書いてある。
「──ツルコケモモって、どんな味だっけ」
「食べたことある気はする」
「私も。ジャムとかかな」
芽瑠萌が見る。
冬真も見る。
「……これも、確認しとくか」
「何を?」
「味」
芽瑠萌が冬真を見た。
「案内所で訊かれるかもしれないし」
「ソフトクリームの味を?」
「訊かれるかも」
少し間があった。
芽瑠萌が笑う。
「仕事だから、しょうがないね」
「しょうがない」
二人は、もう一度建物の中へ入った。
二つ買って、海の見えるベンチに並んで座る。
冬真が一口食べた。
「……これさ、ほぼクランベリーじゃない?」
芽瑠萌も食べる。
「あ、クランベリーだ」
「確認終了」
「早いよ」
「じゃあもう一口確認する」
「仕事だからね」
芽瑠萌ももう一口食べた。
食べ終わって、駐車場へ向かいかけたところで芽瑠萌が海岸を見た。
「……琥珀」
冬真も海岸を見る。
「探す?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけな」
二人は歩いて海岸へ下りた。
砂浜はあまり広くなかった。波打ち際には昆布と流木が転がり、濡れたところだけ砂の色が濃い。
芽瑠萌がしゃがみ込んだ。
「これは?」
「早い」
「琥珀っぽい」
冬真もしゃがむ。芽瑠萌の指先に、茶色い欠片が載っていた。
「それ、石だろ」
「まだ分かんないよ」
「絶対、石」
「じゃあ佐々木くん探してよ」
「探してるよ」
「立ってるだけじゃん」
冬真も砂利を掻いて、茶色いものを拾った。
「これ」
芽瑠萌が覗き込んだ。
顔が近い。
髪が風に流れて、冬真の手に少し触れた。
「……何これ」
「琥珀」
「木じゃない?」
じっと見る。
木だった。
「木だな」
芽瑠萌が笑った。
「私の方がまだ惜しい」
「どっちもゼロだろ」
そのまましばらく、歩きながら探した。芽瑠萌は波打ち際まで出た。
「黒川、そこ濡れるぞ」
「大丈夫」
そう言った途端に大きめの波が来た。
「わっ」
芽瑠萌が跳ねるように下がって、反射的に冬真の腕を掴んだ。
そのまま、二人とも固まった。
芽瑠萌の手が、冬真の袖を掴んでいる。
「あ」
二人とも海の方を見た。
「……濡れなかった?」
「うん」
「ならよかった」
袖から手を離して、また歩きはじめた。
しばらくして、芽瑠萌が言った。
「もう十分は経ったよね」
「経ったな」
「戻る?」
「戻るか」
そう言いながら、歩く方向は変わらなかった。
芽瑠萌が笑う。
「戻ってないじゃん」
「黒川もだろ」
「私は佐々木くんについてってるだけ」
「じゃあ戻る?」
芽瑠萌は足元を探しながら、
「あと一個だけ」
と言った。
「何の一個だよ」
「それっぽいやつ」
「石でも?」
「石でも」
冬真は笑った。
二人でまた探した。
少し先で芽瑠萌が、白っぽい丸石を拾った。
「これ、きれい」
「琥珀じゃないぞ」
「分かってるよ」
手のひらで転がしてから、冬真に見せる。
「いる?」
「なんで俺に」
「今日まだ何も見つけてないから」
「木見つけただろ」
「じゃあいらない?」
「……もらう」
芽瑠萌が笑う。
冬真は石をポケットに入れた。
「持って帰るんだ」
「くれたんだろ」
「そうだけど」
そのあと、今度は冬真が足を止めた。
濡れた砂の中に、小さな光が見えた。
しゃがんで親指で砂を擦る。何か飴色の小さな欠片が現れた。
「黒川」
芽瑠萌が寄ってくる。
「何?」
冬真が手を開いた。
「……え」
また二人の頭が近づく。
芽瑠萌が指先で欠片をそっとつまんで、雲の切れ間から落ちた光へ透かした。薄い茶色の縁だけが明るくなった。
「綺麗」
芽瑠萌が笑った。
冬真は琥珀ではなく、芽瑠萌の横顔を見ていた。
風で乱れた、黒に近い茶色の髪が頬にかかっている。さっきまで日に照らされていたせいか、頬も少し赤い。
胸の奥が、一度強く鳴った。
芽瑠萌がこちらを向きかけると、冬真はすぐに琥珀へ目を戻した。
「……本物かな」
「戻って見てもらおう」
「うん」
二人で歩き出す。
少しして、冬真が前を見たまま言った。
「たしか、加工もしてくれるって書いてあったよな」
「うん」
「ヘアピンとか」
芽瑠萌が冬真を見る。
「私に?」
「……ほかに誰がいるんだよ」
今度は芽瑠萌が前を向いた。
「じゃあ、もらおっかな」
「本物だったらな」
「石でもいいよ」
「石でも?」
芽瑠萌は少し笑った。
「佐々木くんが見つけたやつだし」
冬真は何も言えなかった。
ポケットの中で、さっきもらった白い石に指が触れる。
二人はそのまま並んで、道の駅への階段を上がっていった。
設定メモ
今回の話の舞台は南樺太の東岸、戦前の豊栄郡栄浜村、現在のスタロドゥプスコエにあたる地域です。豊原=ユジノサハリンスクから北北東に約50キロ、戦前には多くのアイヌ人が暮らしていました。1923年には宮沢賢治がこの地を訪れており、『銀河鉄道の夜』の着想の場所になったという説もあります。野寒も村内の地名として記録が残ります。
また、Wikipediaのスタロドゥプスコエの項目には、琥珀が流れ着く海岸があると記載されています。
博物館の展示のなかで「ヌイヴォ・間宮海峡交易圏」は完全な創作です。この世界では史実よりも北樺太(北サハリン)の発掘調査が進んでいるという設定を踏まえています。




