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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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13/28

線路と霧の山

金曜の夜、芽瑠萌《めるも》からLINEが来た。

『これ知ってる?』


一緒に送られてきたのは、じゃらんの「宝台《たからだい》ループ展望台」というページだった。

緑の山肌にトンネルが口を開け、その上を鉄橋が横切っている。


『下の線路、トンネル入って一周して、上の鉄橋に出るんだって』

『これ同じ線路なの?』

『そうみたい』

『宝台って、あの宝台か』

『小能登呂《このとろ》行ったとき、この近く通ってたみたい』


冬真《ふゆま》は地図を開いた。豊原から西へ、鈴谷《すすや》山脈を越えて真岡《まおか》へ向かう途中。確かにあの日、車で通った道の近くだった。


『全然気づかなかった』

『道路はトンネルで抜けてるから』

『行ったことある?』

『ない』

『私も』


少し間があいた。


『行ってみたい』


冬真は画面を少し見てから打った。

『じゃあ行く?』


返事はほとんど一瞬で来た。

『行く』


     *


日曜の朝、豊原駅の中央改札前で芽瑠萌を見つけた。人混みをくぐって近づくと、彼女の髪に小さな飴色のものが光っているのが見えた。

「それ」

芽瑠萌が髪に触れた。

「できたよ」


海岸で拾った琥珀《こはく》だった。小さく磨かれて、金具に留められている。


「本当に、本物だったんだ」

「うん。ちゃんと琥珀だって」

「──似合ってる」


芽瑠萌の手が止まった。

「……ありがと」

頬が少しだけ赤い。冬真は目を逸らして、話を変えるように駅弁売場を指した。

「弁当、買ってく?」



「あ、内地の駅弁がある」

芽瑠萌が期間限定のコーナーに気付いた。

富山のます寿司、峠の釜めし、牛タン弁当、ひっぱりだこ飯、広島のあなご飯。どれも初めて見る。

「本州って狭いのに、結構いろいろあるんだな」

「だよね」


芽瑠萌が丸い箱を持ち上げて、横から見た。

「富山ってどこだっけ」

「本州の真ん中へんかな」

「本州の魚って、あんまり美味しくなさそう」

冬真は牛タン弁当を見下ろした。

「これ、仙台の弁当だけどポロナイ牛使ってる」

「北樺太だね」


そのとき、頭上で短いチャイムが鳴って、構内放送が流れた。

『JR樺太よりご案内いたします。高速特急オーロラ十三号、敷香《しすか》・奥端《おは》方面行きは――』

スーツケースを引いた観光客たちが何人も店に入ってきて、二人は少し離れたところに動いた。

「あ」

芽瑠萌が目の前の棚を見て足を止めた。

生成りの紙に古い樺太の地図を墨色で刷った弁当がある。名前は「サガレン紀行」。下の方に小さな字で『国立北方民族歴史文化博物館 監修』とあった。


「博物館が駅弁作ってる?」

「監修、って書いてあるよ」


裏に短い解説があった。

地図は間宮林蔵の北蝦夷島図、料理は樺太アイヌ、ニヴフ、ウイルタの食文化をもとにしているらしい。


「どんな味なんだろ」

「食べてみる?」

芽瑠萌は値札を見た。

「千六百八十円」

「高い」

「駅弁だから」

「駅弁なら仕方ない」

二人ともそれを買った。



真岡行きの普通列車は、豊原の市街地を抜けると西へ向かった。鈴谷《すすや》川を越えるころには両側から山が迫り、空が白くなった。


「霧、出てきた」

窓の外で、山の上半分が消えている。


谷の上の方に高速道路が並行しているのが見えた。

「あれ、この前走ったところじゃない?」

「そうかも」

高速道路は山腹へ吸い込まれ、そのままトンネルへ消えた。

「この近く通ってたんだな」

「線路はぐるぐるしてるのに、車は真っ直ぐなんだ」

「ずるいな」

「高速道路の方が新しいからね」



豊原を出てから一時間ほどで、宝台《たからだい》に着いた。

駅の建物は小さかったが、ホームの脇に保線車両が何台も並び、除雪基地らしい建物もある。

改札の横には、古い映画のポスターが額に入っていた。軍服姿の若い高倉健《たかくらけん》がこちらを見ている。紙はすっかり色褪せていた。


山の上の方は霧に隠れ、展望歩道へ向かう道には、《ヒグマ出没注意》の新しい看板が立っていた。


「六月二十八日、宝台駅西方一・二キロ」

「最近じゃん。熊鈴持ってくればよかった」

芽瑠萌が言った。

「持ってるの?」

「家にあるよ。奥端《おは》にいたころ、ダーチャ行くとき、いつも使ってた」

「黒川んち、ダーチャあったの?」

「借りてたの。お父さんの会社の人たちと。キノコとかベリー採ってた」

熊鈴を鳴らしながら、両手で籠を抱えて歩く小学生の芽瑠萌が頭に浮かんだ。

たぶん、かなりかわいい。


少し先で、道沿いの開けた草地の端に古い石碑が立っていた。


《真岡反攻部隊集結地》

《昭和二十年八月二十三日》


「ああ、ここから行ったんだ」

「真岡奪回のやつ」

「うん」

二人は少し立ち止まって、横の説明文を読んだ。

「この線路も使ったんだね」

「みたいだね」

冬真は石碑の向こうに続く線路をしばらく見つめた。


それから、二人はまた歩き出した。

「奥端って、熊も多かった?」

「ダーチャの近くに出たことあるよ」

「怖くない?」

「その日はダーチャ行かなかった。お父さんたちが撃ちに行って」

「撃ちに?」

冬真が振り向く。

「熊を?」

「うん。会社の人たちと」

「お父さん、猟師じゃないんだよね」

「普通の会社員だよ。電機の会社。なんか工場とかプラントとか行ってた」

「北だと普通の会社員でも熊撃つんだ」

「うん。人呼んでも、遠いからね」

冬真は少し黙った。


「黒川んち、銃あったの?」

「今もあるよ」

「初めて知った」

「とくに言う機会もなかったから」

それはそうだった。


     *


遊歩道を上りきると、木々が途切れた。

「……白いね」

「白いな」

谷には霧が溜まっていた。

向こうの山腹は途中から消え、下を走る道路も、見えたり隠れたりしている。


展望台には先客がいた。

三脚を立てた男が二人、長いレンズを抱えた若い男が一人。

「寒っ。もう七月やぞ」

若い男が半袖の腕をさする。冬真がそちらを見ると、男も気づいた。

「寒くないですか?」

「え?」

冬真は聞き返した。今日はむしろ、少し暑いくらいだった。

「やっぱ道樺《どうか》の人は違うなあ。昨日まで北九州にいたんで。樺太、初めてなんですよ。向こう、今三十五度とか普通ですから」

「──三十五度?」


内地《みなみ》の天気予報で見たことはあっても、実際の三十五度は想像がつかなかった。

豊原でいちばん暑かった日に、さらに十度足す。街じゅうが風呂場みたいになる絵しか浮かばない。

芽瑠萌もまじまじと男の顔を見ていた。


「夜も二十五度切らないですし」

「夜でも?」

「夜中でも暑いですよ。エアコンなしじゃ寝られないです」

「エアコンって、夏に使ったことなかったです」

「私も……」

芽瑠萌が隣で小さく言った。


「はは、日本は広いですね」

男が笑う。

「こっちは豊真線《ほうしんせん》撮ったら、縦貫線で北まで行くんです。こんな山岳線、今でもバリバリ使ってるの樺太くらいなんで」



霧はまだ晴れそうになかった。

二人は屋根のある休憩所に入り、豊原駅で買ってきた駅弁を開いた。

鮭の干し焼き、鹿肉の煮物、山菜の和え物。

「山菜はチカリベっていうアイヌ料理だって」

芽瑠萌が品書きを読んだ。

魚のほぐし身と小さな赤い実を和えたものもある。


「おやつ、じゃないよね」

「ウイルタ料理、ソリって書いてある。本当はアザラシの油を使うんだって」

芽瑠萌はソリを一口食べて頬を緩めた。

「甘い」

「こっちから一口あげようか」

「じゃあ代わりに鹿肉、ちょっとあげる」

「もらう」



食べ終わるころには風が出た。

「来るぞ」

三脚のそばの男が言った。

一斉にカメラが谷へ向いた。霧がゆっくり流れ、谷の底から川が現れる。その向こうに線路が見えた。


「あ」


さらに白い幕が切れた。山腹の上に、鉄橋が姿を現した。


「あれだ」

芽瑠萌が指す。

「写真で見るより離れてるね」

「ほんとにここから、あそこまで上がるのか」


遠くで汽笛が鳴った。

金属がレールを叩く低い音が、霧の中で少しずつ大きくなり、やがて二両の機関車が姿を現した。その後ろからコンテナ車が次々に続く。

「重連だ」

「今日、荷重あるな」

「タンクも入ってる。真岡の港湾貨物か」

「通し運用じゃない?」

鉄道ファンたちの言葉が飛び交う。

「何の話してるんだろ」

芽瑠萌が小声で言った。

「全然分からん」


列車はまだ後ろを霧の中に残したまま、山腹を進んでいく。

「長いね」

「何両あるんだ」

「これ見たかったんですよ」

北九州の男がカメラを構えたまま言った。

「港の貨物が長編成のままループ越えるんです。樺太は山越えでも貨物が現役だから」


二両の機関車がトンネルへ消えた。それでも貨車は続いた。

一両、また一両。

とうとう最後のコンテナ車が闇へ吸い込まれ、音だけが山の中に残った。

誰もカメラを下ろさない。


「上段、来るぞ」

「霧もってくれ」

「露出上げた?」


しばらくして、今度は上の方から音がした。


「あっ」

芽瑠萌が先に見つけた。

さっきの機関車が、高い山腹のトンネルから姿を現した。

「うわ」

冬真も思わず声を出した。


さっきまで谷底近くにいた機関車が、今は二人の目線に近い高さを走っている。その下には、ついさっき通った線路が見えていた。

「あ、写真」

芽瑠萌が慌ててスマートフォンを構えた。

冬真もポケットから取り出したころには、二両の機関車はもう鉄橋を渡りきっていた。


長い貨物列車の最後の一両が霧の中へ消えると、三脚の男が腕時計に視線を向けた。

「次の普通、十二分後」

「三連?」

「今日は三連」

北九州の男もカメラを下ろし、半袖の腕を寒そうにさすった。


芽瑠萌が冬真を見た。

「待つ?」

「待つ」


十二分後、今度は普通列車が来た。さっきの貨物に比べると、拍子抜けするほど短い三両だった。

「あれも同じところ回るんだよね」

「見るまで帰れないな」

三両の電車も下の線路からトンネルへ消え、しばらくして上から出てきた。

今度は二人とも、ちゃんと写真に撮った。


     *


駅へ戻る途中で、芽瑠萌が足を止めた。

道の先にキタキツネがいた。こちらを見たまま、長い尻尾を下げて立っている。

「あ、キツネ」

「細いな」

「夏毛だからじゃない?」

冬真がスマートフォンを出そうとしたところで、キツネは道路を横切り、笹の中へ消えた。

「逃げた」

「逃げられた」

「黒川も撮れなかった」

「出てから撮ろうとしても間に合わないね」


しばらく歩いてから、芽瑠萌が言った。

「奥端にいたとき、ダーチャのそばにキツネが七匹くらい集まってるのを見たことあるよ」

「七匹? キツネってそんなに集まるの?」

「子供が何匹かいたから、たぶん家族。お父さんとお母さんと三人でしばらく見てた」

「七匹家族か」


後ろから車が来た。二人で道路の端に寄ると、展望台にいた三脚の男たちを乗せたレンタカーがゆっくり横を通り、助手席の男が軽く手を上げた。

冬真も手を上げ返す。

車が先へ行ってから、芽瑠萌が続けた。


「子ギツネ、兄弟でずっとじゃれ合ってたよ」

「賑やかそうだな」

「ちょっと羨ましかった。一人っ子だから」

「兄弟ほしかったの?」

「小さいころはね」


道は駅へ向かって緩く下っていた。

林の向こうから貨物列車の走る音が聞こえてくる。姿は見えないまま、車輪の音だけが延々と山に響いていた。


「佐々木くんは妹いるんだよね」

「いる。残念ながら」

「残念なんだ」

「あいつ、勝手に俺の部屋入るからな。菓子も食うし」

「摩央ちゃんだっけ」

「そう」

「何歳?」

「中二」

「かわいいじゃん」

「会ったことないだろ」

「妹っていう時点でちょっとかわいい」

「貸そうか?」

「物みたいに言わない」

芽瑠萌が笑った。


さっきの石碑の横を通る。

迷彩服の若い自衛官たちが並び、年配の観光ガイドが石碑を指しながら何かを説明していた。


「この前も母親の化粧水、勝手に使って怒られてた」

「中二なら使いたくなるんじゃない?」

「自分のあるのに?」

「あるんだ」

「母親が薬局で働いてるから、そういうのだけいっぱいある」


角を曲がると目の前に赤い屋根が見えた。

「あ、もう駅だ」

芽瑠萌が指さす。

誰もいない改札口を抜け、二人はホームへ出た。


冬真はポケットに手を入れた。

指先に、小さな丸い石が触れる。芽瑠萌にもらった白い石だった。

持ってくる必要はなかった。でも、朝、なんとなくポケットに入れた。


「次、どこ行く?」

芽瑠萌が言った。

「もう次?」

「嫌ならいいけど」

「全然、誰も一言も嫌って言ってない」

芽瑠萌は少し笑った。

「今回、私が見つけたから。次は佐々木くんが探して」

「俺?」

「交代だよ」


山の向こうから、また列車の音がした。

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