線路と霧の山
金曜の夜、芽瑠萌からLINEが来た。
『これ知ってる?』
一緒に送られてきたのは、じゃらんの「宝台ループ展望台」というページだった。
緑の山肌にトンネルが口を開け、その上を鉄橋が横切っている。
『下の線路、トンネル入って一周して、上の鉄橋に出るんだって』
『これ同じ線路なの?』
『そうみたい』
『宝台って、あの宝台か』
『小能登呂行ったとき、この近く通ってたみたい』
冬真は地図を開いた。豊原から西へ、鈴谷山脈を越えて真岡へ向かう途中。確かにあの日、車で通った道の近くだった。
『全然気づかなかった』
『道路はトンネルで抜けてるから』
『行ったことある?』
『ない』
『私も』
少し間があいた。
『行ってみたい』
冬真は画面を少し見てから打った。
『じゃあ行く?』
返事はほとんど一瞬で来た。
『行く』
*
日曜の朝、豊原駅の中央改札前で芽瑠萌を見つけた。人混みをくぐって近づくと、彼女の髪に小さな飴色のものが光っているのが見えた。
「それ」
芽瑠萌が髪に触れた。
「できたよ」
海岸で拾った琥珀だった。小さく磨かれて、金具に留められている。
「本当に、本物だったんだ」
「うん。ちゃんと琥珀だって」
「──似合ってる」
芽瑠萌の手が止まった。
「……ありがと」
頬が少しだけ赤い。冬真は目を逸らして、話を変えるように駅弁売場を指した。
「弁当、買ってく?」
「あ、内地の駅弁がある」
芽瑠萌が期間限定のコーナーに気付いた。
富山のます寿司、峠の釜めし、牛タン弁当、ひっぱりだこ飯、広島のあなご飯。どれも初めて見る。
「本州って狭いのに、結構いろいろあるんだな」
「だよね」
芽瑠萌が丸い箱を持ち上げて、横から見た。
「富山ってどこだっけ」
「本州の真ん中へんかな」
「本州の魚って、あんまり美味しくなさそう」
冬真は牛タン弁当を見下ろした。
「これ、仙台の弁当だけどポロナイ牛使ってる」
「北樺太だね」
そのとき、頭上で短いチャイムが鳴って、構内放送が流れた。
『JR樺太よりご案内いたします。高速特急オーロラ十三号、敷香・奥端方面行きは――』
スーツケースを引いた観光客たちが何人も店に入ってきて、二人は少し離れたところに動いた。
「あ」
芽瑠萌が目の前の棚を見て足を止めた。
生成りの紙に古い樺太の地図を墨色で刷った弁当がある。名前は「サガレン紀行」。下の方に小さな字で『国立北方民族歴史文化博物館 監修』とあった。
「博物館が駅弁作ってる?」
「監修、って書いてあるよ」
裏に短い解説があった。
地図は間宮林蔵の北蝦夷島図、料理は樺太アイヌ、ニヴフ、ウイルタの食文化をもとにしているらしい。
「どんな味なんだろ」
「食べてみる?」
芽瑠萌は値札を見た。
「千六百八十円」
「高い」
「駅弁だから」
「駅弁なら仕方ない」
二人ともそれを買った。
真岡行きの普通列車は、豊原の市街地を抜けると西へ向かった。鈴谷川を越えるころには両側から山が迫り、空が白くなった。
「霧、出てきた」
窓の外で、山の上半分が消えている。
谷の上の方に高速道路が並行しているのが見えた。
「あれ、この前走ったところじゃない?」
「そうかも」
高速道路は山腹へ吸い込まれ、そのままトンネルへ消えた。
「この近く通ってたんだな」
「線路はぐるぐるしてるのに、車は真っ直ぐなんだ」
「ずるいな」
「高速道路の方が新しいからね」
豊原を出てから一時間ほどで、宝台に着いた。
駅の建物は小さかったが、ホームの脇に保線車両が何台も並び、除雪基地らしい建物もある。
改札の横には、古い映画のポスターが額に入っていた。軍服姿の若い高倉健がこちらを見ている。紙はすっかり色褪せていた。
山の上の方は霧に隠れ、展望歩道へ向かう道には、《ヒグマ出没注意》の新しい看板が立っていた。
「六月二十八日、宝台駅西方一・二キロ」
「最近じゃん。熊鈴持ってくればよかった」
芽瑠萌が言った。
「持ってるの?」
「家にあるよ。奥端にいたころ、ダーチャ行くとき、いつも使ってた」
「黒川んち、ダーチャあったの?」
「借りてたの。お父さんの会社の人たちと。キノコとかベリー採ってた」
熊鈴を鳴らしながら、両手で籠を抱えて歩く小学生の芽瑠萌が頭に浮かんだ。
たぶん、かなりかわいい。
少し先で、道沿いの開けた草地の端に古い石碑が立っていた。
《真岡反攻部隊集結地》
《昭和二十年八月二十三日》
「ああ、ここから行ったんだ」
「真岡奪回のやつ」
「うん」
二人は少し立ち止まって、横の説明文を読んだ。
「この線路も使ったんだね」
「みたいだね」
冬真は石碑の向こうに続く線路をしばらく見つめた。
それから、二人はまた歩き出した。
「奥端って、熊も多かった?」
「ダーチャの近くに出たことあるよ」
「怖くない?」
「その日はダーチャ行かなかった。お父さんたちが撃ちに行って」
「撃ちに?」
冬真が振り向く。
「熊を?」
「うん。会社の人たちと」
「お父さん、猟師じゃないんだよね」
「普通の会社員だよ。電機の会社。なんか工場とかプラントとか行ってた」
「北だと普通の会社員でも熊撃つんだ」
「うん。人呼んでも、遠いからね」
冬真は少し黙った。
「黒川んち、銃あったの?」
「今もあるよ」
「初めて知った」
「とくに言う機会もなかったから」
それはそうだった。
*
遊歩道を上りきると、木々が途切れた。
「……白いね」
「白いな」
谷には霧が溜まっていた。
向こうの山腹は途中から消え、下を走る道路も、見えたり隠れたりしている。
展望台には先客がいた。
三脚を立てた男が二人、長いレンズを抱えた若い男が一人。
「寒っ。もう七月やぞ」
若い男が半袖の腕をさする。冬真がそちらを見ると、男も気づいた。
「寒くないですか?」
「え?」
冬真は聞き返した。今日はむしろ、少し暑いくらいだった。
「やっぱ道樺の人は違うなあ。昨日まで北九州にいたんで。樺太、初めてなんですよ。向こう、今三十五度とか普通ですから」
「──三十五度?」
内地の天気予報で見たことはあっても、実際の三十五度は想像がつかなかった。
豊原でいちばん暑かった日に、さらに十度足す。街じゅうが風呂場みたいになる絵しか浮かばない。
芽瑠萌もまじまじと男の顔を見ていた。
「夜も二十五度切らないですし」
「夜でも?」
「夜中でも暑いですよ。エアコンなしじゃ寝られないです」
「エアコンって、夏に使ったことなかったです」
「私も……」
芽瑠萌が隣で小さく言った。
「はは、日本は広いですね」
男が笑う。
「こっちは豊真線撮ったら、縦貫線で北まで行くんです。こんな山岳線、今でもバリバリ使ってるの樺太くらいなんで」
霧はまだ晴れそうになかった。
二人は屋根のある休憩所に入り、豊原駅で買ってきた駅弁を開いた。
鮭の干し焼き、鹿肉の煮物、山菜の和え物。
「山菜はチカリベっていうアイヌ料理だって」
芽瑠萌が品書きを読んだ。
魚のほぐし身と小さな赤い実を和えたものもある。
「おやつ、じゃないよね」
「ウイルタ料理、ソリって書いてある。本当はアザラシの油を使うんだって」
芽瑠萌はソリを一口食べて頬を緩めた。
「甘い」
「こっちから一口あげようか」
「じゃあ代わりに鹿肉、ちょっとあげる」
「もらう」
食べ終わるころには風が出た。
「来るぞ」
三脚のそばの男が言った。
一斉にカメラが谷へ向いた。霧がゆっくり流れ、谷の底から川が現れる。その向こうに線路が見えた。
「あ」
さらに白い幕が切れた。山腹の上に、鉄橋が姿を現した。
「あれだ」
芽瑠萌が指す。
「写真で見るより離れてるね」
「ほんとにここから、あそこまで上がるのか」
遠くで汽笛が鳴った。
金属がレールを叩く低い音が、霧の中で少しずつ大きくなり、やがて二両の機関車が姿を現した。その後ろからコンテナ車が次々に続く。
「重連だ」
「今日、荷重あるな」
「タンクも入ってる。真岡の港湾貨物か」
「通し運用じゃない?」
鉄道ファンたちの言葉が飛び交う。
「何の話してるんだろ」
芽瑠萌が小声で言った。
「全然分からん」
列車はまだ後ろを霧の中に残したまま、山腹を進んでいく。
「長いね」
「何両あるんだ」
「これ見たかったんですよ」
北九州の男がカメラを構えたまま言った。
「港の貨物が長編成のままループ越えるんです。樺太は山越えでも貨物が現役だから」
二両の機関車がトンネルへ消えた。それでも貨車は続いた。
一両、また一両。
とうとう最後のコンテナ車が闇へ吸い込まれ、音だけが山の中に残った。
誰もカメラを下ろさない。
「上段、来るぞ」
「霧もってくれ」
「露出上げた?」
しばらくして、今度は上の方から音がした。
「あっ」
芽瑠萌が先に見つけた。
さっきの機関車が、高い山腹のトンネルから姿を現した。
「うわ」
冬真も思わず声を出した。
さっきまで谷底近くにいた機関車が、今は二人の目線に近い高さを走っている。その下には、ついさっき通った線路が見えていた。
「あ、写真」
芽瑠萌が慌ててスマートフォンを構えた。
冬真もポケットから取り出したころには、二両の機関車はもう鉄橋を渡りきっていた。
長い貨物列車の最後の一両が霧の中へ消えると、三脚の男が腕時計に視線を向けた。
「次の普通、十二分後」
「三連?」
「今日は三連」
北九州の男もカメラを下ろし、半袖の腕を寒そうにさすった。
芽瑠萌が冬真を見た。
「待つ?」
「待つ」
十二分後、今度は普通列車が来た。さっきの貨物に比べると、拍子抜けするほど短い三両だった。
「あれも同じところ回るんだよね」
「見るまで帰れないな」
三両の電車も下の線路からトンネルへ消え、しばらくして上から出てきた。
今度は二人とも、ちゃんと写真に撮った。
*
駅へ戻る途中で、芽瑠萌が足を止めた。
道の先にキタキツネがいた。こちらを見たまま、長い尻尾を下げて立っている。
「あ、キツネ」
「細いな」
「夏毛だからじゃない?」
冬真がスマートフォンを出そうとしたところで、キツネは道路を横切り、笹の中へ消えた。
「逃げた」
「逃げられた」
「黒川も撮れなかった」
「出てから撮ろうとしても間に合わないね」
しばらく歩いてから、芽瑠萌が言った。
「奥端にいたとき、ダーチャのそばにキツネが七匹くらい集まってるのを見たことあるよ」
「七匹? キツネってそんなに集まるの?」
「子供が何匹かいたから、たぶん家族。お父さんとお母さんと三人でしばらく見てた」
「七匹家族か」
後ろから車が来た。二人で道路の端に寄ると、展望台にいた三脚の男たちを乗せたレンタカーがゆっくり横を通り、助手席の男が軽く手を上げた。
冬真も手を上げ返す。
車が先へ行ってから、芽瑠萌が続けた。
「子ギツネ、兄弟でずっとじゃれ合ってたよ」
「賑やかそうだな」
「ちょっと羨ましかった。一人っ子だから」
「兄弟ほしかったの?」
「小さいころはね」
道は駅へ向かって緩く下っていた。
林の向こうから貨物列車の走る音が聞こえてくる。姿は見えないまま、車輪の音だけが延々と山に響いていた。
「佐々木くんは妹いるんだよね」
「いる。残念ながら」
「残念なんだ」
「あいつ、勝手に俺の部屋入るからな。菓子も食うし」
「摩央ちゃんだっけ」
「そう」
「何歳?」
「中二」
「かわいいじゃん」
「会ったことないだろ」
「妹っていう時点でちょっとかわいい」
「貸そうか?」
「物みたいに言わない」
芽瑠萌が笑った。
さっきの石碑の横を通る。
迷彩服の若い自衛官たちが並び、年配の観光ガイドが石碑を指しながら何かを説明していた。
「この前も母親の化粧水、勝手に使って怒られてた」
「中二なら使いたくなるんじゃない?」
「自分のあるのに?」
「あるんだ」
「母親が薬局で働いてるから、そういうのだけいっぱいある」
角を曲がると目の前に赤い屋根が見えた。
「あ、もう駅だ」
芽瑠萌が指さす。
誰もいない改札口を抜け、二人はホームへ出た。
冬真はポケットに手を入れた。
指先に、小さな丸い石が触れる。芽瑠萌にもらった白い石だった。
持ってくる必要はなかった。でも、朝、なんとなくポケットに入れた。
「次、どこ行く?」
芽瑠萌が言った。
「もう次?」
「嫌ならいいけど」
「全然、誰も一言も嫌って言ってない」
芽瑠萌は少し笑った。
「今回、私が見つけたから。次は佐々木くんが探して」
「俺?」
「交代だよ」
山の向こうから、また列車の音がした。




