南の海へ
冬真は机に肘をついてスマートフォンの地図を動かしていた。
宝台から帰るとき、芽瑠萌に「次は佐々木くんが決めて」と言われた。
真岡を開く。宝台の目と鼻の先だ。
豊北の牧場。ソフトクリームが有名で、乗馬とバーベキューもできるらしい。
画像を検索すると、若い男女が顔を寄せて笑いあっていた。黒川とここに行くことを想像すると、何故か動揺した。
地図へ戻り、今度は指を南へ滑らせた。
亜庭臨海工業地帯、という文字が出た。確かに南は工場ばかりだ。
少し範囲を拡大する。
富内湖、留多加、大泊。
大泊が気になった。
港があり、大きな水族館がある。亜庭湾を見下ろす丘の上には神楽ヶ岡公園。海軍カレーが有名、カフェが多い。
『大泊って、行ったことある?』
少しして返事が来た。
『ないよ』
『じゃあ大泊どう?』
『行きたい』
返事はすぐだった。
*
日曜の朝、芽瑠萌は琥珀の髪留めをつけてきた。
「それ、また使ってるんだ」
車に乗ってから冬真が言うと、芽瑠萌は大事そうに髪飾りに触れた。
「うん。せっかくもらったし」
豊原の市街を南へ抜け、樺太縦貫道に入る。
南へ向かう車線にはトラックやタンクローリーが多かった。しばらくすると、前方にコンテナを三つ連ねたトレーラーも見えてきた。
「豊原の北であれに会いたくないな」
「あっち、三車線しかないもんね」
冬真は隣の車線へ出た。追い越しはじめても、運転席までが長い。
大きな旅客機が目の前の空を斜めに横切り、白樺の木立の向こうへ沈んでいく。
「あっち、空港だね」
「このへん、夕方は大渋滞するから帰りの時間気を付けないとな」
まもなく豊南JCTが近づいた。前方では何本もの高架が上下に交差し、広い道路が三方へほどけていく。
頭上に大きな緑の標識が出た。大泊は南。東へ富内湖、中知床。西へ留多加、白主。
冬真は真っ直ぐ進んだ。
豊南を過ぎると、窓の向こうは倉庫や工場ばかりになった。線路が道路に寄り、長い貨物列車がコンテナを積んで走っている。
「あ、お父さんの会社だ」
芽瑠萌が窓の外を指した。白や灰色の大きな建物が、構内道路や桜並木を挟みながら高速道路に沿って長く続いていた。
「すごいね。俺も知ってる会社だ。自衛隊のレーダーとか電車の機械とか作ってるとこでしょ」
「うん。でもお父さんの仕事は、そういうのじゃないけどね」
芽瑠萌は少し考えてから続けた。
「そういえば、私の名前も、この会社からなんだって」
「えっ」
冬真はハンドルを握ったまま、一瞬芽瑠萌の横顔を見た。この会社の名前と芽瑠萌の名前が、まったく結びつかなかった。
「お父さんの会社、社内で略して『メルコ』って呼ぶの。そこからメルモにしたんだって」
「そんな決め方ある?」
「まあ、うちのお父さんって、昔からそういう人だから」
芽瑠萌が軽く笑った。
「漢字はお母さんが選んでくれた。六月に雪が溶けて、芽が出る頃の青い空」
「うん、……綺麗な名前だと思う。すごく」
冬真は前を見たまま小さな声で言った。芽瑠萌は少しだけ顔を赤くした。
南に向かうにつれて、港の設備が目立つようになった。クレーンの列、タンク、積み上がったコンテナ。道路の向こうには貨物船の上部が見えた。
「あ、海だ」
建物の切れ目から、亜庭湾が大きく開いた。
芽瑠萌は窓の方へ身体を寄せた。沖には貨物船が何隻も浮かび、タンカーがゆっくり湾内を進んでいる。
高速道路のすぐ横には海上自衛隊の基地が広がり、岸壁に灰色の艦艇が何隻も並んでいた。その間に、黒い潜水艦も見えた。
「私、こっちの海初めて」
「亜庭湾?」
「うん。西と東は見たことあるけど」
大型トラックが間に入り、海を隠した。芽瑠萌はその先を追うように前を見た。
トラックが離れる。
「樺太の南の海を見るのは初めて」
冬真は一度だけ横を見た。芽瑠萌は窓に顔を寄せて、海を見続けていた。
*
大泊旧港ICで高速道路を下りた。
長いランプを回るにつれて、港のすぐ後ろから丘が立ち上がり、斜面を下から上まで住宅が埋めているのが見えてきた。
低いところには古い建物と新しいホテルが混じり、坂道がその間を縫って上へ延びている。
《ようこそ 樺太最初のみなと 大泊へ》
白い石造りの標柱の脇を通って一般道に出ると、目の前に巨大な白い船体が現れた。何階あるのか分からないほど客室の窓が並び、岸壁の建物よりずっと高い。船尾では車を積み込む列が続いていた。
「でか……」
芽瑠萌が窓越しに見上げた。
「仙台行きだって」
冬真は旧港近くの駐車場に車を入れた。車を降りると、海の反対側はもう坂だった。
港の前では豊原行きのバスが客を乗せていた。キャリーケースを引く人たちの間から韓国語が聞こえる。
道の向こう側には「宗谷海峡トンネル早期着工」と大書された真新しい看板が掲げられている。
「あれ、角さんの頃からずっと言ってるよな」
「田中角栄?」
「そうそうそれ。トンネルできたら便利なんだけどなあ」
年配の男性たちが話しながら通り過ぎていった。
「こっち?」
芽瑠萌がスマートフォンを見る。
「神楽ヶ岡公園、上」
「上かあ」
長い坂が、目の前に延びていた。
「車、上に動かすか」
「でも、結局、行きか帰りかどっちかは坂上るよね」
「上っていくと腹減りそうだな」
「ちょうどいいかも」
坂を少し上がったところで、信号を待ちながら振り返る。背後の港の屋根が低くなり、その向こうにさっきのフェリーの上甲板が見えた。
冬真は横断歩道の手前に、小さな石柱があるのに気づいて、少し屈んだ。
《日本領樺太発祥之地》
下にも何か彫ってあったが、ほとんど読めない。
「松前……?」
芽瑠萌も顔を近づけた。
「そこしか読めないね」
「達筆過ぎる」
「読めないくらい達筆なのは、下手と同じだと思う」
信号を渡って開港資料館の前を通る。
小さな正教会や雑貨屋を覗きながら坂を上っていくうちに、家並みが途切れて木が増えてきた。
神楽ヶ岡公園の門を通ってからも、白樺の林の中の坂が続いた。あまり人がいない。
「まだ上?」
「もうちょっとかな」
港側へ回ったところで木立が切れ、大泊の街が足元へ広がった。急に周りに観光客が増えた。
柵の手前で見下ろすと、坂に沿って屋根が海へ落ち、その先に旧港と亜庭湾が広がっていた。さっき歩いた通りも車も、もう建物の間に埋もれている。北には朝通った新港のクレーンが並んでいた。
「あ、あそこ」
冬真が少し左を指した。
「エスカー?」
「有料のエスカレーターかな」
「ええっ、こんなのあったんだ」
芽瑠萌が肩を落とした。
「私たち、裏から上がってきたみたいだね」
「道理で観光客が全然いないと思った」
その先の展望スペースで、若いカップルが互いに写真を撮っていた。
冬真はスマートフォンを出した。
「黒川も撮ろうか」
「私?」
「せっかくだし」
芽瑠萌は海を背にして立った。
「どうすればいい?」
「普通でいいんじゃない」
「普通って」
芽瑠萌が困った顔をしたところへ風が吹き、慌てて髪を押さえる。その瞬間、冬真が撮った。
「え、今、撮ったの?」
「うん」
「今のなし!」
「いいじゃん」
「変な顔してたよ」
「変でもいいよ」
芽瑠萌が少し黙った。
「……ちょっと見せて」
画面を覗き込む。
「やっぱり撮り直して。あと、私も佐々木くん撮るから」
「こっちの、消す?」
冬真が少し残念そうな顔で言うと、芽瑠萌は少し眉を寄せて考えた。
「……まあ、佐々木くんがとっておきたいなら、残しといてもいいよ」
*
エスカーを使うと、下りはあっという間だった。
ちょうどお昼前だった。港の近くの古い建物を使った店に入り、海軍カレーを頼んだ。
濃い色のカレーの上にホタテフライが一つ載っている。皿の端には赤紫色のビーツの甘酢漬けも添えられていた。
芽瑠萌がホタテフライを見て、目を丸くした。
「大きい」
冬真がフライの衣にスプーンを入れると、さく、と音がした。
中のホタテは厚く、湯気が出た。とろみの強いカレーは玉ねぎが甘く、あとから香辛料が残る。フライを半分つけて噛むと、身にも甘みがあった。
向かいを見ると、芽瑠萌はホタテを半分残していた。
「ホタテ苦手?」
「違う。好きだから最後に食べる」
「うちでそれをやると、摩央に奪われる」
「経験者は語る、って感じだね」
芽瑠萌が笑った。
カレーを食べながら、芽瑠萌がエスカーの乗り場でもらったパンフレットを開いた。
「次、ここ行ってみたい」
「アニワ・アクアリウムか」
冬真も知っている。全国でも指折りの大水族館で、巨大な流氷展示が有名だ。パンフレットには、一時間の見学コースも載っている。
「すぐそこだな」
「待ち行列とか、混んでないといいけど」
芽瑠萌はそう言って、グラスのアイスティーをストローで飲んだ。
水族館までは歩いて数分だった。
入館すると、亜庭湾から西海岸、北部、東海岸と、樺太を囲む海をたどるように大きな水槽が続いている。
二人は途中の展示を軽く覗きながら、あまり足を止めずに流氷展示へ向かった。
展示コーナーの入り口には、水槽の断面図が描かれていた。
「全長八十メートルだって」
芽瑠萌が読んだ。
「水量、一万二千トン。流氷は最大で……二百トン?」
「それ本物?」
「冬は本物を入れるって。夏は人工氷」
「人工の氷を二百トンの方が、ある意味半端ないな」
階段を下りて自動ドアを抜けると、頭上いっぱいに白い氷の底が広がった。流氷の底は水中で大きく張り出したり、深い溝ができたりしていた。
氷の亀裂から差す青い光の中を、銀色の魚の群れが横切っていく。
「下って、こんなになってるんだ。もっと平らなんだと思ってた」
芽瑠萌が立ち止まって見上げた。
「流氷、いつも上からしか見ないもんな」
氷の割れ目から落ちる光が揺れて、芽瑠萌の頬にも青く映っていた。
流氷の底の見学ルートが終わると、広い売店に出た。白い菓子や青いガラス細工の間に、海の生き物のぬいぐるみが山のように積まれている。
芽瑠萌が白いアザラシを手に取った。
「これ、かわいい」
「こういうの、黒川の部屋にありそう」
「アザラシはいないよ。トナカイならいるけど」
「トナカイ?」
「小学生の頃、トナカイ牧場で買ってもらった」
「トナカイ牧場?」
冬真は聞いたことがなかった。
「奥端の少し南にそういうのがあるの。トナカイがたくさんいて、冬は橇にも乗れる」
「それ、乗ったの?」
「うん。お父さんとお母さんと。餌あげたり、触ったりもしたよ」
冬真は、防寒着に包まれてトナカイの橇に乗っている小さな芽瑠萌を想像した。
「──かわいすぎる」
「え?」
「あ、いや、んーと」
冬真はアザラシのぬいぐるみを指した。
「そいつ、かわいいなって」
芽瑠萌が手元を見た。
「……佐々木くん、買う?」
「いや、いい」
「気に入ったなら買ってあげようか」
「いらない。摩央に取られるだけだ」
*
水族館を出て、旧港へ向かう。
煉瓦の倉庫の前を歩いていると、長い汽笛が聞こえた。フェリー乗り場から、大きな白い船がゆっくり岸壁を離れていくところだった。
「あれ」
芽瑠萌が足を止めた。
船はタグボートの横を通り過ぎ、港の中で少しずつ向きを変えていく。船尾には行先が『稚内』とあった。
「稚内って、どんなところなんだろ」
「俺も行ったことない」
「南だから、暖かいのかな」
フェリーが港を出ていくのを見送ってから、近くのカフェに入った。
外観は丸太小屋に似ていたが、中はアンティーク調になっていて、窓から海が見えた。
「ポロアントマリって、かわいい名前」
芽瑠萌がカフェの名前を見て言った。
「大泊の昔の名前らしいな」
「おおどまり、よりポロアントマリの方がかわいい」
メニューを開いて、冬真の手が止まった。
「ブルーマウンテン、千八百円」
芽瑠萌も覗き込む。
「こっちはエチオピア。ベリー、チョコレート……コーヒーなんだよね?」
「たぶん」
冬真はブルーマウンテン、芽瑠萌はエチオピアを頼んだ。
ブルーマウンテンは思ったより苦くなく、飲み込んだあとに香りが残った。
「どう?」
「うまい。でも千八百円かは分かんない」
芽瑠萌が笑った。
「私も分かんない」
自分のカップを一口飲んだ。
「こっち、なんか果物っぽい」
「そんな違う?」
芽瑠萌がカップを少し差し出した。
「飲む?」
冬真は一瞬止まった。
「いいの?」
「うん」
一口だけ飲む。確かに違った。
カップを返すと、芽瑠萌は少しだけそれを見てから、また口をつけた。
「……これ、夜寝れなくなりそう」
「失敗したかもな」
冬真はスマートフォンを取り出して、今日撮った写真を見返した。
亜庭湾。港。神楽ヶ岡の公園。
髪を押さえている芽瑠萌。エスカーの脇に立つ芽瑠萌。アザラシのぬいぐるみを持つ芽瑠萌。煉瓦の倉庫の横を歩く芽瑠萌。
「……私、多くない?」
「そうかな」
「多いよ」
芽瑠萌はそう言って、少しはにかむように笑った。




