付き合ってない?
七月下旬の月曜日。夏休みが近づいていた。
六時間目が終わると、江口が冬真の机に寄ってきた。
「夏休み、部活休みいつだっけ」
「三、七、八、十二。あと盆前から三日」
「七と八、連休じゃん」
江口はスマートフォンの予定表を開いた。
「そういや俺、盆前いないわ」
「旅行?」
「海馬島で親父とキャンプ。晴れてたら利尻と礼文も見えるらしい。で、お前は?」
「別に」
「黒川とどっか行くんじゃないのか」
冬真は顔を上げた。
「なんで黒川が出てくるんだよ」
「この前も二人で大泊行ったんだろ」
「行ったけど」
江口がスマートフォンを下ろした。
「お前ら付き合ってないの?」
「付き合ってないけど」
答えてから、少しだけ引っかかった。
だが、間違ったことは言っていない。
江口は「ふうん」とだけ言って、また予定表に目を戻した。
「じゃあ七日空いてる?」
「空いてる」
「走らね?」
「なんでだよ、休ませろよ」
江口が笑った。冬真も笑った。
昼休み、購買へ行った帰りに、一組の前を通った。
開いた後ろの扉から、菜月の声が聞こえた。
「芽瑠萌、夏休みどっか行く?」
冬真はそのまま通り過ぎようとした。
「まだ分かんない」
芽瑠萌の声だった。
「佐々木くんとは?」
足が少し遅くなった。
「何で?」
「だって最近、二人で出かけてるじゃん」
「それは、そうだけど」
「付き合ってるの?」
短い間があった。
「付き合ってないよ」
冬真はそのまま歩いた。
手に持っていた紙パックのジュースが、少しへこんだ。
付き合っていない。
その通りだった。
自分もさっき、江口にそう言った。
*
翌日の昼休み、芽瑠萌は菜月と階段を下りていた。
「二週間ちょっとって、短くない?」
菜月が夏休みの予定表を折りながら言った。
「毎年こんなもんじゃない?」
「今年、お盆終わったらすぐじゃん。私、八月ほとんどバイトで終わりそう」
「私も増えるかも」
「駅の?」
「うん。まだ分かんないけど」
踊り場まで来たとき、階段の手すり越しに、下
の廊下を歩いていく江口と冬真が見えた。
二人はこちらには気づいていない。
「──でも黒川とは付き合ってないんだろ?」
下から江口の声が聞こえた。
芽瑠萌の足が止まった。
「──だから付き合ってないって」
冬真が答えた。
二人の姿はそのまま階段の下を通り過ぎ、廊下の向こうへ消えた。
菜月が隣を見る。
「芽瑠萌?」
「何?」
「いや」
芽瑠萌はまた階段を下り始めた。
*
少し変になった。
朝、廊下ですれ違えば挨拶はした。
「おはよう」
「おはよう」
放課後、冬真がグラウンドへ向かう途中に一組の前を通れば、芽瑠萌が友達と話しているのが見えた。
目が合えば、芽瑠萌は笑った。
それなのに、LINEは来なかった。
冬真も送らなかった。何を送ればいいのか分からなかった。
*
土曜日、観光案内所は朝から混んでいた。
夏休み前最後の週末で、カウンターには家族連れや旅行客が途切れずに来た。
富内湖の海水浴場への行き方。中知床方面のバス。敷香までの特急。旭ヶ丘のゴンドラ。
昼過ぎ、客が切れたところで菅原がシフト表を持ってきた。
「二人とも、夏休みは平日も入れる?」
冬真と芽瑠萌が同時に顔を上げた。
「八月入ると忙しくなるから。お盆までは特に。毎日じゃなくていいけど、出られる日があれば助かる」
「俺、部活の日程見てからでもいいですか」
「もちろん」
菅原が芽瑠萌を見る。
「黒川さんは?」
「私も、予定確認します」
「じゃあ来週までにお願い」
菅原が離れていった。
冬真は芽瑠萌を見た。
芽瑠萌もこちらを見ていた。
「あ」
「うん」
どちらからともなく目を逸らした。
夏休みになったら、今より会う日が増えるかもしれない。
前なら、たぶん嬉しかった。今も嬉しくないわけではなかった。
だから余計に、冬真にはよく分からなかった。
*
木曜日に終業式があった。
校長の話を聞いて、通知表を受け取って、夏休みの予定表をもう一度配られた。
始業日は八月十九日。
江口は紙を見て、
「短え」
と言った。
「毎年だろ」
「分かってるけど短え」
窓の外では、どこかの部が午後練習の準備を始めていた。
帰りの電車には夏祭りの広告が貼られていた。駅前の大型ビジョンでは花火大会や湖水祭りの映像が流れている。
*
次の土曜日、観光案内所は朝からさらに混んだ。
冬真と芽瑠萌は普通に働いた。
「これ、もうない」
「補充する」
「ロシア語の方も」
「分かった」
客の前では何も変わらなかった。
休憩時間も仕事の話はした。
芽瑠萌は今日も琥珀の髪留めをつけていた。
冬真は何度かそれを見たが、何も言わなかった。
夕方、勤務が終わった。
冬真がスタッフルームで着替えて出てくると、芽瑠萌の姿がなかった。
「黒川は?」
富樫がパソコンから顔を上げた。
「先に帰ったよ」
「いつですか」
「今。二、三分前じゃない?」
冬真はリュックを持った。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
案内所を出た。
案内所を出ると、そのまま連絡橋へ向かった。
ガラス張りの橋を早足で渡る。下には駅前を走る車やバスが見えた。向こうからは買い物袋を提げた人や、キャリーケースを引いた家族が次々と歩いてくる。
豊原駅に入った。芽瑠萌はいない。
冬真は少し駆け足になった。人混みを縫って、いつもの帰り道を地下へ下りる。
地下に出た途端、目の前が一気に開けた。
三層を貫く巨大な吹き抜けを、何本もの長いエスカレーターが斜めに横切っている。頭上のガラスから、まだ明るい夏の光が差し込んでいた。
二つ下の広場まで人で埋まり、その周囲を幾重にも回廊が取り巻いている。
スターバックスの前に長い列ができ、一つ上の回廊にはブルーボトルコーヒーの青い瓶が見えた。
その隣では、吹き抜けに面したワインバーのテラス席に外国人観光客たちが座っている。
大型ビジョンいっぱいに花火が上がった。今週から始まる夏祭りの日程が流れている。
冬真は人の流れを目で追った。
いない。
もう地下鉄まで行ったかもしれない。
改札を通られたら追えない。
冬真はエスカレーターの方へ急いだ。
ふと思った。
なんで俺、こんな焦ってるんだ。
先に帰っただけだ。次のバイトでまた会える。
それでも、今日このまま帰られるのは嫌だった。
冬真は向かい側の回廊へ目を走らせた。
人の流れの中で、飴色のものが一瞬、夏の光を返した気がした。
冬真はそちらへ向かった。
「黒川!」
芽瑠萌が振り返った。目を丸くして、それから少し笑った。
「佐々木くん?」
冬真は人を避けながら追いついた。
「なんで先帰ったの」
「なんでって」
「いつも一緒だったじゃん」
言ってから、冬真は自分の言葉に気づいた。
芽瑠萌も黙った。
「……最近、変じゃない?」
「佐々木くんも」
「俺?」
「うん」
芽瑠萌はゆっくり歩き出した。冬真も隣を歩いた。
吹き抜けを離れて通路へ入る。
両側には夏物の服が並び、その先で地下街は百貨店の地下階へそのまま繋がっていた。
「俺、なんかした?」
芽瑠萌はしばらく答えなかった。
「聞いたから」
「何を?」
「江口くんと話してたの」
冬真は横を見る。
「付き合ってないって」
「あ」
足が少し遅くなった。
「聞いてたの?」
「たまたま」
「でも」
冬真は言葉を探した。
「付き合ってないのは、本当だろ」
「うん」
芽瑠萌はすぐに頷いた。
「私も菜月に言ったから」
冬真が止まりかけた。
「え」
「付き合ってないって」
「……それ、俺も聞いた」
芽瑠萌が振り向いた。
「聞いてたの?」
「たまたま」
今度は芽瑠萌が黙った。
二人はまた歩いた。
百貨店の食品売場に入り、夕食を買う人の間を抜けた。
しばらくして芽瑠萌が言った。
「嫌だった?」
冬真は答えなかった。
「私が、付き合ってないって言ったの」
「……ちょっと」
「私も」
冬真は芽瑠萌を見る。
「でも、自分でも言ってるんだよな」
「うん」
「黒川も?」
「うん」
冬真は少し笑った。
「なんなんだよ、これ」
芽瑠萌も笑った。
「分かんない」
食品売場を抜けると、また地下街になった。
階段を一つ下りる。
地下鉄のコンコースを横切り、別の建物へ入る。
夏祭りの提灯が天井から下がっていた。
「私」
芽瑠萌が言った。
「菜月に聞かれてから、ちょっと分かんなくなった」
「何が?」
「佐々木くんと、どういう感じでいたらいいのか」
冬真は黙って聞いた。
「宝台に行ったり、大泊に行ったり。そういうの、私は普通に楽しかったけど」
「俺も」
「でも、付き合ってないんだなって思ったら」
芽瑠萌が髪に触れた。
琥珀が指の間で小さく揺れた。
「これも、つけてていいのかなとか」
「なんで」
「分かんない」
「つけててよ」
芽瑠萌が冬真を見る。
「俺、それ好きだから」
「琥珀?」
「それもだけど」
言ってから、冬真は黙った。
芽瑠萌も何も言わなかった。
二人はそのまま歩き続けた。
地下鉄の改札を一つ通り過ぎ、長いエスカレーターを上った。
もう一つ階段を上がった。
それでもまだ地下だった。
古い喫茶店の前を通り、靴修理店と小さな古本屋の間を抜けた。
通路が急に細くなった。
天井も低い。
さっきまでの新しい商業施設とは違い、床のタイルも壁も少しくすんでいる。閉まったシャッターの上には、冬真の知らない商店街の名前が書かれていた。
「ここ、通ったことある?」
冬真が聞いた。
「ない」
「俺も」
「佐々木くんについてきたんだけど」
「俺は黒川についてきたんだけど」
芽瑠萌が少し笑った。
突き当たりを曲がる。
自動販売機が二台並び、その先にクリーニング店と立ち食いそば屋があった。
立ち食いそば屋の前には誰もいない。
さらに先で通路が二つに分かれている。
案内板を見ると、知らないビルの名前がいくつも並んでいた。豊原駅の文字はなかった。
「……ここ、どこ?」
芽瑠萌が言った。
「分かんない」
「豊原の人だよね」
「地下は別」
「そうなの?」
「今決めた」
芽瑠萌が笑った。その声が、低い天井の下に少し響いた。
冬真も笑った。
数日ぶりに、普通に二人で笑った気がした。
笑いが止まっても、二人はしばらくそこにいた。
人はほとんど通らなかった。
遠くから、地下鉄なのか設備なのか分からない低い音が響いている。
冬真は芽瑠萌を見た。
「黒川」
「うん」
「俺、分かったかも」
「何が?」
「なんで嫌だったか」
芽瑠萌は冬真を見た。
「黒川が付き合ってないって言ったの聞いて、嫌だったし」
一度言葉を切った。
「LINE来なくなったのも嫌だった」
芽瑠萌の目が少し動いた。
「今日、先帰ったのも」
「それで追いかけてきたの?」
「うん」
答えると、急に恥ずかしくなった。
芽瑠萌は何も言わなかった。
冬真は目を逸らしかけて、やめた。
「俺、黒川が好きだ」
芽瑠萌の目が大きくなった。
頬が少し赤くなったように見えた。
冬真の心臓も、走ったあとみたいに鳴っていた。
「付き合いたい」
芽瑠萌は冬真を見たまま、何度か瞬きをした。
口を開きかけて、閉じる。
それから俯いた。
琥珀の髪留めが、天井の白い照明を小さく返した。
「……私も」
声が小さかった。
芽瑠萌は顔を上げた。
「佐々木くんが好き」
今度ははっきり聞こえた。
「私も、付き合いたい」
冬真は息を吐いた。
いつから止めていたのか、自分でも分からなかった。
芽瑠萌が笑った。
冬真も笑った。
少しの間、どちらも何も言わなかった。
自動販売機の冷却機が低く唸っている。
知らない立ち食いそば屋の暖簾が、空調の風でわずかに揺れた。
芽瑠萌が周囲を見た。冬真も見る。
右へ行っても、左へ行っても、見覚えのない地下通路が続いていた。
「……で」
芽瑠萌が言った。
「ここ、どこ?」
冬真はもう一度、案内板を見上げた。
やっぱり分からなかった。




