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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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15/28

付き合ってない?

七月下旬の月曜日。夏休みが近づいていた。


六時間目が終わると、江口が冬真《ふゆま》の机に寄ってきた。

「夏休み、部活休みいつだっけ」

「三、七、八、十二。あと盆前から三日」

「七と八、連休じゃん」


江口はスマートフォンの予定表を開いた。

「そういや俺、盆前いないわ」

「旅行?」

「海馬島《かいばとう》で親父とキャンプ。晴れてたら利尻《りしり》と礼文《れぶん》も見えるらしい。で、お前は?」

「別に」

「黒川とどっか行くんじゃないのか」

冬真は顔を上げた。

「なんで黒川が出てくるんだよ」

「この前も二人で大泊《おおどまり》行ったんだろ」

「行ったけど」

江口がスマートフォンを下ろした。

「お前ら付き合ってないの?」

「付き合ってないけど」


答えてから、少しだけ引っかかった。

だが、間違ったことは言っていない。


江口は「ふうん」とだけ言って、また予定表に目を戻した。

「じゃあ七日空いてる?」

「空いてる」

「走らね?」

「なんでだよ、休ませろよ」

江口が笑った。冬真も笑った。



昼休み、購買へ行った帰りに、一組の前を通った。

開いた後ろの扉から、菜月の声が聞こえた。

「芽瑠萌《めるも》、夏休みどっか行く?」

冬真はそのまま通り過ぎようとした。


「まだ分かんない」

芽瑠萌の声だった。


「佐々木くんとは?」


足が少し遅くなった。


「何で?」

「だって最近、二人で出かけてるじゃん」

「それは、そうだけど」

「付き合ってるの?」


短い間があった。


「付き合ってないよ」


冬真はそのまま歩いた。

手に持っていた紙パックのジュースが、少しへこんだ。

付き合っていない。

その通りだった。

自分もさっき、江口にそう言った。


     *


翌日の昼休み、芽瑠萌は菜月と階段を下りていた。

「二週間ちょっとって、短くない?」

菜月が夏休みの予定表を折りながら言った。

「毎年こんなもんじゃない?」

「今年、お盆終わったらすぐじゃん。私、八月ほとんどバイトで終わりそう」

「私も増えるかも」

「駅の?」

「うん。まだ分かんないけど」


踊り場まで来たとき、階段の手すり越しに、下

の廊下を歩いていく江口と冬真が見えた。

二人はこちらには気づいていない。


「──でも黒川とは付き合ってないんだろ?」

下から江口の声が聞こえた。

芽瑠萌の足が止まった。

「──だから付き合ってないって」

冬真が答えた。

二人の姿はそのまま階段の下を通り過ぎ、廊下の向こうへ消えた。


菜月が隣を見る。

「芽瑠萌?」

「何?」

「いや」

芽瑠萌はまた階段を下り始めた。


     *


少し変になった。


朝、廊下ですれ違えば挨拶はした。


「おはよう」

「おはよう」


放課後、冬真がグラウンドへ向かう途中に一組の前を通れば、芽瑠萌が友達と話しているのが見えた。


目が合えば、芽瑠萌は笑った。

それなのに、LINEは来なかった。

冬真も送らなかった。何を送ればいいのか分からなかった。


     *


土曜日、観光案内所は朝から混んでいた。

夏休み前最後の週末で、カウンターには家族連れや旅行客が途切れずに来た。

富内湖《とんないこ》の海水浴場への行き方。中知床方面のバス。敷香《しすか》までの特急。旭ヶ丘のゴンドラ。


昼過ぎ、客が切れたところで菅原がシフト表を持ってきた。

「二人とも、夏休みは平日も入れる?」

冬真と芽瑠萌が同時に顔を上げた。

「八月入ると忙しくなるから。お盆までは特に。毎日じゃなくていいけど、出られる日があれば助かる」

「俺、部活の日程見てからでもいいですか」

「もちろん」

菅原が芽瑠萌を見る。

「黒川さんは?」

「私も、予定確認します」

「じゃあ来週までにお願い」

菅原が離れていった。


冬真は芽瑠萌を見た。

芽瑠萌もこちらを見ていた。


「あ」


「うん」


どちらからともなく目を逸らした。


夏休みになったら、今より会う日が増えるかもしれない。

前なら、たぶん嬉しかった。今も嬉しくないわけではなかった。

だから余計に、冬真にはよく分からなかった。


     *


木曜日に終業式があった。

校長の話を聞いて、通知表を受け取って、夏休みの予定表をもう一度配られた。

始業日は八月十九日。


江口は紙を見て、

「短え」

と言った。

「毎年だろ」

「分かってるけど短え」


窓の外では、どこかの部が午後練習の準備を始めていた。

帰りの電車には夏祭りの広告が貼られていた。駅前の大型ビジョンでは花火大会や湖水祭りの映像が流れている。


     *


次の土曜日、観光案内所は朝からさらに混んだ。

冬真と芽瑠萌は普通に働いた。

「これ、もうない」

「補充する」

「ロシア語の方も」

「分かった」

客の前では何も変わらなかった。


休憩時間も仕事の話はした。

芽瑠萌は今日も琥珀の髪留めをつけていた。

冬真は何度かそれを見たが、何も言わなかった。


夕方、勤務が終わった。

冬真がスタッフルームで着替えて出てくると、芽瑠萌の姿がなかった。

「黒川は?」

富樫がパソコンから顔を上げた。

「先に帰ったよ」

「いつですか」

「今。二、三分前じゃない?」

冬真はリュックを持った。

「お疲れさまでした」

「お疲れ」

案内所を出た。


案内所を出ると、そのまま連絡橋へ向かった。

ガラス張りの橋を早足で渡る。下には駅前を走る車やバスが見えた。向こうからは買い物袋を提げた人や、キャリーケースを引いた家族が次々と歩いてくる。


豊原駅に入った。芽瑠萌はいない。

冬真は少し駆け足になった。人混みを縫って、いつもの帰り道を地下へ下りる。


地下に出た途端、目の前が一気に開けた。

三層を貫く巨大な吹き抜けを、何本もの長いエスカレーターが斜めに横切っている。頭上のガラスから、まだ明るい夏の光が差し込んでいた。

二つ下の広場まで人で埋まり、その周囲を幾重にも回廊が取り巻いている。

スターバックスの前に長い列ができ、一つ上の回廊にはブルーボトルコーヒーの青い瓶が見えた。

その隣では、吹き抜けに面したワインバーのテラス席に外国人観光客たちが座っている。

大型ビジョンいっぱいに花火が上がった。今週から始まる夏祭りの日程が流れている。


冬真は人の流れを目で追った。

いない。

もう地下鉄まで行ったかもしれない。

改札を通られたら追えない。

冬真はエスカレーターの方へ急いだ。


ふと思った。

なんで俺、こんな焦ってるんだ。

先に帰っただけだ。次のバイトでまた会える。

それでも、今日このまま帰られるのは嫌だった。


冬真は向かい側の回廊へ目を走らせた。

人の流れの中で、飴色のものが一瞬、夏の光を返した気がした。

冬真はそちらへ向かった。


「黒川!」


芽瑠萌が振り返った。目を丸くして、それから少し笑った。

「佐々木くん?」

冬真は人を避けながら追いついた。

「なんで先帰ったの」

「なんでって」

「いつも一緒だったじゃん」


言ってから、冬真は自分の言葉に気づいた。

芽瑠萌も黙った。


「……最近、変じゃない?」

「佐々木くんも」

「俺?」

「うん」


芽瑠萌はゆっくり歩き出した。冬真も隣を歩いた。

吹き抜けを離れて通路へ入る。

両側には夏物の服が並び、その先で地下街は百貨店の地下階へそのまま繋がっていた。


「俺、なんかした?」

芽瑠萌はしばらく答えなかった。

「聞いたから」

「何を?」

「江口くんと話してたの」

冬真は横を見る。

「付き合ってないって」

「あ」

足が少し遅くなった。

「聞いてたの?」

「たまたま」

「でも」

冬真は言葉を探した。

「付き合ってないのは、本当だろ」

「うん」

芽瑠萌はすぐに頷いた。

「私も菜月に言ったから」

冬真が止まりかけた。

「え」

「付き合ってないって」

「……それ、俺も聞いた」

芽瑠萌が振り向いた。

「聞いてたの?」

「たまたま」

今度は芽瑠萌が黙った。


二人はまた歩いた。

百貨店の食品売場に入り、夕食を買う人の間を抜けた。


しばらくして芽瑠萌が言った。

「嫌だった?」


冬真は答えなかった。


「私が、付き合ってないって言ったの」

「……ちょっと」

「私も」

冬真は芽瑠萌を見る。

「でも、自分でも言ってるんだよな」

「うん」

「黒川も?」

「うん」

冬真は少し笑った。

「なんなんだよ、これ」

芽瑠萌も笑った。

「分かんない」


食品売場を抜けると、また地下街になった。

階段を一つ下りる。

地下鉄のコンコースを横切り、別の建物へ入る。

夏祭りの提灯が天井から下がっていた。


「私」

芽瑠萌が言った。

「菜月に聞かれてから、ちょっと分かんなくなった」

「何が?」

「佐々木くんと、どういう感じでいたらいいのか」

冬真は黙って聞いた。

「宝台《たからだい》に行ったり、大泊に行ったり。そういうの、私は普通に楽しかったけど」

「俺も」

「でも、付き合ってないんだなって思ったら」

芽瑠萌が髪に触れた。

琥珀が指の間で小さく揺れた。

「これも、つけてていいのかなとか」

「なんで」

「分かんない」

「つけててよ」

芽瑠萌が冬真を見る。

「俺、それ好きだから」

「琥珀?」

「それもだけど」

言ってから、冬真は黙った。

芽瑠萌も何も言わなかった。


二人はそのまま歩き続けた。

地下鉄の改札を一つ通り過ぎ、長いエスカレーターを上った。

もう一つ階段を上がった。

それでもまだ地下だった。

古い喫茶店の前を通り、靴修理店と小さな古本屋の間を抜けた。

通路が急に細くなった。

天井も低い。

さっきまでの新しい商業施設とは違い、床のタイルも壁も少しくすんでいる。閉まったシャッターの上には、冬真の知らない商店街の名前が書かれていた。


「ここ、通ったことある?」

冬真が聞いた。

「ない」

「俺も」

「佐々木くんについてきたんだけど」

「俺は黒川についてきたんだけど」

芽瑠萌が少し笑った。


突き当たりを曲がる。

自動販売機が二台並び、その先にクリーニング店と立ち食いそば屋があった。

立ち食いそば屋の前には誰もいない。

さらに先で通路が二つに分かれている。

案内板を見ると、知らないビルの名前がいくつも並んでいた。豊原駅の文字はなかった。


「……ここ、どこ?」

芽瑠萌が言った。

「分かんない」

「豊原の人だよね」

「地下は別」

「そうなの?」

「今決めた」

芽瑠萌が笑った。その声が、低い天井の下に少し響いた。

冬真も笑った。

数日ぶりに、普通に二人で笑った気がした。


笑いが止まっても、二人はしばらくそこにいた。

人はほとんど通らなかった。

遠くから、地下鉄なのか設備なのか分からない低い音が響いている。


冬真は芽瑠萌を見た。

「黒川」

「うん」

「俺、分かったかも」

「何が?」

「なんで嫌だったか」

芽瑠萌は冬真を見た。

「黒川が付き合ってないって言ったの聞いて、嫌だったし」

一度言葉を切った。

「LINE来なくなったのも嫌だった」

芽瑠萌の目が少し動いた。

「今日、先帰ったのも」

「それで追いかけてきたの?」

「うん」

答えると、急に恥ずかしくなった。


芽瑠萌は何も言わなかった。

冬真は目を逸らしかけて、やめた。


「俺、黒川が好きだ」


芽瑠萌の目が大きくなった。

頬が少し赤くなったように見えた。

冬真の心臓も、走ったあとみたいに鳴っていた。


「付き合いたい」


芽瑠萌は冬真を見たまま、何度か瞬きをした。

口を開きかけて、閉じる。

それから俯いた。

琥珀の髪留めが、天井の白い照明を小さく返した。


「……私も」


声が小さかった。

芽瑠萌は顔を上げた。


「佐々木くんが好き」


今度ははっきり聞こえた。


「私も、付き合いたい」


冬真は息を吐いた。

いつから止めていたのか、自分でも分からなかった。


芽瑠萌が笑った。

冬真も笑った。

少しの間、どちらも何も言わなかった。

自動販売機の冷却機が低く唸っている。

知らない立ち食いそば屋の暖簾が、空調の風でわずかに揺れた。



芽瑠萌が周囲を見た。冬真も見る。

右へ行っても、左へ行っても、見覚えのない地下通路が続いていた。


「……で」

芽瑠萌が言った。

「ここ、どこ?」


冬真はもう一度、案内板を見上げた。

やっぱり分からなかった。

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