昨日と同じ
「……で」
芽瑠萌が言った。
「ここ、どこ?」
冬真はもう一度、案内板を見上げた。
やっぱり分からなかった。
「とりあえず、戻る?」
「どっちに?」
「……立ち食いそば屋の方」
二人は来た道を戻った。
立ち食いそば屋を通り過ぎ、クリーニング店の角を曲がる。低い天井の通路を抜けると、少し広い地下街に出た。
冬真がスマートフォンを取り出す。
「現在地、ここ」
「どこ?」
「豊原中央地下街、南三番街」
「そんなところまで来てたの?」
「俺も初めて来た」
地図を見ると、豊原駅は北東にかなり離れていた。いつの間にか地下鉄の駅を一つ越えている。
「じゃあ、こっちだ」
「本当に?」
「地図が言ってる」
「佐々木くんじゃなくて?」
「地図が」
芽瑠萌が笑った。さっきまでと同じ笑い方だった。
冬真は少しだけ安心した。
十分ほど歩くと、見覚えのある大きな吹き抜けに戻った。
人の流れも店の明かりも、さっきまでと何も変わっていない。二人は地下鉄の改札前で立ち止まった。
「じゃあ」
冬真が言った。
「また」
「うん。またね」
芽瑠萌が手を上げる。
冬真も上げた。
芽瑠萌は改札を通った。
冬真も歩き出した。
十歩くらい歩いてから、立ち止まった。
これでいいのか。
付き合った。
ついさっき。
なのに別れ方が昨日までとまったく同じだった。
振り返ると、改札の向こうで芽瑠萌も振り返っていた。
目が合う。
芽瑠萌が少し笑って、もう一度手を振った。
冬真も振った。
それから二人とも、今度こそ反対方向へ歩いた。
*
翌朝、冬真は目が覚めるとスマートフォンを取った。
芽瑠萌とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは昨日の昼だった。
『今日バイト何時までだっけ』
『六時』
『私も』
そのあとに起きたことは、何も残っていない。
冬真は入力欄を押した。
『おはよう』
すぐに既読がついた。
『おはよう』
返事もすぐだった。
冬真は画面を見た。返事はそれだけだった。
もう一度入力欄を押す。
『昨日』
消した。
『今日』
それも消した。
何を送ればいいんだ。
「冬真、朝ごはん冷めるって」
廊下から摩央の声がした。
「今行く」
スマートフォンを伏せた。
二秒後、また取った。
その二秒で、新しいメッセージが来ていた。
『今日ひま?』
冬真は起き上がった。
『ひま』
『私も』
そこで返信が止まった。
冬真はしばらく画面を見た。昨日までなら普通に言えたはずだった。
『じゃあどっか行く?』
送信すると、返事が来るまで少し間があった。
『行く』
*
昼前、豊原駅前は暑かった。
駅前広場の温度計には《25.1℃》と表示されている。冬真はTシャツの襟を引っ張って、少し風を入れた。
「暑すぎるだろ」
近くでバスを待っていた男が言った。
「二十五度だってよ」
「ありえないな」
「昔はこんなのなかったよ。異常気象だろ」
年配の男二人が、日陰へ移動していく。
駅前では夏祭りの準備が進んでいた。
広場の端にステージが組まれ、街路灯には赤と白の提灯が並んでいる。大型ビジョンには今週末の花火大会と、その次の週の夏祭りの日程が交互に映っていた。
人混みの向こうに芽瑠萌を見つけた。
白い半袖のシャツに薄い色のスカート。髪には琥珀の髪留めがついている。
冬真が手を上げると、芽瑠萌もすぐに気づいた。
「おはよう」
「もう昼だけど」
「じゃあ、こんにちは」
「こんにちは」
二人とも少し笑った。そこで会話が止まった。
昨日までなら何も考えなかったのに、今日は芽瑠萌が目の前に立っているだけで妙に意識する。
芽瑠萌も同じなのか、少し落ち着かない様子で髪に触れてから、視線を逸らして駅前広場を見た。
「暑いね」
「二十五度だって」
「うわ」
「さっき、そのへんの人が異常気象って言ってた」
「異常だよ。家も暑かった」
冬真は宝台で会った男を思い出した。
「北九州の人、これより十度高いんだよな」
「三十五度だっけ」
「夜でもこれくらいって言ってた」
「無理」
「俺も無理」
信号が青になり、二人は並んで歩き出した。
「で、どこ行く?」
芽瑠萌が聞いた。
「決めてない」
「誘ったの佐々木くんじゃん」
「黒川が暇か聞いたんだろ」
「そうだけど」
また笑った。
付き合いはじめても、そこは変わらなかった。
*
駅ビルで昼を食べて、本屋へ行った。
夏休みの旅行コーナーには、奥端、対毛、敷香、海馬島、ウラジオストク、札幌、東京のガイドブックが並んでいた。
その横には『夏のダーチャ』、『樺太のベリーとキノコ』という本も積まれている。
芽瑠萌が一冊手に取った。
「これ、うちにもある」
「ダーチャの?」
「キノコの方。毒キノコ見るやつ」
「熊撃てるのに毒キノコは本で見るんだ」
「熊はお父さん。私は撃たないよ」
本屋を出ると、吹き抜けの下で夏祭りの屋台を組み立てていた。
シャシリク、焼きそば、鹿肉串、焼きとうきび、鮭じゃが、ピロシキ。まだ閉まった屋台の看板だけが並んでいる。
浴衣売場の前を通ったとき、芽瑠萌が少しだけそちらに顔を向けた。
「黒川、浴衣着る?」
「持ってない」
「そうなんだ」
「佐々木くんは?」
「俺が着るの?」
「浴衣は男の人も着るでしょ」
「持ってない」
「じゃあ同じだ」
それだけだった。
それなのに冬真は、浴衣を着た芽瑠萌を一瞬想像した。
昨日から、こういうのが増えた気がする。
*
ゲームショップを出たところで、芽瑠萌が言った。
「ねえ」
「ん?」
「昨日のところ、行ってみない?」
「昨日のところ?」
「付き合ったところ」
冬真は一瞬返事に困った。
「……行く?」
「どこだったか知りたい」
二人は昨日の地下街へ下りた。
今度は地図を見ながら進む。
巨大な吹き抜けから百貨店の地下へ。
地下鉄のコンコースを抜け、古い喫茶店の角を曲がる。
靴修理店があり、古本屋がある。
「ここ覚えてる」
「俺も」
通路が細くなった。
冷房の効きも急に悪くなった。
開け放された店の中で、古い扇風機が首を振っている。
「暑……」
芽瑠萌が手で顔を扇いだ。
前を歩いていた女性二人も同じことを言っていた。
「今年ほんと暑いわね」
「二十五度なんて、昔なら年に何日あったかしら」
「このまま毎年暑くなったら、うちも冷房つけなきゃ駄目かもね」
二人はその横を通り過ぎた。
「あった」
芽瑠萌が言った。
自動販売機が二台。
クリーニング店。
立ち食いそば屋。
昨日と同じだった。
「ここだ」
冬真は周囲を見た。改めて見ると、本当に何もない。
立ち食いそば屋の暖簾には《そば・うどん 北斗》とあり、その脇に『喜美内産そば粉使用』の色褪せた札が貼られていた。
向かいには閉まった婦人服店。天井には蛍光灯。
壁には《ニュー豊原地下名店街》という古い案内板。
芽瑠萌も見回した。
「ここで付き合ったんだね」
「そうだな」
「もっと何かあるところかと思った」
「自販機」
「それはあるね」
「そば屋」
「あるね」
二人で笑った。
「写真撮る?」
冬真が言った。
「何を?」
「記念に」
「自販機?」
「そば屋でもいいけど」
「やめようよ」
芽瑠萌は笑いながら歩き出した。
少し先で人の流れが横から入ってきた。
買い物袋を持った家族連れが二人の間を通りそうになった。芽瑠萌が冬真の袖をつかんだ。
「こっち」
冬真は引かれるまま横へ避けた。
家族連れが通り過ぎたあとも、芽瑠萌は袖を離さなかった。
冬真は自分の腕を見た。
芽瑠萌も気づいたらしく、指先を少し動かした。
それでも離さなかった。
二人はそのまま少し歩いた。冬真は、歩く速度を少し落とした。
*
駅前へ戻るころには夕方になっていた。それでも空はまだ明るい。
二人は広場の端のベンチに座って、仕事帰りの人たちが歩いていくのをしばらく眺めた。
芽瑠萌は近くの壁に貼られている祭りのポスターを見た。
「……夏休み、またどこか行く?」
「行こう」
冬真はすぐに答えた。
「どこ行く?」
「まだ決めてない」
芽瑠萌が少し笑った。
「私も」
「じゃあ、探すか」
地図を開こうとして、ふと思い出した。前に一度、見つけた場所がある。
《豊北高原牧場》
ページを開くと、最初に出てきたのは、山の斜面いっぱいに広がる牧草地だった。
緑の中を白い道が曲がりながら上っている。牛が小さく散らばり、その向こうには鈴谷平野が細長く伸びていた。
次の写真は、展望台から見下ろした牧場。
馬。
大きな牧草ロール。
ソフトクリーム。
バーベキュー。
そして、若い男女が顔を寄せて笑っている写真。
前に見たときは、ここに芽瑠萌と来ることを想像して、すぐにページを閉じた。
冬真は画面を芽瑠萌に見せた。
「ここ、どう?」
「牧場?」
「うん」
芽瑠萌は画面をスクロールした。
「乗馬できるんだ」
「らしい」
「ソフトクリームもある」
「そこ、気になる?」
「大事だよ」
芽瑠萌はもう少し見てから顔を上げた。
「行きたい」
「じゃあ七日はどう?」
「うん。空いてる」
冬真は予定表に入れた。
八月七日。
豊北高原牧場。
そういえば江口が七日に自主練をやりたがっていたな、と少し思い出した。まあ、どうでもいい。
芽瑠萌が画面を覗き込む。
「これって」
「ん?」
「デート?」
冬真は指を止めた。
今までなら答えに困ったかもしれない。
「そうじゃない?」
「そっか」
芽瑠萌は少し笑った。
「初デートだね」
「……今までのは?」
「付き合ってなかったから」
「大泊まで行ったのに?」
「付き合ってなかった」
「宝台も?」
「付き合ってない」
「小能登呂も?」
「もっと付き合ってない」
冬真は少し考えた。
「なんか損した気がする」
「何が?」
冬真にもよく分からなかった。
八月七日。
豊北高原牧場。
次に二人で出かける日は、初めてデートと呼べるらしい。




