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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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16/28

昨日と同じ

「……で」


芽瑠萌《めるも》が言った。


「ここ、どこ?」


冬真《ふゆま》はもう一度、案内板を見上げた。

やっぱり分からなかった。

「とりあえず、戻る?」

「どっちに?」

「……立ち食いそば屋の方」


二人は来た道を戻った。

立ち食いそば屋を通り過ぎ、クリーニング店の角を曲がる。低い天井の通路を抜けると、少し広い地下街に出た。

冬真がスマートフォンを取り出す。

「現在地、ここ」

「どこ?」

「豊原中央地下街、南三番街」

「そんなところまで来てたの?」

「俺も初めて来た」


地図を見ると、豊原駅は北東にかなり離れていた。いつの間にか地下鉄の駅を一つ越えている。


「じゃあ、こっちだ」

「本当に?」

「地図が言ってる」

「佐々木くんじゃなくて?」

「地図が」

芽瑠萌が笑った。さっきまでと同じ笑い方だった。

冬真は少しだけ安心した。


十分ほど歩くと、見覚えのある大きな吹き抜けに戻った。

人の流れも店の明かりも、さっきまでと何も変わっていない。二人は地下鉄の改札前で立ち止まった。


「じゃあ」

冬真が言った。


「また」


「うん。またね」


芽瑠萌が手を上げる。

冬真も上げた。


芽瑠萌は改札を通った。

冬真も歩き出した。


十歩くらい歩いてから、立ち止まった。


これでいいのか。

付き合った。

ついさっき。

なのに別れ方が昨日までとまったく同じだった。


振り返ると、改札の向こうで芽瑠萌も振り返っていた。

目が合う。

芽瑠萌が少し笑って、もう一度手を振った。

冬真も振った。

それから二人とも、今度こそ反対方向へ歩いた。


     *


翌朝、冬真は目が覚めるとスマートフォンを取った。

芽瑠萌とのトーク画面を開く。

最後のメッセージは昨日の昼だった。


『今日バイト何時までだっけ』

『六時』

『私も』


そのあとに起きたことは、何も残っていない。

冬真は入力欄を押した。


『おはよう』


すぐに既読がついた。


『おはよう』


返事もすぐだった。


冬真は画面を見た。返事はそれだけだった。

もう一度入力欄を押す。


『昨日』

消した。


『今日』

それも消した。


何を送ればいいんだ。


「冬真、朝ごはん冷めるって」

廊下から摩央《まお》の声がした。

「今行く」

スマートフォンを伏せた。


二秒後、また取った。

その二秒で、新しいメッセージが来ていた。


『今日ひま?』


冬真は起き上がった。


『ひま』


『私も』


そこで返信が止まった。

冬真はしばらく画面を見た。昨日までなら普通に言えたはずだった。


『じゃあどっか行く?』


送信すると、返事が来るまで少し間があった。


『行く』


     *


昼前、豊原駅前は暑かった。

駅前広場の温度計には《25.1℃》と表示されている。冬真はTシャツの襟を引っ張って、少し風を入れた。


「暑すぎるだろ」

近くでバスを待っていた男が言った。

「二十五度だってよ」

「ありえないな」

「昔はこんなのなかったよ。異常気象だろ」

年配の男二人が、日陰へ移動していく。


駅前では夏祭りの準備が進んでいた。

広場の端にステージが組まれ、街路灯には赤と白の提灯が並んでいる。大型ビジョンには今週末の花火大会と、その次の週の夏祭りの日程が交互に映っていた。


人混みの向こうに芽瑠萌を見つけた。

白い半袖のシャツに薄い色のスカート。髪には琥珀の髪留めがついている。

冬真が手を上げると、芽瑠萌もすぐに気づいた。

「おはよう」

「もう昼だけど」

「じゃあ、こんにちは」

「こんにちは」

二人とも少し笑った。そこで会話が止まった。


昨日までなら何も考えなかったのに、今日は芽瑠萌が目の前に立っているだけで妙に意識する。

芽瑠萌も同じなのか、少し落ち着かない様子で髪に触れてから、視線を逸らして駅前広場を見た。

「暑いね」

「二十五度だって」

「うわ」

「さっき、そのへんの人が異常気象って言ってた」

「異常だよ。家も暑かった」


冬真は宝台《たからだい》で会った男を思い出した。

「北九州の人、これより十度高いんだよな」

「三十五度だっけ」

「夜でもこれくらいって言ってた」

「無理」

「俺も無理」

信号が青になり、二人は並んで歩き出した。


「で、どこ行く?」

芽瑠萌が聞いた。

「決めてない」

「誘ったの佐々木くんじゃん」

「黒川が暇か聞いたんだろ」

「そうだけど」

また笑った。

付き合いはじめても、そこは変わらなかった。


     *


駅ビルで昼を食べて、本屋へ行った。

夏休みの旅行コーナーには、奥端《おは》、対毛《ついむ》、敷香《しすか》、海馬島《かいばとう》、ウラジオストク、札幌、東京のガイドブックが並んでいた。

その横には『夏のダーチャ』、『樺太のベリーとキノコ』という本も積まれている。


芽瑠萌が一冊手に取った。

「これ、うちにもある」

「ダーチャの?」

「キノコの方。毒キノコ見るやつ」

「熊撃てるのに毒キノコは本で見るんだ」

「熊はお父さん。私は撃たないよ」


本屋を出ると、吹き抜けの下で夏祭りの屋台を組み立てていた。

シャシリク、焼きそば、鹿肉串、焼きとうきび、鮭じゃが、ピロシキ。まだ閉まった屋台の看板だけが並んでいる。


浴衣売場の前を通ったとき、芽瑠萌が少しだけそちらに顔を向けた。

「黒川、浴衣着る?」

「持ってない」

「そうなんだ」

「佐々木くんは?」

「俺が着るの?」

「浴衣は男の人も着るでしょ」

「持ってない」

「じゃあ同じだ」

それだけだった。

それなのに冬真は、浴衣を着た芽瑠萌を一瞬想像した。

昨日から、こういうのが増えた気がする。


     *


ゲームショップを出たところで、芽瑠萌が言った。

「ねえ」

「ん?」

「昨日のところ、行ってみない?」

「昨日のところ?」

「付き合ったところ」


冬真は一瞬返事に困った。


「……行く?」

「どこだったか知りたい」


二人は昨日の地下街へ下りた。

今度は地図を見ながら進む。

巨大な吹き抜けから百貨店の地下へ。

地下鉄のコンコースを抜け、古い喫茶店の角を曲がる。

靴修理店があり、古本屋がある。


「ここ覚えてる」

「俺も」


通路が細くなった。

冷房の効きも急に悪くなった。

開け放された店の中で、古い扇風機が首を振っている。


「暑……」

芽瑠萌が手で顔を扇いだ。

前を歩いていた女性二人も同じことを言っていた。

「今年ほんと暑いわね」

「二十五度なんて、昔なら年に何日あったかしら」

「このまま毎年暑くなったら、うちも冷房つけなきゃ駄目かもね」

二人はその横を通り過ぎた。


「あった」

芽瑠萌が言った。


自動販売機が二台。

クリーニング店。

立ち食いそば屋。

昨日と同じだった。


「ここだ」

冬真は周囲を見た。改めて見ると、本当に何もない。

立ち食いそば屋の暖簾には《そば・うどん 北斗》とあり、その脇に『喜美内《きみない》産そば粉使用』の色褪せた札が貼られていた。

向かいには閉まった婦人服店。天井には蛍光灯。

壁には《ニュー豊原地下名店街》という古い案内板。


芽瑠萌も見回した。

「ここで付き合ったんだね」

「そうだな」

「もっと何かあるところかと思った」

「自販機」

「それはあるね」

「そば屋」

「あるね」

二人で笑った。


「写真撮る?」

冬真が言った。

「何を?」

「記念に」

「自販機?」

「そば屋でもいいけど」

「やめようよ」

芽瑠萌は笑いながら歩き出した。


少し先で人の流れが横から入ってきた。

買い物袋を持った家族連れが二人の間を通りそうになった。芽瑠萌が冬真の袖をつかんだ。

「こっち」

冬真は引かれるまま横へ避けた。

家族連れが通り過ぎたあとも、芽瑠萌は袖を離さなかった。

冬真は自分の腕を見た。

芽瑠萌も気づいたらしく、指先を少し動かした。

それでも離さなかった。


二人はそのまま少し歩いた。冬真は、歩く速度を少し落とした。


     *


駅前へ戻るころには夕方になっていた。それでも空はまだ明るい。

二人は広場の端のベンチに座って、仕事帰りの人たちが歩いていくのをしばらく眺めた。


芽瑠萌は近くの壁に貼られている祭りのポスターを見た。

「……夏休み、またどこか行く?」

「行こう」

冬真はすぐに答えた。

「どこ行く?」

「まだ決めてない」

芽瑠萌が少し笑った。

「私も」


「じゃあ、探すか」

地図を開こうとして、ふと思い出した。前に一度、見つけた場所がある。


《豊北高原牧場》


ページを開くと、最初に出てきたのは、山の斜面いっぱいに広がる牧草地だった。

緑の中を白い道が曲がりながら上っている。牛が小さく散らばり、その向こうには鈴谷平野が細長く伸びていた。

次の写真は、展望台から見下ろした牧場。

馬。

大きな牧草ロール。

ソフトクリーム。

バーベキュー。

そして、若い男女が顔を寄せて笑っている写真。


前に見たときは、ここに芽瑠萌と来ることを想像して、すぐにページを閉じた。

冬真は画面を芽瑠萌に見せた。


「ここ、どう?」

「牧場?」

「うん」

芽瑠萌は画面をスクロールした。

「乗馬できるんだ」

「らしい」

「ソフトクリームもある」

「そこ、気になる?」

「大事だよ」

芽瑠萌はもう少し見てから顔を上げた。

「行きたい」

「じゃあ七日はどう?」

「うん。空いてる」


冬真は予定表に入れた。

八月七日。

豊北高原牧場。


そういえば江口が七日に自主練をやりたがっていたな、と少し思い出した。まあ、どうでもいい。


芽瑠萌が画面を覗き込む。

「これって」

「ん?」

「デート?」


冬真は指を止めた。

今までなら答えに困ったかもしれない。


「そうじゃない?」

「そっか」

芽瑠萌は少し笑った。

「初デートだね」

「……今までのは?」

「付き合ってなかったから」

「大泊《おおどまり》まで行ったのに?」

「付き合ってなかった」

「宝台も?」

「付き合ってない」

「小能登呂《このとろ》も?」

「もっと付き合ってない」

冬真は少し考えた。

「なんか損した気がする」

「何が?」

冬真にもよく分からなかった。



八月七日。

豊北高原牧場。


次に二人で出かける日は、初めてデートと呼べるらしい。

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