最初のデート
芽瑠萌はドアを開ける前から、フロントガラスの向こうを見ていた。
「思ってたより広い」
冬真も外へ出て、同じ方を見る。
駐車場の向こうから斜面が始まっていた。白い柵が緑の中を長く横切り、その上にも下にも牧草地が続いている。
ところどころに白樺やトドマツの林が残り、もっと高いところでは森が尾根を覆っていた。
風が斜面を下りてきた。
豊原の街にいたときより少し冷たい。刈った草の青臭い匂いに、牛舎の方から来る乾草と獣の匂いが混じっている。
「涼しいね」
芽瑠萌が髪を押さえた。
冬真はポケットからスマートフォンを出した。時刻を見るつもりだったが、江口から通知が来ている。
『今日走らね?』
その下に、
『起きてる?』
「あ」
「何?」
「江口。今日、走らないかって」
「約束してたの?」
「してない。七日空いてるって言っただけ」
冬真は返信した。
『悪い。今日は無理。黒川とデート』
すぐ既読になった。
『付き合ったのか?』
『うん』
『この前付き合ってないって言ってただろ』
冬真は少し笑った。
『そのあと付き合った』
今度は少し間があった。
『じゃあ、仕方ないな』
「何て?」
「この前、付き合ってないって言ってただろって」
芽瑠萌も笑った。
「言ってたね」
「そのあと付き合ったって言っといた」
「……うん」
「じゃあ仕方ない、って」
「仕方ない」
芽瑠萌がまた笑った。
入口の案内板には、斜面いっぱいに牧場の地図が描かれていた。
レストハウス、乳製品工房、展望台、古い牛舎、乗馬場。その奥には《生産区域》と書かれた部分が広がり、観光客向けの区域よりずっと大きい。
芽瑠萌が乗馬場を見つけた。
「馬、こっちだって」
まず、そこから行った。
*
乗馬場には十頭ほどの馬がいた。
「乗ったことある?」
冬真が聞く。
「小学生のとき。何回か」
「俺もある。引いてもらうやつ」
「私もそれ」
ここでは引き馬ではなく、自分で手綱をとって馬を歩かせることができる。
二人とも初心者向けの外周コースを選び、芽瑠萌は栗毛、冬真は黒鹿毛の馬に乗った。
鐙を合わせてもらう間、ロシア系らしい金髪の係員が手綱の持ち方を教えてくれた。
鞍はロシア式をもとにした、北樺太でよく使われる型らしく、冬真が小学生のころ乗ったものより前後が深かった。
「下りで身体がずれにくいんですよ」
そう言われても、冬真には座りやすいというくらいしか分からなかった。
馬は白樺林の脇を抜け、牧草地へ出た。蹄が土を踏むたびに、乾いた音がする。
冬真の馬が途中で道端の草へ首を伸ばした。
「おい」
手綱を引いても、馬は草を食べようとする。後ろからついてきた係員が、ロシア語で短く声をかけた。
「Стой, стой」
馬は耳を動かし、一度抵抗してから顔を上げた。
前を行く芽瑠萌が振り返って笑っている。
「食べたかったんじゃない?」
「そこら中に草あるだろ」
馬は聞いていなかった。
コースのいちばん高いところまで来ると、鈴谷平野がよく見えた。
下に牧草地が広がり、その先は小麦畑になっている。さらに先にはビニールハウス、住宅のまとまり、大きな倉庫、道路。
南へ目をやると、霞の向こうに豊原の市街地がある。
冬真は馬上から振り返った。
「街、あんな近いんだな」
「ほんとだ」
芽瑠萌も見ている。
「こっち来ると、もっと遠くまで来た感じする」
風が吹いた。
馬のたてがみが揺れ、斜面の草も同じ方向へ倒れた。
*
馬を降りたあと、二人は放牧地の方へ歩いた。
牛舎の近くを通ると、匂いが急に濃くなる。芽瑠萌は気にする様子もなく、柵の向こうを見ていた。
牛が何頭か、草を噛みながらこちらを見ている。耳には黄色い札がついていた。
少し先には仔牛もいた。
「あ」
芽瑠萌がそちらへ行くと、一頭が柵の近くまで寄ってきた。
芽瑠萌も近づいたが、《柵の中に手を入れないでください》という札を見て止まった。
仔牛の鼻が柵の隙間から動く。
「触れそう」
「舐められそうだけど」
「それでもいい」
冬真は笑った。
仔牛はしばらく二人を見ていたが、やがて興味をなくしたように草の方へ戻った。
その先に、牛とは違う動物がいた。
冬真は足を止めた。
「トナカイ?」
「うん」
トナカイは三頭いた。
冬真は実物を見るのは初めてだった。頭の中にあったトナカイとは、だいぶ違った。
ここには雪はない。八月の緑の草の上にトナカイが立っている。灰褐色の毛は思ったより粗く、ところどころ色が違う。
角もクリスマスの絵みたいにきれいな形ではない。
柵の中には低い木組みがあり、その上に乾いた苔のようなものが積まれていた。
説明板には、夏場の餌と虫除けについて、北部のウイルタの飼育法を参考にしていると書かれている。
「虫除けまであるんだ」
「夏の方が大変なのかもね」
一頭は耳をしきりに動かし、身体を震わせて虫を払っている。
近くまで行くと匂いもした。
湿った毛と土と草が混じったような、はっきりした獣の匂いだった。
「……トナカイって、こんな匂いするんだな」
「初めて?」
「実物は」
一頭が柵のそばまで来て、鼻を鳴らした。
冬真は少し身体を引いた。
「なんか、クリスマスのと全然違う」
芽瑠萌もトナカイを見る。
「夏だからかな」
「たぶんそれだけじゃない気がする」
芽瑠萌が笑った。
「黒川、これの橇乗ったんだよな」
「うん。奥端にいたころ」
「冬?」
「冬。雪の上」
「冬ならもうちょっとクリスマスっぽい?」
芽瑠萌は少し考えた。
「でも臭いは同じだったと思う」
トナカイはゆっくり草を噛んでいた。
何かを食べているトナカイも、冬真はあまり想像したことがなかった。
*
昼はレストハウスに入った。
窓の向こうに牧草地が見える。薄い雲が流れ、陽の光が強くなったり弱くなったりする。
入口の冷蔵ケースには、この牧場の牛乳やヨーグルト、バター、チーズが並んでいた。豊原のスーパーや学校の売店で見覚えのあるものもある。
メニューを見ていた芽瑠萌が指を止めた。
「じゃがバターある」
《北海道名物 じゃがバター》
その下に
《豊北産じゃがいも・牧場発酵バター使用》と書かれている。
「食べたことある?」
「ない」
芽瑠萌は写真を見た。
「食べてみたい」
樺太でじゃがいもといえば、鮭じゃがだった。
バターを添えることはあっても、じゃがいもをバターだけで食べることは少ない。冬真も札幌に行ったときに食べただけだった。
二人で一つ頼んでみた。
出てきたじゃがいもは皮ごと割られ、真ん中に厚いバターが載っていた。熱で角がゆっくり崩れている。
芽瑠萌がフォークで中を割ると、白い湯気が立った。
「……おいしい」
「どんな感じ?」
「佐々木くんも食べて」
冬真も取った。
じゃがいもは柔らかく、溶けたバターの香りが強く漂った。
「札幌で食べたのよりうまい」
「鮭じゃがとは全然違うね」
「じゃがいもは同じなのにな」
芽瑠萌はもう一口食べた。
窓の外を、大きなトラクターがゆっくり上っていった。
*
ソフトクリームを食べながら展望台まで歩いた。
観光施設から離れるにつれて人の声が小さくなった。
片側は放牧地、反対側は白樺林だった。
風が通るたびに、葉の裏側が一斉に白く光る。足元には細い草が伸び、その中を虫が飛んでいた。
芽瑠萌が突然立ち止まった。
「クロテン、いた」
冬真が林を見る。
「どこ?」
「もう入っちゃった」
白樺の幹の間には何も見えなかった。
「見たかった」
「茶色くて、速かった」
「また出てこないかな」
林の向こうから鳥の声がする。
展望台の上から見る牧場は、馬の上から見たときより広かった。
斜面の放牧地を白い柵が横切り、その向こうに鈴谷平野がある。遠くの豊原は、午後の光の中で少し白く霞んでいた。
芽瑠萌は手すりに寄った。
「きれい」
冬真も隣に立った。
「黒川、こういう牧場、北でも行ったことある?」
「あるよ。敷香の北、ポロナイの方」
「こんな感じ?」
「もっと平らだったかな」
芽瑠萌は遠くを見た。
「車でどこまで走っても牧草地だったの覚えてる」
「そんな広いの?」
「うん。でも、子どものころだから大きく見えただけかも」
風がまた吹いた。
芽瑠萌の髪が顔にかかり、琥珀の髪留めの下から何本か抜けた。
冬真はスマートフォンを出した。
「撮っていい?」
「景色?」
「黒川」
芽瑠萌は一度冬真を見てから、手すりの前に立った。
「いいよ」
一枚撮った。
画面を見せると、芽瑠萌も覗き込んだ。
「髪の毛すごいね」
「風強いからな」
「もう一回」
二枚目を撮ったあと、芽瑠萌もスマートフォンを出した。
「佐々木くんもそこ立って」
「俺も?」
「私だけだと変」
そのあと芽瑠萌が画面を見ながら言った。
「二人で一緒のも撮りたい」
冬真は少し緊張した。牧場のホームページに載っていた写真を思い出した。
芽瑠萌がスマートフォンを前へ伸ばす。
「入らない」
「貸して」
冬真が持ち、二人で画面に収まるように近寄った。
肩が触れ合う。
これまでにも距離が近くなったことは何度かある。でも、今日は少し違う。
*
帰るころには、斜面の影が長くなっていた。
駐車場へ続く道を歩いていくと、前から家族連れが来た。子どもが二人、道いっぱいに走ってくる。
芽瑠萌が冬真の方へ寄って、袖をつかんだ。
子どもたちが通り過ぎたあとも、芽瑠萌はそのまま歩いている。
冬真は袖を見た。
歩きながらゆっくり手を動かして、芽瑠萌の指に触れた。
芽瑠萌が顔を上げる。
一瞬だけ力が抜けたあと、芽瑠萌の指が冬真の手の間に入った。
風の音と、草を踏む二人の靴の音だけがする。
駐車場が近づいてきたところで、芽瑠萌が言った。
「また来たい」
「牧場?」
「うん……今日、楽しかった」
冬真はつないだ手を少し握った。
「俺も」
芽瑠萌も握り返す。
車のところまで、二人はそのまま歩いた。




