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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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17/28

最初のデート

芽瑠萌《めるも》はドアを開ける前から、フロントガラスの向こうを見ていた。

「思ってたより広い」

冬真《ふゆま》も外へ出て、同じ方を見る。

駐車場の向こうから斜面が始まっていた。白い柵が緑の中を長く横切り、その上にも下にも牧草地が続いている。

ところどころに白樺やトドマツの林が残り、もっと高いところでは森が尾根を覆っていた。


風が斜面を下りてきた。

豊原の街にいたときより少し冷たい。刈った草の青臭い匂いに、牛舎の方から来る乾草と獣の匂いが混じっている。

「涼しいね」

芽瑠萌が髪を押さえた。


冬真はポケットからスマートフォンを出した。時刻を見るつもりだったが、江口から通知が来ている。

『今日走らね?』

その下に、

『起きてる?』


「あ」

「何?」

「江口。今日、走らないかって」

「約束してたの?」

「してない。七日空いてるって言っただけ」


冬真は返信した。

『悪い。今日は無理。黒川とデート』

すぐ既読になった。

『付き合ったのか?』

『うん』

『この前付き合ってないって言ってただろ』

冬真は少し笑った。

『そのあと付き合った』

今度は少し間があった。

『じゃあ、仕方ないな』


「何て?」

「この前、付き合ってないって言ってただろって」

芽瑠萌も笑った。

「言ってたね」

「そのあと付き合ったって言っといた」

「……うん」

「じゃあ仕方ない、って」

「仕方ない」

芽瑠萌がまた笑った。



入口の案内板には、斜面いっぱいに牧場の地図が描かれていた。

レストハウス、乳製品工房、展望台、古い牛舎、乗馬場。その奥には《生産区域》と書かれた部分が広がり、観光客向けの区域よりずっと大きい。

芽瑠萌が乗馬場を見つけた。

「馬、こっちだって」

まず、そこから行った。


     *


乗馬場には十頭ほどの馬がいた。

「乗ったことある?」

冬真が聞く。

「小学生のとき。何回か」

「俺もある。引いてもらうやつ」

「私もそれ」


ここでは引き馬ではなく、自分で手綱をとって馬を歩かせることができる。

二人とも初心者向けの外周コースを選び、芽瑠萌は栗毛、冬真は黒鹿毛《くろかげ》の馬に乗った。

鐙《あぶみ》を合わせてもらう間、ロシア系らしい金髪の係員が手綱の持ち方を教えてくれた。


鞍はロシア式をもとにした、北樺太でよく使われる型らしく、冬真が小学生のころ乗ったものより前後が深かった。

「下りで身体がずれにくいんですよ」

そう言われても、冬真には座りやすいというくらいしか分からなかった。


馬は白樺林の脇を抜け、牧草地へ出た。蹄が土を踏むたびに、乾いた音がする。

冬真の馬が途中で道端の草へ首を伸ばした。

「おい」

手綱を引いても、馬は草を食べようとする。後ろからついてきた係員が、ロシア語で短く声をかけた。

「Стой, стой」

馬は耳を動かし、一度抵抗してから顔を上げた。


前を行く芽瑠萌が振り返って笑っている。

「食べたかったんじゃない?」

「そこら中に草あるだろ」

馬は聞いていなかった。


コースのいちばん高いところまで来ると、鈴谷《すすや》平野がよく見えた。

下に牧草地が広がり、その先は小麦畑になっている。さらに先にはビニールハウス、住宅のまとまり、大きな倉庫、道路。

南へ目をやると、霞の向こうに豊原の市街地がある。

冬真は馬上から振り返った。

「街、あんな近いんだな」

「ほんとだ」

芽瑠萌も見ている。

「こっち来ると、もっと遠くまで来た感じする」


風が吹いた。

馬のたてがみが揺れ、斜面の草も同じ方向へ倒れた。


     *


馬を降りたあと、二人は放牧地の方へ歩いた。

牛舎の近くを通ると、匂いが急に濃くなる。芽瑠萌は気にする様子もなく、柵の向こうを見ていた。

牛が何頭か、草を噛みながらこちらを見ている。耳には黄色い札がついていた。


少し先には仔牛もいた。

「あ」

芽瑠萌がそちらへ行くと、一頭が柵の近くまで寄ってきた。

芽瑠萌も近づいたが、《柵の中に手を入れないでください》という札を見て止まった。

仔牛の鼻が柵の隙間から動く。

「触れそう」

「舐められそうだけど」

「それでもいい」

冬真は笑った。


仔牛はしばらく二人を見ていたが、やがて興味をなくしたように草の方へ戻った。


その先に、牛とは違う動物がいた。

冬真は足を止めた。

「トナカイ?」

「うん」


トナカイは三頭いた。

冬真は実物を見るのは初めてだった。頭の中にあったトナカイとは、だいぶ違った。

ここには雪はない。八月の緑の草の上にトナカイが立っている。灰褐色の毛は思ったより粗く、ところどころ色が違う。

角もクリスマスの絵みたいにきれいな形ではない。


柵の中には低い木組みがあり、その上に乾いた苔のようなものが積まれていた。

説明板には、夏場の餌と虫除けについて、北部のウイルタの飼育法を参考にしていると書かれている。


「虫除けまであるんだ」

「夏の方が大変なのかもね」


一頭は耳をしきりに動かし、身体を震わせて虫を払っている。

近くまで行くと匂いもした。

湿った毛と土と草が混じったような、はっきりした獣の匂いだった。


「……トナカイって、こんな匂いするんだな」

「初めて?」

「実物は」


一頭が柵のそばまで来て、鼻を鳴らした。

冬真は少し身体を引いた。

「なんか、クリスマスのと全然違う」

芽瑠萌もトナカイを見る。

「夏だからかな」

「たぶんそれだけじゃない気がする」

芽瑠萌が笑った。

「黒川、これの橇《そり》乗ったんだよな」

「うん。奥端《おは》にいたころ」

「冬?」

「冬。雪の上」

「冬ならもうちょっとクリスマスっぽい?」

芽瑠萌は少し考えた。

「でも臭いは同じだったと思う」


トナカイはゆっくり草を噛んでいた。

何かを食べているトナカイも、冬真はあまり想像したことがなかった。


     *


昼はレストハウスに入った。

窓の向こうに牧草地が見える。薄い雲が流れ、陽の光が強くなったり弱くなったりする。

入口の冷蔵ケースには、この牧場の牛乳やヨーグルト、バター、チーズが並んでいた。豊原のスーパーや学校の売店で見覚えのあるものもある。


メニューを見ていた芽瑠萌が指を止めた。

「じゃがバターある」


《北海道名物 じゃがバター》

その下に

《豊北産じゃがいも・牧場発酵バター使用》と書かれている。


「食べたことある?」

「ない」

芽瑠萌は写真を見た。

「食べてみたい」


樺太でじゃがいもといえば、鮭じゃがだった。

バターを添えることはあっても、じゃがいもをバターだけで食べることは少ない。冬真も札幌に行ったときに食べただけだった。


二人で一つ頼んでみた。

出てきたじゃがいもは皮ごと割られ、真ん中に厚いバターが載っていた。熱で角がゆっくり崩れている。

芽瑠萌がフォークで中を割ると、白い湯気が立った。


「……おいしい」

「どんな感じ?」

「佐々木くんも食べて」


冬真も取った。

じゃがいもは柔らかく、溶けたバターの香りが強く漂った。

「札幌で食べたのよりうまい」

「鮭じゃがとは全然違うね」

「じゃがいもは同じなのにな」

芽瑠萌はもう一口食べた。

窓の外を、大きなトラクターがゆっくり上っていった。


     *


ソフトクリームを食べながら展望台まで歩いた。

観光施設から離れるにつれて人の声が小さくなった。

片側は放牧地、反対側は白樺林だった。

風が通るたびに、葉の裏側が一斉に白く光る。足元には細い草が伸び、その中を虫が飛んでいた。


芽瑠萌が突然立ち止まった。

「クロテン、いた」

冬真が林を見る。

「どこ?」

「もう入っちゃった」

白樺の幹の間には何も見えなかった。

「見たかった」

「茶色くて、速かった」

「また出てこないかな」

林の向こうから鳥の声がする。


展望台の上から見る牧場は、馬の上から見たときより広かった。

斜面の放牧地を白い柵が横切り、その向こうに鈴谷平野がある。遠くの豊原は、午後の光の中で少し白く霞んでいた。


芽瑠萌は手すりに寄った。

「きれい」

冬真も隣に立った。

「黒川、こういう牧場、北でも行ったことある?」

「あるよ。敷香の北、ポロナイの方」

「こんな感じ?」

「もっと平らだったかな」

芽瑠萌は遠くを見た。

「車でどこまで走っても牧草地だったの覚えてる」

「そんな広いの?」

「うん。でも、子どものころだから大きく見えただけかも」


風がまた吹いた。

芽瑠萌の髪が顔にかかり、琥珀《こはく》の髪留めの下から何本か抜けた。

冬真はスマートフォンを出した。

「撮っていい?」

「景色?」

「黒川」

芽瑠萌は一度冬真を見てから、手すりの前に立った。

「いいよ」


一枚撮った。

画面を見せると、芽瑠萌も覗き込んだ。

「髪の毛すごいね」

「風強いからな」

「もう一回」


二枚目を撮ったあと、芽瑠萌もスマートフォンを出した。

「佐々木くんもそこ立って」

「俺も?」

「私だけだと変」


そのあと芽瑠萌が画面を見ながら言った。

「二人で一緒のも撮りたい」

冬真は少し緊張した。牧場のホームページに載っていた写真を思い出した。

芽瑠萌がスマートフォンを前へ伸ばす。

「入らない」

「貸して」

冬真が持ち、二人で画面に収まるように近寄った。

肩が触れ合う。

これまでにも距離が近くなったことは何度かある。でも、今日は少し違う。


     *


帰るころには、斜面の影が長くなっていた。

駐車場へ続く道を歩いていくと、前から家族連れが来た。子どもが二人、道いっぱいに走ってくる。

芽瑠萌が冬真の方へ寄って、袖をつかんだ。

子どもたちが通り過ぎたあとも、芽瑠萌はそのまま歩いている。


冬真は袖を見た。

歩きながらゆっくり手を動かして、芽瑠萌の指に触れた。

芽瑠萌が顔を上げる。

一瞬だけ力が抜けたあと、芽瑠萌の指が冬真の手の間に入った。

風の音と、草を踏む二人の靴の音だけがする。


駐車場が近づいてきたところで、芽瑠萌が言った。

「また来たい」

「牧場?」

「うん……今日、楽しかった」

冬真はつないだ手を少し握った。

「俺も」

芽瑠萌も握り返す。

車のところまで、二人はそのまま歩いた。

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