山の温泉
ミルカラ豊原の二階は、朝から混んでいた。
「塔路から来たんですけど、この辺で中学生が遊べるところってありますか」
家族連れに地下街と水族館の案内を渡したあと、冬真は向かいの土産物店を見た。
INPEXの作業着を着た男が、菓子の箱を五つ抱えてレジに並んでいる。縫江の近くの油田から休暇で出てきたらしく、さっき案内所で駅前のホテルを聞いていた。
「今日も北から多いね」
芽瑠萌が言った。
「夏だからな」
向かいの店の入口には、六千六百円のエトピリカがまだ座っていた。熊もホタテもいる。最近、海鮮丼が加わった。トドは、相変わらずあまり可愛くない。
客の流れが少し途切れて向かいを眺めていたところに、若い女性が三人近寄ってきた。
三人とも大学生くらいに見えた。大きめの鞄を持ち、一人はスマートフォンを手にしている。
「すみません。川上温泉のことで聞きたいんですが」
「はい」
芽瑠萌も隣から顔を上げた。
「この鉱泉プールって、日帰りでも入れますか?」
画面には川上温泉の地図が表示されていた。
冬真は覗き込んだ。
「鉱泉プール……」
「調べます」
芽瑠萌が端末を開いた。
冬真も名前は聞いたことがある。ただ、行ったことはない。
「あ、一般開放って書いてある」
芽瑠萌が画面を見ながら言った。
「でも時間が……富樫さん、今日の川上の鉱泉プールって午後からでしたっけ?」
後ろで書類を整理していた富樫が顔を上げた。
「ああ、今日は午後からだったと思うよ」
脇の青いファイルを開く。
「うん、十三時から」
そう言いながら、富樫がカウンターまで来た。
「川上は初めてですか?」
「はい。東京から来ました。大学で温泉研究会ってのやってて」
冬真は顔を上げた。
「温泉研究会?」
「休みにみんなで温泉回ったりしてる会です」
隣の女性がスマートフォンを横から覗いた。
「あと、ここの共同浴場も入れます?」
「上の湯ですね。そこは大丈夫ですよ。駅から歩いて十分ちょっとかな」
富樫が地図を指でなぞった。
「荷物が大きいなら、駅のロッカーに入れた方がいいかもしれません。この辺から少し坂になるので」
三人目の女性はカウンターに置かれた川上のパンフレットを手に取った。
「温室休憩室ってまだあるんだ」
「ありますよ。建物は直してますけど」
「行きたい」
芽瑠萌もパンフレットを覗いた。
「温室?」
「これです」
女性が写真を指した。ガラス張りの大きな部屋に、椅子や寝台が並んでいる。
「あ、これ」
冬真が小声で言った。
「見たことある」
「どこで?」
「CM。おばあちゃんが寝てるやつ」
芽瑠萌も写真を見た。
「ああ。『体に、川上』?」
「それ」
「ここだったんだ」
その横で、最初の女性も写真を覗き込んだ。
「『ブラタモリ』でやってたよね」
「そうそう。去年か一昨年の樺太の回」
「川上線乗ってたやつ」
芽瑠萌が顔を上げた。
「ブラタモリ、川上来たんですか?」
「来てましたよ。温泉から炭鉱の方まで」
「知らなかった」
冬真も知らなかった。
「樺太の温泉、いくつか回るつもりなんです」
最初の女性が言った。
「今日は川上で、明日は登帆」
「そのあと西海岸。泊居の奥にも一か所あるんですよね」
「北も行きたいけど」
「費用と日数がねえ……」
「ほんとは縫江のダギ温泉も行きたいんだけどさ。泥浴でしょ。なんかメタンとか出るらしいし。臭そうだけど」
「まあそこは今後の課題ってことで」
冬真は三人を見た。
「樺太の温泉って、そんなに面白いんですか?」
「面白いですよ」
パンフレットを持った女性がすぐに答えた。
「普通の旅館もあるけど、ロシアの保養地みたいな施設があったり、鉱泉プールがあったり」
「北の方だと、ウイルタとかニヴフの薬草浴が残ってるところもあるでしょう」
もう一人が言った。
「そういうのが一緒になってるの、樺太っぽくて」
「かなり調べて来たんですね」
富樫が言うと、パンフレットを持った女性が言った。
「あと電車もいろいろ乗ってみたいんですよ。川上線も楽しみで……」
そう言って、冬真に聞く。
「川上線って、山に入ってから景色いいの、どっち側ですか?」
冬真は黙った。
芽瑠萌もこちらを見た。
二人で富樫を見た。
富樫が少し笑った。
「二人とも、川上は行ったことない?」
「ないです」
「私も」
「行きなら進行方向の左側かな。川が近くを通るから、そっちの方が見やすいと思います」
「ありがとうございます」
「飯坂みたいで楽しみ」
「飯坂より山でしょ」
「箱根?」
「箱根はオーバー。鬼怒川レベルだと思う」
「電車でアクセスできるっていうと、別所とか有馬も近いよね。あと秋保? 作並? あそこ電車で行けたっけ」
「私は芦原とか長良川みたいなの想像してるんだけど」
知らない温泉の名前が飛び交った。
箱根だけは名前を聞いたことがある。東京の近くだったはずだが、どこなのかはよく知らない。
川上温泉ならわかる。豊原の北西、鈴谷山脈の谷あいにある古い温泉地だ。
祖父母を連れていくとか、腰を悪くした人が何日か泊まるとか、そんな話なら聞いたことがあった。
だが、わざわざ東京から来た大学生が目指すような場所だとは思わなかった。
後ろに次の客が並んだ。
「あ、すみません。ありがとうございました」
「助かりました」
「行ってきます」
三人はパンフレットを持って、駅の方へ歩いていった。
*
昼を過ぎても忙しかった。二時半ごろになって、ようやくカウンターの前から人が消えた。
菅原が奥から段ボールを持ってきた。
「川上のパンフレット、さっきので最後だったよね」
「はい」
「新しいの届いてるから、入れ替えてくれる?」
冬真と芽瑠萌はパンフレット棚の前にしゃがんだ。 箱を開けると、新しい案内が束になって入っていた。表紙には、山の間を流れる川と、ガラス張りの大きな建物が写っている。
芽瑠萌が一冊取った。
「これ、さっきの人たちが言ってたところかな」
「鉱泉プール?」
「うん」
最初のページを開くと、白い車体に緑の帯を巻いた古そうな二両編成が川沿いの線路を走っている。
その次のページには、白い湯気の立つ飲泉所や川沿いの遊歩道が載っていた。昔の炭鉱跡も小さく紹介されている。
「結構いろいろあるんだね」
「うん」
パンフレットを棚に入れ終えると、冬真は脇に置かれていたファイルを開いた。午前中、富樫が川上について調べるときに出していたものだ。
施設の資料に混じって、最近の問い合わせ記録が何枚か綴じられている。
「意外と問い合わせ多いんだな」
冬真は片付けようとしかけて、ふと声を上げた。
「あ」
「何?」
芽瑠萌が隣へ寄った。
《アレクセイ・ヴォローニン》
数日前の問い合わせだった。
「また来てたんだ」
担当したのは富樫だった。
問い合わせ欄には、川上線の終点までの運行状況、温泉街から奥川上方面へ向かう路線バス、山側へ延びる道路の冬季閉鎖区間、炭鉱跡地の現状が並んでいた。
その下にも続いている。
《携帯電話の不通区間について》
《奥川上方面の高所から豊原側を見通せる地点について》
《炭鉱跡地からの徒歩での山脈越えの可否について》
冬真は芽瑠萌を見た。
「また、変なこと聞いてる」
「うん」
芽瑠萌は紙をもう一度読んだ。
「温泉のこと、全然聞いてないね」
確かに、入浴時間も泉質も書かれていない。午前中の三人とは、聞いていることがまるで違った。
「何しに行ったんだろ」
芽瑠萌はパンフレットの地図を開いた。
温泉街から川沿いに道が続いている。その先に奥川上があり、さらに山へ入る道が延び、炭鉱跡で終わっていた。
冬真も地図を覗き込んだ。
「分かんないな」
芽瑠萌は地図を閉じ、またパンフレットをめくった。
「川上、行ってみたいな」
「俺も、ちょっと気になってきた」
「次、二人とも休みの日は?」
「いいよ」
*
豊原駅を出た電車は、小沼を過ぎると西へ曲がった。
二両編成の車内には、買い物袋を持った人や、温泉宿の名前が入った手提げを持つ老人が乗っていた。 通路を挟んだ向こうでは、杖を持った男が新聞を読んでいる。
住宅地が切れると、川が線路へ近づいてきた。
山も近い。
線路は川と道路の間を縫うように進み、何度か短い鉄橋を渡った。 窓のすぐ外を白樺の幹が流れていく。
「箱根って、こんな感じなのかな」
冬真が言った。
「飯坂じゃなくて?」
「どっちだっけ」
「両方言ってた」
「じゃあ分かんないな」
芽瑠萌は窓の外を見た。
途中の駅には古い貨物ホームが残っていた。 草の中へ錆びた線路が何本も延び、その向こうにコンクリートの建物がある。
やがて車内放送が流れた。
《次は、川上温泉、川上温泉です》
*
駅を出ると、最初に見えたのは旅館ではなかった。
山を背にして、四、五階建ての古い建物が何棟か並んでいる。その手前に商店や食堂があり、坂を下った先に川が見えた。
「思ってたより普通の町だね」
芽瑠萌が言った。
「俺、旅館ばっかりだと思ってた」
駅前から温泉へ向かう人の後について歩く。
少し行ったところで、芽瑠萌が止まった。
「でか」
道路脇に軽トラックが停まっていた。
荷台には青いバケツがいくつも並び、その中に白い茸が山盛りになっている。大きいものは、傘だけで冬真の掌ほどあった。
段ボールに、
《朝採りマッシュルーム 500g 400円》
と書かれている。
「これマッシュルーム?」
「そう書いてある」
荷台の横に座っていたおばさんが笑った。
「大きい方がおいしいよ。焼くと縮むから」
芽瑠萌が一つ覗き込んだ。
「帰りまであります?」
「今日はいっぱい採れたから、たぶん残ってるよ」
その隣では、透明な容器に赤や黒のベリーも並んでいた。
二人はそのまま温泉街へ歩いた。
古い木造旅館の隣に、ガラスを多く使った大きな保養施設がある。共同浴場の前では浴衣姿の老人がベンチに座っていた。
川沿いの小さな飲泉所を見つけ、冬真が備え付けのコップに鉱泉の水を少し入れた。
「飲む?」
「佐々木くん先」
口に含むと冷たい。
少し鉄っぽく、舌の奥に妙な味が残った。
「まずい」
芽瑠萌が笑った。
「そんなはっきり言う?」
「飲んでみて」
芽瑠萌も少し飲んで、黙った。
「どう?」
「……おいしくはない」
近くのベンチにいた老人たちが笑った。
「若いのはみんなそう言うよな」
冬真たちに話しかけたわけではないようだった。
隣の老人がペットボトルに鉱泉を入れながら、
「俺だって子どもの頃は嫌だったよ。婆さんに飲めって言われてな」
「お前んとこの婆さん、よく来てたもんな」
「朝から上の湯行って、昼になっても帰ってこねえんだ」
飲泉所の脇に古い石組みが残っていた。
新しい説明板には、この谷の鉱泉が近代的な温泉場になる以前から、鈴谷川流域のアイヌに利用されていたと書かれている。
芽瑠萌は一度読んで、その先の浴場を見た。
「ここ、入ってみる?」
「うん」
*
一時間後。
冬真が休憩室へ出ると、芽瑠萌はもう窓際に座ってクヴァスを飲んでいた。
最初、一瞬だけ誰か分からなかった。髪を全部下ろしている。
「遅いよ」
声はいつもの芽瑠萌だった。
「まだ時間前だろ」
「私、十分前からいる」
冬真は隣に座った。
芽瑠萌が冷たいクヴァスをもう一口飲む。
「どうしたの?」
「いや」
「さっきから見てる」
「髪、下ろしてるから」
芽瑠萌が自分の髪に触れた。
「お風呂入ったからね」
「分かってる」
窓の外を川が流れている。
少しして、冬真が手を出した。芽瑠萌は何も言わず、その手に自分の温かい手を重ねた。
*
帰りは駅までバスに乗ることにした。
温泉街の前に停まった小さな路線バスに乗り、二人で後ろの席に座った。
五分ほどして、冬真は窓の外を見た。
「……駅、こっちだっけ」
芽瑠萌がスマートフォンを出した。
バスは川に沿って、さらに山へ入っている。
「逆」
「え」
「これ、奥川上行き」
二人は顔を見合わせた。
次の停留所で降りようとしたが、時刻表を見ると戻りの便はしばらくなかった。
「終点まで行く?」
「どこまで?」
「分かんない」
結局、そのまま乗り続けた。
山奥に入るにつれて家が減り、道が細くなった。こんなところを通れるのかと思うような狭い道を、ガタゴトと揺れながら上っていく。
十五分ほど走って、バスは小さな待合所の前で停まった。
《川上炭山跡》
二人以外に降りる人はいなかった。
「……ここ?」
芽瑠萌が周囲を見る。
山と川しかない。
草むらの中にコンクリートの基礎が残り、少し離れたところに古い石碑が立っていた。
《川上炭鉱跡》
その横の案内板には、戦前の白黒写真が載っていた。
谷いっぱいに建物が並んでいる。選炭場、社宅、学校。斜面には線路も延びていた。
現在の谷は、ほとんど森だった。
「昔、こんなに人いたんだ」
芽瑠萌は写真の奥を見ていた。
「ねえ」
「ん?」
「ヴォローニンさん」
冬真も思い出した。
川上温泉から奥川上へ向かうバス。道路。除雪。 携帯電話が通じる場所。高いところから何が見えるか。
その先にあったのが、ここだった。
冬真は周囲を見た。
観光客は誰もいない。売店もない。
道路はもう少しだけ続いて、低い崖の前で終わっている。
「……何しに来たんだろ」
芽瑠萌も答えなかった。
川の音だけが聞こえていた。
*
戻りのバスで温泉街まで戻ると、軽トラックはまだいた。
「あるね」
芽瑠萌が言った。
巨大なマッシュルームは、少し減っていた。
「買うの?」
「ちょっと欲しい」
帰りの電車で、芽瑠萌は茸の入った袋を膝に載せていた。
「どうやって食べる?」
冬真が聞いた。
「お母さんと相談だけど、たぶんバターで焼く」
「そのまま?」
芽瑠萌は少し考えた。
「鮭も入れようかな」
「合いそうだね」
窓の外では山が少しずつ遠ざかっていく。
冬真はさっきの炭鉱跡を思い出した。
ヴォローニンが何をしにあそこまで行ったのかは、結局分からなかった。
電車が鈴谷川の長い鉄橋に入った。
川の音は聞こえなくなり、代わりに車輪の音が大きく響いた。
設定メモ
川上温泉と奥川上の炭鉱は実在します。
また、今回の話の中で二回名前が登場する縫江は現実世界のノグリキに相当し、原油と天然ガスが採掘されています。ダギ温泉も実在します。




