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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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19/28

短い夏の夜

鈴谷《すすや》川を渡ると、窓の外の建物が少しずつ低くなった。

高層ビルが減り、代わりに道路沿いの大きな看板が増えていく。

ホームセンター、家電量販店、自動車販売店。

広い駐車場の向こうには低いマンションが並び、その間から畑も見えた。


しばらくすると、突然、大きな建物の塊が現れた。

マンションが何棟も並び、IKEAの青い建物があり、その向こうには野球場の照明塔が立っている。立体駐車場を抱えた巨大なショッピングモールが、その手前を塞いでいる。

ライトレールはそちらへ向かって、徐々に速度を落としていった。


『次は終点、ナエリ並川《なみかわ》新都心です。ららぽーとレラ豊原へお越しの方は、こちらでお降りください。本日もライトレール・ザーパトをご利用いただき、ありがとうございました』


「この辺、久しぶりに来た」

冬真《ふゆま》が言った。

「そうなの?」

「用ないし」

「ひどい」

芽瑠萌《めるも》が笑った。

「私、普通に来るよ」

「黒川んち、こっちだもんな」

「うん。もう少し向こうだけど」



駅を出ると、片側三車線の道路の向こうに、ららぽーとの長い建物が見えた。

道路沿いには車が列を作っていた。立体駐車場の入口には《屋上空車》の表示だけが残っている。

横断歩道を渡りながら、芽瑠萌が駐車場を見た。

「あ、奥端《おは》」


白いミニバンのナンバープレートに奥端と書かれていた。その隣は敷香《しすか》、少し離れたところには鉾部《ほこべ》もある。


「遠いな」

「夏休みだからかな」

「奥端からここまで車で来たのかな」

「途中で泊まってるんじゃない?」


自動ドアが開くと、冷たい空気が一気に流れてきた。

「涼しい」

芽瑠萌が言った。

「生き返る」

「今日二十四度だよ」

「暑いだろ」

館内には夏祭りのポスターが何枚も貼られていた。


     *


映画館を出ると、芽瑠萌が冬真を見た。

「寝てたよね」

「寝てない」

「寝てた」

「いつ」

「真ん中くらい」

「目閉じてただけ」

「映画館で?」

「ちょっと眠かった」

「寝てるじゃん」

冬真は何も言い返せなかった。


昼を食べたあとも、特に行く場所は決めていなかった。

ゲームショップへ入り、本屋へ行き、雑貨店を覗いた。

芽瑠萌がポケモングッズの棚の前で足を止める。ニャオハの小さなぬいぐるみを手に取って、顔を見た。


「買うの?」

「見てるだけ」

「前も見てたよな」

「覚えてたの?」

「覚えてるよ」

芽瑠萌はニャオハを棚へ戻した。


「次どこ行く?」

「黒川は、見たいところある?」

「ない」

「俺もない」

「じゃあ、歩く?」

「うん」

二人でそのまま館内を歩いた。


浴衣売場の前に、赤や青の浴衣が並んでいた。芽瑠萌がそちらを見る。

「着ればよかったのに」

冬真が言った。

「持ってないって言ったでしょ」

「ここで買う?」

「佐々木くんも買うなら」

「俺も?」

「男の人も着るって、この前言ったよ」

「じゃあいい」

「なんで」

芽瑠萌が笑った。


しばらく歩いてから、冬真が聞いた。

「疲れた?」

「ううん、全然」

「俺も」

何もしていない。

それでも、退屈ではなかった。


     *


夕方、二人は豊原の街中へ戻った。

鈴谷川を渡るころには、太陽はもう西の山へ近づいていた。川面が白く光っている。

芽瑠萌が窓の外を見た。

「日、短くなったね」

「そう?」

「六月のこの時間、もっと明るかったよ」

「そうだな」


豊原駅に着くと、昼よりずっと人が増えていた。

改札の向こうから浴衣姿の人たちが次々に出てくる。地下街の柱には《豊原夏まつり》の幟が巻かれ、駅前へ向かう人の流れができていた。


地上へ出ると、道路の一部が歩行者天国になり、屋台が両側に並んでいる。


広場のステージから明るい曲が聞こえてきた。ピンクの衣装を着た女の子が五人並んで踊っている。


「あ、この人たち知ってる」

芽瑠萌《めるも》が足を止めた。

「有名なの?」

「北では。奥端《おは》にいたころ、お祭りで見たことある」


ステージ脇には、『北樺太・弁連《べれん》発』と書かれた垂れ幕が下がっていた。

曲が終わると、司会者が前に出た。

「弁連出身、ターニャ!」

「落石《おっちし》出身、ソーニャ!」

「倍狩《ばいかり》出身、カーチャ!」

「津軽開拓《つがるかいたく》出身、エレーナ!」

「三号予定地《さんごうよていち》出身、まゆみ!」

五人が順番に手を振ると、ステージの前の方から大きな拍手が起きた。

冬真はほとんど聞いたことのない地名ばかりだった。


「三号予定地って、すごい地名だな」

「そうかな」

「何の予定地?」

「知らない」

芽瑠萌は特に不思議そうでもなかった。


「黒川が見たときも、この人たちだったの?」

「うーん」

芽瑠萌はステージの五人を真面目に見比べた。

「名前は覚えがあるけど、顔が違うかも」

「そんなのあるのか」

「たぶんね」


司会者が再びマイクを取った。

「そして今日は、INPEXさんとのコラボステージです!」


後ろの画面に、ヘルメットと作業着を着た四人の中年男性が映った。その向こうには、海沿いに並ぶ奥端油田の施設がある。

オレンジ色の字幕が流れる。

《北樺太のエネルギーを、もっと身近に。》


「あ、これ見たことある」

芽瑠萌が言った。

「この人たち?」

「油田の方。奥端にいたころ、学校にポスター貼ってあった」


会場の端にはINPEXのブースもあり、子どもが黄色いヘルメットをかぶって写真を撮っていた。


「アイドルって油田の宣伝もするんだな」

「北だからね」


次の曲が始まった。

芽瑠萌が歩きながら、小さく歌詞を口ずさんだ。


「知ってるじゃん」

「昔からある曲だから」


冬真はもう一度ステージを見た。

小学生の芽瑠萌が、八百キロ近く離れた北の町で、同じ曲を聞いていたところを少し想像した。


「どうしたの?」

「なんでもない」



二人はまた人混みの間を歩き出した。

ジンギスカンの屋台から煙が上がっている。綿あめを持った子どもが、母親に手を引かれて前を横切る。米軍の制服を着た二人の若い黒人が、シャシリクを片手に射的を眺めている。


「何食べる?」

冬真が聞いた。

「焼きとうきび食べたい」

「じゃあ俺、ジンギスカン」

「半分ずつにする?」

「いいよ」

「ほかにも食べたいのあったら、また半分にしよ」

「結構食えるな」

芽瑠萌が少し得意そうに笑った。

「でしょ」


人が増えてきた。向こうから来た集団を避けようとして、芽瑠萌が冬真の手を取った。

冬真もそのまま握った。

二人で鈴谷川までゆっくりと歩いた。


     *


七時半を過ぎるころには、鈴谷川の河川敷は人で埋まっていた。

二人は少し上流側まで歩いて、ようやく座れる場所を見つけた。対岸にも人が並び、橋の上には警備員が立っている。

空はもう暗かった。


「六月だったら、まだ明るかったよな」

「うん」

芽瑠萌が空を見た。

「夏、終わるね」

「十九日から学校か」

「うん」

冬真も空を見上げた。

「あっという間だった」

「ね」


少しして、照明がいくつか消えた。

最初の花火が上がった。

光が空で大きく開き、少し遅れて低い音が腹に響いた。


「あ」


芽瑠萌が声を上げた。


続けて二発、三発と大きな花火が上がった。赤い光が川面に揺れた。


冬真は空を見た。隣を見ると、芽瑠萌も上を見ている。花火が開くたびに、その光が横顔に映った。


「何?」

芽瑠萌がこちらを見た。

「いや」

「花火見なよ」

「見てるよ」

「今、私見てた」

「ちょっとだけ」


芽瑠萌はまた空を見た。

冬真も空へ視線を戻した。

しばらくして、今度は芽瑠萌が冬真を見ているのに気づいた。


「何?」

「花火見てる」

「俺見てただろ」

「ちょっとだけ」


同じことを言って、芽瑠萌が笑った。


     *


最後の花火が消えると、河川敷の人たちが一斉に動き始めた。橋へ向かう道はすぐに人で埋まった。


「これ、無理だよね」

芽瑠萌が言った。

「少し待とうか」

「うん」

二人は駅とは反対の方へ歩いた。


十分ほど歩くと、人の声が少し遠くなった。

川沿いの遊歩道には街灯が並び、時々、同じように混雑を避けた人が通っていく。


芽瑠萌がスマートフォンを出した。

「今日、写真あんまり撮ってないね」

「映画は撮れないしな」

「ららぽも別に撮らないし」

「撮ればよかった?」

「駐車場?」

「ららぽの前とか」

「いらない」


冬真もスマホの写真を見た。

祭りの屋台。焼きとうきび。花火。暗くて少しぶれた二人の写真。

芽瑠萌がスマートフォンをしまった。


「楽しかった」

「うん」

「牧場も温泉も楽しかったけど」

芽瑠萌は少し考えた。

「今日、あんまり、何もしてないね」

「映画見たじゃん」

「佐々木くん寝てたけど」

「寝てない」

芽瑠萌が笑った。


その顔を見ているうちに、冬真は返事をするのを忘れた。


「何?」

「いや」

「また見てる」

「見てる」


芽瑠萌の笑顔が少し消えた。でも、目は逸らさなかった。

冬真は一歩近づいた。

芽瑠萌は動かなかった。

さっきまで普通に話していたのに、急に何を言えばいいのか分からなくなった。

川の音が聞こえる。 遠くではまだ祭りの放送が流れていた。


「黒川」

「うん」


冬真は少しだけ顔を近づけた。 芽瑠萌の目が閉じた。

一瞬、唇が触れた。


離れると、芽瑠萌が目を開けた。

冬真は何か言おうとしたが、何も出てこなかった。

芽瑠萌も黙っている。

川の音だけが聞こえた。


芽瑠萌が少し俯いた。

「帰る?」

「うん」


二人は駅の方へ歩き出した。さっきより人は減っていたが、まだ浴衣姿の人たちが何組も歩いている。

少し行ったところで、芽瑠萌の手が冬真の手に触れた。冬真が握ると、芽瑠萌も握り返した。


「佐々木くん」

「ん?」

「今日、ちゃんとデートだったね」

「牧場もデートだっただろ」

「そうだけど」

「何が違うんだよ」

「分かんない」

芽瑠萌が笑った。


少し歩いてから、冬真の手を引いた。

「何?」

芽瑠萌が顔を寄せた。


唇が一瞬触れた。


冬真が立ち止まった。

芽瑠萌はそのまま手を引いた。


「帰ろ」

「……うん」


───────────────────────


設定メモ


並川は実在地名です。

ナエリはニヴフ語で「並川」の意訳、レラはアイヌ語で「風」、ザーパトはロシア語で「西」です。

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