短い夏の夜
鈴谷川を渡ると、窓の外の建物が少しずつ低くなった。
高層ビルが減り、代わりに道路沿いの大きな看板が増えていく。
ホームセンター、家電量販店、自動車販売店。
広い駐車場の向こうには低いマンションが並び、その間から畑も見えた。
しばらくすると、突然、大きな建物の塊が現れた。
マンションが何棟も並び、IKEAの青い建物があり、その向こうには野球場の照明塔が立っている。立体駐車場を抱えた巨大なショッピングモールが、その手前を塞いでいる。
ライトレールはそちらへ向かって、徐々に速度を落としていった。
『次は終点、ナエリ並川新都心です。ららぽーとレラ豊原へお越しの方は、こちらでお降りください。本日もライトレール・ザーパトをご利用いただき、ありがとうございました』
「この辺、久しぶりに来た」
冬真が言った。
「そうなの?」
「用ないし」
「ひどい」
芽瑠萌が笑った。
「私、普通に来るよ」
「黒川んち、こっちだもんな」
「うん。もう少し向こうだけど」
駅を出ると、片側三車線の道路の向こうに、ららぽーとの長い建物が見えた。
道路沿いには車が列を作っていた。立体駐車場の入口には《屋上空車》の表示だけが残っている。
横断歩道を渡りながら、芽瑠萌が駐車場を見た。
「あ、奥端」
白いミニバンのナンバープレートに奥端と書かれていた。その隣は敷香、少し離れたところには鉾部もある。
「遠いな」
「夏休みだからかな」
「奥端からここまで車で来たのかな」
「途中で泊まってるんじゃない?」
自動ドアが開くと、冷たい空気が一気に流れてきた。
「涼しい」
芽瑠萌が言った。
「生き返る」
「今日二十四度だよ」
「暑いだろ」
館内には夏祭りのポスターが何枚も貼られていた。
*
映画館を出ると、芽瑠萌が冬真を見た。
「寝てたよね」
「寝てない」
「寝てた」
「いつ」
「真ん中くらい」
「目閉じてただけ」
「映画館で?」
「ちょっと眠かった」
「寝てるじゃん」
冬真は何も言い返せなかった。
昼を食べたあとも、特に行く場所は決めていなかった。
ゲームショップへ入り、本屋へ行き、雑貨店を覗いた。
芽瑠萌がポケモングッズの棚の前で足を止める。ニャオハの小さなぬいぐるみを手に取って、顔を見た。
「買うの?」
「見てるだけ」
「前も見てたよな」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ」
芽瑠萌はニャオハを棚へ戻した。
「次どこ行く?」
「黒川は、見たいところある?」
「ない」
「俺もない」
「じゃあ、歩く?」
「うん」
二人でそのまま館内を歩いた。
浴衣売場の前に、赤や青の浴衣が並んでいた。芽瑠萌がそちらを見る。
「着ればよかったのに」
冬真が言った。
「持ってないって言ったでしょ」
「ここで買う?」
「佐々木くんも買うなら」
「俺も?」
「男の人も着るって、この前言ったよ」
「じゃあいい」
「なんで」
芽瑠萌が笑った。
しばらく歩いてから、冬真が聞いた。
「疲れた?」
「ううん、全然」
「俺も」
何もしていない。
それでも、退屈ではなかった。
*
夕方、二人は豊原の街中へ戻った。
鈴谷川を渡るころには、太陽はもう西の山へ近づいていた。川面が白く光っている。
芽瑠萌が窓の外を見た。
「日、短くなったね」
「そう?」
「六月のこの時間、もっと明るかったよ」
「そうだな」
豊原駅に着くと、昼よりずっと人が増えていた。
改札の向こうから浴衣姿の人たちが次々に出てくる。地下街の柱には《豊原夏まつり》の幟が巻かれ、駅前へ向かう人の流れができていた。
地上へ出ると、道路の一部が歩行者天国になり、屋台が両側に並んでいる。
広場のステージから明るい曲が聞こえてきた。ピンクの衣装を着た女の子が五人並んで踊っている。
「あ、この人たち知ってる」
芽瑠萌が足を止めた。
「有名なの?」
「北では。奥端にいたころ、お祭りで見たことある」
ステージ脇には、『北樺太・弁連発』と書かれた垂れ幕が下がっていた。
曲が終わると、司会者が前に出た。
「弁連出身、ターニャ!」
「落石出身、ソーニャ!」
「倍狩出身、カーチャ!」
「津軽開拓出身、エレーナ!」
「三号予定地出身、まゆみ!」
五人が順番に手を振ると、ステージの前の方から大きな拍手が起きた。
冬真はほとんど聞いたことのない地名ばかりだった。
「三号予定地って、すごい地名だな」
「そうかな」
「何の予定地?」
「知らない」
芽瑠萌は特に不思議そうでもなかった。
「黒川が見たときも、この人たちだったの?」
「うーん」
芽瑠萌はステージの五人を真面目に見比べた。
「名前は覚えがあるけど、顔が違うかも」
「そんなのあるのか」
「たぶんね」
司会者が再びマイクを取った。
「そして今日は、INPEXさんとのコラボステージです!」
後ろの画面に、ヘルメットと作業着を着た四人の中年男性が映った。その向こうには、海沿いに並ぶ奥端油田の施設がある。
オレンジ色の字幕が流れる。
《北樺太のエネルギーを、もっと身近に。》
「あ、これ見たことある」
芽瑠萌が言った。
「この人たち?」
「油田の方。奥端にいたころ、学校にポスター貼ってあった」
会場の端にはINPEXのブースもあり、子どもが黄色いヘルメットをかぶって写真を撮っていた。
「アイドルって油田の宣伝もするんだな」
「北だからね」
次の曲が始まった。
芽瑠萌が歩きながら、小さく歌詞を口ずさんだ。
「知ってるじゃん」
「昔からある曲だから」
冬真はもう一度ステージを見た。
小学生の芽瑠萌が、八百キロ近く離れた北の町で、同じ曲を聞いていたところを少し想像した。
「どうしたの?」
「なんでもない」
二人はまた人混みの間を歩き出した。
ジンギスカンの屋台から煙が上がっている。綿あめを持った子どもが、母親に手を引かれて前を横切る。米軍の制服を着た二人の若い黒人が、シャシリクを片手に射的を眺めている。
「何食べる?」
冬真が聞いた。
「焼きとうきび食べたい」
「じゃあ俺、ジンギスカン」
「半分ずつにする?」
「いいよ」
「ほかにも食べたいのあったら、また半分にしよ」
「結構食えるな」
芽瑠萌が少し得意そうに笑った。
「でしょ」
人が増えてきた。向こうから来た集団を避けようとして、芽瑠萌が冬真の手を取った。
冬真もそのまま握った。
二人で鈴谷川までゆっくりと歩いた。
*
七時半を過ぎるころには、鈴谷川の河川敷は人で埋まっていた。
二人は少し上流側まで歩いて、ようやく座れる場所を見つけた。対岸にも人が並び、橋の上には警備員が立っている。
空はもう暗かった。
「六月だったら、まだ明るかったよな」
「うん」
芽瑠萌が空を見た。
「夏、終わるね」
「十九日から学校か」
「うん」
冬真も空を見上げた。
「あっという間だった」
「ね」
少しして、照明がいくつか消えた。
最初の花火が上がった。
光が空で大きく開き、少し遅れて低い音が腹に響いた。
「あ」
芽瑠萌が声を上げた。
続けて二発、三発と大きな花火が上がった。赤い光が川面に揺れた。
冬真は空を見た。隣を見ると、芽瑠萌も上を見ている。花火が開くたびに、その光が横顔に映った。
「何?」
芽瑠萌がこちらを見た。
「いや」
「花火見なよ」
「見てるよ」
「今、私見てた」
「ちょっとだけ」
芽瑠萌はまた空を見た。
冬真も空へ視線を戻した。
しばらくして、今度は芽瑠萌が冬真を見ているのに気づいた。
「何?」
「花火見てる」
「俺見てただろ」
「ちょっとだけ」
同じことを言って、芽瑠萌が笑った。
*
最後の花火が消えると、河川敷の人たちが一斉に動き始めた。橋へ向かう道はすぐに人で埋まった。
「これ、無理だよね」
芽瑠萌が言った。
「少し待とうか」
「うん」
二人は駅とは反対の方へ歩いた。
十分ほど歩くと、人の声が少し遠くなった。
川沿いの遊歩道には街灯が並び、時々、同じように混雑を避けた人が通っていく。
芽瑠萌がスマートフォンを出した。
「今日、写真あんまり撮ってないね」
「映画は撮れないしな」
「ららぽも別に撮らないし」
「撮ればよかった?」
「駐車場?」
「ららぽの前とか」
「いらない」
冬真もスマホの写真を見た。
祭りの屋台。焼きとうきび。花火。暗くて少しぶれた二人の写真。
芽瑠萌がスマートフォンをしまった。
「楽しかった」
「うん」
「牧場も温泉も楽しかったけど」
芽瑠萌は少し考えた。
「今日、あんまり、何もしてないね」
「映画見たじゃん」
「佐々木くん寝てたけど」
「寝てない」
芽瑠萌が笑った。
その顔を見ているうちに、冬真は返事をするのを忘れた。
「何?」
「いや」
「また見てる」
「見てる」
芽瑠萌の笑顔が少し消えた。でも、目は逸らさなかった。
冬真は一歩近づいた。
芽瑠萌は動かなかった。
さっきまで普通に話していたのに、急に何を言えばいいのか分からなくなった。
川の音が聞こえる。 遠くではまだ祭りの放送が流れていた。
「黒川」
「うん」
冬真は少しだけ顔を近づけた。 芽瑠萌の目が閉じた。
一瞬、唇が触れた。
離れると、芽瑠萌が目を開けた。
冬真は何か言おうとしたが、何も出てこなかった。
芽瑠萌も黙っている。
川の音だけが聞こえた。
芽瑠萌が少し俯いた。
「帰る?」
「うん」
二人は駅の方へ歩き出した。さっきより人は減っていたが、まだ浴衣姿の人たちが何組も歩いている。
少し行ったところで、芽瑠萌の手が冬真の手に触れた。冬真が握ると、芽瑠萌も握り返した。
「佐々木くん」
「ん?」
「今日、ちゃんとデートだったね」
「牧場もデートだっただろ」
「そうだけど」
「何が違うんだよ」
「分かんない」
芽瑠萌が笑った。
少し歩いてから、冬真の手を引いた。
「何?」
芽瑠萌が顔を寄せた。
唇が一瞬触れた。
冬真が立ち止まった。
芽瑠萌はそのまま手を引いた。
「帰ろ」
「……うん」
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設定メモ
並川は実在地名です。
ナエリはニヴフ語で「並川」の意訳、レラはアイヌ語で「風」、ザーパトはロシア語で「西」です。




