島の外
夏休みが終わっても、教室はまだ暑かった。
窓は開いている。廊下側の扉も開いている。それでも風はほとんど入ってこない。
八月十九日。
冬真は鞄を机の横に掛け、窓の外を見た。
校庭の向こうには白い雲が浮かんでいる。
予報では最高気温二十四度。朝のニュースでは、今日も暑さに注意してください、と言っていた。
「佐々木」
振り返ると、江口が鞄を机に置いた。
「おはよ」
「おう」
「海馬島、どうだった?」
「ああ」
江口は嫌そうな顔をした。
「行けなかった」
「なんで?」
「親父の仕事。盆前、ロシアの偵察機ずっと来てただろ」
「ニュースでやってたやつ?」
「そう。あれでアラートかかって、キャンプ潰れた」
「マジか」
「道具まで積んでたのに。親父もスクランブルしたし」
「飛んだの?」
「一回な」
江口は椅子に座った。
「今年もう行かないの?」
「無理じゃね。親父も休み取れないって」
冬真も椅子を引いた。
「ロシア、何しに来てたんだろうな」
「偵察だろ。偵察機なんだから」
「それはそうだけど」
「ロシアの大統領って元スパイだろ。CIAかなんかの。だから偵察好きなんじゃね」
「CIAじゃなくてKGBだろ」
「同じようなもんだろ」
「違うだろ」
冬真の頭に裸の男が浮かんだ。
薄い髪を短く刈り、逞しい上半身を晒して馬に乗っている、初老のロシアの大統領。
どこで見たんだっけ、と少し考えた。
「どうかしたか?」
江口が聞いた。
「なんでもない」
チャイムが鳴った。担任が入ってきて、夏休み明けの教室が静かになった。
*
二時間目が終わって廊下へ出ると、一組の前に芽瑠萌と白石菜月がいた。
二人の前に、背の高い女の先生が立っている。
肩のあたりまでの明るい茶色の髪で、手にはロシア文字のプリントを持っていた。
「次の授業で小テストです」
「今日じゃないですよね?」
菜月が聞いた。
「今日はしません」
「よかった」
「ニエット。よくないです。白石さん、夏休みで全部忘れてませんか?」
「全部じゃないです」
「黒川さんは?」
「……少し」
「二人とも復習してください」
先生は笑って、廊下を歩いていった。
冬真が近づいた。
「ロシア語の先生?」
「うん」
芽瑠萌が答えた。
「ナタリヤ先生」
「ああ」
「佐々木くん、知らなかった?」
「顔はちゃんと知らなかった。俺、中国語だし」
「そっか」
菜月が冬真と芽瑠萌を交互に見た。
「じゃ、私先行く」
「どこに?」
「教室」
「ここ教室だけど」
「じゃあ中にいる」
菜月が一組へ入っていく。
「何あれ」
冬真が言った。
「知らない」
芽瑠萌はそう言ったが、少し笑っていた。
*
昼休み、食堂で空いている席を探していると、菜月が手を上げた。隣には芽瑠萌がいる。
冬真と江口もそこへ座った。
「白石、夏休みどっか行った?」
江口が聞いた。
「雨竜。おばあちゃんち」
「近いな」
「お父さんが帰ってきてたから」
「帰ってきた?」
冬真が聞く。
「お父さん、船乗ってるから。北洋」
「漁船?」
「うん。ベーリング海の方」
「何獲るの?」
「カニとか魚とか。詳しく知らない」
「親父さんの仕事なのに?」
江口が言った。
菜月が箸を止める。
「江口、自分のお父さんが乗ってる飛行機の部品全部言える?」
「言えない」
「でしょ」
「でもF15かF35かは分かる」
「私だって船の名前くらい分かるよ」
芽瑠萌が笑った。
「江口くんのお父さん、パイロットなんだ」
「うん」
「海馬島のキャンプ、それで潰れたんだって」
冬真が言った。
「仕事?」
「ロシアの偵察機」
江口が答えた。
「盆前にずっと来てたやつ。親父、空自だからアラートかかって」
「ああ、ニュースでやってたね」
芽瑠萌が言った。
「スクランブルもしたんだって」
冬真が言うと、菜月が江口を見た。
「怖くないの?」
「親父はいつものことみたいに言ってる」
「いつものことなんだ」
「知らん」
予鈴が鳴った。
「あ、やば」
菜月が立ち上がる。
「次、移動だ」
四人で急いで食器を返した。
*
六時間目のホームルームで、担任が進路関係のプリントを配った。
「春にも進路希望は出してもらったけど、二年の秋からは少し具体的に考えてくれ。大学行くやつは、学部まで見とけよ」
冬真はプリントを眺めた。
大学説明会、模試、オープンキャンパス。
豊原市内の大学のほか、札幌、仙台、東京の大学の案内も載っている。
「島外も考えてるなら、家でも早めに話しとけ。オープンキャンパス行くにしても金かかるからな。東京まで行って、見て、帰ってくるだけでも旅行だから」
春の進路希望で、冬真は第一志望に市内の大学を書いた。第二志望は空欄にした。
家でも東京の大学の話は出た。
母親は、東京へ行ったら年に何回帰ってくるのか、飛行機代はいくらかかるのか、と先にそんな話をしていた。
冬真はプリントの東京という文字を見た。
市内でいいと思っていた。今も、市内で困るとは思っていない。
ただ、まだ決める必要もなかった。
*
放課後、部活を終えて校舎へ戻ると、一組の前で芽瑠萌が菜月と立ち話をしていた。
「まだいたの?」
冬真が聞く。
「菜月と図書室寄ってた」
芽瑠萌が答えた。
菜月が鞄を肩に掛ける。
「じゃあ私帰るね」
「一緒に帰らないの?」
「方向違うから」
「いつも駅まで一緒じゃん」
「今日は違う気がする」
「何で?」
「さあ」
菜月は手を振って階段を下りていった。
冬真と芽瑠萌は顔を見合わせた。
「帰る?」
「うん」
校門を出る。
学校では触れなかった手が、しばらく歩いて人通りが少なくなったところで自然につながった。
「進路のプリント、配られた?」
冬真が聞いた。
「うん」
「黒川、どうする?」
「まだ分かんない」
「大学?」
「たぶん。佐々木くんは?」
「俺も大学かな」
「どこ?」
「決めてない。春はとりあえず市内って書いた」
「東京は?」
冬真は少し考えた。
「なくはない」
「そっか」
芽瑠萌は前を向いた。
「黒川は島外とか考えないの?」
「分かんない」
「札幌とか」
「行ったこともないし」
「そうだよな」
「私、一回も島から出たことないから」
芽瑠萌はつないだ手を少し揺らした。
「札幌も東京も、地図とテレビでしか知らない」
「北海道も行ったことないもんな」
「ない。佐々木くんは札幌あるんでしょ?」
「あるよ」
「いいな」
「普通だったぞ」
「行ったことある人はそう言うんだよ」
冬真は笑った。
「東京なんて、俺も行ったことない」
「じゃあ同じじゃん」
「札幌までなら俺の勝ち」
「何の勝負?」
信号が赤になり、二人で立ち止まった。
「でも、オープンキャンパスとか行った方がいいのかな」
芽瑠萌が言った。
「先生も言ってたな」
「東京?」
「札幌でもいいんじゃない?」
「佐々木くんは?」
「分かんない。東京も一回くらい見てみたいけど」
青になる。
二人は横断歩道を渡った。
「東京、暑いんだよね」
「三十五度とか」
「無理」
「大学決める基準そこ?」
「四年間住むんだよ。大事でしょ」
「冬は楽じゃん」
「雪がないのも変な感じしそう」
駅前の建物が見えてきた。
「そういえば」
芽瑠萌が言った。
「江口くん、海馬島行けなかったんだね」
「ああ。楽しみにしてたらしい」
「スクランブルって大変だね」
「ロシアの偵察機、何日も来てたらしいな」
冬真はそこまで言って、少し黙った。
盆前。
何かがまた引っかかった。
「どうしたの?」
「いや……」
八月の頭。
ロシアの偵察機。
「俺たち、あの頃何してたっけ」
「何って?」
「盆前」
「川上行ったころじゃない?」
川上。
冬真は足を止めた。
「……あ」
芽瑠萌も立ち止まる。
「何?」
「ヴォローニンさん」
芽瑠萌の顔が少し変わった。
「川上のこと聞いてた」
「うん」
「いつだっけ」
「私たちが行く前」
「何日か前だよな」
携帯電話が通じない場所。
高いところ。
豊原の方を見渡せる場所。
炭鉱跡から山を越えられるか。
冬真は眉を寄せた。
「でも、たまたまじゃない?」
芽瑠萌が言った。
「うん。たまたまなんだけど」
二人はまた歩き出した。
「あの人が川上のこと聞いて、その何日かあとにロシアの偵察機が来たってだけだし」
「そうなんだけどさ」
ロシア。
偵察。
冬真の頭に、朝から何度か浮かんでいたものがもう一度出てきた。
裸の上半身。
馬。
ロシアの大統領。
「あ」
「今度は何?」
冬真は芽瑠萌を見た。
「大統領」
「大統領?」
「ロシアの。裸で馬乗ってたやつ」
「……何の話?」
「一緒に見ただろ」
「ああ」
芽瑠萌も思い出したらしい。
「あれ、いつだ?」
「いつって……」
芽瑠萌が顔を上げた。
「旭ヶ丘」
「そうだ」
ヴォローニンが案内所に来た日。
旭ヶ丘から豊原の北側がどこまで見えるか。
鈴谷川の橋が見えるか。
空港が見えるか。
双眼鏡を持っていった方がいいか。
勤務が終わって二人で街へ出ると、大型ビジョンのニュース映像にロシアの大統領が映っていた。
「同じ日だ」
冬真が言った。
芽瑠萌は黙っている。
「それで実際、旭ヶ丘にいたよな」
「双眼鏡持って」
「防衛年鑑も読んでた」
二人の歩く速度が少し遅くなった。
「そのあと川上だろ」
「うん」
「携帯通じない場所とか、山越えできるかとか、変なことを聞いて」
「うん」
冬真はしばらく黙った。
旭ヶ丘。
双眼鏡。
防衛年鑑。
川上。
携帯の通じない場所。
山を越えられる道。
ひとつずつなら、変でもない。けれど、並べると少し違って見える。
「……あの人、スパイとかじゃないよな」
芽瑠萌が冬真を見る。
「ヴォローニンさんが?」
「いや、分かんないけど」
芽瑠萌は少し考えた。
「何を調べてるんだろう」
「分かんない。旭ヶ丘では、北の方がどこまで見えるか聞いてたじゃん」
「橋とか、空港とか。基地もある」
「それで本当に双眼鏡持ってた」
「防衛年鑑も読んでたね」
「川上では、携帯が通じないところとか」
「山から豊原が見えるところ」
「炭鉱跡から山越えできるか」
芽瑠萌は黙った。
「……一応、富樫さんに言う?」
「でも全部、問い合わせ記録に残ってるよな」
「そうだけど」
「旭ヶ丘のときなんか、富樫さんが答えてたし」
「そっか」
少し歩く。
「じゃあ、変な質問だったら、もう分かってるよね」
「たぶん」
芽瑠萌は少し考えてから言った。
「基地とか、港の警備とか立入制限のこと聞かれたら、富樫さんに回すことになってるし」
「ああ」
「川上のも残ってるなら、私たちが今さら通報するようなことでもないのかな」
「通報って言うと急にすごいな」
「佐々木くんがスパイって言ったんでしょ」
「そうだけど」
駅前では人が行き交っていた。バスがロータリーへ入り、ミルカラ豊原のガラスに夕方の空が映っている。
冬真はもう一度考えた。
「でも、怪しくない?」
「……ちょっと怪しい」
「だろ」
「だけど、スパイが観光案内所で『どこから基地がよく見えますか』って聞く?」
「基地とは言ってない」
「もっと怪しい」
「どっちだよ」
芽瑠萌が笑った。
冬真も笑ったが、さっきまでほど馬鹿な思いつきには思えなくなっていた。
「まあでも、富樫さんが何も言ってないなら、大丈夫なのかな」
芽瑠萌が言った。
「たぶんな」
「でも、次に来たら気になる」
「それは俺も」
駅の入口で、つないでいた手を離した。
「考えすぎかな」
「分かんない」
二人はそのまま、人の流れに入っていった。




